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天使に願いを (仮)  作者: タロ
(仮)
44/105

番外編 修行に必要なのは壺じゃない


 楸は、浮いていた。

 それはもう、浮いている。

 川面をゆらゆら揺れる木の葉の如く、そよ風にその身を任せ、空中をアテもなく漂っている。

 その日、楸はやる事がなかった。だから、たまにはこういうのも趣があっていいのではと考え、空中を漂っている。普通の人間に見つかってはちょっとした騒ぎになるので、姿を〝視覚防壁″を張って隠し、通行人にぶつからないよう配慮して、地面から二メートルちょっとの高い位置を漂っている。

 ただ漂うだけなら、もっと高い所を、と思われるかもしれない。そんな中途半端に低く浮いていると、さっきみたいに木にぶつかるかもしれないぞ、と。しかし、この中途半端な高さが、楸にはベストだった。

 楸は、〝普通の″人からは、姿を見られないようにしている。だが、それ以外の、楸の知り合いの人間からは見られるよう、〝視覚防壁″の強度を調節しているのだ。

 何故か?

 それは、誰かに話しかけてもらえば、そこに会話が生まれ、退屈を紛らわす事が出来ると思ったからだ。

 自分から誰かにアプローチするのではなく、風任せ、運任せで誰かに会う事に、この日の楸は趣を感じている。

 だから、浮いていた。



「何やってんだ?楸」

 ふらふらと空中を漂っていたら、楸は、カイに出会った。「やっ」と軽く手を上げ、簡単な挨拶をし、楸は、地面に降り立つ。

「いやね、特に何してるってワケじゃないんだけど、運命の出会いを求めて彷徨ってた」

 楸は、そう言った。

 それは、この日の楸がしていた事と何ら違わない。何も間違いは言っていない。しかし、何も間違っていないからこそ、カイは「は?何だそれ?」と疑問を持った。

「まぁ、いいや」カイは、言った。「何もすること無いのか?暇なのか?」

 思いのほかカイは機嫌がいいようで、楸がたじろいで一歩引いて距離を取ってしまうくらい、偶然の出会いを歓迎していた。

「暇だけど…何?」

 楸が、そのご機嫌の理由を含めて訊ねると、「とりあえず場所変えよう」とカイは提案した。「どこか、座って話が出来る場所がイイ」と。

 移動先は、いつもの公園にした。楸が誰かとの出会いを期待していたからなのか、二人が遭遇した場所は、公園から近い場所にあった。公園には、親子やカップル、サッカーボールで遊ぶ少年たちが居た。今日は、いつにも増して人が多い。しかし、その中でも男二人でベンチを使用しているのは、楸とカイだけだ。若い男が二人、ベンチに並んで座る光景は、他の人にはどう映るのか、楸は不安に思った。もしかしたら、変な勘違いをされ、我が子を心配した母親が「見てはいけません」と子供の眼を塞ぐかもしれない。カップルが、あいつらのせいで、せっかくの雰囲気がぶち壊しだ、と怒って帰るかもしれない。しかし、人はけっこう他人に無関心で、それほど心配する必要はない。大体、人目を気にするならば、浴衣という楸の服装もなかなか目立っているから、それに比べたら、男が二~三人ベンチに座るくらい、全くの自然な光景だ。

 楸は、気にしない事にした。男二人で公園のベンチに座る事も、自分の服装の事も、そして、相談があると言ったカイが、お礼にとジュースを二本買ってきてくれて、これから話す内容を思い、口元に笑みを浮かべて駆け寄ってくる事も、それを誤解して見るだろう他人の目も、全て気にしない事にした。

「わりぃ楸。リンゴジュースなかったから、オレンジにしたわ」

「ああ、ありがと」

 笑顔で差し出されたオレンジジュースの缶を、苦い顔をして楸は、受け取った。

 缶ジュースを楸に手渡し、カイも楸の隣に腰を下ろす。自分の分として買った炭酸飲料を一口飲むと、体内に入った炭酸ガスをふぃ~と吐き出した。そして、今度は酸素を肺いっぱいに吸い込み、鼻から吐きだす。そうやって呼吸を整え、カイは、話を切り出した。

「あのよぉ、柊さんの事なんだけどさ」

「うん」楸は、まずそうだろうと予想できていた。

「柊さんって、メシ、どんくらい食うんだ?」

 カイは、訊いた。

 好きな人のことを知りたいという気持ちは、楸にも理解出来る。何もかも全てを知りたい、というのは行き過ぎにしても、好きになった相手の事だ、無関心でいられるはずがない。また、直接相手に聞くことが出来ない、奥手なカイの気持ちも、まあ理解出来る。ただでさえ柊は、榎などと違ってどこかとっつきにくい雰囲気がある。本人に直接聞けるのであれば、それに越した事はないが、無理でも仕方ない。

 カイの気持ちの方は理解できる楸だが、「え?」と思わず聞き返してしまった。聞きたいことは、本当にそれなのか、と。そんな動物の生態みたいな事が、お前の本当に知りたいことなのか、と。

 しかし、楸にとってはくだらない質問であっても、カイは真剣だった。

「ほら、柊さん、けっこう食うだろ。もし…もしだぜ、俺と柊さん、二人で食事した時、男の俺の方が食えなかったら不自然だろ?」

 カイは、その『もし』を想像したのだろう、照れて早口になっていた。

「そんな気にすることでもないとは思うけど……なるほどね」

 カイが真面目に訊いているのだと察した楸は、質問について考えてみる。あごに手をあて、過去を振り返り、質問に対する答えを探す。しかし、必死に探しているのだが、その答えを見つけるのは非常に困難に思えた。何故なら、カイの質問は『柊の胃袋の最大容量を知りたい』という事なのだろうが、楸は、今まで柊の限界を見た事がない。異常とも思える量を食べても、「もう無理」といったニュアンスの言葉を聞いた事がない。いつも腹8分目のように見えた。

 だから楸は、正直に「悪いけど、柊の胃袋の底は見たことないな」と告げた。そして、すぐ「でも、俺も気になって観察した時の話でいいなら」と付け足した。

 もちろん、カイの返事は「いいぜ」だ。興味津々で、食いついている。

「あれは、何年前だろ、確かステーキ屋に行った時だったかな」

 楸は、その時を思い出しながら、カイに話して聞かせた。



 それは、高橋の部屋に、高橋抜きで楸と柊の二人が居た時のことだった。

 柊は、愛しの高橋に少しでも会えないものかと思って来たのだが、生憎と高橋は不在だった。いつまで待っていても、高橋の来る気配はない。楸は楸で、自分のデスク上で行われるトランプタワーの建設に余念がない。柊は、する事もなく、部屋に常備されているお菓子の中からおせんべいを取り、それを来客用ソファーに腰を下ろしてお茶と一緒に食べる事で、退屈を紛らわしていた。

