遭逢(2)
「つーかさ」
ふっ……と睦月の唇が笑みを形作った。
冷めた目で黒ずくめの男を見上げたまま。
「自分らのためにヒト殺してこいとか、どんだけご立派な父親なんだよ。え?」
建物の外壁に追い詰められても胸ぐらを掴み上げられても、奇妙に口を歪めて喋り続ける睦月に我慢ならなかったのか――
ついに青年は鷲掴んだ胸ぐらに力を込めて乱暴に睦月を立たせ、そのままがんっと壁に押さえつけてきた。
背中だけでなく右足首にも痛みが走ったが、睦月は頓着しない。
呑気にも、至近距離で見るとホントにデカいな手も身長も、とすら思ってしまった。
「なあ? どうせ最期なんだろ、教えろよ。自分の子どもにそんなことさせる親のさ、どこが尊敬に値するんだよ」
「……」
笑みを消し去ってもなお毒を吐き続ける様子に、男はますます眉根を寄せて睨み下ろしてくる。
すっかり仮面が剥がれ感情があらわになりつつある表情に、してやったりとばかりに勝ち誇ったように睦月はいっそう笑んだ。
「わっかんねーか。何でも黙って言いなりになっちゃう自慢の息子たちか。そんなん、どうでもいいんだ?」
「……やめろ」
初めて、夜闇に溶け込む低い声。
かすれ声に近いほど小さかったが、それでもこの無表情男を動揺させ、ようやく声まで引き出せた。
「え、違う? あ、わかった。じゃ構ってほしい、的な?」
「黙……れ」
「あっそうかそうか、そうまでしてパパに褒められたかったとか……振り向いてほしかったんだろ?」
にやりと口の端を上げて、伝わるかもわからない言葉をあえて織り込んで挑発し続けていると。
胸ぐらを掴み上げた手にますます力が込められ、がくんと大きく揺さぶられた。
文脈でしっかり読み取ってもらえたらしい。
しかも、図星だったりしたのだろうか。
「黙れ」
低く抑え込まれてはいるが今度は幾分はっきりと発された声。
それとともに、これ以上は許さない、とばかりに角度を変えた白刃が喉元にあてがわれた。
「だってそうだろ! 必死こいて人殺しとか……どんだけだよ! なんでもいいから認められたかったんじゃねーの!?」
「黙れっ!」
怒声とともに勢いよく引き寄せられた胸ぐらが、ザッ!と音を立てて切りつけられた。
一瞬のうちに強く目を閉じ、衝撃に思わず身をかたくしてしまっていた。
――ものの、痛みはまったくやってこない。
おそるおそる目を開けると、制服のみが斬り裂かれていたことに気付いた。
「な……んだよ、無駄にいたぶる趣味でもあんのかよ?」
風に吹かれてはためくシャツの切れ端を視界におさめながら、苛立たしげに口を開く。
――と。
なぜか、掴み上げられていた胸ぐらがそっと解放された。
支えをなくした足首がとたんに悲鳴を上げるが、なんとか庇いながら男から一歩離れることに成功する。
「ふ……っざけんなよ。じわじわ追い詰めようってのかよ? んなことしねーでちゃんと一撃で殺……!」
一言も返事が返ってこないばかりか、さらにすうっと降ろされていく刀。
それを目に留め、いよいよ訝しげに睦月は青年を見上げた。
そこにはもう怒りも眉根を寄せた困惑の表情もなかった。
ただ静かに、今の今まで睦月に突き付けていた刀に目線を落としている青年。
(なんだ? なんで急に……)
結局殺す気がなかった、のだろうか? 最初から。
それとも、そのつもりがなくなった?
