番外編 アナザーワールドでも悩みは尽きない
私立 円是流高校。
その学校に通う椿達の、とある一日を追っていこう。
楸
ヤバい!
何気ない普段通りの朝だったはずなのに、学校に着いたとたん、事情が変わった。
というより、個人的に危機的状況に陥っている事に気付いた。
「英語の課題…やってないよぉ……」
席についてカバンの中の物を机に入れようとした時、英語のワークブックが目に入り、俺は絶望した。
英語の課題が出ていた。
しかし、俺はそれをやっていない。
試しに課題として指定されているページを開いて見るが、綺麗なままだ。
「英語の課題、教卓に提出してください」
そう言った榎ちゃんの声が、いつもの天使の歌声ではなく、悪魔の囁きに聞こえた。
これはマズイ。
「椿!英語の課題 見して!」
背に腹はかえられない。そう思い、朝一の屈辱は覚悟で椿に頼んだ。
しかし、「やだよ、バカ」と冷酷非道で愛を知らない椿は、俺を見捨てようとする。
「そんなこと言わないで。俺、前回も提出遅れたから、さすがに二回続けてはまずいのよ」
「知るかよ。潔く神崎先生に謝って、放課後まで待ってもらうんだな」
「それが出来れば苦労しないよ、バカ。前回も謝って放課後まで待ってもらって、『次は気を付けるように』って言われてんだから」
「知らねぇよ。勝手に怒られて来い」
「えっ?怒られるの?」
普段優しい先生に怒られると、いつも怒られる他の先生に怒られるより、たぶんへこむ。
もしものイメージをしているだけで、気が滅入りそうになる。
だが、俺の登校してきた時間が遅めということもあり、あまり考える猶予は無い。
「もういいですか?持って行きますよ?」
俺の女神も、何処かへ行ってしまう。
ピンチの俺は、必死に打開策を考える。
……あっ、閃いた!
「榎ちゃん!それ、俺が持って行くよ」
「えっ、でも…」
申し訳なさそうにしている榎ちゃんに「いいよ」と俺は言い、半ば強引に課題である英語のワークブックを受け取った。
クラスほぼ全員分のワークブックはそれなりに重い。が、榎ちゃんにイイ顔することも出来るし、この後のことを考えると丁度いい。何故なら、提出物を届けるついでに『放課後まで待って欲しい』と頼めば、ただ手ぶらで行くよりも話し易いだろうし、了承を得る可能性も上がる気がするからだ。
しかし、それでもこちらの不利は否めない。
俺は、若干緊張したまま、職員室のドアをノックした。
「失礼します」
先生の姿を探す。居てしまった。
俺は、自席でコーヒーを飲んでいる先生の所まで歩を進めた。
「先生。これ、課題です」
「おお、わざわざすまないな」
笑顔で歓迎してくれた先生は、俺からワークブックを受け取った。
そして、言うならこのタイミングだと思い、俺は口を開く。
「あの…先生…?」
「ん?どうした?」
「あのですね…俺、課題やってくるの忘れちゃって…それで、出来れば提出を放課後まで待って欲しいんですけど…」
「そうか…」先生は、少し眉をひそめたが、怒っている様子はなかった。「まぁ、提出期限は守って欲しいが、ちゃんとやるというのなら、今回はいいだろう」
「ホントですか?」
「ああ。放課後まで待つから、しっかりな。それと、次回からは気を付けろ」
笑顔の先生を見て、良かった、俺がそう思っていたら、
「おい、『次回から気を付けろ』ってそれ、この前も言ってたぞ」
と、薄ら笑いを浮かべる五十嵐さんが、余計な口を挟んだ。
「ん?そうだったか?」
五十嵐さんのせいで、先生も考えを改めようとしていた。
「五十嵐さん!」俺は、つい言ってしまう。「余計な事言わないでください。てゆうか、何で職員室にいるんですか?」
「職員だからだよ」
黙って理科準備室にいればいいのに、そう思った。
しかし、問題は五十嵐さんではない。
俺の処分、それが問題だ。
固唾を呑んで先生の判断を待っていると、先生は笑い出した。
「あっはっはっはっは。そうだったか。いやいや、申し訳ない。すっかり忘れていた」
「え、じゃあ…?」
「ああ、歳のせいだな。忘れっぽいのは」
「いや、そういうことじゃなく…!」じれったくなり、リスクを承知で先を促した。「俺の処分っていうか、課題の件はどうなるんですか?」
「ああ、そっちか。いいよ、そのままで!放課後までに、頑張れよ!あっはっはっはっは!」
いいらしい。
不安に思っていた自分がバカらしく感じながら、俺は、職員室を出た。
朝から無駄に疲れてしまったが、この後から一日の授業が始まる。
霊
授業が始まった。
しかし、俺は、全く集中できないでいる。
授業に集中できないほどの悩みが、俺にはあった。
――おっぱいって、どんな感じだろ?