 十二枚入りのおせんべいを全て食べ終え、二袋目に手を掛けようとした時、柊の耳に「ダメだ―」という楸の声が聞こえた。見ると、タワーが崩れ、デスクの上に散乱したトランプの上に、楸は突っ伏していた。

 柊は、特に楸に気を掛けることなく、ただ一度呆れた目線を送り、おせんべいの袋を開けた。

「ねぇ、柊ぃ」トランプタワーの建設を諦めた楸が、柊に声をかけた。「柊って実際、どんだけ食べんの?」

「ハア?」

 楸の問い掛けに、柊は不快そうな表情を浮かべる。楸の質問が、心底下らないと思ったからだ。しかし、それと同時に、楸の質問に答えようと頭を悩ませている自分もいた。

 だが、柊の出せた答えは「わかんない」だった。

「アタシも、そんな限界まで食べるような事したことないし」

 柊としては、何でもないような事だった。その答えは、どれくらい不眠で過ごせるか試したこと無い、と似たような、特別不思議なことじゃないだろうという感じがある。しかし、楸にはその答えが、違った感覚を持って伝わった。例えるなら、大人が自転車に乗った事がない、と言ったのと似ている。そりゃあ死ぬ事はないけど、え、お前マジか、みたいな驚きが、楸にはあった。

 そして、実際「え、お前マジか?」と楸は言った。

「なによ…?」

 楸の反応がおもしろくなく、柊は口を尖らせた。

「いや、別に…」柊の神経を刺激しないよう、楸は首を振った。が、そこでふと「そうだ!」と楸の頭の中に、一つのアイディアが降って来た。

「な、なに?」

 大声を出して突然立ち上がった楸に、柊は戸惑った。

「柊、昼一緒にどう?」

 柊の胃袋の底を知りたいと思った楸は、その日の昼ご飯に、柊を誘った。丁度この前、大食いチャレンジの『五キロのステーキを食べ切れたら賞金一万円が出る』という店を見かけた事を思い出したのだ。

 柊は、しばし考えた。このまま来る気配のない高橋を待つのは、時間の無駄とは言わないが、じれったく思う。しかも、退屈でもある。時計を見れば、長い針も短い針も頂上まで後僅かとなっている。

「いいよ。丁度、お腹も空いてきたし」



「それで、どうなったんだよ?」

 カイは、話の先を早く聞きたく、楸を急かした。

「当然、五キロのステーキでも余裕のペロリンで食べ切ったよ」楸は、言った。「しかも、チャレンジとは関係なく『肉だけじゃ物足りない』って、白米も二キロくらい頼んだんだ。店の人もさ、柊の細い身体 見て大丈夫かって、不安と疑いを持ってたけど、柊はそれも余裕で食べてた」

 楸は、その時のステーキ屋の店長の、驚きを通り越した、まるで超常現象に青ざめているような顔を思い出した。しかし、その店長とは対照的に、カイの反応は「すげえな、柊さん」と、ただただ感心していた。

「これは余談だけど」楸は、言った。「あんだけ食べるのに、柊って細いでしょ。もちろん、太らないのには理由があるんだ」

「ほう」カイは、興味を示した。

「それは、体質も関係するだろうけど、それだけじゃなく、〝悪魔の力″を持っている事が少なからず影響しているらしいのね。天使の柊が、本来の力ではない悪魔の力を使うと、消費するエネルギーは天使の力を使う時の比じゃないらしい。だから、いくら食べても柊は太らない」と柊の生態についての説明をすると、「でもさ」と楸は声を高くした。「いくらなんでも、食べた後くらいは、喰ったモノが体内に確かにあるワケでしょ。だから俺、気になって柊の腹を触ろうとしたの」

 好きな人に他の男が触れたという話は、聞いていて面白くない。だが、気にはなるので、カイは「それで?」と訊ねた。

「そしたら、触る前に『触んな』って、柊に手の甲をつねられた」

「へっ。さすが、柊さん」

 あれは痛かったと嘆く楸を見て、嬉しそうに、カイは柊への賛辞を送った。せめて同情の言葉くらいはくれるものと思っていた楸は、カイの反応に不満そうに、唇をニュイと突き出した。しかし、「痛かったと言えば、そういえば」と、別のエピソードを思い出し、表情を戻した。

「柊を連れてさ、ラーメンを食べに行った事もあったんだ」

「ほう」カイは、次の話にも先程と同様、興味を示した。

「あの時も、賞金を懸けたメニュー、たしか、十人前のラーメンに挑んだんだよ」楸は、その時の、これホントにラーメンどんぶりですか、と疑いたくなるような、直径一メートルはあろうかという器を思い出した。同時に、見ただけで満腹感を覚える様な大量の麺とスープも。「あの時は、白米は食べなかったけど、箸休めの為に餃子三人前を一緒に食べたんだけどさ、余裕で食べ切ったよ」

「マジかよ…」

 カイは、驚いた。が、引いたワケではない。感心し、驚いたのだ。自分ならラーメン半チャーハンセットで満腹になるだろうからと、その約十倍を食べたことに驚くのは当然だ。

「あれはすごかったね」ラーメンの麺が、まるで掃除機のコードを収納するかのように勢いよく柊の口の中に吸い込まれていくのは、圧巻の一言だった。「十人前食べたって言うのに、柊は案外ケロッとしてたんだよ。全然苦しそうじゃないの。だから俺、『わんこそばみたいにして食べれば、二十人前くらい余裕なんじゃないの?』って言ったんだ。そしたら、無理だって言われた」

「何でだ?」

 柊さんなら余裕だろう、とカイも思っただけに、その弱気な発言は意外だった。しかし、理由を聞いて、カイは納得した。

「わんこそばみたいにして急いで食べたら、熱いから無理だって」

 それを聞いて、熱い麺をフーフーと冷まして食べる柊を、カイは思い浮かべた。二パターン、思い浮かべた。まずは、髪を耳にかけ、どこか色っぽさを感じさせながら、麺をすする柊。そして次に、熱いと言って一度箸を下ろし、急いで食べようとした事を恥じらい、照れる柊。

 カイの顔が、思わず緩んだ。

「でさ、これも余談なんだけど」楸が言った。「ラーメン屋の後、めっちゃ食べて、その栄養はどこに行くんだろうって気になったのよ、俺。さっきも言ったけど、柊は悪魔の力も使うから、普通の天使よりもエネルギーを使うワケ。でもさ、能力を使わない時も同じくらい食べるし、そうじゃなくても、平常時から燃費が悪い気がするんだよね。だから、何で胸には栄養行かないのって、もしかしたら偽ってるんじゃないのって、確かめようとしたの」

