番外編 牛のドン
ある日のお昼前、榎は言った。
「椿君や、椿君や。私、お昼は牛丼食べたい」
「あ?牛丼?」
休日だからどっか行こう、という榎の提案で二人は今、どっかにいる。
特に目的地があるワケでもないから、午前中はテキトーに過ごした。榎にとってこの日の本番は、このお昼御飯にあった。お昼御飯に牛丼屋に行きたいから、椿を誘っていた。
「何で牛丼だよ?」
椿は、特に不満があるワケではないが、何となく訊いた。
「なんかね、無性に食べたくなったの」榎は答えた。「それにほら、ああいうお店って、女の子だけだとなんか入り難いの」
その榎の発言で、椿は気付いた。
「お前、もしかしてその為だけに俺を呼んだのか?」
椿の声に怒りは感じられないが、目から不満さは伝わってきた。
椿に図星を突かれ、榎は、ギクッと身体を震わせた。
「……さあ、行こう!」榎は、拳を前に突き出し、明るさで気まずさを吹っ飛ばした。
「誤魔化してんじゃねぇよ!」と椿は語気を強めた。「つーか、一人が嫌なら、柊でも誘えばいいだろ」
「だから、女の子だけでは行きにくいの」
榎は、なんでわからないかなぁ、と言い返した。
そんなことないと思うけどな、そう不思議に感じながらも椿は、牛丼を食べる事自体には異論ないので、先を行く榎の後を追った。
「いらっしゃいませ!」
チェーン店でもある牛丼屋に入ると、威勢のいい女性店員の声が椿と榎を出迎えた。
椿は店内を見回し、「榎。カウンターでもいいか?」と訊いた。榎も、「うん。いいよ」と同意し、二人はカウンター席に腰掛けた。
席に座るとすぐ、「ご注文はお決まりですか?」と店員に訊かれ、榎は慌てた。が、椿が冷静に「あ、まだです」と対応し、事なきを得る。
榎は、ふぅと息をついた。
榎は一応「どんなものがあるのか」とメニューを眺めるが、先程はいきなり過ぎて慌てただけで、実はもう何を注文するか決めていた。
「榎。何にするか決まったか?」
「うん」
そう確認すると、椿は「すいませーん」と店員を呼んだ。
「俺は、牛丼の大盛りに生卵。榎は?」
「あ、私は、牛丼の並盛で」
「はい、かしこまりました」
店員がそう言って、注文の確認をしようとすると、「あ、すいません」と榎が口を挟んだ。
「私の、つゆだくでお願いします」と榎は、控えめに言った。
「はい。では、牛丼の大盛りお一つに生卵一つ、牛丼並のつゆだくお一つでよろしかったでしょうか?」
店員の確認に椿が「はい」と返事すると、その店員は厨房の方へ注文を伝えに行った。
「ふぅ~」
榎は、一息ついた。
「なに、一山越えた、みたいな疲労感滲ませてんだよ?」と椿は呆れた。
「だって一山越えたんだもん」榎は、言い返した。「ちゃんと『つゆだくで』って頼めたし」
「んなもん、別にすごくも何ともねぇよ」
そう椿は素っ気なく言うが、榎にとっては充足感を得るに値する出来事であった。
『ねぎだく』という注文方法もあると聞いたことがあったから、本当ならそれも言おうとしたが、『つゆだく』の注文だけで力を使い果たし、『ねぎだく』のハードルまでは越えられなかった。
そのことを椿に伝えようとしたら、牛丼が運ばれて来た。
ほとんど会話する暇もない、と榎は驚いた。
榎は、つゆだくの牛丼を食べた。
椿に「使う?」と渡された七味の入った瓶の開け方が分からず苦戦もしたが、ちゃんと完食出来た。
会計の時、これ位なら、と椿は榎の分も代金も支払った。「いいよ」と榎は遠慮したが、小さなことでも椿は男を見せたかった。
「ありがと、椿君。ごちそうさま」
「ん」
心から満足できた、そんな榎のお昼だった。
また別の日のお昼。
「いらっしゃいませ!」
牛丼屋の女性店員の威勢のいい声が、一組の男女の客を迎えた。
その客は、楸と柊だった。
「何で牛丼屋?」
柊に誘われた楸は、面倒くさいなといった気だるさを滲ませながら、疑問を口にした。
その楸の態度にムッとしつつ、柊は空いているカウンター席を見つけ、座った。
先に座った柊の隣に楸が座ると、「榎ちゃんがこの間 牛丼屋行ったって、牛丼美味しかったって話聞いて、食べたくなったの」と柊は言った。
その様子を見て、このカップルは会話しているからまだいいや、と店員は注文を聞きに行くことなく、二人に呼ばれるのを待つことにした。
「榎ちゃんが『牛丼屋は女の子だけだと入り難いよね』って言ってたから、だからアンタ誘ったの」
と柊は、投げやりに言った。
「それは、榎ちゃんの、女の子の話でしょ」
「アタシだって女です!」
そう言うと柊は、下駄履きで素肌むき出しの楸の足を踏んだ。
「いったぁ!」と痛みに顔を歪めながら、楸は言う。「仮に柊を女として、俺じゃなくても良くない?高橋さんとか、それかカイとか誘えば良かったじゃん」
楸に言われ、柊はウッとなった。痛い所を突かれたからだ。
「高橋さんはほら、忙しそうだったし」と柊は言うが、高橋を誘う気はそもそもなかった。意中の相手と食事をするのに、丼メシをかっ食らう姿は見せたくない。だから、高橋には声を掛けなかった。「カイも、こんなことに付き合わせるのは悪いでしょ」と柊は言うが、言葉通りの理由で誘わなかった。
