戻りこそすれ(4)
「え……ああ」
先ほどの防戦一方の修行でついた新たな傷。
寝る前には貼ろう、と思って出した絆創膏をそのまま洗面所に忘れてきたことを思い出す。
「もー気をつけなきゃ駄目じゃん! 睦月せっかくキレイな顔してるのにー」
「いいよ傷くらい。治るし」
男(仮)にキレイはどうなんだという疑問は置いておいて。
理不尽にもいつ命を奪われるか知れない未来に比べたら、顔の傷なんて本当に何でもない。
だが浅いとはいえ、さすがに布団で擦れて傷が開き痛い思いをするのは避けたい。
食器の片付けと歯磨きで下に降りた際には今度こそ忘れずに絆創膏を取ってこなければ、と再確認する。
「また女子たち心配するよー? 実は陰で危ないことしてんじゃないか、って今日も顎下のカットバン見てザワザワしてたんだから」
「……」
(ホラ見ろ親父、半分バレてんじゃねーか……?!)
虚弱の嘘も男だという嘘も、すべて白日のもとに晒されるのも時間の問題ではなかろうか。
「でもねでもね、『顔に傷があるちょっと危険な大谷くんもいいかも!』ってみんな騒いでたよ」
「…………知るか。(お……女ってイミフ……)つか、いい加減寝ろ二人とも」
たとえ熟睡はできないとしても少しでも体は休めたい。
いつも以上に早起きして柾貴の目を盗んで登校してやる!と心は決まっていた。
言うこと聞かないと命はないと言われたが。
自分はこの上なく馬鹿なのかもしれないが。
「二人とも、襲わないでね?」
巣穴に潜り込む小動物のようにヒョイと布団に入り、洋海が見上げてきた。
「……襲うか、馬鹿」
「俺様、幼児体型に興味はありませーん」
ため息とともに吐き捨てる睦月と、相変わらず横たわったままヒラヒラと手を振る哲哉の反応に、「よしよし」と満足気な笑みを浮かべて洋海は薄布団に包まった。
「つか、襲われたくねーヤツが何で川の字の真ん中で寝ようとしてんだよ」
敷いてた段から謎だった配置について、口にしてみる。
こちらとしては助かるが、洋海それ女としてどうなんだ?本当にいいのかそれで?と思わず心配になってしまう。
もっと何というか、こう……慎み以前に危機感とかないのか? 警戒心ゼロか、こいつ?
本来同性である自分はともかく、いくら幼馴染でも無防備に隣で寝られたら哲哉だってムラッと変な気が起きて、ついつい手が――なんてことがあったらどうするのだろう?と思うのだ。
……まあそのへんの事情も事象も、本物の男でないとわからないだけ、なのかもしれないが。
「あたしが間に入んなきゃ睦月が危ないんですうー」
「へ?」
思いがけず引き合いに出され目を丸くしていると、人差し指を立てながらあのねあのねと洋海が頸を持ち上げた。
何やら恐ろしく真剣な面持ちである。
「哲くんこう見えていろいろ飢えてるからね。ついでに寝相も最悪で――」
「洋海ちゃーん。寝てる間に鼻と口塞がれたくなかったら、おとなしくグンナイ」
「ひいぃぃぃ」
にんまりと愉しげな笑顔と声音を背後から向けられ、恐ろしさにすっぽり布団を被った洋海に、思わず軽く噴き出してしまった。
やはりいいコンビだ、この二人。
まぁこいつらがいいならいっか……とそれ以上考えるのをやめ、トレイを手に立ち上がった。
洗うのは明朝と決めてこっそり食器類をシンク横に置き、柾貴と鉢合わせないよう電光石火で歯磨きを終えて部屋に戻ってくる。
と――。
明るい蛍光灯の下、小動物はすでに寝息を立てていた。
「…………よっぽどオレら信用されてるってこと?」
こんな明るい中でよく寝れるなという驚きとともに、やはり野郎ども(仮)のど真ん中で熟睡できる肝っ玉に感心とも呆れともつかない複雑な思いが交錯する。
「じゃねえ? 相変わらず寝つきいいなあ」
連れ立って戻ってきた哲哉の様子も普段とまったく変わらず、ガキのころからこうだよ、と小さく笑って端の布団に潜り込んでいた。
危険な、というか色気のある事態にどうやら発展することもなさそうだ。
幼馴染みってそういうもんか、と首を傾げながらもひとまず安堵して、天井からぶら下がる紐を引き照明を落とす。
「で? 大谷親子の喧嘩の原因は?」
もそもそと入った布団の中で、せめて壁側を向いて寝るかと体を反転させかけたところに、それほど抑えられもせず哲哉の声が響いた。
オレンジ色のささやかな明かりを頼りにぐるりと首だけ向けると、洋海の向こうで横になって枕に頬杖をついている姿。
「ああは言ったけど、飯の間中やっぱ親父さん何かいつもと違ったし」
「――」
なんつーか笑顔にキレがないっていうかさ、と笑いながら哲哉は続けた。
