番外編 嬉しいことがありました
『今日の夜、一緒にご飯食べれないかな?』
それが、お昼過ぎに榎のケータイに届いた、柊からのメールだった。
柊からの誘いのメールに、榎はすぐ返事を打った。
『いいよ!』と、メールを打っている榎と同じような笑顔の絵文字付きで、了解の返事をした。『何処かで食べるの?』
『ありがと。 ううん。もしよかったら、榎ちゃん家に行ってもいい?鍋しようと思っているんだけど、どうかな?』
『もちろん!お鍋楽しみ!』
ということで、榎の家で、二人は鍋をすることにした。
夕方、一緒にスーパーに買い物に行って食材や飲み物を買う。
「白菜は、一玉で間に合うかな?」と柊。
「えっ?あ、うん」
むしろ多いのでは、そう思った榎だが、柊なら食べられる量なのだと察し、頷いた。
「榎ちゃんは、お酒何か呑む?」
「私はいいや」
「そう?」
しかし、柊は酒を飲みたい気分だったので、缶チューハイをテキトーに何本か選び、カゴに入れた。
「あ、いいよ、榎ちゃん。ここは、アタシが出すから」会計の時、柊が言った。
「えっ、でも…」
「いいから。アタシから誘ったんだし、どうせ大半はアタシが食べちゃうだろうからさ。それに、榎ちゃんには場所を提供してもらってるから、気にしないで」
なんか申し訳ないな、そう思いながら榎は、レジを素通りした。
スーパーでの用事が済むと、二人は、榎の家に行った。
榎の家には、入って二人前程度の大きさの鍋しかないと言うことだったので、柊が持ってきた大鍋を使って、料理を開始する。榎と柊の女二人なのだから、二人前サイズの鍋があればいいじゃないか、という疑問は、「だって柊がいるから」の一言で片付けたい。
主な調理は、柊がした。榎は、柊の手伝いをしている時以外は、料理をしている柊の後ろをチョロチョロしていた。
そして、そんな二人が作る鍋が出来上がった。
具は、白菜やネギ、豆腐や豚肉等などで、醤油ベースの味付けの、普通の鍋だ。
しかし、圧巻なのはその量。これを食べるのは榎と柊の女二人だと言うのに、どこぞの相撲部屋の力士たちを満足させたいのか、そう言いたくなるような量だった。
だが、それについて何か疑問を抱く者は無く、二人は、リビングでコタツに入りながら鍋を囲み、食事を始める。
「「いただきまーす!」」
二人の元気のいい声で、食事が始まった。
美味しい鍋に舌鼓を打ちながら、和やかに食事は進んだ。
そして、柊が手持ちの器を空にして、二杯目の鍋をよそおうとした時だった。
「ねぇ、柊さん。何かイイ事でもあったの?」
榎が、そう訊いた。
榎は、夕方、スーパーに買い物に行こうと柊に会った時から、気になっている事があった。それは、何となく柊の機嫌がいつもより良いことだ。いつもより笑顔が三割増しくらいになっている。だから、何かあったのか訊こうと、ずっと思っていた。そして、訊くなら食事の時かな、と考えて食事の時を待ち、食事が始まってからも訊くタイミングを窺っていた。
そして、やっと訊けた。
榎の質問に柊は、まずニンマリと笑みで応えた。恥ずかしそうに頬を赤らめながらも、本当に嬉しそうな笑顔。そして、ややあってから「うん」と頷いた。
「えっ!何なに?」
榎は、まだ具の入った器をテーブルに置き、鍋を一旦忘れる勢いで食い付いた。
照れ臭く感じる柊ではあったが、そのことを話す為に、榎を鍋に誘ったのだ。今日あった出来事について誰かに話を聞いて欲しい、そう思っていた。
だから、気持ちが少し落ち着いたところで、柊は話し始めた。
「あのね、今日ね―――」
柊が榎を鍋に誘うメールをするよりも前、その日の午前中のことだった。
