兆し(1)★
「今日『燃えるゴミ』だっつったろ!」
断りもノックめいたものもなく突然襖を開け放つや否や、その部屋の主に向かって睦月は怒鳴り散らした。
ワイシャツにエンジのネクタイとベスト、グレーのズボンという衣替えして間もない制服姿。
その上にエプロンを付け、片手には朝食となる物体をつついてきたばかりのフライ返しを折れんばかりに握りしめている。
怒鳴り声と何やら物騒な気配に、さすがに布団の住人がのっそりと身動きした。
「……それが最愛の父を起こす言葉とは思えぬが」
「一回で起きてくんねえクソ親父にはこういう挨拶でじゅーぶんだっ!」
布団を被ったまま気怠そうに上半身を起こそうとしている相手に向かって、すかさず情け容赦ないセリフを叩きつけてやる。
肌布団がはらりと落ちてようやく白髪混じりの短髪が見えたところで、「――ったく、ゴミの日はそれでなくたって忙しいんだから手間掛けさすなよな」とため息混じりにつぶやいて踵を返しかけた。
「……睦月」
「ん?」
「父ひとり子ひとりだというのに、なぜそう私を虐げる? そのような行いを『いじめ』というのであろう?」
珍しく弱々しい呼び掛けに、思わず心配して振り返ってしまった。
……手間と時間を返してほしい。
「……い、いじめって……」
聞く耳持って損したとばかりに脱力しながら、あえてスルーして睦月は台所へ取って返そうとする。
「? 遣い方を違えたか?」
「いや、合ってっけど……。とにかく飯!」
必要以上に肩を落として見せる父親を眺めてやるだけ時間の無駄なのだ。
髪色以外は実年齢より断然若く見えるし、キレのある動きや体力、精神力も四十代とは思えないほど健在だというのに……。
いかんせん、朝にめっぽう弱い。
が、そこを毎度毎度笑って許していては自分が遅刻してしまう。
「睦月」
「何だよっっ」
「苦労かけるな……」
我が子を絶句させるにはじゅうぶんすぎる言葉だった。この父にしては。
「――――別に、どうってことねえよ。今さら……」
無意識に、手にしたフライ返しを握る指に力が入る。
確かに生まれた時から母親はなく、もう十年以上もこうして家事やその他諸々のことをしてきた睦月にとっては、今さらあらためて苦労していると感じる程のことでもない。
まあだからと言ってこの十七年、母親がいなくても別によかったと思うことなどありはしなかったが。
父親は父親で生計維持のため仕事を持っているし、どちらかといえば自分のほうが能率よく家事をこなせる――少しばかり美味い料理が作れるとか、掃除洗濯も父親に比べればマシというレベルの微々たる差ではあるが――から自然に担当するようになっただけで。
「いや、家のことだけではなく」
「……え」
付け加えられた言葉が何を指し示しているのかわからず、思わず視線を合わせる。
ため息混じりに、わずかに笑みを浮かべて父親――柾貴が見上げてきていた。
優しげに、だが真っ直ぐ射抜いているのは――この髪と瞳。
(あ……)
「今日はまだ染めていないのだな。目も……。さてはおまえも寝坊したな?」
「……ああ――うん、大丈夫。……ちゃんとやってくから」
ばつが悪く、つい逃れるように目を伏せる。
少々乱暴にかき上げたショートヘアの前髪が、陽光を反照してきらりと輝いた。
「ちょっと……稽古疲れが出ただけだからさ……」
いくら寝坊したとはいえ、他の人間と違う部分をこうも安直に晒していたことを今さらながら後悔してみる。
それが父親の前であったとしても、である。
「大丈夫か? 学校で――」
「心配すんなよ。絶対バレてやしねーって」
「もう一つのほうは?」
「――」
もう一つの……
「睦月?」
ふいに黙り込む我が子を、応えを促すように柾貴が振り仰ぐ。
やがて。
固く引き結ばれていた睦月の唇が、吐息混じりにふっと緩められた。
「……苦労かけるって思ってんだったら、そろそろ理由説明してくんねえ? オレだって理由わかんねーまま隠してんのって、どーもスッキリしねーんだよな」
わざとらしくため息をつき、大げさに眉をひそめてみせる。
「だからオレ、別に高校だって行かなくてイイっつったじゃん」
こうして大変な思いをしてまで隠さなければならないのなら。
「仕事だってココ継がしてもらえりゃいいんだし……。それを親父が――」
「元に、戻りたいか?」
いつになく神妙に響いた柾貴の声に、睦月は思わず目を瞠った。
――元に……
「……まさか。十七年もこのままで生きてんだから『元』も何もねーじゃん。どうせなら最初からこっちで生まれてきてたほうがラクだったろうな、って思うし」
「そうか……」
実際こちらでなければこの中身は絶対合わないと、我ながら妙な確信を持っていた。
そしてそんな性格をとうに熟知していたはずの父親が、そうだったな、とさらに口元をほころばせた。
(……親父……?)
胸の奥に微かに湧き起こったのは――違和感……だったのかもしれない。
が、その何かにはあえて蓋をし、気を取り直して柾貴に向き直る。
「――親父。んで?」
「? 何だ?」
「だからっ、オレがこうしてなきゃなんねー理由っ!」
ガクッと膝から崩れ落ちそうになるのをこらえ、くいっとワイシャツの袖口を引っ張って両腕を広げてみせる。
対して父親は、ああ、と事も無げに答え始めた。
「だから言っておる。おまえが生まれたときに――」
「焦りすぎて届け出ンときに間違えたってか?」
「そう、それだ」
「ほざけっ! いくら焦ってたってこんな大事なこと間違える馬鹿がいるかよ!?」
「他にはいないであろうなあ……」
「ほのぼのすんなっ!!」
思わず、向こう三軒隅々にまで響き渡りそうな大声でスパークしてしまう。
とはいえ隣家とは100メートル以上離れているし、どう考えても聞こえるわけはないのだが、おっとイカンとあわてて自分の口元を塞いだ。
壁に耳あり障子に目あり。
周りにはいつも疑われてると思え。
そうだ――いつでもどこでも用心を怠ってはいけないのだった。
幼少より染み付いた自戒の念を思い返しながら、やや声をひそめて睦月は続けた。
「だったら……そのときは無理でも、後でもう一回役所行って届け直しゃよかっただろーがっ。おかげでどんっだけ外で苦労してると思ってやがんだ、ええ……!?」
確かに家の中では苦労していない。
が、外での神経の磨り減らしようはとんでもなく桁違いなレベルであった。
「その口の悪さだと、露見する心配はないな」
「口じゃねーよ問題は。体だ、カラダ! 中学までならまだしも、もう十七だぞ! 高二だぞ!?」
「何が困る?」
「何……って――もうオレも、いつボインになったっておかしくねーんだぞ!? サラシ巻いてっ男のフリしてんのだって限界があるだろーがっ!!」
そう、つまり大谷睦月は実は生物学的には「女」であり――。
出生届の手続きの際にあわてふためいて性別を間違えてしまったと言い張る父親の尻拭いとして、健気に(?)男のフリを続けている親孝行な娘なのである……。
「そうだなあ。困るなあ」
取って付けたような台詞を飄々と宣う布団の上の住人に、ピキッとこめかみが引きつる。
「……実はそんなに困ってねーだろ?」
「いや、何とかなるのではないかと……」
その口調と表情のあまりの悠長さに、若干の目眩。
真面目に父の頭に土星の輪が見えた……ような気がした。