「俺はいいのかよ?」
「アンタは、うん」
楸になら丼メシをかき込む姿を見られても何とも思わない、楸ならいちいち都合とか気にすることなく気兼ねなく声を掛けられる。
だから柊は、楸を誘った。
――高橋さんはともかく、カイなら喜んで行くだろうになぁ
楸は、好きな人に変に気を遣われた友人を不憫に思った。
柊が楸を誘った理由も判明したし、とりあえず注文しよう。と言うことで二人はメニューに目を通した。
「楸はこういう店に来たことある?」
「うん。高橋さんとたまに、何回か来たことある」
高橋と食事、それを羨ましく、また妬ましくも思いつつ、柊は「じゃあ、アタシの分も頼んでちょうだい」と代わりに注文してくれと楸に頼んだ。
面倒だなとは思うが、余計なこと言ってケンカになるのもバカ臭いと、楸は柊の依頼に了解した。
柊が食べたいものを確認し、自分のも決まると、店員を呼び、二人分の注文をした。
注文後の二人の間に会話は無かったが、そのことを苦に思う間もなく、牛丼が運ばれて来た。
「お待たせしました」
そう言って、店員は二人の前に丼を置く。
楸の前に『牛丼の特盛』、柊の前に『牛丼の並盛』が置かれた。
それぞれの前に置かれた丼を見て、二人は思う。
――逆だ
注文時に楸は、店員に「牛丼の並盛と特盛一つずつ」としか言わなかった。そして店員は、ほっそりとしている華奢な柊とほっそりしているが男の楸を見て、どっちが特盛を食べるか判断した。本当は華奢な女の方が特盛なのに、小食な男の方に特盛を置いた。
牛丼を運んできた店員が下がると、楸と柊は、互いを見合った。
「俺、こんな食えないよ」
「アタシ、これでちょうどいいかも」
「嘘つけ!」と楸はつっこんだ。「それ十杯でも足りないでしょ」
「そんなことはない」
柊は言った。自分でも、もしかしたらそうかもと思うだけに、声を荒げる事はなかった。
二人は、黙って丼のトレードをした。
並盛を食べる男より、特盛を食べる女の方が早く完食した。
その様を陰で見ていた店員は、「なんか悪い事したな」と反省したとかしないとか。
食後、会計に向かう時。
「榎ちゃんが行った時は、椿が支払ってくれたってよ」と柊は、何の気なしに言った。
「何?榎ちゃん、椿と行ったの?」と楸は、椿を恨めしく思った。が、「そこじゃない!」と柊に言われ、言い直す。「だから、それは榎ちゃんが女の子だからでしょ」
その後、なんやかんやあって楸が二人分の代金を支払った。
「ねぇ、楸」
店の外に出た後、柊が言った。
「何?」
柊の顔が妙に明るく、楸は身構えた。
「牛丼美味しかったね。でも、楸は並盛で足りた?」
その柊の発言に、楸は、悪い予感が当たったと確信する。
「ええ。満腹ッス」
「じゃあ、別の牛丼屋行って、もう一杯食べない?」
「何でそうなるの?」と楸は、声を高くしてつっこんだ。「『じゃあ』って何よ、『じゃあ』って?俺、満腹だって言ったよね?」
「よし、行こう!」
「聞けよ!」
「大丈夫。今度はアタシが払うから」
「そういう問題じゃねぇよ!」
「じゃあ、どういう問題?」
「俺はもう腹いっぱいだって、これ以上食べないって言ってるの!」
「大丈夫。なんならアンタの分までアタシが食べるから」
「どんだけ食べんだよ!それならもう一人で行けよ」
「だから、牛丼屋は…」
「はいはい、分かってるよ」と楸は、柊の言葉を勝手に継いだ。「『牛丼屋は女の子だけだと入り難い』って榎ちゃんが言ってたんでしょ?何回も言うけど、それは女の子の話で、柊は関係ないからね。それに一応言っとくけど、どんなに牛肉食っても牛さんみたいなお胸にはならないからね」
そう言い終わるが先か、楸は、柊に殴り飛ばされた。
――殴られたのが腹だったら今食べた物リバースしちゃっただろうから、顔で良かったな
楸は、空中で消えゆく意識の中、そう思った。
結局楸は、柊の牛丼屋巡りに付き合わされた。
最初の店と合わせて、別々の牛丼屋チェーン店三軒に行った。
柊は、自分用に普通の牛丼を特盛で頼む。そして、楸の分として、変わり種の牛丼もしくは豚丼の特盛を頼んだ。
楸の分とは言うが、楸はほとんど食べないので、結果、柊一人でほぼ特盛の丼を五杯平らげた。
三軒目の後、柊は「他にも牛丼屋ってあるっけ?」と楸に訊いた。
「いや、この辺で他の種類の店ってなると、俺は知らないかな」
「ふ~ん。じゃ、もういいかな」
その柊の発言に、まだ満腹じゃないの、と楸は驚愕した。
柊のボディラインがバストからウエストにかけて、相変わらずのまったいらであることを視認して、楸は、さらに驚く。
――あんなに肉食って、その肉は何処へ行ったの?
楸が驚く傍らで、柊は、美味しい物を食べられて嬉しそうに笑顔を浮かべていた。
しかし、でも、と柊は思う。
――特盛頼むより、並盛二杯頼んだ方がお肉多いんじゃない?
平然とする椿と楸、テンパる榎、物怖じせずにメチャクチャ食う柊。私は一番、榎に近いです。食券のシステムに戸惑ったことあります。
そういえば、『ねぎだく』は本当に可能なのでしょうか?