「何か、あったんじゃねえ?」
ほーら俺様に話してみ?と雄弁に語っている(ような気がする)ニンマリ顔から、思わず目を背けてしまった。
笑顔にキレって何だ……。
一瞬だけ浮かんだツッコミを呑み込み、ため息まじりに体を仰向けに戻す。
隣り合わせてはいないしサラシも巻いたままにしているとはいえ、さすがに哲哉の方に体を向けるのは憚られた。
「いや、何かっていうか…………。親父に隠し事されてて、さ」
「隠し事……って、え? そんだけ?」
「……」
確かに「それだけ」と思われるだろうが。普通なら。
危険も何も差し迫っていない「普通」の状況なら。
あからさまに憮然とした空気に気付いたのか、くすりと笑って軽男がフォローにまわる。
「そりゃ親子っつったって、秘密くらいあるだろうよ」
「…………命に関わるようなことでもか?」
「え、えええぇ……なんで毎度そんなスケールでかいんですかね? お宅様は」
そんなこと――知らない。
こちらとしては好きで命を狙われているわけではないのだ。
「まあ……あの親父さんのことだからさ。よほどのことなんじゃん?」
「……」
「めっちゃ心配してんじゃん、睦月のこと。めっちゃ可愛がってるし」
「…………そうか?」
「だよ。いい親父さんだよな」
それは――そうかもしれないが。
いや、間違いなくそうなのだが。
でも大事なことはやはりきちんと伝えてほしかったのだ。
想いだけ伝わっていればそれでいい、というわけにはいかないではないか。
ついに黙りこんでしまったところに何を思ったのか、ふっと小さく笑って身を起こすような気配がした。
「『今は』言えねーだけ、とかさ。何か理由があんじゃねえの? そのうちちゃんと話してくれるって」
今は……。
そうなのだろうか。
そのうち、なんて言ってて手遅れ――なんてことにならなければいいが。
「…………かな?」
「たぶんな」
「……たぶんかよ」
能天気な補足につい呆れ笑いが出てしまった。
こんなときでも笑えるんだ自分……と少しだけ不思議な思いにも駆られた。
問題は何も解決していないし、伏せられている内容もその理由も少しも明らかになっていないのだが。
やはり二人にも感謝だな、と素直に思うことにする。
「で? で? その色男の親父さんに洋海の気持ちは届きそうなのか? ぶっちゃけ、どうよ? そこんとこ」
「え……あー……」
急にガラリと雰囲気を変えて今度は急に声をひそめ出した哲哉に、何ゴトかと思ったが――。
顔を近付け隣の小動物がぐっすり寝ているのを再度確認してから、軽く首を横に振ってやる。
「……たぶん無理」
「何で? 歳の差? 他に誰かいるとか?」
「いや……。うち、母親の写真一枚しかないんだけどさ」
生まれたばかりの自分と一緒に病院のベッドに横たわったままの儚げな……けれど幸せそうな、満足そうな微笑みを浮かべる母の、唯一の写真を思い浮かべる。
撮影した直後に、もともと体の弱かった彼女はついに還らぬひととなってしまったらしいが。
「ああ見えて親父、毎晩静かに対話してるから……」
遺影代わりに仏壇に置かれているその一枚を手に取り、穏やかな表情で見つめているのを、真夜中に幾度か見かけている。
おそらくは毎晩なのだろう、と勝手に思っているのだが。
「そっか……。きっと大恋愛の末におまえが生まれたんだな」
「……うん」
まともに聞いたことはないが、おそらくそうなのだろう。
「じゃあ洋海は可哀想に……失恋決定かな?」
うりうり、と洋海の頬をつついて愉しそうな笑みを浮かべる軽男。
うーんむにゃむにゃと不満そうにもらされた典型的な寝言に、つい噴き出し笑いが被ってしまった。
「っていうかさ。洋海って普通に可愛いのになんでオッサン好みなワケ? 前からそう?」
別にあんな中年オヤジに想いを寄せなくても、と思うのだ。
時々ワケのわからない行動に出ることはあるが、まあ今どきの普通の女子高生だし小柄でそれなりに可愛いし。
「知らん。こいつはなんか昔からおかしいんだ」
おい、身も蓋もないことを言われたぞ洋海。
幼馴染とはこういうものか……と目を丸くしつつ笑いの余韻を引きずっていると、何やら思いもよらない方向に話を持っていかれていた。
「睦月は、どうなんだろな」
「え?」
「どんな子がコクりに来ても、バッタバッタ振り倒してんじゃん。どんな相手なんだろうな、おまえが落ちんのって――って思ってさ」
再び枕に頬杖ついた体勢で真っ直ぐ見つめてくる哲哉。
からかうでも言い淀むでもなく、静かに淡々と紡がれる声が少しだけ意外だった。