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ニョグタ

作者: 早瀬悠斗

 どうやら雨が降っているらしい。外を見る勇気はないが。

 水が流れ、滴る音、それを聞いているだけで全身を冷水に漬けられたような感覚を覚える。奴らがここに来るはずはないと理性では言えるが、何か不可解な予感のようなものは囁き続ける。この部屋の全ての出入り口に厳重にはめ込まれた強化ガラスも奴らを阻むことはできないと。

 だから私は窓から目を背け、薄汚れた白い壁を見つめ続ける。おそらくこれから私が生涯を過ごすことになる部屋、精神科の閉鎖病棟の壁を。


 私は元から狂っていたわけではない。それどころか、今も狂ってなどいない。だが、もはやどうでもいい。医者にとっては私の言うことを信じるより、私を狂人扱いするほうが遥かに容易なのだろう。そんなことは自分でも分かっている。

 樹海での私の体験もまた、狂人の妄想として処理されることになるのだろう。そしておそらく、そのほうがいいのかもしれない。


 


 私が大学時代からの友人と共に、青木が原樹海にキャンプに出掛けたのは一か月ほど前のことだ。理由はというと、単なる好奇心だ。自殺の名所である樹海には、数多くの奇怪な噂が存在する。大学時代にオカルトサークルに属していた私たちは、面白半分にそれを確かめに行ったのだ。

 私たちは駐車場に車を止めると帰り道が分かるようにロープを張りながら、普通の観光客は足を踏み入れないような樹海の奥深くにまで進んでいった。友人はキャンプ用具とともに、カメラと録音機を持ち込んでいたと思う。幽霊の姿や声でも収録する気だったのだろう。

 

 キャンプ用具を樹海のかなり奥に置いた私は、周囲の光景を見渡した。黒々とした幹と鮮緑色の葉が人間の存在など気にも留めずに空間を塗りつぶし、それが彼方まで続いている。私たちは樹海のかなり奥にまで入っていたので、辺りには人の姿もなければ物音も聞こえなかった。ただ木々から放たれる微妙な湿気と青臭さ、それに根系の下を地下水が流れる微細な音だけが静謐な空間の中で微かに存在を示していた。

 何か違和感がした。いくら樹海とはいえ、ここまで何もいないというのはおかしくないだろうか。普通の人間はこのような場所まで来ないにしても、野鳥や動物の気配ぐらいはしてもよさそうなものだ。だがその違和感はそれほどはっきりしたものではなかった。もともと樹海の生物について詳しいわけでもない。だから私は、偶然近くに動物がいないだけだろうという友人の言葉に、簡単に納得してしまった。

 

 とりあえずテントを張り終えた私たちは、周囲を探索してみることにした。樹海内にあるであろう自殺死体を探すのが、わざわざこんな奥まで来た目的の一つだったのだ。死体を見つけたら撮影してブログに載せると友人は言っていた。悪趣味だと内心思ったが、まあ誰に迷惑をかける訳でもないので特に止める気はなかった。死体撮影など、これまでのこの男の行動を考えれば大人しいほうだろう。

 


 幸いといっていいのか悪いのか、とにかく死体はすぐ見つかった。テントの周囲を歩き回っていた友人が、急に声をあげて私を呼んだのだ。その声は明らかに嬉々としていた。友人がお目当てのものを見つけてしまったことに、私はこっそりと渋面を作った。私自身はオカルト好きだったとはいえ、死体を見たいとは思わなかったのだ。

 しぶしぶ声がした方向に向かった私は、彼の視線の先にあったものを見て息を呑んだ。辺り一面に砕けた白骨が散らばっている。どう見ても一人や二人のものではなかった。おそらく数十人分のものだ。

 「何だよ、これは?」

 私は意味もなくそんな言葉を発した。ここが樹海である以上、死体が見つかること自体はおかしくない。だが問題なのはその数だ。何故こんな量の白骨が散らばっているのだろう。

 何らかの理由で、ここは自殺者が集まりやすいのだろうか。いや、普通自殺するにしても、他人が死んだのと同じ場所は選ばないのではないか。ということは、この人骨の山は外部から集められたことになる。一体何のために。