(いや、でも現にあんなに怒らせたんだ。きっとまた……)
わけがわからず、だが警戒は解かないまま男を見上げていると。
伏し目がちに物思いに耽っていたらしい彼が、ゆっくりと夜空の月を見上げた。
未だ何かを考え込んではいそうだが、沈鬱な空気は微塵も感じられない。
そしてそのままおもむろに目線を下げ、睦月に視線を移してくる。
……と。
「――」
青年の目が、大きく瞠られる。
「……女……?」
訝しげにつぶやいた青年の視線が、睦月の胸元を捉えていた。
斬り裂かれたワイシャツとTシャツの切れ端がゆったりと風に煽られ――
遅まきながら、青年の様子にようやく合点がいく。
「!」
今さら感が否めないが、切られた衣服の両端をきつく押さえ込んであわてて肌を隠してはみるが、やはり無駄だった。後の祭りというやつだ。
切れ端から見え隠れしていたさらしと押さえつけられた胸はしっかり見られてしまっていたらしい。
狼狽えながら距離を取ろうとする睦月を、青年は目を見開いて眺めている。
「……女……だったのか……」
開いた口がふさがらない状態を見ると、衝撃はかなり大きかったようだ。
完全に男だと思っていたのだろうからそれも無理はない、が。
足の痛みに顔をしかめながらなおも後ずさろうとした睦月の体が、バランスを崩して大きく揺らいだ。
倒れ込みそうになるその肩と二の腕を、いつの間にすぐ側まで来ていたのか青年が危なげなく支える。
右足がさらにダメージを負うことだけは免れ、ひとまず睦月は安堵した。が。
「……!」
すぐさまハッとして、支えてくれたその大きな手を力一杯振り払ってしまっていた。
そのまま鋭く睨み付けて、さらに後ずさりしながら青年を見上げる。
突然現れてつけ狙ってきていた暗殺者だ。
なぜかはわからないが急に殺す気が失せたらしい……とはいえ、当然気を許せるはずなどない。
警戒するなというほうが無理な話だ。
「そこに誰かいるのかあ?」
ふいに、中年男性の億劫そうな声とともに懐中電灯の明かりが照射された。
自転車に乗った巡回中の警官だ。
あの三人に囲まれる前ならまだしも……と、睦月は本来の性別が確実に露見してしまうであろう姿と挫いた足に歯噛みする。
今このタイミングで来られてもかえって状況説明に困る。
(まずい)
痛む足を引きずってでもどこか物陰に身を隠さなければ。
そう思った瞬間。
音もなく体はニ階建の廃屋の屋根まで跳んでいた。またもやこの青年に抱えられたまま。
屋根の上に着いてからも、青年は肩を担ぐようにして体を凭れさせてくれている。
右足に負担がかからないように、ということだろうか。
(また、助けてくれた……?)
しっかりと支えてくれながら冷静に下の様子を眺めているその横顔を、気付いたらまともに見上げてしまっていた。
忙しなくあちらこちらにライトを向けながら廃屋の周りをぐるりと一周して、警官は去っていく。
ホッと胸をなでおろすものの、再び戻って来られては堪ったものではない。
明かりも自転車を漕ぐ音も完全に遠ざかっていくまで、息をひそめてじっと待つ。
しばらくして辺りが静寂に包まれ、吹き抜ける風の音のみが聞こえるようになったころ。
「……き、と……」
「え」
「睦月――と呼ばれていたな。それが名か」
肩を支えたまま、青年が真っ直ぐに見下ろしてきていた。
なぜ名前を……という疑問が浮かび上がりかけるが、そういえば哲哉か洋海に遠くから呼ばれたのを聞かれていたのだったと思い出す。
「あ……あんた、は?」
肯定も否定もしないまま、思わず訊き返してしまっていた。
まさか逆に問われるとは思ってもみなかったのか、青年がかすかに目を瞠る。
訊いては……まずかったのだろうか。
軽く後悔するも、とび出てしまった言葉は戻らない。
少しだけ重くなった気持ちで彼の反応を待つ。
目線を逸らされ、わずかばかりの沈黙を見送った後、
「……龍」
伏し目がちに、低く小さく告げられた名前。
直後。
支えてくれていた肩と腰から手を離して、一瞬青年が深く身を屈めたかと思うと――
「あ……えっ!?」
背中と膝裏に腕をまわされ、横向きのまま軽々と抱き上げられていた。
謀らずも広い胸に頬も身体も委ねる形になり、思わず呼吸を忘れる。
「掴まっていろ」
信じられないほど間近で響く、低く穏やかな声に、一瞬心臓が妙な跳ね方をした。
軽い身のこなしで宙に歩を踏み出したかと思うと、強い衝撃も感じさせないまま地面に降り立つ。
昨夜と同様、そのまま壁に寄りかからせるようにして降ろしてくれるまで、痛めた右足にまったく負担はかからなかった。
一連の流れるような身のこなしとその気遣いに、驚きで目を見開くことしかできなかった。
何も言葉にできないままただ呆然と顔を見上げるだけの睦月を、今度は少しの間まっすぐ見つめ返し――
龍と名乗った青年は夜闇に消えていった。