番外編 いつもの
きっかけは、楸の一言だった。
「そういえばさ、俺達、あの喫茶店に結構な頻度で通っているよね」
「あ~、そうだな」
大した感慨もなく、椿は生返事を返した。
「榎ちゃんが居ればパフェ頼むこともあるし、腹を空かせた柊に合わせて軽食を頼む事もあるけど、俺達二人で行けば、基本はコーヒーしか頼まないよね」
「あ~、そうだな」良く考えたら、男二人で喫茶店に頻繁に通うというのは如何なものか、と椿は不満に近い疑問を抱いたが、そこには触れず、「つーか、何が言いてぇんだよ?」と楸に訊いた。
「『いつもの』って頼めば、どうなるんだろ?」
それまで関心を示さなかった椿の眼が、楸のその一言で変わった。
「いつもの」とは、その店の常連が頻繁に頼むメニューがある場合、店側との親密度によって可能となる、特殊な注文方法だ。その言葉には、不思議な魅力がある。子供の頃は、常連となるような店を持つことはまず無く、あっても、多種多様なメニューに心惹かれ、「いつもの」と頼むことは不可能に近い。そして、それは大人になっても、あまり変わらない。大人になっても、いつも違うメニューを頼んでしまえば、「いつもの」「えっ?あんた、昨日はとんかつ定食、一昨日はサバ味噌煮定食、その前は親子丼だっただろ。いつものって何だよ?」といったような、恥ずかしい結果が待つ。従って、「いつもの」という注文方法が可能な人間は、世の中の本当に一握りの割合であろう。とあるハンバーガー屋で「スマイル一つ」と頼む勇者の人数と、大差ないと言っても過言ではない。
何を隠そう、椿も「いつもの」という注文方法に憧れたクチだ。
「おお、どうなるんだろうな?」
それまでと一転、椿は、かなりの食い付きを見せた。
思いがけず常連となっている店を持ち、しかも、その店は御世辞にも繁盛しているとは言い難い。閑古鳥が鳴きそうなほどではないが、それなりに客席を設けているのに、満員になる事はまずなく、半分も席が埋まればいい方だ。店には悪いが、それは今の椿にとって好都合なことであった。客の出入りが激しくなく、来店客の数も少ないのであれば、店側が自分たちの事を、そしてあわよくば、自分たちがいつもコーヒーを頼む事を覚えているかもしれない。
「コーヒーっていう単純な注文だし、もういい加減覚えているんじゃないかな。それこそ、俺達が店に入って来た時点で準備する位」
「無くはないな」
「でもさ」そこで一度、それまで興奮を見せていた楸が落ち着きを見せ、「『いつもの』って頼むのも、『コーヒー』って頼むのも、ほとんど変わりないじゃん。もしかしたらマスターに、『そんな洒落た頼み方するなんて、十年早い』とか思われたりしないかな?」と不安を口にした。
「それ、あるな」
椿も、楸の不安に同意見だ。
喫茶店のマスター、マスターと言っても別に確認したワケではなく、椿達が勝手にそう呼んでいる人物は、あまり笑顔を見せない。いや、あまりではない、全くだ。椿と楸が覚えている限りでは、心のこもっていない営業スマイルですら、一度も見た事がない。接客業としてその態度はどうなの、と不満に思うかもしれないが、こと『笑顔』という部分以外では、マスターの仕事ぶりは完璧だ。コーヒーの淹れ方は、素人目の客にも分かるほど完璧であるし、軽食一つとってもレベルは高い。それ以外にも、マスターのただの気分で選んでいるのかもしれないが、店内に流れるBGMの選曲もなかなかにセンスがイイ。喫茶店としてのレベルは、高い位置にあるはずだ。しかし、いかんせん、マスターに笑顔がない。身長は百八十を超えたがっしり体型の短髪の男が、小奇麗にエプロンをしている、のにムスッとしている。椿達の会話が白熱し、ちょっとした口ゲンカが起き、それがもし店の雰囲気を壊すことになるかマスターの気に障るような事になれば、非常に怖い目付きだけで制されることになる。「喫茶店なら警備も手薄だろうし、案外貯め込んでいるかもしれない、それに喫茶店を襲うってちょっと斬新じゃない」と喫茶店強盗を企んだ者が来ても、マスターなら、眼だけで追い返す、もしくは何かをしでかす前に強盗犯の悪意を完全に殺ぎ、「コーヒーと、あとサンドイッチください。あ、タマゴサンドです、はい」と怯えながら注文させることも可能だろう。
マスターの顔を思い浮かべ、興奮していた椿も、落ち着いた。
「でもよぉ、店のコもいるだろ?彼女なら」
椿の言う『店のコ』とは、その名の通り、喫茶店に居る女の子だ。無愛想なマスターの分を補って余りあるぐらい、店内に笑顔を供給する、椿達と歳の近い女の子だ。注文聞きや料理を運ぶ仕事など、客と直接 接するような仕事のほとんどは彼女が行っていて、椿達の注文を聞きに来るのも、十中八九 彼女だ。いや、マスターが来る事など、十回に一回もないかもしれない。
椿は、『店のコ』の存在、そこに賭けようと言うのだ。
「確かに、あのコなら」
楸も、微かな希望を見出す。