 


 「凄いよな。まるで象の墓場だよ」

 一方の友人は戸惑った様子もなく、散らばった骨に対して何度もシャッターを切っていた。そんな彼に、私は切迫した調子で話しかけた。

 「おい、これはかなりまずいんじゃないのか」

 「何がだよ?」

 「この骨の数は普通じゃないぞ。もしかして何か事件性があるものなんじゃないのか。警察に通報すべきじゃないのか」

 そう、異様な数の人骨を見て真っ先に思い浮かんだのがそれだった。これほどの数の骨が一つの場所に集まっている理由は、誰かがまとめて遺棄したからとしか思えない。そして、そんなことをする理由はこの骨の山が誰かに見つかると危険だと思ったからではないのか。

 加えて言うと、この骨はどこか不自然な砕け方をしていた。まるで誰かによってへし折られたり、叩き潰されたような。

 

 「警察? おいおい冗談だろ」

 「お前こそ何の冗談だ? 人間の骨がこんな数散らばっているのは、どう考えてもおかしい。警察に知らせるべきだろ」

 当惑してそう言った私に向かって、友人は小馬鹿にしたような口調で言った。

 「知らせてどうする? 面倒くさい事情聴取を何時間も受けるだけだぞ。大体、これが殺されたものだとして、犯人なんか見つかると思うか?」

 続いて彼は傍に落ちていた棒で、骨をつつき始めた。

 「この骨、多分死んだ時期はバラバラだぞ。白いのと黄ばんだのが一緒くたになってるだろ」

 言われてみれば確かにそうだった。真新しいものもあれば、風化して土に還りかけているものもある。ということは、骨の山は少なくともまとめて捨てられたのではないということだ。

 

 「この骨の一部はたぶん数十年、もしかしたら数百年以上前からあるはずだぞ。そんな昔の事件の犯人が見つかるわけない。通報されても警察のほうが迷惑だろ」

 「でも、新しいのもあるんだろ。その犯人は見つかる可能性もあるんじゃ」

 「怪しいもんだな。この日本にどれだけの数の行方不明者がいると思ってんだ? こんな骨だけじゃ、どこの誰かも分からん。ましてや犯人となると、まず見つけるのは無理だろ。そもそも殺されたとも限らんしな」

 私はとりあえず口をつぐんだ。彼の言葉は間違いではない。樹海の奥に散らばる骨、そんなものを見せられても警察は対処のしようがないだろう。殺人事件かどうかはおろか、骨の身元すら分からないのだから。沈黙した私を余所に、友人は骨に向かってシャッターを切っていた。

 

 


 夕暮れになった途端、雨が降り始めた。豪雨というほどではないが、外に出るのがためらわれるほどの雨量だ。私たちは天気予報の不正確さに悪態をつきながら、テントの中に入って夕食をとった。

 「これじゃ、今回の調査はできんな」

 友人がレトルト食品のパックを開けながら不満そうにつぶやいた。怪しい物音がしたとしても雨音にかき消されてしまうし、カメラを持ち出せば濡れて壊れてしまう。樹海の心霊現象を記録するというキャンプの目的は、果たせそうになかった。

 

 「こんな天気になるなら来るんじゃなかったよ。とりあえず寝るから、雨やんだら起こしてくれ」

 夕食をあっという間に終えた友人はそう言うと、早々と寝袋に入ってしまった。大学のサークル時代から、異常に寝つきがいいので有名な男だった。一人残された私は、やむなくスマートフォンでゲームをしながら、時間を潰すことにした。聞こえるのは水が滴り、流れる音だけだった。

 



 いつの間にか私も寝入っていたらしい。深夜になって目が覚めたのは、不審な物音を聞いたからだ。泥濘と化した地面を複数いる何者かが踏みしめる湿った音、彼らのくぐもった声、雨粒がテントを打ち、流れていく音に紛れてそれが微かだが聞こえる。

 「おい、起きろ」

 私は隣で寝ている友人を小突こうとして、息を呑んだ。友人の姿がない。用を足しに行ったのかと思ったが、いつまで経っても彼は帰ってこなかった。

 慌てて電話をかけようとしたが、スマートフォンの画面には圏外という表示が出た。私はたった二人でこんなところまで来てしまったことを心底悔やんだ。

 

