「ゆらゆら」
I県 沿岸部にお住いの、(仮名)二岡哲司さんのお話
「それでは、二岡哲司さん。お話を聞かせて貰ってもよろしいでしょうか?」
僕はボイスレコーダーのスイッチをオンにし、メモ帳の用意をして二岡さんの方へ向き直った。
「いいのか?あんまり聞いてて楽しい話じゃないぞ?」
そう言って苦笑いを浮かべる二岡さんに向かって、僕はゆっくり頷いた。
「んーそうだなあ。俺んちの近所ってよぉ、子供の頃から不思議な事って結構あってさ。例えば、どこそこの爺さんが酒呑んで酔っぱらって、帰ってくる途中で電柱に寄り掛かったら、その電柱がフッと消えて川に転がり落ちたってずぶ濡れになって帰ってきたりな?その爺さん、その前にも狐に騙されたとかって大騒ぎしてた事もあったな。」
掘り炬燵の中で足を摺り合わせながら、二岡さんは奥さんが淹れたお茶をずずっと啜って話を続ける。
「うちのお袋もさ、たまーに変なもん見る方だったんだ。お盆になるとさ、海から沢山の人の影が這いあがって来て、近所の家々に入っていくんだと。んでお盆が終わるとまた海に帰っていくって言ってたな。」
そこでまたずずっと音を立ててお茶を一口含む。
「まあ、他にも色々とあったんだけどよ――」
そう言って、懐からタバコを取り出して火を点け、ゆっくりと吸い込む。
そして、長い溜息のように煙を吐き出すと、神妙な顔つきになって語り始めた。
「――あれだけは忘れる事ができねぇな・・・」
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二岡さんはその頃、漁業に従事していた。
春になればワカメの作業。夏はウニ。冬は海藻とアワビ。というように、その節ごとに海へ出て仕事をしていた。
その他にも、ハエ縄漁やホタテなどの養殖も手がけ、それなりの収入を得ていた。
二岡さんが初めて「それ」を見たのは、高校を卒業してすぐ。
その頃すでに家業になっていた、養殖ワカメの収穫の手伝いをしていた春先の事だった。
海から船へワカメを引き上げる作業をしていると、何か見慣れないものが海の中のワカメの束に引っ付いているのが見えた。
「――ん?」
目を凝らしてよく見ると、なにやら白いものが父親の引っ張っているワカメに「しがみついている」ように見えた。
まあゴミか魚だろう、と勢い良く「それ」ごとワカメを引っ張り込んだところで、二岡さんは思わず声をあげてしまった。
「――ひっ!」
白く見えたそれは、「人の腕」だった。
「どうした、哲司?」
父親は、声を上げた二岡さんに心配そうに声をかけた。
「って!人の手!ワカメにくっついてる!」
「手ぇ~?んなもんどこについてんだぁ?」
父親は訝しげに引き揚げたワカメを覗き込んだが、すでに二岡さんが見た「白い腕」は消えていたという。
「なんかゴミでもそう見えたんじゃないのか?」
そう言って父親は笑っていたのだった。
その日、作業を終えて帰ってきた父親は急に倒れ、救急車で運ばれた。
そして、搬送先の病院で息を引き取ったという。
その後もちょくちょく二岡さんは、その「白い腕」を海で見かける事になる。
父親が亡くなったその年の夏。
ウニ漁の為、カガミを咥えて海の底を見ていた時だ。
「カガミ」とは、船の上から口に咥えて固定をして、海の中を覗く箱メガネの事だ。
二岡さんが住む地域では、ウニとアワビはこのカガミと長い継ぎ足し竿に鉤を付けた物で、船の上から覗き込みながら、鉤で引っ掛けて取る漁法を使い採捕する。
その日も、どのポイントで採り始めるか、カガミ越しに海の底を見ていたのだそうだ。
早朝の、まだ薄暗い海の中を覗いていると、何やら別の世界へ来たような、そんな気分になってきていた。
ふと、目の端に白いものが映った気がした二岡さんは、カガミを傾けてその方向の岩陰を見てみた。
岩陰から白い腕がゆらゆらと、まるで海藻のように揺れていた。
思わず「あっ!」と声を出してしまい、咥えていたカガミを口から離してしまった。
慌ててぷかぷかと離れてしまったカガミを、繋いでいた紐を引っ張って戻し再びその場所を見ると、「白い腕」は消えていた。
その日も近所で、漁から戻った後に倒れ、救急車で運ばれて行って亡くなった人がいた。
それからも、海でその「白い腕」を見かける度に、だれかしらが亡くなったり怪我をしたりしていたと言う。
それから数年が経ち、二岡さんも結婚をして子供も生まれ、その子供たちも大きくなり二岡さんの手伝いをするようになった。
「白い腕」の事も、そういうものなんだと割り切って、もし見た場合はなにかしら周りに注意を促して、普通に過ごしていたと言う。
あの日までは。
12月末、年々漁獲の減るアワビ漁も、その日の開口で休漁となる。
その年最後のアワビ漁という事で、漁に行く人達は皆張り切っていたそうだ。
二岡さんもその一人で、前の晩からわくわくしてあまり眠れなかったそうだ。
そして漁の朝。
一番乗りで前々から目を付けていたポイントへ行こうと、二岡さんは息子と二人で船外機を吹かして急ぐ。
ポイントへ着くと、船外機を止め櫂を取り出してゆっくりと漕ぎ出した。
その日は風も無く、海も波ひとつない凪の日だった。
「親父!やっぱここ当たりだ!」
カガミを覗き込んでいた息子が、喜びの声を上げる。
漕いでいた手を休め、自分用のカガミで海の底を見ると、まるで折り重なるように大量のアワビが岩肌にくっついていた。
「よし、んじゃここでやるか。」
そう言って二岡さんは、救命胴衣の内側からタバコを取り出して、火を点けようとした。
そのとき。
「あれ?親父、あれなんだ?」
カガミを咥えて海の中を見ていた息子が、二岡さんに声をかけてきた。
タバコに火を点けるのを止めて、再びカガミを覗き込んだ二岡さんは、その光景を見て絶句した。
海の底。
なにやら白いものが、コンブや他の海藻に交じってゆらめいている。
あの「白い腕だ」。
だが、二岡さんはそれを一目見て、いつもと違う事に気付いていた。
百・・・二百・・・数千、いやもっとそれ以上。
海底にびっしりと、沢山の「白い腕」がゆらゆらと揺れていたのだ。
悲鳴を上げた二岡さんとその息子はカガミを放り投げ、慌てて船外機のエンジンを回して急いで家に帰り、その日は一日茶の間で2人震えていたと言う。
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「――でもね、その日は誰も救急車で運ばれなかったんだよ。「その日」はね。」
二岡さんは遠い目をして呟く。
「それから3か月ぐらい経った後、何が起きたと思う?」
そう言って僕を見た二岡さんの手から、長くなったタバコの灰がぽたりと落ちた。
「――震災ですよ。津波で大勢の人が亡くなった。」
二岡さんはそう言うと、消えかけのタバコを灰皿で揉み消して、新しいタバコに火を点ける。
「あの「白い腕」がなんなのか、俺には解らない。解りたくもない。おかげで、俺も息子も海に近寄るのが怖くなってね、今じゃこんなの着て作業員の真似事してるのさ。」
そう言って二岡さんは、着ていた作業服を見せるように、タバコを口に咥えて腕を広げて見せたのだった。
この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません