番外編 腐れナースを欺け
楸が高橋の部屋を訪れた時に見たのは、何やら言い争っている自分の上司・高橋とナースの雛罌粟だった。と言っても、雛罌粟が一方的に怒っているようである。
「何しているんですか?」
部屋に入って早々に、楸はそう訊ねた。
「ちょっと聞いてよ、楸君」高橋への怒りからか、雛罌粟は語気が強く、早口だ。「高橋さん、私の事をいじめるのですよ」
「へっ?いじめ?」
予想外の言葉に、楸は目を丸くした。もし本当のことであれば、いくら上司といえども許されない、非難の対象となるべき事であると判断した楸は、真偽の確認をしようと高橋に目を向け、どうなのかと高橋に訊ねた。
「くくっ。誰がいじめたよ、誰が」高橋は、雛罌粟の主張は間違いであると反論した。「いじめなんてしてねぇし。むしろ、いじめに近い扱いなら、俺の方が受けてんだぜ」
高橋は、そう言った。
何が何だか分からなくなった楸は、どちらにでもなく「一体、何があったっていうんです?」と訊ねた。
答えたのは、高橋だった。
「事の発端と言うか、全ては、そこの腐れナースの勘違いなんだよ」
「高橋さん。たまには一緒にお茶しませんか?」
この日の午後三時頃、雛罌粟は、高橋の部屋を訪れた。
主な理由は三時のおやつの誘いだが、それ以外にも、ついでといった程度の理由もある。それは、高橋の様子を見に行ったのだ。様子を見ると言っても、柊のように好意から来る行為ではなく、純粋に高橋の様子が心配だったからだ。この日の午前中に雛罌粟は偶然楸と会い、楸が今日 仕事をしないと知っていた。部下の面倒を見る必要がないとあれば、上司の高橋も仕事をしない可能性がある。そうであればあの男の事だ、昼間っから酒を呑むかもしれない、と雛罌粟は勘繰ったワケだ。
もしもお酒を呑んでいたら、注意ついでに没収してしまおう。そう考え、お茶菓子としてクッキーを持参した雛罌粟は、高橋の部屋を訪れた。
そして、その時 雛罌粟が目にしたのは、自席の椅子にふんぞり返って座る高橋と、デスクの上に置かれた琥珀色の液体が入ったグラスだった。
「お茶はいいが…」と高橋は、雛罌粟の突然の来訪に苦い顔をした。「いつも言っているだろうが。ノックして俺の返事を待ち、そして帰れ、と」
高橋は、わざと怒らせるような事を言う。それは、雛罌粟を怒らせることが、ほどほどのラインを見極める事が出来さえすれば、面白いからである。また単純に、自分の身体の事について、あれやこれやと煩く指示してくる雛罌粟を面倒だと思い、テキトーにあしらいたいという気持ちも多分にある。
だが、これほどならば挨拶代わりで済むと思った高橋の予想に反し、雛罌粟は「ちょっとぉ」と声を荒げた。
「それ、何呑んでいるのですか?」
「あ?」高橋は、雛罌粟の言う『それ』が、自分の目の前に置かれているコップを指しているのだと察し、「ああ、リンゴジュースだよ」と平然として答えた。
しかし、雛罌粟は信じない。
「嘘おっしゃい。どう見てもそれ、ウィスキーでしょ」
「バカおっしゃい。どう見てもこれ、リンゴジュースじゃない」
怒鳴り散らす雛罌粟とは対照的に高橋は、まるで雛罌粟をからかうように言い返した。
リンゴジュースとウィスキー。それらは、アルコールの有無に違いはあるが、どちらも飲み物だ。どちらも、ほどほどに飲めば美味しく、身体にも良い。しかし、ひとたび飲み過ぎとなれば、突如健康に害なす飲み物となり、飲んだ者に牙をむく。だが、ほとんどの飲み物は、大抵そういう物だろう。飲み物だけじゃない、食べ物だって食べ過ぎは健康に良くない。何も、この二つを比較対象とする事はないのかもしれない。
では、何故この二つは比較対象となるのか、それは、色が似ているからだ。麺つゆと麦茶の関係に近いかもしれない、この二つは、その物の品質によって差はあるだろうが、どちらも美しい琥珀色をしている。
見ているだけでは容易に区別が付けられないが、雛罌粟は、それがウィスキーであると断定していた。しかし高橋は、これはリンゴジュースだと主張する。どちらも一向に引く事をせず、言い争っていた所に、楸が来たのだ。
「……と言うワケだ」
高橋は、説明を終えた。高橋にしては珍しく、途中で投げ出す事もなく、また説明自体も上手くまとまっていた。それは、このくだらない問題に対する高橋の気の入れようを表していたのかもしれないが、楸にとっては、理解し易くて助かったという程度のことだ。
「そんなの、飲んで確かめたらいいじゃないですか」
説明を聞き終えた楸は、簡単なことだ、と解決策を提示した。
しかし、高橋は「くくっ。分かってねぇな」と首を振った。
「そりゃあ飲めば、一発で分かる。だが、もし仮に、有り得ない事だが、この液体が本当にウィスキーだった場合、生憎とこの腐れナースは酒癖が悪く、酒を飲ませたらただでさえ厄介な女がさらに厄介なことになる」
「そんなことありません。少し、お酒に乗っ取られ易い体質なだけです」
雛罌粟は、口を尖らせた。
「お酒に乗っ取られるって何ですか?ヒナさん。 それ酒癖悪いってことになるんじゃ?」楸は控えめにツッコミ、「だったら、高橋さんが」と別の手段を提示した。
「それはダメです」言ったのは、雛罌粟だった。「この男、お酒を水みたいに呑むのですよ。それに、本当の事を言うかも疑わしい」なるほど、と楸が納得しかけたところに、さらに雛罌粟は続ける。「それに、匂いで確かめればいいかもしれないけど、高橋さん、頑として私をグラスに近付けないのです。怪しくない?楸君」
そう言われ、楸も「たしかに」と高橋への疑いを強めた。疑いを晴らそう、それも安全にと言うならば、匂いの確認が一番確実なはずだ。甘いリンゴジュースの香りとアルコール度数の高いウィスキーの独特な香りなら、確実に嗅ぎ分ける事が出来るはずだ。
だが、楸は「匂いじゃなくても、見ただけで分かると思いますよ」と雛罌粟に言った。
変に気負うことはないが、自信あり気なその口調に、雛罌粟は「えっ?」と軽く驚いた。
楸は、高橋に「やってもいいか」という視線を向けた。高橋も無言で頷き「どうぞ」とグラスを楸の方に軽くスッと押した。
真剣に骨董品を鑑定しようという様な厳しい目付きではなく、これコップじゃなく花瓶だよな、程度の簡単な確認をするような目付きで、楸は、琥珀色の液体の入ったグラスを見つめた。見ただけで判断すると言った手前、近付き過ぎると匂ったと疑われる気がして、それでは楸も面白くないから、グラスからはある程度顔を離し、見つめる。
「これ、リンゴジュースじゃないですか?」
楸は、言った。
「えーっ?」と雛罌粟は、不平を口にした。「どうして?楸君」
「良く見ればわかりますよ」
楸は、そう答えた。本当に見ただけで、そう判断したのだ。だが、雛罌粟はそれでは納得がいかず、「どうして」を繰り返した。
押し寄せる「どうして」の波に、楸は困惑した。細かく説明しようにも、切り出すタイミングを計れないでいる。そんな楸を見かね、たワケではなく、高橋は「無理だよ」と口を挟んだ。
「楸と違っておばさんだから、老眼には見分けられんだろうよ」
「おばさんじゃありません!」そう強く、雛罌粟は言い返した。「まだまだ、というか少なくとも高橋さん達よりは若いんですからね」
ここでふと、楸は疑問に思った。雛罌粟の歳についてではない。
「何で、ヒナさんはそんなに疑うんですか?」
これだ。
高橋は、リングジュースだと主張する。見ただけではあるが楸も、リンゴジュースだと確認した。それなのに何故、雛罌粟はそこまで疑うのか、と。
「それは、高橋さんだからです」雛罌粟は、断言した。「私に直接確認させようとしない姿勢も怪しいし、こんな体内の一割以上がお酒で出来ている様な人、それだけで疑わしい」
「くくっ。随分な言われようだな」と高橋は笑い飛ばそうと思ったのだが、「一割以上?」と楸が、変な所に食い付いた。
「一割ってことは、高橋さんを構成している物質の十パーセント以上がお酒?」
「くくっ。違うぞ、楸」驚き、興奮している楸を落ち着かせるような冷静な口調で、高橋は言った。「俺達天使の人体構造も人間と大差ない。そして、人体の約七十パーセントは水分でできていると言う。つまり?」
「つまり?」問い掛けられ、「えっ、十パーセントではないんですよね」と楸は頭を抱えた。