 


 周りでは相変わらず、何者かが動き回っていた。幽霊の類ではない。音から類推するに、明らかに質量をもった存在が、雨の中を蠢いている。言葉らしきものを発しながら。

 「心中でもしに来たのか?」

 私は独白した。場所柄を考えればあり得ない話ではない。ただ、人数が多すぎる気がした。音の大きさと数から類推するに、数十人はいるのではないか。

 そして何より不可解なのが、彼らの声だった。おそらく日本語ではない。それどころか世界のどこの言語とも異なっているように感じられる。もっと言えば、人間ではない何か別の生き物の発声器官によって作られる声のように。

 

 雨はいつの間にか止んだらしいが、水が流れる音は聞こえ続けている。平素であれば心地良い響きと感じられたかもしれないが、樹海の闇の中では限りなく不快で、恐怖に強張った精神を削り取るヤスリの響きを思わせた。

 暗い液体が地表を這いずり回る音が、他の全てを圧してテントを包囲している。周囲を徘徊する何者かの声と混ざり合った水音は、何らかの超常的な悪意を秘めているように感じられた。

 


 私がテントを出るべきか迷っているうちに、外にいる者たちは完全にテントを包囲していた。彼らの囁く呪文のような声が、地面から伝わってくる流水の音に交じって私を圧倒した。テントは形容しがたいほどの悪意の中で孤立している。あるいは悪意ですらない、超常的で非人間的な何者かがじっとこのテントを覗き込んでいるのだ。

 


 「ニョグタ! ニョグタ!」

 外にいる者たちは一斉にその言葉を発し始めた。何語かも分からない言語だったので、この表記が正確かは分からない。ただ、ニョグタ、あるいはニョグサという言葉を連中が繰り返し口にしていたのは確かだ。

 その後に目にしたものについては、現実のものか自信がない。あるいは私の恐怖が見せた幻覚だったのかもしれない。だが私は今まで、あれほど鮮明な幻覚を見たことは一度もないのも確かだ。

 

 とにかく目にしたものについて話そう。私は突然、周囲が異様に明るくなるのを見た。外にいる連中が何らかの光源を使用したのかと思ったが、どこか奇妙な光だった。単色ではなく極彩色であり、まるで脈動するかのように強弱が変化する。心なしかその脈動は、テントの周囲を流れる水の音と同調しているかのように感じられた。

 そして奇妙な光の中を、何かが歩き回っていた。彼らの姿を説明するのは困難だ。一応人型をしていたとは言っておこう。だが人間に似ていたというには、そのシルエットはあまりにあからさまな歪曲と冒涜を受けすぎていた。そいつらが何十体、あるいは何百体もテントの周囲を徘徊している。

 


 次に私は、周囲を流れる液体がテントの底に達するのを感じた。雨は既に止んでいたにもかかわらず、履いていた長靴が水につかる感覚があったのだ。懐中電灯で床を照らし出した私は愕然とした。それは水ではなかった。何か黒い、タールのような液体がテントの床を覆い尽くしていたのだ。

 一瞬、血を連想したがそうではなかった。人類がこれまで知りえなかった未知の液体、麝香のように甘いがどこか吐き気を催すような臭気を放つ忌まわしい何かだった。そしてその黒い液体は明らかに生命をもって動いていた。表面は不気味な粘性を持ち、奇怪な怪物の内臓のように収縮を繰り返している。時々触手のような器官が本体から伸び、極彩色の閃光が点滅する。先ほどテントの外に見えたのと同じ光が。

 テントの周囲を雨水が流れる音は相変わらず聞こえていた。いや、そうではない。あれはこの黒い液体が蠢く音だったのだ。私は遅まきながらそのことに気付いた。


 不意に、外で絶叫が響いた。これは明らかに人間の声だった。絶叫はすぐに消え、代わりに何かがへし折られるような鈍い音と、水音とはまた違った湿った音が聞こえた。同時に聞こえるのは喜悦に満ちた多数の声だ。

