番外編 まぶたの裏に想うモノ
ふざけたこともせず、ただ暗い話になっています。
読まれる方は、事前にその旨をご了承ください。
男には、自分の名前を呼んでくれる女性がいた。
その人の〝今″の姿は、分からない。
その人を思い出す時、その人は必ず過去の姿で現れる。ある時から全く変わらない、そのままの姿。
ある時からずっと変わらないその姿に、どんどん歳を重ねていく自分は、距離を感じてしまう。あの人は止まっているのに、自分だけはベルトコンベアーの上に乗せられたかのように勝手に何処かへと進まされ、距離が離れてしまう。
いつか、見えないくらい遠くに離されてしまうのではないかと、少し怖くなる。
自分の名前を呼んでくれる人は、少なかった。
ほとんどの人は、自分のことを「お前」とか「きみ」とか「おい」と呼んだ。
たまに『名前』で呼ばれることはあっても、それは記号で呼ばれているのと同じだった。
何千何百何十何番。そういう無機質な記号と、自分の名前は似ていた。
しかし、その人は、自分を名前で呼んでくれた。
気のせいかもしれないが、そう思えた。
誰にでも付けられる記号ではなく、世界にたった一人の自分を示す言葉として、その名前を呼んでくれた。
他とダブらないようにするための、少し複雑な記号だ。
ひねくれ者の自分はそう思ってもみたが、少し嬉しかった。
自分の名前を呼んでくれる人を、男は好きになった。
この人は、特別だ。
そう思える人を、男は見付けた。
世界がどうとか、世の中がどうとか、男は気にしない。
自分の目に映る世界が、男の世界で、それが全てだった。
「これが俺の世界だ」「これが、俺の大切なものだ」
そんな言葉が、男の口から出る事はなかった。
想いはするが、それだけだ。
世界が広過ぎて、男は、それをちっぽけな自分の中に閉じ込める事を躊躇った。
世界は、自分の外にある。
自分は、世界の中にある。
それだけで、男は満足だった。
ある日、自分の名前を呼んでくれる人が、居なくなった。
世界が、自分を残して勝手に消えた。
みんな、自分で命を絶った。
自分の外にあった世界を何も把握できていなかった男は、まず思う。
なぜ、と。
世界が消えた世界で、一人残された男は、考え続けた。
世界が消えた理由を、ではない。
意外なことかもしれないが、世界が消えた理由に、男はあまり関心を持たなかった。自分を包み込むように、ずっと自分の外にあると思っていた世界。世界が目に留まることはあっても、その本質までをも見ようとはしなかった。見ようとしないから知らない世界。そんな世界が無くなった理由を、いまさら知ろうとはしない。
世界はきっと、自分の知らない所でずっと苦しんでいた。
きっとそうなのだろう、と男は、自分に言い聞かせた。
同じ空の下、どこに居ても、どんなに離れていても、いつかきっとまた会える。そんな気休めを口にして、結局二度と会うことも無く死ぬこともある。毎日のように顔を突き合わせていた友人と、いつものバイバイが最後のバイバイだってこともある。
だとしたら、どうせ会おうとしなかった自分とあの人、同じ空の下に居なくても構わないではないか。
世界が消えた理由について考えることをやめた男は、考えた。
――自分は、世界が消えるのを止められなかったのか?
――自分は、世界の苦しみを和らげることは出来なかったのか?
それだけが、男の思考の中心となっていた。
答えの出ない思考に囚われた男は、音を聞いた。
「自分で命を絶つくらいの覚悟があるなら、生きろよ」
「何で自殺しようと思うのか、自殺する人の気持ちが分からない」
そんな音を黙って聞き入れようと思った男だったが、いや、と思う。
自殺するヤツの気持ちが分からないと言うが、そいつには、生きているヤツの気持ちが全て分かるのか?ただ漫然と生かされているようなヤツが、生きている事は素晴らしいと、自殺という道を選ばざるを得なかったヤツに言うことが出来るのか?
結局、人が他人の気持ちを理解するなんてことは、できないのだ。
そのことに思い至った男は、自殺という選択肢を選ぶことを認めた。
それも、その人の選んだ道だ。
世界がいなくなったのは仕方ないことだ、と受け入れた。
世界が消えた世界で、男は生きた。
男は、考えた。
――あの人は、死ぬ時、怖くなかったのか?
――死とは、一体どういうモノなのか?
――誰にでも訪れる〝死″は、何なのだろう?
考えても答えの出ない思考の中、男は思った。
――せめて、死という選択をしたあの人が、後悔することなく死ねたなら
――せめて、苦しみ続けた世界が、安らぎの最期を迎える事が出来たなら
その答えを知りたくなった男は、考えた。
そして、繰り返される思考の中でその答えを知る手掛かりを見付けた。
〝死の恐怖″
死ぬほどの思いを経験した。そんなモノが生温く思えるほどに、リアルな〝死の恐怖″。
それを知ることが出来れば、男は、それまで手が届かないほど遠くにあると思っていた世界の一部に触れ、安心して背中を見送れるのではないか、そう思った。
そして、男は求め始めた。
〝死の恐怖″を。
男は、願う。
――あなたの歩んだその道が、あなたの歩みを傷つける道ではありませんように
昔のことを夢に見ていた石楠花は、目を覚ました。
目覚めのいい朝ではなかった。
嫌な汗をかいているし、呼吸も乱れている。
だが、嫌な気分を抱えてはいるが、それがどんなものなのか、石楠花は思い出せない。
どんな夢を見ていたのか、起きてから思い出そうとしても、思い出せない、
ただ、胸を締め付けるような重い感情だけは、確かにある。
このスッキリしない気持ちをどうにかしようと、石楠花は考えた。
「……浴衣のに、嫌がらせでもするかな」
石楠花という男について。
これといった理由もなく、ただの知的好奇心だけで罪を犯すヤツ。それが当初の彼でしたが、ここにきて、少しだけ過去に触れてみました。思考回路については、普通じゃないことを理解してやってください。
こういう話は、特に書いてもつまらないだけかもしれませんが、私の中でキャラクターを掘り下げてみよう的な意図はあってやっています。
よかったらお付き合いください。