柊は、「高橋に会う」という目的のみを持って、高橋の部屋を訪れた。
しかし、部屋に高橋の姿は無い。
あるのは、その日柊よりも早く高橋の部屋を訪れた楸の痕跡のみだった。
お茶を飲んだと思われる湯呑が、来客用のテーブルに置きっぱなしになっている。その横には器に盛られたおせんべいがあり、床にはおせんべいの食べカスが落ちていた。
「ったく、あのガキ…」
そう溜め息交じりに言った柊は、やることがなかったと言うこともあり、楸が残したものの片付けを始めた。湯呑は洗って棚に戻し、おせんべいは綺麗に並べてそのままテーブルの上に置き、あとは箒を使って床を掃除するだけだ。
そうして掃き掃除をしていた柊は、部屋の扉が開く音を聞いた。
もし楸なら文句の一つも言ってやろうと思ったのだが、来たのは、本来の待ち人だった。
「よお、柊」
そう言いながら高橋は、部屋に足を踏み入れた。
「あ、高橋さん!」掃除していた手を止め、背筋を伸ばし、柊は「おはようございます」と挨拶した。
「おはよう」挨拶を返した高橋は、柊の手にある箒を見て、「掃除してくれてたのか?」と訊いた。
「あ、はい」
「そうか。悪いな」
「いえ、全然」と恐縮して首を横に振った柊は、箒をソファーに立てかけて「今、お茶淹れます」と申し出た。
しかし、「いいよ」と高橋に返される。
「掃除してもらったし、たまには俺がやるよ。お茶とコーヒー、どっちがいい?」
高橋のその申し出に、申し訳ないという気持ちよりも、高橋の気遣いが嬉しいという想いが勝り、柊は「じゃあ、お茶お願いします」と答えた。
掃除を終えた柊は、来客用のソファーに座って、高橋に淹れてもらったお茶を飲んでいる。いつもなら二口三口で食べるおせんべいを、小さな口で何口にもかけて食べている。
高橋は、自分のデスクに座ってファイルに目を通しながら、自分で淹れたお茶を飲んでいた。そして、読んでいたファイルを閉じ、「なあ、柊」と声を掛けた。
「はい」
「最近どうだ?」
その高橋の曖昧な質問に、柊は首をかしげた。「どう?」と訊かれ、どう答えたらいいのか分からなかった。
戸惑う柊を察してか、高橋は「いやな」と話し始めた。
「ほら、柊にはかなり負担掛けているなと思ってよ」
「そんなこと…」
と否定しようとした柊を遮り、高橋は続ける。
「自分の仕事だって抱えているのに、楸や椿達の方にまで目を掛けてもらってさ。あいつら、バカで不器用だから、柊や嬢ちゃんがいてくれてホントに助かってると思うんだよ。……ま、俺がもっとちゃんとしてればいいだけの話なんだがよ」
「いえ…」と消えそうなくらい小さな声で、柊は言った。
「だからさ…ま、こんなこと言われて『何言ってんだ?』って思うかもしれないが、一応言わせてくれ」とそう前置きをし、高橋は言った。
「俺の前では、あんま頑張んなくてもいいぞ」
「えっ…?」
「いや、俺も柊の性格を知っているつもりだから、きっと弱い所を見せたくないとか思うんだろうが、でもよ、俺は一人でもやっていけてるつもりだし、何よりお前の上司なんだからさ、俺の前でくらい肩肘張らず、もっと気を楽にしてもいいんだぞ」
部屋の掃除をしている柊の姿を見て高橋は、柊に余計な負担を掛けているかもしれないと感じた。だから、こんな話を始めた。ふと思ったことを話し出したものだから、上手く要点をまとめられなかったが、最後にただ一つだけ「柊がいつも頑張っているのは知っている。けど、あんまり頑張り過ぎるなよ」ということだけはちゃんと伝えた。
「はい…」
柊は、たった一言の返事をした。