深刻な悩みだ。
男にも、胸はある。十六夜みたいに肉付きのいいヤツもいる。
しかし、それでも女性の胸は、神秘の塊だ。
ただの脂肪とは割り切れない、心惹く何かがある。
俗に、二の腕の感触は、胸のそれに近いという。その話を聞いてからというもの、夏服の袖からのぞく二の腕が、凄まじい妄想を量産させる。
見るからに柔らかそうな二の腕。揺れる二の腕。
エロいな、二の腕。
篝火さんのように大きい胸は、当然心惹かれる。だが、俺レベルともなれば、柊さんの平地のような胸にも魅力を感じることができる。
――どっちもいいなぁ
俺は、思った。
もしかすると、授業中に何を考えているのだ、と思われるかもしれない。
だが、俺は、至って真剣だ。
真剣に考える俺の姿は、先生の目にも授業に集中する優等生の様に映るだろう。
そんな優等生の俺は、さらなる思考の深みに足を踏み入れる。
――キスって、甘酸っぱいのかな?
深刻な悩みだ。
キスの味は、柑橘系らしいが、実際はどうなのだろう?
目って、閉じた方が良いのだろうか?
キスの上手い下手って、何?
俺の悩みは、尽きない。
夜
今は、授業中です。
みんなが黒板に視線を注いで集中しているのが、教室の雰囲気から分かります。
僕も、黒板の方に集中しないといけません。
ですが、今、僕の視線はある一点に注がれています。
――時計、進むの遅いな…
ネジの油が切れているのか、時計の針の進みが悪いです。
ふと時計を見た時、僕は、その時の時間を正確に覚えています。秒数まで。
一度時計から視線を外し、黒板を眺めていました。結構時間が経ったな、そう思った頃にもう一度時計を見てみましたが、思ったほど時計の針は動いていません。
故障だ。もしくは、怠慢だ。
そのことを先生に伝えようかとも思ったのですが、止めておきます。
楽しい時ほど、時間が短く感じられる。その言葉を思い出した僕は、時計の針を早く進める為に、楽しいことを考える事にしました。
今日の晩御飯のメニュー。晩御飯を美味しく食べる為に、するべき買い食い。アニソンなんかも頭の中で流してみました。
ですが、一通り楽しそうなことをしたのに、時計の針は思ったほど進んでいません。
仕方がないので、代えのシャーペンの芯が何本あるのか、数えることにします。
六本を数えるのに、時間は掛かりませんでした。
時計の針は進みません。
困ったものです。
柊
――どうしよう…
今は、お昼御飯前の四時限目。
アタシは今、ピンチです。
お腹が空いて、お腹が鳴りそうです。
授業が始まってすぐ、空腹を感じました。キュゥと小さく腹の虫も鳴きました。
このままでは、腹の虫が周囲へ聞こえるくらいに鳴き叫ぶのは時間の問題です。
お腹が鳴るだけなら「ちょっと恥ずかしかった」で済むのですが、今は大好きな高橋先生の授業中の為、もし先生にまで聞こえてしまったら「死にたいほど恥ずかしい」ことになってしまうのです。
てか、何でこうなるの!
朝ご飯は、ちゃんと食べた。おかわりもした。学校に着いて、クリームパンを食べた。二時限目の後に、早弁をした。この授業の前には、コロッケパンを食べた、二個。
万全の状態で臨んだはずなのに、おかしい。
思う所があるとすれば、もしかしたら「そんなに食べて、なんでモヤシ体型なの?」と不思議がる楸をさっきボコボコにしたから、それで体力を使ってしまったのかもしれない。
しかし理由はどうあれ、今お腹が空いていて、危機的状況にあるのは事実だ。
どうしよう…?