「どうやってだよ?」

「そりゃあ、もちろん触って」

「はあ?」カイは、片眉を上げ、口をへの字にした。

「そんな怒んないでよ」と楸は手でカイを制してから「別にいやらしい目的じゃなく、純粋な興味からだし、それに『偽ってるの?』って訊いて確かめようとしたら、殺されかけて触ってすらいないし」

「ったりめぇだ!」

 カイは、肩で呼吸していた。

 しかし、楸に怒りはしたが、話を聞いて『さすが柊さん』という尊敬の想いの方が次第に強くなり、怒りは案外すぐ静まった。

「柊の胃袋は、もはや現代科学では解明できないかもしれない」

 冗談交じりにそう言い、楸は、この話題を終了させた。

 二人の間に沈黙が流れる、ことはなく、カイはすぐに次の疑問を口にした。

「それじゃあ、柊さんって、実際の所、どんぐらい強いんだ?」

「強いって、ケンカ的な強さ?」楸は聞き返し、確認を取った。

「おう」カイは、首肯する。「ぶっちゃけ、俺とどれくらい差があると思う?」

「差、ねぇ」楸は、視線を空に向け、ぼんやりと考えた。これまでの経験や過ごして来た時間の中から、自分なりの結論を出そうと、過去を振り返る。そして出した答えは、「ハムスターとライオンくらい、じゃない?」だった。

「嘘だろ?」カイは、予想以上の差に異議を唱えた。

「嘘はついてないつもりだけど、あながち間違いじゃないと思うよ」楸は、興味無さそうに平然として話す。「仮にカイが椿と同等だとして、椿は、柊の足元にも及ばないと思う」

「マジ…?」

 カイは、自分の事を過小評価することはあるにせよ、けして過大評価はしない。その為、楸の話すことを現実として受け止めるのに、それほど抵抗は見せない。しかし、男のプライドとして、認めたくないというのもあった。

 それを察してか、楸は「でも、それは何でもありならだよ」と言った。

「どういう意味だ?」

「カイや椿が特殊な力を持っていても、それはあくまで人間レベルだから、人外の、しかも悪魔の力を使う柊には勝ち目が薄いってこと。だから、そういう特殊能力なしの肉体のみの闘いだったら、柊との差は、ハムスターとボスネコくらいまでにはなると思う」

 ネコはネコでも縄張りを護るボスネコでは、勝ち目は依然として薄いように思われた。しかし、ライオンを相手取るよりは、随分マシになった。

 そうなれば、窮鼠猫を噛むではないが、カイにも希望の光は見える。

「楸!最後の質問だ。てか、頼みだ」カイは、楸を真っ直ぐに見つめ、力強く言った。「柊さんは、どんな方法で強くなった?そして出来るなら、その方法を教えてくれ。俺も、強くなりてぇ」

 初めの一瞬こそ戸惑ったが、カイの真剣さを、楸は受け取った。真剣な面持ちで自分を見つめるカイに、笑顔とは違う、カイに対する頼もしさを感じた微笑みを持って、楸は頷いた。

 決して、暇だったからではない。

「柊が強い理由が、これ一つとは限らないけど、心当たりはある」

 そう言って、楸はどこかに電話をかけた。



「つーか、何で俺もだよ?」

 椿は、不満を洩らした。

 カイから相談を受け、楸は、自らの上司である高橋に連絡を取ったのだった。その時、高橋に話した事は、修行の場を借りることは可能かという事と、自分たちを迎えに来てはくれないかという事、この二つだった。電話で話す楸の横で、カイは何を言っているのか理解できなかったが、楸が「オッケーだって」と言うと、とりあえず「よっしゃー」と気合を入れた。

 高橋は、自身の持つ天使の資格の一つである〝空間移動″を用いる事で、楸達を迎えに行った。その時、楸の「そうだ、椿も連れて行こう」という提案を受け、自分の部屋でマンガ本を読んでいた椿を、半ば拉致する形で連れて来たのだった。

 そして現在、天使の館内の一室である高橋の部屋に、高橋と楸、そして本来であれば立ち入る事が出来ない人間、椿とカイが居る。

 この強制的に連れて来られた段階で、椿は不満を洩らしたのだった。

「だって椿、最近戦闘訓練サボってるでしょ」楸が、椿の怠慢を非難した。

「全くだ」とカイも、楸に同意する。「俺が誘っても、断るしよぉ」

「ったりめぇだろ」椿は、二人に反論した。「お前と修行するって言っても、結局ただのケンカになっちまうしよぉ。つーか、柊に稽古付けてもらうって言うと、痛いのヤダって言ってサボるのはお前だろ、クソ天使」

 椿の意見も、珍しく正論であった。が、それを納得できないという気持ちも、当然のように楸とカイの中にはある。それ故に、あわば一触即発、とまで大袈裟ではなくとも、不毛な口ゲンカが始まろうとしていた。しかし、その不穏な空気を高橋の「くくっ」という笑い声が引き裂いた。

 楸たち三人は一様に、自席のデスクの椅子にふんぞり返って座る高橋を見た。

「お前ら、ここにケンカしに来たのか?」顔は笑っているが、たしなめるような高橋の口ぶりに、楸達は黙り、背筋を伸ばした。「ケンカするだけ体力有り余ってるなら、さっさと修練場に行くぞ」

「つーか、いんすか?」椿が、控えめに訊いた。「俺達、部外者っすよね?」

「くくっ。心配すんな」椿の心配は、高橋によって笑い飛ばされた。「予めここのトップには話つけといた。そいつは『バレたら問題になるかもよ』と言っていた。つまり」

「つまり…?」と椿は聞き返す。

「バレなきゃ、一切問題無し」

 その高橋の、良く言えば潔い決断力、悪く言えば子供の様な屁理屈に、椿とカイはたじろいだ。が、楸に「大丈夫だと思うよ」と耳打ちされ、とりあえず信じた。

「見ての通り、羽を隠している楸は、ただの人間と見た目の違いはない。だから、俺と一緒に居れば、人間だと疑われる事も少ない…と思う」不安になる一言を付け加え、高橋は言った。「どうしても心配なら、アレ付けるか?」と高橋は、部屋の隅を指差した。その部屋の隅に念のためにと置かれていたアレとは、リュックサックの様に紐を肩に掛ける事で、あたかも羽が生えているように見せかけられる、お遊戯会を彷彿させるような、天使なりきりアイテムだった。

「「いや、このままで」」

 アレをつけるくらいなら、そう思った椿とカイだった。



 特に変装しなくとも、高橋の言う修練場には難無く辿り着いた。

 そこは、天使の館内の、高橋の部屋のあるフロアとはまた別の所にある部屋だった。隅には、柔道をする時に敷くのであろう畳が何枚も積み重なってあるが、ほとんど学校の体育館と何ら遜色の無い部屋だ。いや、ステージやバスケットゴールがない分、体育館よりも殺風景かもしれない。

 その体育館じみた部屋に、白衣を着た男・五十嵐ともう一人、大柄な男が居た。

 大柄な男は、腕を組んで立っていた。二メートルはゆうに超えているだろう、筋骨隆々な男を見て、椿は「んだ、あの腕。軽く俺の太もも以上あんぞ」と小さな声で驚いた。男の髪は、直毛で長く、後ろに流しながらも逆立っていて、まるでライオンのタテガミの様でもある。その髪は、「あいつ、何人殺したんだよ」とカイに妙な誤解をさせるほど、まるで血が固まったような、深い紅だ。

 一言で表すならば『野獣』という言葉になるだろう男の横に、煙草をふかし、五十嵐は立っていた。

「ひひっ。よく来たな、ガキ共」

 そう言い、五十嵐は、携帯灰皿に煙草を押し入れた。

 ここまで椿達を引率した高橋は、もう役目は果たしたとばかりに壁に背をつけ、座った。だが、目の前にいる胡散臭さが服を着たような雰囲気の五十嵐と、人間らしく服を着た野獣よりも、と自分に向けられた椿とカイの説明を求める視線に気付き、正面を見据えて座ったまま、高橋は口を開いた。

「ここは、その名も修練場。天使の仕事が人間を幸福に導くことや人間に罰を与える事などだとしても、稀に腐れ悪魔と接触する事がある。その際、最低限 身を守る為の力が必要だという事で、こういった修行の場が、ここ以外にも何箇所か設けられているんだ」

 へー、と椿とカイは感嘆の声をあげた。天使も意外と大変なんだな、と。

「その中でも、特にここはお前らに打ってつけだ」高橋は、説明を続ける。「ここは、素手での戦闘訓練が出来る場で、んまぁ…他にも色々あって、お前らには打ってつけだ」

「面倒くさくなった」

 楸につっこまれたが、高橋は「くくっ」と笑い、受け流した。

 説明を途中放棄した高橋は、あくびなんかもしちゃっている。ここはもう、避けては通れそうにない道に足を踏み入れるしかない、と椿とカイは、室内の中央で微動だにせず立っていた二人に視線を移す。

 五十嵐は、待っていましたと言わんばかりに、ニタァッと笑った。

「説明しよう」

 そう言った五十嵐だが、次の言葉が続かない。カイは「あのオッサン、言う事忘れたんじゃねえか」と訝ったが、そうではない。何かを考えているように見えたのは、「なあ楸。『説明しよう』ってセリフ、何か良くないか?」と、その言葉の響きに心を奪われただけであった。

「そうですか?」楸は、訊ねた。

「ああ。何でか分かるか?」

「さあ?何でです?」

「説明しよう」

「あのすんません!」

 悪ノリし始めた五十嵐に、椿は思わず語気を強めた。「早く本題入りませんか」と急かされ、五十嵐はしぶしぶ、それに了承した。

「説明しよう」

「また言いやがった」とカイが反応したが、今度は本当に説明が始まる。

「こいつは、ここのトップが『優秀な指導者が欲しい』と独り言を洩らしていた時、それじゃあ優しい俺様がその悩みを解決してやろうと思い、作った人形だ」

「「に、人形?」」

 椿もカイも、目の前に仁王立ちしている、紹介されて誇らしげに「ふん」と鼻を鳴らした野獣が人形だとは、到底信じられなかった。そんな二人を見た楸が、「人形って言うか、アンドロイドみたいなロボットってことだよ」と補足しても、そういう問題じゃない。

「強くなる上で必要なモノは何だと思う?」

 唐突に五十嵐から問い掛けられ、椿とカイは考えた。椿の頭の中には、数々のマンガの修行篇が浮かんだ。カイの中には、漠然と森の中というシチュエーションだけが思い浮かんだ。

 二人は、それらを舌足らず覚悟で応えようとした。がしかし、二人よりも先に、それはな、と五十嵐が口を開いた。

「それはな、目新しい修行方法でもなければ精神世界における己との対峙でもない」椿の考えは、真っ先に否定された。「ただ野山を駆け回ることでもない」とカイの考えも否定し、五十嵐は「なんと実は、壺でもないんだよ」と続けた。

「誰も壺なんて考えてねぇよ」

 というカイのツッコミも、五十嵐は無視する。

「必要なモノ、それは、良き師匠と競い合うライバルだ!」と威勢良く断言し、「そして、その二つを兼ね備えたのが何を隠そう、この戦闘訓練特別講師、拳王・ゴリラだ!」と、隣に居た野獣のような男の背を、バシンッと音が鳴るくらい強く叩いた。

 拳王・ゴリラという名の野獣は、五十嵐からの紹介を受け、その風貌に相応しく豪快に「ガッハッハ」と笑った。

 椿とカイの頭の中には、拳王・ゴリラが人形だという事に対する驚きは無くなっていた。その代わり、「名前、ダセェ」という別の衝撃があった。二人としては、そのネーミングセンスは如何なものか、と名前の由来についての説明が欲しかったが、五十嵐にその願いは届かない。

「説明しよう。拳王・ゴリラは、人工知能を搭載してあり、ある程度の自我を持つ。そして、同時に高度な知能も備えてある為、相手の現段階の強さを見極めたうえで、それよりも少し上の戦闘力になり、相手の地力を引き上げられればいいな、とか思っている」

「思っている」

 拳王・ゴリラは、五十嵐の言葉を繰り返し、肯定した。

 一言だけではあるがその声は、非常に自然で、作られたものだとは思えず、椿とカイは驚く。

「まあ、百聞は一見に如かず、やってみろ」

 椿とカイは、心の準備どころか、気持ちが完璧に置き去りとなっているのに、五十嵐から拳王・ゴリラと手合わせするよう言われた。

 五十嵐は、壁際まで移動し、拳王・ゴリラから離れる。その行動からも、この後、拳王・ゴリラが暴れること、つまり椿かカイのどちらかが野獣に立ち向かう事を示唆していた。

 ヤル気の薄い椿は、一歩下がった。

 だが、カイは違った。カイは、柊の強さの秘密を知りたく、ここへ来た。であれば、ここで引く事など、彼の選択肢には存在しない。

「俺がやる」

「ふっ、いいだろう」

 カイは、拳王・ゴリラの方へと歩み寄った。しかし、拳王・ゴリラと距離を取る、離れすぎとも思われるくらい遠くで、足を止めた。カイの描く戦闘イメージは、ヒット・アンド・アウェイの戦法だった。そもそも、攻撃力に若干の不安を持つカイは、自身の力を存分に発揮する方法としては、これがベストに思えた。あまり近付き過ぎては、腕のリーチも拳王・ゴリラに分があると一目で判断し、素早く動く事でかく乱し、手数で攻めようと考えたのだ。

 カイは、上半身の力を抜き、腕も下げた。かかとを浮かし、すぐに動けることを意識し、戦闘の構えをとる。

 カイとは対照的に、拳王・ゴリラは、腕を上げ、拳を作る。左手左足を前に出して半身となり、肩を開いた構えをとった。

「父上…合図を」

 拳王・ゴリラに頼まれ、壁に背を預けて立っていた五十嵐は、背を離した。そして、二人の顔を一瞥し、互いに準備が出来ている事を確認した五十嵐は、「開始ぃ!」と声を張り上げた。

 一瞬だったという。

 一閃。拳王・ゴリラの右の拳が、カイの腹部にモロに当たり、カイは吹き飛ばされた。椿が見えたのは、ここから。一度床を水切りする石のように跳ねたカイは、そのまま壁に叩きつけられ、気を失った。

 開いた口のふさがらない椿は、怯えた眼差しでカイから拳王・ゴリラへと視線を移した。そして、圧倒的すぎるではないか、話が違うぞ、と五十嵐を見た。

「ま、加減を間違える事も、豪快な男だ、ままある」悪びれもせず、何事もなかったかのように五十嵐は言った。だが、椿の怯えた眼に、何も感じなかったワケではないのだろう。「確かに、拳王・ゴリラは強くて厳しい男かもしれない。が、修行なんてものは、厳しいムチだけでは乗り切れないだろう」と言った。

 何を言っているのか、椿は、五十嵐の言葉の真意を掴めずにいた。

 しかし、倒れたカイの下に歩み寄り、「今のは惜しかったぞ」とフォローを入れる拳王・ゴリラを見て、納得しかけた。が、

「つーか、掛ける言葉おかしいだろ。何も出来ずにやられたぞ、カイ」

 と、結局顔をしかめた。

「楸」

 高橋は、カイを心配して「お~い、大丈夫?」と間延びした声をかけたり頬を叩いたりして意識確認をしている楸の名前を呼んだ。

「なんです?」

「そのガキ、たぶん頭打ったんだろう。ただの脳震盪だろうが、一応雛罌粟 呼んで来い」

 高橋の冷静な指示を受け、たしかにナースの雛罌粟に助けを求めるべきだと、楸は動き出した。呼ぶだけならばテレパシーを使えば事足りるが、それでは失礼だと判断した楸は、雛罌粟を迎えに行った。



「またあなた達ですか」

 修練場に入るなり、雛罌粟は、五十嵐と高橋を非難した。

「俺は関係ねぇよ」と高橋は、面倒そうにあしらった。

「俺ぁ関係ねぇよ」と五十嵐も、無関係を装う。

「父上達は悪くない。全ては俺の責任なのだ、ヒナおばさん」

 拳王・ゴリラは、頭を下げた。

 すると、「ちょっと!」と雛罌粟は、五十嵐に詰め寄った。「せっかくこの間、『ヒナさん』って呼ぶように教えたのに、また呼び方変えましたね!」

「ひひっ。さぁて、何の事か?」

 雛罌粟の怒りは、カイの怪我から、拳王・ゴリラからの自分の呼び方に変わっていた。雛罌粟は、「またプログラムを変えたでしょ!」と五十嵐に詰め寄り、直すよう強い姿勢で訴えた。が、五十嵐はそれもどこ吹く風で、全く相手にしない。

「それより、ヒナさん」

 楸に声を掛けられ、ここへ来た本来の目的を思い出した雛罌粟は、慌ててカイの介抱にあたった。幸いにして、カイはどこも異常なかった。やはりただの脳震盪だと雛罌粟も診断し、部屋の隅に積み重ねて片付けてあった畳を一枚出し、その上にカイを寝かせた。

 三十分もかからないでカイは起きるだろう、と雛罌粟は判断を下した。

 誰も深刻になってまで心配していないが、とりあえず、一安心ではあった。

 さて、となるのだが、先のカイの完敗ぶりを見てしまっただけに、拳王・ゴリラに次に稽古を付けてもらうはずの椿は、顔に出さないよう強がっているが、及び腰だ。ヤル気が微塵も感じられない。

 その椿の様子を、楸をはじめ、高橋も五十嵐も感づいている。楸はやれやれと呆れ、高橋は「くくっ」と笑うだけだ。五十嵐は、何か思案顔だ。

「少し、拳王・ゴリラについて語ろうか」

 拳王・ゴリラとの手合わせを渋る椿を見かね、五十嵐は、まずは拳王・ゴリラに対して、親近感を持たせることから始めるべきだと考えた。

 突然始まった昔話に顔をしかめた椿だったが、黙って聞く事にした。

 話の主人公、拳王・ゴリラは、腕組みして口を真一文字に固く結び、黙って瞼を閉じた。

「拳王・ゴリラには、悲しい過去がある」苦い顔をして、五十嵐は語った。「あれは、まだ拳王・ゴリラが誕生して間もない頃だった。生まれてすぐ、こいつはこの修練場の師範を任されたんだが、女天使からの抗議があったんだ。不思議なことに、見た目が暑苦しくてキモイ、セクハラ、ウザい等、心ない苦情が殺到した」

 確かに、無くはない話だと椿は思った。他は知らないが、少なくともこの修練場は、素手での戦闘に関して訓練する場なのだから、当然のように身体の接触はあるだろう。だとしたら、野獣のような男が師範では、他の者へ交代を望む声が出ても不思議ない気がする。

「親心から、俺は悩み、どうにかしてやりたいと考えた」五十嵐は、続けた。「そこで、女心を掴む為にはギャップだと考えた俺ぁ、拳王・ゴリラの趣味を、お菓子作りだとプログラムし直したんだ」

「いや、まず見た目をどうにかできたでしょ」

 呆れて椿は言うが、五十嵐は聞き流した。

「それ以降、女天使からの苦情は減ったが…」

「減ったんだ」

「ああ。だが、強過ぎるせいか、他の修練場ばかり賑わって、相変わらず、男も女もここに修行を願い出る者は少なかった」

「申し訳ない、父上」

 謝罪の言葉を口にする拳王・ゴリラの肩を、「いいんだ」と五十嵐は優しく叩いた。

「いや、相手の力量に合わせられるんすよね?」と椿は疑問を投げかけたが、それに対する五十嵐の答えは、「なにぶん、不器用な男なんだ」だった。

「そんだけスゴイ技術力あって、何で不器用にしちゃったんだよ!」

 椿は、声を大にしてつっこんだ。

 その椿を見た五十嵐は、「ひひっ。緊張はほぐれたか?」と言った。これで、拳王・ゴリラと闘えるよな、と。

 しかし、椿はまた固まった。まだ野獣に立ち向かえるほど、覚悟は固まってなかった。

 椿のヘタレぶりを「ダセェ」と楸が嘲笑い、椿が楸に怒りのこもった視線を飛ばした時、ノックなどの前触れもなく修練場の扉が開き、「高橋さん、居ますか?」と柊が顔を出した。