「―――ってことがあったの」
嬉しそうにしながら柊は、榎に話した。
「へぇ」柊の話を微笑を浮かべながら聞いていた榎は、「すごいね、高橋さん。なんて言うか、やっぱ大人だね」と率直な感想を言った。
「でしょ!」と柊は、声を高くする。「しかもね、その大人な感じの包容力だけでも素敵なのに、アタシのこと『頑張ってる』って言ってくれたんだよ!それがもう、すっごく嬉しくてね」
この後も、喜びを爆発させる柊の話は続いた。
話を聞いてくれる榎は、まるで自分のことのように、喜びを共感してくれる。そのことも、柊にとって幸せだった。
これでこそ、鍋をやった甲斐があったと心底思えるだろう。
しかし、本題は終わったかもしれないが、まだ鍋は大量に残っている。
まだまだ、鍋は終わらない。
だが、気分が良くなった柊は、どんどん鍋の中身を減らしていく。鍋と一緒に、どんどん酒も進む。
榎が「もう食べれない。ごちそうさまでした」と言った頃には、鍋の中身のほとんどは柊の腹の中に収まっていた。相撲の親方が感心するのを通り越して、ただただ唖然とするしかないような食いっぷりで、柊は鍋を食べた。そして、酒も飲んだ。
結果、鍋は空になり、柊は酔っ払った。
現在、柊は、コタツの中を移動して榎の下へ行き、うつ伏せに寝そべった状態のままで榎の腰に腕を回し、榎に抱きついている。
「にゃん!ひ~さぎちゃん♡」
「大丈夫?柊さん、だいぶ酔ってるんじゃ…?」
「そんなことないよ。アタシ、全然飲んでないもん」
柊はそう言うが、チューハイの空き缶がいくつもテーブルの上に置かれているし、いつもの毅然とした態度は何処に言ったのだという位にだらしなく乱れ、誰がどう見ても柊は酔っ払っていた。
「ひ~さぎちゃん」
「なに?」
「にゃへへ!呼んでみただけ」
ほら、酔っ払い特有の鬱陶しさが出て来た。
だが、榎に抱きついたまま「キクラゲってね、海に居ないんだよ」等といった意味の無い会話を続けていた柊も、次第にエンジンが切れてきた。
「柊さん…寝る?」榎は、子供を気遣うように優しく訊いた。
「ううん」と眠そうな声で柊は、榎に抱きついたまま首を横に振る。「お風呂入んなきゃ」
「お風呂?」
「うん…。榎ちゃんも、一緒に入ろっ?」
「えっ?」
と言うことでのお風呂タイム。
「榎ちゃん。スタイルいいね」
「そんなことないよ。それに、そんなこと言ったら柊さんだって細いし色白で肌綺麗だよ」
「でもアタシ、お腹少し出てきたみたい」
「それは、さっきたくさん食べたからでしょ。というより、あの量食べて、それくらいしか膨らまないの?ほとんど変わってないよ」
柊のまっ平らなスタイルに、榎は驚いた。
その後、すっかり甘えてきた柊を榎が手伝いながら、入浴を終える。
風呂から上がった二人は今、ベッドに入っている。
本来は一人用サイズのベッドだが、細身の女子二人だし、抱き枕が無いと眠れない柊が、ほぼ無意識で榎に抱きついている事もあり、問題無くベッドにおさまっている。
柊に抱きつかれた榎は、若干の窮屈感を覚えたが、だんだんと眠くなってきた。
しかし、「榎ちゃん」という柊の声が聞こえ、目を開ける。
「なに?」
「今日は、ありがと。すっごく楽しかった」
そう言った柊は、ほとんど眠りに落ちていた。
「…えへへ。私も、すっごく、すっごく楽しかったよ。ありがと、柊さん」
そう応え、微笑みを浮かべたまま榎は、眠りについた。
翌朝、榎に抱きついたまま目を覚ました柊は、ほとんどの記憶はなかったが、榎にとてつもない迷惑を掛けたということだけは覚えていて、平謝りを重ねる。




