遭逢(1)
『打ち合っても敵わないなら、向かっていくでない』
髪色も黒く今より大分若い、懐かしい顔で父親――柾貴は言った。
――でも……にげるのはいやだ!
半べそをかいて座り込むと、稽古中にしては珍しく穏やかな表情でため息を吐かれた。
『そうではない。躱すのだ。ただ逃げるのではなく隙を窺って機を待つ。まあ……時には退くほうが賢明な相手もいるがな』
難しいことを次々と並べ立てられると、小さな手でぎゅっと木刀を握ってますます体を縮こまらせるしかなくなる。
袴の擦れる音がしたと思ったら、大きな手のひらで頭をなでられていた。
目の前にしゃがみ込んだ柾貴の顔に浮かぶのは穏やかな笑み。
『大丈夫。おまえも立派に恩恵を受けている』
――おん……けい?
『もしかすると体が小さい分、速さで右に出る者は――……そう、一番になれるやも知れぬな』
――いちばん? お……おれっ、かけっこはとっくにいちばんだよ。いいつけ守ってひみつにしてるけど。ろくねんせいにだってまけない!
そうか、とますます目を細めて微笑んでくれたのも束の間。
次の瞬間には、痛いほどの真剣な眼差しが向けられていた。
『……あきらめるなよ睦月。何があってもだ』
思えば、そうやって柾貴は諭してくれようとしていたが。
まいて逃げることすらできなそうなこんな相手には、いったいどうしろと言うのか。
追憶の中の父の面影に、つい食って掛かりそうになる。
十年も前のことだ。
あの時は誰と――どんな連中と比べて一番になれるかもなどと言ったのか、その真意はわからなかったが、現にこうして――
じりじりと後ずさりながら、睦月は舌打ちしたい思いに駆られた。
目の前にはこうして――打ち合うどころか速さでさえ軽く自身を凌駕しているであろう存在が佇んでいる。
刀を手にしていながら構えもせず、一言も発することなく。
ただ静かな殺気だけを身に纏わせて立つ黒装束の青年。
昨夜と同じく何にも覆われていない頭部。
顔を見られても構わない……どうせ殺す相手だ、何も困らないといったところか。
後ろの低い位置で束ねられた長い黒髪が、夜風に吹かれて微かに舞っていた。
(やっぱり……この男は違う)
彼からはあのリーダー格のような貫禄も猪男のような覇気も感じられない。
が、隙や油断といったものも微塵もない。
こいつには太刀打ちできない。まともに組んだら殺される。
認めたくないが、そんな確信が指先にまで震えをもたらしていた。
冷たい汗がこめかみを伝う。
「……あんたもか? オレを殺せとかいう、父親の命令?」
緊張のあまり、気付いたら口を開いていた。
情けないことに、微かにではあるが声にまで震えが表れていて愕然とする。
ならば目だけは負けまい、と相手を睨みつけたままさらに一歩後ずさりかけたその瞬間。
構えの初動も見えぬ間に、空を切って白刃が迫ってきていた。
とっさに大きく身を反らして免れたものの。
「……っ!」
息をつける間もなく立て続けに男が斬撃を浴びせてくる。
目鼻立ちのはっきりした整った顔付きは変わらず無表情のまま。
これから殺そうという相手を目の前にして表情一つ変えないとは、どういう心境だろうか。
まさか何も感じないとか――?
(いや、それだけ余裕ってことかよ……!)
やっぱりか、と心中で舌打ちする。
「やっぱり、あんたもオレを殺そうとしてんのかっ?」
最初からわかっていたことながら、思わず声を張り上げていた。
右に左にと猛スピードで迫る刃を必死に躱しながら。
「あの兄弟たちと同じか!? オレを殺して長とやらになるって……!」
つい叫ばずにはいられなかっただけだ。
特に答えを期待していたわけではなく。
ところが、予想に反して青年はぴたりと刀を止めた。
(え……)
相変わらず感情のこもらない静かな瞳を向けてくるだけで、切先も下ろされてはいない……が。
そういえば、と睦月はあることに気がついた。
確かに速いことは速いが――と。
必死で躱して逃げているからとはいえ、この青年が未だ自分を仕留められていないのはおかしい。
(まさかこいつ……迷ってる?)
