第零話 <女だからってみんなそうじゃないのよ!>
朝九時五分前、グレーのスーツ、パンツ姿のスラッとした細身の女は、タイムカードを差し込み、持っていた専門誌をバックにしまう。
ツカツカとヒールを鳴らしながら颯爽と席に着くと、おもむろにパソコンの電源を入れた。
毎朝耳にするコンピュータの間抜けな起動音を聞き流しながら、バックから仕事用の眼鏡を出してかけ直す。
それから慣れた手つきで長い黒髪を大雑把に纏め上げ、ヘアバンドで後頭部にくくりつけると、大きなあくびを一つしてから、キーボードを叩き始めた。
彼女、中崎麗子は理系の四年大を卒業後、このシステム会社に入って以来、ビジネスアプリケーションのプログラム作成を仕事にして三年目になる。
朝日に当たって白く輝く彼女の細い指がキーボードをパンチする度にパチパチと小気味いい音が鳴る。
始業間もなくは何処かしこからキーパンチの音が聞こえるが、やがてどこからかの電話が鳴り、誰かがタバコに立ち、仕様や進捗を確認する会話に混じって雑談が聞こえ始めると、プログラムを作成する環境としてはだんだんと劣悪になって来る。
この日は始業から三十分も経たない内にそうなった。
――― 今日はうるさくなるのが早いわね……。―――
そう思いながらも全く表情に出さず、缶コーヒーでも飲もうと下の階の自販機目指して席を立った。
「中崎さん、ちょっといいかな」
彼女を呼び止めたのは、細身の神経質そうな中年男だ。
四十をとうに越えて頭もだいぶ白くなって来ており、春先なのに未だにベストを愛用し、さらに茶色っぽいスーツのボタンをもキッチリ止めて着用している。
直属の上司で主任の松原である。
「今のプロジェクトだけど進捗はどう?」
松原は中崎が返事をする間も与えず、続けざまにそう聞いて来た。
「今仕掛かり中の画面は今日中には上がりますが……」
そう聞いて松原はほぅと感心したような顔をした。
「それじゃ悪いけど、明日から別プロジェクトに入ってくれるかな」
中崎は一瞬驚いたような、そして直ぐに眉の間にシワを寄せた怪訝な表情になった。
「大丈夫だよ。今のプロジェクトはこっちで引き継ぐから」
松原は微笑みながらそう言ったが、彼の目は笑っていなかった。
中崎はため息を飲み込む間を置いて「はい、分かりました……」と答え、階下の自販機に向かった。
この会社には百名ばかりの社員が東京と大阪にいる。
彼女は新卒で入社し、同期は他に四人の男がいたが、二年の間に彼女を含めて三人になった。
入社した年の暮にあった忘年会で、彼女の同期の男を集め、松原が上機嫌に喋っていた。
中崎は他のグループで飲んでいたが、トイレに中座した時に偶然、松原の会話が耳に入った。
松原は、
「女は理論的に考えられないからプログラムも、まして設計なんか絶対に出来ない。だから女は戦力と考えずお手伝い程度に思っておけ」
と、言っていた。
彼女は一瞬頭が真っ白になりながらも洗面台まで行った。
お世辞にも綺麗とはいえない居酒屋のトイレで、唇を噛み、拳を握り締めた。
あとで松原が下戸だと知り、しらふでそんなことを言ってたと思うと余計に腹が立った。
しかし、中崎はこの一件で、必死にプログラムという仕事をした。
もともと要領がよく聡明だった彼女は、みるみる実力をつけて行き同僚を引き離した。
さらに、残業になりそうな仕事や難しそうな仕事、急に仕様が変わるような普通のプログラマーが忌避するような仕事も、嫌がらず、むしろ自ら進んで引き受けた。
実際、今のプロジェクトも、立場的には松原の下ではあるが、仕様を誰よりも把握し、メインプログラマとして動いているのは彼女だった。
なのに、仕事が完了していない途中で引き剥がされる。
――― 女、だからか… ―――
コーヒーを飲みながら、ふと、そんな考えが浮かんだ。
悔しさに顔が歪む。
夕方、プログラムを一段落させ、席で両腕を伸ばしてのびをしていた彼女に、松原が声をかけてきた。
「中崎さん、明日の件で部長が呼んでるよ。会議室に行って」
「はい、わかりました」
このオフィスに、会議室は入り口入ってすぐと、その奥とで計二つある。
――― どっちの会議室か言えよ! ―――
と、思いながら、彼女はノートとペンを用意して立ち上がった。
部長の中井は、四十後半の脂ぎった、やり手という感じの人である。
恰幅もよく、背も高い。
明るく朗らかで、最近はシステムエンジニアの仕事より、営業をしている。
そんな中井部長は、普段使わない小さな方の第二会議室にいた。
机が一つに椅子が六つ真ん中にあるだけで、ホワイトボードもないような部屋である。
「中崎さん、突然すまないね」
中井は中崎の姿を見るやいなや、にこやかにそう声をかけた。
中井の正面の椅子に座ると、中崎はノートとペンを用意した。
「明日なんだが、現場はここではなく、四ツ橋になるんだ」
中井の説明はこうだった。
以前からシステム開発を請け負っている客先の大手商社で、緊急にシステムエンジニアを募っており、その仕事をしてくれとのことであった。
ただ、その商社が新たに外部から、経歴の長いシステムエンジニアを用意しているらしく、そのシステムエンジニアの下での仕事となる。
中井部長は話の最中、ことさら、中崎が優秀でプログラマとしてのキャリアはもう十分であり、これからはシステムエンジニアとしてのキャリアを積んだ方がいいという事と、これはその勉強を実践でできるまたとないチャンスである事を強調した。
そういわれては、彼女自身も悪い気はしなかった。
事実、顔が少しほころんでいた。
いつしか彼女は自分の口から
「大丈夫です。頑張ります」
と言っていた。
「そうか、頑張れ。こっちからもなるべくバックアップするように心がけるよ」