「おう、いるぜ」

 突然の柊登場に意表を突かれた他の者と違い、高橋は柊に手を挙げて応えた。

 柊は、修練場の一角で畳の上に寝ているカイについて、その理由を楸に訊ねた。そして、拳王・ゴリラにやられたことを聞いてから、高橋に「用って何ですか?」と訊ねた。

「悪いんだが、拳王・ゴリラと手合わせしてみせてやってくれないか」

 実は高橋は、椿が委縮するだろうことを見越していた。そして、椿にヤル気を出させるには、一度 拳王・ゴリラが闘っている姿を見せる事が効果的だと考えた。高橋は、椿の持つ力の性質的に、一度見ることで確かなイメージを持たせるべきだと考え、その拳王・ゴリラの手合わせの相手として、柊を呼んだのだ。

 高橋は、細かい説明を省いた。だが、問題はなかった。

「もちろん、構いません」

 高橋の頼みでもあるし、その程度なら、と柊は快諾した。

「ほう、次は柊かぁ」

 拳王・ゴリラは、柊を見て、不敵に微笑んだ。

「よろしくお願いしますね、師範」

 柊は、屈伸運動などで準備運動を済ませ、修練場の中央へと移動し、拳王・ゴリラと向かい合うと、軽く頭を下げた。そして、早速やろう、と戦闘の構えをとる。

 拳王・ゴリラも、戦闘の構えをとる。

「何でもありありで構わんぞ」

「ハッ!後悔しますよ」

 二人の間に、緊張が走った。

 そして、今度は何の合図も無しに、二人は動き出した。

 拳王・ゴリラの言う「何でもありあり」とは、柊の能力の事であった。もちろん素手という前提ではあるが、悪魔の力を使ってもイイと言うのだ。が、序盤、柊は悪魔の能力を使わず、肉体そのものの力だけで勝負を挑んだ。パワーは、拳王・ゴリラに圧倒的に分がある。しかし、スピードは柊だ。拳王・ゴリラの攻撃は、一撃必倒の破壊力を持つが、それはまともに食らえば、だ。柊は、直撃だけは避けようと、華麗に身を翻して避け、それが無理なら、多少のダメージ覚悟で攻撃をいなした。そして、隙があれば、それを逃すことなく的確につき、確実にダメージを与える。

「ガッハッハ。なかなかやるな」

「ハッ!もっと本気出していいですよ」

 その柊の言葉通り、二人の闘いはヒートアップした。

 もはや椿の眼は、動きを追うのでやっとだ。

 拮抗しているかに見えた二人の力量にも次第に差が見え始めたのは、闘い始めて五分も経たない頃だった。柊が押され始めたのだ。拳王・ゴリラの攻撃が、更に威力もキレも増し、柊は、使うつもりの無かった悪魔の能力を使わされた。本来は空間の時間を止め、その中にある人間を含む物体の動きを封じる能力である〝空間凍結″だが、柊は、自分の手前の空間を止め、空気の盾ともいえる物を作った。それで拳王・ゴリラの攻撃を防ぐ事が出来る。しかし、それは苦肉の策でもあった。何故なら、悪魔の力を使えば、一気に柊の体力は減っていくし、意表を突けばガードも成功するのだが、盾ごと砕こうとする攻撃の前には、あっけなく空気の盾は壊れる。が、それでも全くの無駄と言うワケではない。充分とはいかなくとも、攻撃の威力を削ぐ事が出来、それによって柊は、かわす事も、腕でガードする事も出来る。

 ここから、柊の闘い方に若干の変化が生じる。

 積極的に〝空間凍結″を戦術に組み込み、拳王・ゴリラを混乱させた。激しい戦いの中では、拳王・ゴリラ自体を封じるほどの力は出せない。それでも、拳王・ゴリラが引こうとした所を、その背後に空気の壁を作って逃げ道を奪う事は出来る。が、そこを狙うも、拳王・ゴリラは、柊の蹴りをいとも容易く腕でガードした。しかし、柊もそれくらいのことは想定内だった。一度逃げ道を奪うと、蹴撃を繰り出すとほぼ同時に、拳王・ゴリラの足元に空気のブロックともいえる物を創り出していた。その先を読む柊の戦術は見事決まり、拳王・ゴリラはつまずき、背中から倒れた。仰向けになった拳王・ゴリラのガラ空きの腹に、柊の正拳が突き刺さる。

「ハッ!」

 これで決まったと思った柊だった。

 が、拳王・ゴリラは、平然としていた。全く効いていない。動揺した柊に、隙が生まれた。拳王・ゴリラの拳が、柊の顔面に当たる、すんでの所で止まった。

 決着がついた。

 膝をつき、なんとか上半身を腕をついて持ち上げている、疲労困憊な柊とは対照的に、拳王・ゴリラは、少し息を弾ませているだけだった。

 立ち上がり、柊のことを見下ろしながら「惜しかったな」と拳王・ゴリラは言った。

「全体を通して、闘い方にこれと言った問題はない。だが後半、悪魔の能力を使い始めてからは、動きがガクッと落ちた。柊は、スタミナに問題があるから、速攻を仕掛けた方がイイかもな。今回みたいに、中盤から悪魔の力を連発する闘い方は、一気にたたみかける事が出来ればいいが、あまりオススメできんぞ」

「はぁ…はい」

 拳王・ゴリラの評価を、柊は素直に聞き入れた。

 椿の眼には、確実に決まったように見えた最後の柊の一撃だが、その実、体力の限界に近い状態で放ったもので、マックス時のパワーは出ていなかったのだ。

「どうだ、参考になったか?」

「いや、全然」高橋の質問に、椿は首を横に振った。

「くくっ。だろうな。少々段違いのバトルだったな」

 そう言って笑うと、高橋は重い腰を上げ、柊の下に歩み寄った。そして、「おつかれ」と柊に手を差し出した。

「あ、ありがとうございます」

 高橋の手を借りて、柊は立ち上がった。柊のその顔は、激しい運動後であることもあって、上気した。

 疲れを癒し、傷があれば治療してもらう為にもと、柊は、高橋に手を握られたまま連れられる形で、雛罌粟の居る所、畳で寝ているカイの所へ来た。「おつかれ」と雛罌粟に迎えられた柊は、カイの眠る畳の上に腰を下ろした。