 声の主の正体が何なのかは分からない。確かなのはおそらくさっき、彼らが人間を一人殺したということだけだ。

光はますます強くなった。眩んだ視界のなかを外にいる者たちの影が横切っていく。そして音が聞こえる。漆黒の森の海、その地下系を異形の液体が這いずり回る音。おそらく昼間にもこの音は微かに聞こえていた。あの時は地下水が流れる音だと思っていたが。

 

 私は悟った。自分が絶対に侵してはならない領域に足を踏み入れてしまったことを。彼らは遥か昔から樹海にいて、侵入した者を貪ってきたのだろう。

 足元の暗い液体が這い登ってきた。無数のナメクジが這い回るような冷たく湿った感触が両脚に走る。私はその瞬間に意識を失った。


 


 次に目覚めたとき、私はこの病室にいた。絶叫しながら樹海を走り回っていたところを、地元住民に発見されたらしい。私は病室を訪れた医者に樹海で見たものについて話したが、医者は気の毒そうな視線を向けながら聞き流しただけだった。

 失踪した友人は未だに見つかっていないらしい。少なくとも医者はそう言っていた。当然だろう。彼はあの黒い液体と怪物どもに食われ、あそこに転がっていた人骨の山の一部になってしまったのだから。

 

 雨はまだ降り続いているようだ。かなりの豪雨らしい。私は耳を塞いだ。何かが流れる音、それを聞くたびに樹海で見たあの光景を思い出す。地上の一部の支配者に過ぎない人類が知ることのできない地の底、その漆黒の中を這いずり回る異形の者たちの姿を。

 

 そして急にドアが開かれた。少し早いが医者だろうか。そう思って顔を上げた私は部屋に入ってきたものを見て愕然とした。

 「生きてたのか…」

 そう、病室に入ってきたのは紛れもなく、一か月前に樹海で行方不明になったはずの友人だった。彼の姿を見て私が感じたのは再会の喜びというより恐怖だった。何故彼が生きているのだ?

それでも私は恐怖を何とか押し殺しながら目の前の男に話しかけた。

 

 「その…久しぶりだな。今まで何やってたんだ?」

 友人は無言で私のほうに近づいてきた。その顔には何の表情も浮かんでいない。彼の手に握られているものを見て、私は先ほどの比ではない悪寒を覚えた。赤と白が入り混じった色をした奇妙な棒状の物。切断されて肉を削がれた人間の腕…

 

 絶叫しようとしたが声は出なかった。私は痙攣する脚を叱咤して何とか窓にたどり着くと、ガラスを思い切り殴りつけた。だが割れるはずもなかった。医者が言っていたのだ。あの強化ガラスは人間の力では絶対に割れないと。

 絶望して外の風景を見た私は、脳内でまだ正常な機能を果たしていた僅かな神経系が根こそぎ焼切れるのを感じた。先ほどから雨音がしているのに、ガラスの向こうには青空が広がっている。そんな馬鹿な。ではあの音は何だ?

 

 甘く腐敗した匂いが部屋に満ちた。水音が背後から聞こえてくる。外には雨など降っていない。水が流れる音はこの建物の内部から聞こえてきたのだ。

 私がそのことに気付いた瞬間、天井から轟音が聞こえ、コンクリートと金属の破片が降り注いだ。天井を通る配管が破裂したのだ。そして部屋の中に吐き気を催すような甘い臭いが立ち込めた。

 私はふらふらと向き直った。黒い液体と極彩色の光が視界を覆い尽くしている。そして目の前で友人が微笑んでいた。背後にいる者たち、あの日樹海で見た異形の生物たちとともに。

 友人の顔が目の前で溶けていき、怪物そのものになっていく。私はその様子を為すすべもなく見ていた。

 

 

 

 

 

久しぶりの投稿になりました。読んでいただいてありがとうございます。

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― 新着の感想 ―
[良い点] クトゥルフ神話の世界観と樹海のじっとりと湿った舞台の雰囲気がとても恐怖を煽られました。最後のサプライズもぞくっとしました。 [一言] 良質なホラーをありがとうございます。とても楽しく読むこ…
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