いつもなら授業中なのにバカみたいにうるさい楸や椿たちも、何でか今に限っては静かに授業を受けていやがる。そのせいで、腹の虫を周囲の雑音に隠す事も出来ない。
このままだと、高橋さんの前で恥をかく。
どうしよう…!
そろそろ、お腹の虫が鳴き叫ぶ。
悩んだアタシは、一種の賭けに出ることにした。
腹の虫を隠す雑音が無いなら、雑音を作ればいい。多少不自然でも大袈裟に咳き込んで、そこに腹の虫を隠す。
これしかない!
「ごほっ!ごほっ!んっ!ごほっ!がはっ!」
「どうした?大丈夫か?柊」
「あ、はい…。すみません」
心配してくれた高橋さんに、謝った。
そして、静かになった教室に、グ~と腹の虫の音が響いた。
梅
今は、昼休みも終わった、五時限目の授業中。
なんだけど……ヤベェ…眠ぃ…。
眠い…すごく眠い…。
起きよう、起きようと思って目を見開いてみても、その反動で瞼が重く圧し掛かる。
必死に抗ってはいるが、どうやら睡魔に勝てそうにない。
このまま目を閉じたら、睡魔とのツライ闘いをやめたら、どんなに楽だろうか…。
それとも、睡魔を払いのけ、この危機的状況を打開する術が存在するのだろうか…。
考えてみるが、ロクな考えも浮かばない。
……あ、そういえば…さっきの柊さん、可愛かったなぁ
お腹が鳴って照れて赤くなる柊さんも、授業後に嘲笑ってくる楸を半殺しにする柊さんも、すげぇ可愛かった。
なんだろう……もう…すげぇ可愛い…。
「んふっ…」
いつの間にか、寝ていた。教室が騒々しいから、授業の残り時間 ずっと寝たらしい。
組んだ腕の上に右の頬をつけて まだ目を瞑っていると、誰かに左の頬を突かれた。
――柊…さん…?
そうだったら良いな、そう思いながらゆっくり目を開けると、青い髪をした女がいた。
「あなた。起・き・て❤」
眼前でそう言う篝火に驚いて、俺は飛び起きた。
「うおっ!」
「あ、おはよう」
「うっせぇよ、テメェ!何してんだ?何なんだ!」
俺が言うと、一目で機嫌を損ねたと分かるくらい、篝火は頬を膨らませた。
「なによ、ヒトがせっかく授業が終わったことを教えてあげたのに…。それに、気持ち悪いって、あなたに言われたくないわ」
「あ?どういう意味だよ?」
「あなた、どんなに素敵な夢を見ていたのか知らないけど、授業中に『んふっ』って笑っていたわよ」
そう言われ、俺は、そういえばそんな所を怪我していたなと思い出すような、突かれて初めて思い知る痛みを突かれた。
つまり、無意識であっても、無意識の中でも憶えているモノがあった。
「うっせぇよ!」
たぶん顔が赤くなっているだろう事は承知で、俺は叫んだ。
椿
ヤバい!