「ひひっ。どうだ、高橋。ガキの手本となるべく、お前が闘ってみては?」

 雛罌粟の所へ柊を連れていった直後の高橋に、五十嵐は言った。

 友人の挑発を受け、高橋は一瞬迷いを見せたが、「くくっ」と笑った。

「いいぜ」

 修練場の中央へ移動しながら、高橋は、ジャケットの胸ポケットから薄い色のサングラスを取り出し、掛けた。そして、カイや柊と比べると無防備ともいえる自然体のまま、拳王・ゴリラと向き合った。決して高橋も背が低いワケでない、180は超えているだろうし、ガタイも良い方である。しかし、それでも高橋は、拳王・ゴリラの顔を見上げなければならない。

「いいんですか、高橋さん」拳王・ゴリラは、控えめに訊ねた。

「ん?」

「そのサングラス、危ないですぜ」

 と、拳王・ゴリラは、割れたサングラスが眼に入ると危ないからと心配していた。

「くくっ。心配してくれてありがとう。せめて、俺の眼鏡くらいは割ってみせろよ」

 高橋は、あえて挑発するような言葉を返した。

 その言葉に心配無用と察した拳王・ゴリラは、戦闘の構えをとった。が、相変わらず高橋は構えをとらない。さらに拳王・ゴリラを挑発しようとしているようでもある。

「おい。高橋さん、大丈夫なのか?」

 椿は、楸に訊いた。柊でも勝てなかった相手だ、誰も勝てないのではないかと思ったのだろう。

「さあ?」楸は言った。

「は?」

「まあ、見てなって」

 特に細かい説明を加えず、楸はそれだけ言って、勝負を見守ることにした。納得のいかないままではあるが、それ以上は何も言わず、椿も黙って勝負の行方を見届けることにした。

「行きます」拳王・ゴリラは言った。

「くくっ。いつでも来な」高橋は、余裕を持って応えた。

 二人は、開始の合図もなく、同時に動いた。

 そして、決着はついた。

 拳王・ゴリラの渾身の右ストレートを、高橋は左手で軽くいなした。そして、拳王・ゴリラの懐に入ると同時に、事前に仕込んでいた背中側のズボンのベルトに挟んである拳銃を取り出し、銃口を拳王・ゴリラのあごにつけた。

 その一瞬の攻防で、勝負はついた。

「おい高橋!」勝負の結果に、五十嵐が異議を唱えた。「オメー、反則だろ!」と、素手での闘いに銃を持ち出した事を強く非難したのだ。が、それを「いいんだ 父上」と拳王・ゴリラ自身が止めた。

「懐に入られ、あのままあごに一撃入れられたら、どっちにしろ俺は負けていた。高橋さん、また俺の完敗だ」

 潔く負けを認めた拳王・ゴリラを、五十嵐は、その自分の頭よりも高い肩を抱き寄せ、「立派だ」と慰めた。

 そんな二人を尻目に、高橋は「くくっ。どうだ、参考になったか?」と椿に訊いた。

「いや、全然」椿は、やはり首を横に振った。

 いつまでも渋る椿に、そこで檄が飛んだ。

「アンタも男でしょ。いっぺんぶっ飛ばされて来な」

 それは、柊からだった。高橋の闘う姿を「かっこいい」と口を抑え、恍惚とした表情を浮かべていた柊が、一転表情を引き締め、椿の尻を叩いたのだ。それに楸も「そうだ、そうだ」と乗っかる。「壁に減り込ませてもらってこい」と。

「っせぇ、クソ天使!」

 そこまで言われ、椿も引く事は出来なかった。

 やっと、椿も拳王・ゴリラの前に立つ。

 勝算がないワケではない。ここまで、カイ、柊、そして高橋と、続けざまに闘いを見てきた椿は、勝てるイメージを次第に固めていた。高橋の様に、相手の攻撃をいなし、渾身の一撃を叩きこめばいい。そう考え、椿は勝負に臨む。

 結果は、カイの二の舞だった。つまり、瞬殺された。

 椿が弱いワケではない。ただ、柊も高橋も、そしてついうっかり高橋戦を引きずったまま本気を出してしまった拳王・ゴリラも、カイや椿とは段違いで強過ぎるだけなのだ。

「椿、弱いね」

「っせぇ…クソ天使…」

 椿は意識を失うことなく、ただ静かに戦意は失った。



「んつぅ…」

 椿が壁に叩きつけられた時の衝撃音で、カイは目が覚めた。まだ後頭部に痛みを感じると思ったら、コブが出来ていた。

「よっ」

 目が覚めたカイにいち早く気付いたのは、柊だった。カイは、ガバッと勢いよく身体を起こし、自分が寝ていた畳の上の、自分の伸ばした足の方に座っている柊を見つけた。

「ひ、柊さん」カイの頭の中には、どうして柊がここにいるのか、などといった疑問が当然浮かんだ。しかし、それらを差し置いて彼の口を衝いて出たのは「あの、これは、昨日徹夜でテトリスやって、そんでさっき半端ない眠気に襲われたんですよ」という、苦し紛れの言い訳だった。たとえ修行の一環の手合わせとはいえ、負けて気絶したなどという情けない姿は知られたくなく、誤魔化したのだ。

 しかし柊は、何があったのか知っている。楸に聞いたからだ。だが、特に興味無いとでもいった感じで、「へー」と言った。

「あんま遅くまでゲームしないんだよ」

 柊なりに気を使ったのだ。

「はい」

 カイは、複雑な心境だった。誤魔化す事は出来たが、結果として、好きな人に嘘をついてしまった事になる。罪悪感に苛まれた。

 だが、カイの気持ちの切り替えは非常に早く、シンプルだった。

 カイの出した結論は、『だったら、嘘にしなきゃいい』だった。ここで今 拳王・ゴリラを倒せば、負けた事にはならない。過去の勝敗より、最新の勝敗の方が重視されてしかるべきだろう、そう考えたのだ。嘘をついたという事には変わりないのだが、これでいいとカイは考えた。

 カイは立ち上がり、壁際でうな垂れて座っている、圧倒的敗北を味わった男・椿を「へへっ」と一笑した。そして、その椿を茶化している楸が、椿に八つ当たりされたのを見て、もう一度笑う。