まるで柾貴に対峙していると感じさせるほどの隠然たる資質――そんな男の力を持ってすれば、自分ごときとっくに斬り殺されているか重傷を負わせられているはず、と思うのだ。
それが未だかすり傷ひとつ付けられていないとは、どういうことだろう。
思いつきが、胸の内に微かな希望を灯す。
(心底オレを殺したがってるってワケじゃない、とか……?)
捨て去りかけていた可能性がにわかに再燃し始めた。
やはり、もしかして昨夜のあれも自分を助けてくれたのでは……と。
逸る気持ちを抑えてわずかな期待を口にしようとした、刹那。
前触れなく空気が動く。
大きく刀を振りかぶって瞬時に迫りくる黒ずくめの青年。
見開かれた睦月の瞳がその像を捉えた、と感じた時にはもう遅かった。
「痛っ……!」
身を捻ってギリギリで刃からは逃れたものの、転がるように廃屋の壁に行き着いた睦月が小さく呻き声をもらす。
無理な体勢からとっさに逆側に避けようとしたために、右足首に変に体重がかかってしまった。
男の様子に気を取られすぎて判断が遅れた。
後悔が鈍くのしかかる。
そのまま壁に背を預けてズルズルとうずくまり、痛めてしまった足首を強く押さえこむ。
痛みに顔をしかめたまま目線を上げる――と、鼻先にぴたりと突きつけられていた刀。
月の光を宿したその切先が不気味に輝いた。
……もう、動けない。
息をのんで、さらに睦月は目線を上げる。
刃先を突きつける黒ずくめの青年の表情に変化はない。
黙って見下ろしてくるだけの静かな瞳。
何をどう喚き訴えたところで、開かれそうにない唇。
「やっぱり……オレの勘違いだったのか? 助けてくれたと思ったのに、違ったのか……?」
半分八つ当たりだな……などと思いながら。
体勢を変えないまま、気付けば下から鋭く男の顔を睨みつけていた。
不思議にも、先ほどまでのような恐れや緊張はもうなかった。
ただ悔しさのせいでところどころ声は震え、息が詰まりそうになる。
(悔しい……って、なんで? オレが勝手に見当違いな期待しただけなのに)
わけのわからない混乱に気持ちを乱されている。
自覚はある。
だがどうせもう逃げられないのなら……。
そう思うと、受けた衝撃も思い込みも、次第にどうでもよくなってきた。
じわじわと広がりつつあるあきらめの思考。
それとは裏腹に、焦りは消え頭の芯は徐々に冴えてくる。
あらためて、睦月は目の前の青年を真っ直ぐに見上げた。
砕かれた望みはもう見ない。無駄な期待なんてしない。
「あんたも、あいつらと張り合ってオレを殺したいだけなんだろ?」
いちいち変に動揺させるのはやめてくれないだろうか。
むしろそんなふうに気持ちが傾き始めた睦月のなげやりともとれる言葉に。
わずかに、青年の眉根が寄せられたような気がした。
――初めて表情が変わった……?
「なんてツラしてんだよ……。やんなら、さっさとやれよ」
再び揺れ動きそうになる心の内を無理やり抑え込み、あえて吐き捨ててやる。
何にしても先ほどまでのようには逃げられないのだ。
どうせ殺すならさっさとしてほしい。余計な希望などを抱かずに済むように。
「は……急にビビったか? けど、アンタがやんねーと明日にはあの三人の手柄になっちまうぜ? いいのかよ? 大好きな父親の命令なんだろ?」
ふいに。
切先を突き付けられたまま、静かに胸ぐらを掴み上げられた。
物言わずそのまま見下ろしてくる男の態度に大きな変化はない。
が、困惑したようなわずかにしかめたままの眉から察するに、睦月の言葉のいずれかが彼の内部に影響を及ぼしているのは明らかだった。
そうとわかれば……と睦月は吐き捨てるべき言葉をますます慎重に選ぶ。
この上はさっさと事を為してくれるよう、おもいきりこの男の気に障るように。