「ああ。ヒントは、百ある内の十ではないということだ」
「はい?」ヒントを貰っても、楸は、なかなか答えを導き出せない。だが、必死に指を折った結果「七パー?」と自信無く答えた。
「くくっ。やればできるじゃねぇか」と高橋は、答えに花丸を出した。
「スゲー高橋さん」正確な数字を知った楸は、改めて興奮した。「七パーもお酒なんですか?」
「そんなワケ無いじゃないですか!」そう声を大にして否定したのは、問題を出した張本人とも言える、雛罌粟自身だった。「お酒は水分としてカウントしません。それに楸君、計算が拙すぎます」
「すいません」楸は、照れ隠しに笑った。「なにぶん、数字に弱くて」
「おい、ちょっと待て」と高橋は、異議を唱えた。「お前、俺達を謀ったな。医に携わる者のくせに、患者をいたずらに動揺させたな」
「別に謀っていません。それにあなた、恐怖なんてしてないでしょうがに」
雛罌粟は、つんとつっぱねるような、呆れを滲ませた。
「いーや、俺は自分の身体が七パーも酒だと脅され、恐怖で酒も呑めそうになるところだった」
「だったら、あなたの身体の一割以上はお酒です」
「ほれ、また謀った」と高橋は笑った。
「もう!」雛罌粟は、怒った。
「それで、結局何なんですか?」
楸のその言葉で、高橋と雛罌粟の口ゲンカ、と言ってもやはり一方的に雛罌粟が怒り、いいように遊ばれているだけのようであるが、その不毛なやり取りは終息した。
「そうだな」
と高橋は、そろそろ遊び疲れたしと結論を出す。グラスを持ち、その手を雛罌粟の方へ差し出した。差し出されたグラスを受け取ると雛罌粟は、飲み口に鼻を近付け、琥珀色の液体の放つ匂いを嗅いだ。瞬間、雛罌粟の顔が曇った。その自分の反応を見て、堪え切れずに「くくっ」と微笑する高橋を睨みつけてから、雛罌粟はグラスに口を付けた。一口飲み、雛罌粟は、その琥珀色の液体の正体をボソッと言った。
「リンゴジュースでした」
その雛罌粟の発言に、高橋は心底可笑しそうに笑った。
「何で?」
と、高橋を睨む雛罌粟は、掴みかからんばかり勢いで疑問を投げかけた。
高橋が答えるつもりもないのでここで説明すると、まず、雛罌粟がウィスキーだと疑っていた琥珀色の液体の正体は、雛罌粟もしぶしぶ負けを認めるように言った通り、ただのリンゴジュースだ。雛罌粟が訪れた時、これは本当に偶然なのだが、たまには甘いジュースでもと気まぐれを起こした高橋は、リンゴジュースを飲んでいた。そこに雛罌粟が訪れ、高橋という男に対する先入観にとらわれ、リンゴジュースをウィスキーだと勘違いしてしまったのだ。ただ、ここで高橋が今したように雛罌粟に飲ませて確認させれば、それで済む話ではあった。だが、高橋は、この状況は面白くなると判断した。高橋は、あえて自分への疑惑が強まるような言動をし、見事雛罌粟の行動をコントロールした。つまり、今のこの状況こそ、雛罌粟が訪れて自分が呑んでいる物を酒だと疑った時、その一瞬で高橋が思い描いた場面だった。
では何故、高橋はこんな茶番劇を望んだのか。
高橋は、稀にこのようなくだらない事を企む。それは、楸や柊、広く考えれば椿達をも部下に持つ、上司という立場に嫌気がさしたが故のストレス発散というワケではない。だが、楸と柊がある程度自立し、自分の手から離れていった事が要因ではないとも言い切れないだろう。高橋は、仕事はそつなくこなす。部下は、自分が余計な心配をかけなくとも大丈夫と思える位、立派になってきている。そんな環境を嬉しく思いながら、ふとした時に稀に襲われる虚しさも、理由の一つかもしれない。違うかもしれない。
とにかく、高橋はたまにくだらない遊びを望む。楸や柊は、それを知っている。
「罰として上等の酒を持ってこい」
高橋のこの発言を聞き、楸は、やっと理解した。
あ、今日は高橋さん、ダメな日だ、と
ウイスキーとリンゴジュース、そんなに見た目は似ていないかもしれません。ですが、今回のお話で用意されたリンゴジュースが、偶然ウイスキーに酷似したものだったのです。
ちなみに。ウイスキーは気泡が出にくい、などのことから区別できるはずです。