 友人たちを見た後は、再び、修練場の中央へと進み、拳王・ゴリラと対峙した。

「へっ。早速リベンジさせてもらうぜ、ゴリラのおっさん」カイは、不敵に笑った。

「ガッハッハ。そうこなくてはなぁ」

 拳王・ゴリラは、カイのリベンジを快諾した。

 二人は、また同じように戦闘の構えをとった。

 そして、今度はゴング無しに、同時に動き出す。

 今回は、前回の様にはならなかった。開始早々に放たれた拳王・ゴリラの一撃を、カイは避けたのだ。カイや椿の力は、良くも悪くも、気持ちに大きく左右される。願う想いが強ければ、それに比例して力を出せる。しかし、その事に変わりはないのだが、カイの場合は特に『怒り』の感情に左右された。本人も気付いていないが、カイの怒りには、純粋な願いに近いものがある。それが、今回 善戦できている理由の一端となっていた。

 カイは、この時静かに、だが激しく怒っていた。情けない自分に、だ。

 このままでは終われない、弱い自分を払拭したいという想いが、今の自分に対する怒りとなっていた。

「ガッハッハ。さっきと格段に動きが違うじゃないか、おい!」

 拳王・ゴリラは、喜んでいた。自分に向かって来る者の強さを喜び、まだまだ磨き甲斐のありそうな原石の不意に見せた輝き、それを特に喜んでいるのだ。

「へっ。なめんなよ!」

 カイは、拳王・ゴリラの周囲を縦横無尽に動き回った。それで撹乱し、相手の動きを分析し、生じた隙を衝くという、最初に考えていたヒット・アンド・アウェイ戦法をとっているのだ。今回のカイの動きは、格段にキレが違う。いかに拳王・ゴリラといえども、カイの動きを捉え切る事が出来なくなってきた。そして、カイが狙うのは、この隙だ。

「っらあー!」

 カイは、一度 拳王・ゴリラの背後をとってから、それに反応して身体を捻った拳王・ゴリラの背後を、再び衝いた。拳王・ゴリラは、右側に身体を捻っていただけに、左側面に隙が出来る。カイは、渾身の蹴りを、拳王・ゴリラの後頭部目掛け放った。しかし、軽く常人を超える拳王・ゴリラの大柄な身体を計算に完璧に組み込む事は出来ず、踏切の力が弱く、蹴りは拳王・ゴリラの左肩に当たった。

 だが、一撃には変わりない。

「へへっ」

 完全に満足行く結果ではないが、初戦に比べれば、充分に及第点だ。それは、カイも自覚していた。この調子で、そう思ったに違いない。

 しかし、拳王・ゴリラに生じた異変を感じ取り、カイの脚が止まった。

「どうしたんだよ?」

 腕を組み、難しい顔をしていた拳王・ゴリラの表情が突如緩み、カイは訊ねた。

 拳王・ゴリラは、一度フッと笑うと、壁に寄り掛かって戦況を楽しんで観ていた五十嵐の方を向いた。

「父上、そろそろ時間ではないか?」

 そう訊ねられ、五十嵐は、腕時計を見て時間を確認し「そうだな」と答えた。

 何の事か分からないカイは、どう行動すべきか戸惑った。関係ない事だが、椿は、拳王・ゴリラがもう一段階変形し、さらに強くなるのでは、と思ったという。

「ガッハッハ。勝負はお預けだ」拳王・ゴリラは言った。「おやつタイムだ!」

「はぁ?」

 呆気にとられ、カイは、戦闘の構えを解いた。

 状況を理解しているのは、椿とカイ以外、そこにいた全ての者だった。楸は「やったあ」と喜びながら、畳を何枚も木の床に敷いた。雛罌粟と柊は、部屋の奥へと消える拳王・ゴリラの後に続いた。そして、戻って来た拳王・ゴリラは、ホールのイチゴケーキを、雛罌粟は、人数分の皿とフォーク、柊は、ティーポットとティーカップを、それぞれお盆に乗せて運んできた。高橋と五十嵐は、早々に、楸が敷いた畳の上に腰を下ろしている。

「くくっ。聞いたろ?おやつタイムだ。お前らも座れよ」

 何が何だか分からないまま、高橋の指示に従い、椿とカイも、畳の上に座った。

「ゴリさんの作ったケーキ、美味しいよ」

 待ちきれないと言った面持ちの楸は、そう言った。

「え?」「これ、あいつの手作り?」

 椿もカイも、口々に驚きの声をあげた。



「ガッハッハ。さあ、遠慮せず食ってくれぃ」

 畳の上に円を描いて座り、みんな、配られたケーキを口に運ぶ。

 拳王・ゴリラの作ったケーキは、そんじょそこらのケーキ屋に引けを取らないくらい美味しかったという。

 それからは、和やかなお茶会となった。

「なあ、俺 また来ていいか?」とカイは拳王・ゴリラに訊ねた。

「ガッハッハ。おう、何時でも来い。ここには、ここにおるモン以外には、支部長と他数名、あとは用の無い部屋を間違ったモンしか来ん。その中でも修行を頼むのは、柊ぐらいだしな」拳王・ゴリラは、カイの頼みを快諾した。

「椿もたまに来て、修行付けてもらったら?」と楸は、隣に座る椿に言った。

「カッ。言われねぇでも、今日ぐっすり寝て、明日にでもぶっ飛ばしてみせてやんよ。つーか、今日は Dグローブ忘れただけだしな」椿は大見えを切ったが、「ほう。楽しみに待ってるぞ」と言う拳王・ゴリラの不気味な笑みを見て、目を逸らした。

「ヒナおばさん、そんながっついて大丈夫か?」

 五十嵐は、雛罌粟を茶化した。高橋もそれに反応し「くくっ」と笑った。

「余計なお世話です!」と、雛罌粟は顔を背け、フォークを刺したケーキを口に入れた。

「おう、そうだ」拳王・ゴリラは、ふと思い出した。「世話になっとる支部長に差し入れようと、クッキーを作っとったんだった。多めに作ったから、お前ら、土産に持ってけぇ」

「「あ、ありがとうございます」」椿とカイは、軽く頭を下げた。

「それじゃあ師範。アタシ、包んでおきますよ」

 そう言うと、柊は再び奥の部屋へと消えた。

 この時、カイは「もしや」と期待した。野獣のような男の手作りクッキーでも、包んでくれるのは、大好きなあの人。店で買ったプレゼントともなれば、作り手だけでなく包むのも店員だから、それに比べれば、気持ちの入り方が違う気がした。尚且つ、手渡してもらっちゃったりなんかしたりすれば、感動はマックスだ。

「ガッハッハ。チョコチップ入りだぞ」

 と拳王・ゴリラが手渡してくれるとは、この時点でカイは思いもしなかった。 


力の差を明確にしておこう、と思って書いた話です。

というより、ダメな部分ばかりが読んでくださる方に伝わっている気がしたので、高橋のスゴイところが今回の話で伝われば、それだけで嬉しいです。


新キャラも出たのに番外編。まぁ、気にしないでください。



そういえば、拳王は(けんおう)と読みます。

雛罌粟は(ひなげし)です。

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