今は、六時限目の現国の授業。いつもなら、早く終われよ、と放課後という名の自由を待ち遠しく思うだけの時間なのだが、今日は事情が違った。
――ウンコ…出たい…
今までは何ともなかったはずの腹が、ここに来て突然調子を崩した。
俺は今、人生でも一・二を争う程のピンチだ…と思う。
腹が痛いだけなら、まだいい。いや、良くは無いのだが、まだいい。
今の俺には、腹痛だけではない脅威も迫っている。
「それじゃあ、ここを…そこのお前、読め」
石楠花が、俺を指差す。
これが、俺のピンチに拍車をかけているものだ。
つまり、俺の腹痛に気付いている石楠花が、嬉々として俺を追いつめている。
「ほら、早く立って音読しろ」
「っせぇよ。つーか、今まで座って読んでたじゃねぇかよ」
俺は、額に脂汗を感じながら、必死に言い返す。
しかし、石楠花は、涼しい顔して言い返してきやがる。
「今までは今まで。これからは、音読は立ってやることにしたんだよ」
「意味分かんねぇよ!つーか、さっきも俺だっただろうが…」
「そうだったか?」と石楠花は、とぼける。「すっかり忘れた」
「忘れたじゃねぇよ!」
「まぁまぁ。またお前の流暢な音読を聞かせてくれ」
「またって、さっきの忘れたんだろ!」
声を荒げて反論してはみるが、生徒と先生という立場の違いを加味しても、俺の不利は否めない。つーか、反論に力を入れ過ぎると、自らの首を絞めるように、便意が猛威をふるう。
だから、俺は、この後も石楠花の嫌がらせに屈して 三回も音読した。
だがしかし、そんな苦痛から解き放たれる時がきた。
腹痛の脅威に耐える俺を称えるようなチャイムの音が、響いた。
――これで、俺は救われる。
そう思い、授業が終わるとすぐにトイレへと立った。
「あっ、ちょっと待て」
石楠花が、慌てて俺を呼び止めた。
「あ?」急いでいる時に、何だよ!
便意でイラついている俺に、石楠花は言った。
「今日の音読、すごく良かったぞ。特に用は無いが、この感動を伝えたくて」
「ウソつけ!顔がニヤついてるぞ!」
嬉しそうに生徒を苦しめる先生に怒鳴り付け、その後すぐに俺はトイレに駆け込んだ。
そして、ようやく安息の地に辿り着いた。
最後にどっと疲れたが、これで一日の授業は終わった。
榎
放課後の教室で、榎は一人、クラスで飼っているリスの世話をしていた。
朝あげた水を足し入れたりケージの中の掃除をしたりして、それから、エサを小分けにあげながら話をする。
ただのリスでも、不思議な力を持つ榎にとっては、ちゃんとした話し相手となる。
「ねぇ。マリーちゃん…」
「ん?どうした?」ナッツを食べながら、マリーちゃんと呼ばれたリスは応える。「悩み事か?声が沈んでるぞ」
「えっ、ほんと?」榎は、驚いた。「わかるの?」
「当たり前だろ。俺ともなれば、女の機微にも自然と気付くもんだ」
普通にしていたはずなのにスゴイな、榎は感心した。
「じゃあ…話、聞いてくれる…?マリーちゃん」
「おお、話してみろ」
マリーちゃんがその懐の深さを見せてくれたので、榎は、悩みを打ち明ける事にした。
「あのね、椿君のことなんだけど…」
「おぉ…」だろうな、と思いながらマリーちゃんは話を聞く。
「今日っていうか、さっきなんだけど…元気がないみたいだったの、椿君。なんか、悩んでいるっていうか、困っているみたいな。……どうしたのかな、って…?」
榎は、深刻に悩む胸の内を打ち明けた。
好きな人の不調は、気になる。もし自分に何か出来るなら、力になりたい。
もしもその結果、自分が傷つくことになっても、椿が幸せなら…。
そんな想いで、榎は、マリーちゃんに相談した。
しかし、教室の後ろから見渡していて全てを知っているマリーちゃんは、榎の想いとは裏腹に、白けた思いで言った。
「それは、椿の野郎が、ウンコしたかっただけだ」
「えっ、そうなの?」
「ああ、まず間違いないな。いつもより平均して座高が高かったし、尻のポジションもせわしなく動いていたから、ウンコと見て間違いない」
マリーちゃんのその推理を聞いて、榎は、ホッと一息ついた。
「なんだ。そうだったの…」
「ああ。授業後すぐに出ていって、その後のHRで安心しきった顔を見る限り、無事に事なきを得たって感じだったぜ」
「そっか…。良かった…」
榎は、軽蔑するでも呆れでもなく、心底ホッとした様だった。
好きな人が無事にウンコを我慢できたと知ってホッとしている、その様は、マリーちゃんにはひどく滑稽にも映ったし、反面、すごく深い愛情も感じられた。
恋のライバルが出現したワケでもない、気持ちがすれ違ってしまったワケでもない、ただ好きな人のウンコの悩みが解決しただけの状況の榎に、マリーちゃんがかける言葉は、
「なんか、よかったな…」
だけだった。
席とか細かいことは、気にしないでください。