そして二人は、その希望の光を勝手に大きくし、とにかくやってみよう、と喫茶店へと向かった。
「椿言ってよ」
「やだよ。お前言えよ」
「いや、楸さんは今日ちょっと、ミルクティーの気分かもしれないから」
店の前にまで来て、急に二人はビビった。
どちらの頭の中にも「俺、いつもの」と相手が頼んだのに合わせ「じゃあ俺も」という考えがあったので、互いに「お前が先に言えよ」となったのである。
店先で結論が出そうにもない言い合いをしていたら、不意に、店内に居るマスターと二人は目があった。マスターからすれば、ただ窓側の席のテーブルを拭いていた時に何の気なしに顔をあげたら、椿と楸の二人が居たにすぎない。
しばし、マスターと二人は、黙って視線をぶつけ合った。
マスターは、「あ、いつものやつらだ」程度にしか思っていなかっただろうが、椿と楸は違った。マスターが店先で騒ぐ自分たちに憤慨し、「入るならさっさと入りな」と思っていると邪推したのだ。
その架空マスターの指示に従い、二人は店に入った。
いつもは、入ってすぐに店のコを見かけようものなら「コーヒーひとつ」と気軽に注文していたのだが、今日は違った。「いつもの」と注文したいという想いもそうだが、店のコがいない。良く見たら、奥の席の片付けをしていた。自分たちの入店に「いらっしゃいませ」と明るい声を出しているが、その声は遠い。とても「いつもの」と頼める感じではない。
仕方なく二人は空いている席を見つけ、そこに座った。
この店には、呼び鈴のシステムはない。店員を呼ぶには「すいませーん」などの一声が必要なのだ。が、それは、今は問題ではない。
「で、椿が言うって事でいいのね」
「よくねぇよ」
席に着いてメニューも開かず、二人は口論を再開させた。もちろん、小声で。
しかし、いくら小声とはいえ、二人には、いつでもマスターの眼が光っているのでは、という勘違いとも言える恐怖がある。だから、議論はシンプルに結論は素早く「じゃあ、じゃんけんで」となった。
「「じゃ~んけ~ん、ポン!」」
結果、椿の渾身のグーは、楸のパーにあっさりと敗れた。
「すいまっせ~ん」
勝負が決すると、楸は「すいませーん」とすぐに店員を呼んだ。椿が、「おい、ちょっ待て。三回勝負に…」と抵抗しようとしても、「はーい」という店側の了承の声が聞こえる。
椿は、決心した。傍から見ればどうでもいいようなくだらない決心ではあるが、椿は本気だ。店のコなら、「いつもの」と言えば「はい、いつものですね」と笑顔で応えてくれるに違いない、と勝手に期待を寄せる。
しかし、一大決心したはずの椿の心は、いとも容易く折れる事になる。
「ご注文は?」
そう言ったのが、マスターだったからだ。
注文を聞きに来たのは、椿の中で期待の星となった店のコではなく、マスター。よりによって、マスター。十回に一回来るか来ないかのマスター。見た目が怖い、無愛想なマスター。そんなマスター。おお、マスター。
椿は、言葉を失った。マスターは注文を待っている。これはマズイと判断した楸は、咳払いし、椿の意識の回復を計る。
「あ…ああ」椿は、気を取り戻した。楸の目が発する「言えよ」という無言の後押しを受けた椿だが、目の前のマスターのオーラにビビり、「俺、コーヒーで」と言った。
『このヘタレ!』
すかさず楸がテレパシーで非難した。
だが、ヘタレは『だったら、お前が言えよ』と目で返した。理不尽極まりない。
「そちらさんは?」
楸は、マスターに訊かれた。
自分の打席が回って来た楸は、もしかしたら心のどこかに「ヒット打ったるわ」的な気合があったかもしれない。が…、
「あ、じゃあ俺も」
そう言った。
結局、どちらも「いつもの」と注文することは出来なかった。
楸が注文し終えると、椿の非難する視線が楸に突き刺さった。だが、楸もそれに一歩も引かず、真っ向から迎え撃つ。
「お前も言えねぇじゃねぇかよ」
「うるさいな。楸さんはしゃーねぇんだよ。てゆうか、先にビビったのは椿だろ」
「っせぇ。俺のは、あれだ……戦略的撤退」
「何それ?バカじゃないの」
「っせんだよ!」
二人は目だけで、そう言い合いのケンカをした。
二人は今、マスターの事など気にも留めず、睨み合いのケンカをしている。
だが、伝票に書き込んだマスターの次の言葉に、二人はハッとする。
「はい。それじゃあ〝いつもの″二つね」
そう言い、マスターはコーヒーの準備をする為に下がった。
「「マスター」」
心の中で、二人は叫んだ。
まさかあのマスターが、という思いもあって、感激している。
二人の中で、もともと高かったマスターの株が、急上昇した。
そして、もう一度心の中で叫ぼう。
「「マスターぁ!」」
自分で書いておいて言うのもなんだけど、なにこれ?
「いつもの」という注文方法に関する説明は、私のかなり個人的な見解によるものです。もしかしたら「スマイル」を注文したことがある人より、多いのかもしれません。
いつか私も「いつもの」と注文できるような人間になりたい。




