第十五話 天使―羽―質感―足=?
あの人は、彷徨う。自分の居るべき場所、居たい場所を見つけたくて、彷徨い続ける。
あの人は、護る。大切な人が大切なほど、その想いは強く働き、彼の人を護ろうとする。
あの人は、恨む。憎くて憎くてしょうがない。だから、呪う。
あの人は―――。
では、あの人は?
あの人は、人なの?
あれは、人なの?
楸 Ⅰ
「それは、俺がまだガキの頃、夏休みだからって肝試しに行った時なんだけどさ…」
「うるさい!」
話し始めたとたん、柊に殴られた。
その日、俺は高橋さんの部屋を少し改造していた。改造と言うより、模様替えと言った方が近いかもしれない。とにかく、部屋に来た時に、部屋の主である高橋さんが不在だった為、俺の独断で、部屋に明るくて熱い日差しを容赦なく注ぎ続ける太陽、をどうこうするのは無理なので、窓を暗幕で覆った。やはり、カーテンよりも暗幕の方が遮断効果は強い。部屋には、明かりが差し込まなくなった。そしたらなんか面白くなってきて、壁も暗幕で覆い、部屋の電気も消してみた。
真っ暗になった。暗闇だ。
部屋にはエアコンもあったから、暗い部屋は、身体をひんやりさせる。それが、部屋が不気味なほどに暗いからそうなのか、それともエアコンの力が絶大だからなのかはわからないけど、ひんやりする。
暗闇の中に居る俺は、わくわくしてきた。
暗い部屋に潜んでいれば、誰かが部屋に入って来た時、想定外の暗闇に戸惑っている所を脅かせるかもしれない。そう思うと、わくわくする。
しかし、その後最初に部屋に入ってきたのは、柊だった。
厄介なヤツが来たと思ったが、それでも俺の脅かしたい欲は治まらなかった。だから、息をひそめていたのだが、ここで想定外の事があった。
それは、廊下が明るいと部屋の中も少し明るくなる、ということだ。
「楸。アンタ、何やってんの?」
ほら、ばれた。
柊は、部屋の灯りをつけ、部屋に入ってきた。明るくなって良く見えるようになった柊の顔は、無言ではあるが、部屋の異様さについて説明を求めていた。だから、「暑くてしゃーねぇから、とりあえず窓からの光を遮った。そしたら、なんか面白くなって、部屋の電気も消して、真っ暗にしてみた」と正直に理由を説明した。
「それで、息を殺してジッとしてたのは何の為?」
と、柊は、怒りを隠した無表情で、更に追及してきた。
ヤバいと思ったよ。でも、柊は勘も鋭いし、それに〝読心術″の資格も持っているから、隠し事は通用しない。もしできたとしても、それは心を隠せることに等しく、俺には出来ない芸当だ。だから、俺は諦めた。
「脅かしてやろうと思って」
「ハッ。バカじゃないの」
あれ?それだけ?
呆れた顔をした柊は、そのまま来客用のソファーに腰を下ろした。俺の予想では、脅かそうとした罰の一つとして、鉄拳の制裁も覚悟していただけに、拍子抜けだ。
が、これはチャンスでもある。
何か知らないけど、今の柊の機嫌はイイみたいだ。ちょっとやそっとのことじゃ、怒られないかもしれない。だって、ご機嫌に鼻歌 歌ってるもの。
俺は、こっそりと部屋の電気のスイッチに近寄り、再び暗闇を作った。「ひゃっ!」と柊の短い悲鳴が聞こえると、思わず口角が上がる。自分でも、今 少し悪い顔をしているってのがわかった。が、暗闇で俺の表情は誰にも分からないし、構わず計画を実行する。柊に近付き過ぎると身の危険があるので、俺はそのままの場所から動かず、この前覚えた怪談話を始めた。
「それは、俺がまだガキの頃、夏休みだからって肝試しに行った時なんだけどさ…」
「うるさい!」
ここで最初に戻るワケなんだけど、俺、柊に殴られました。
柊は、俺を殴るとすぐに部屋の灯りを点けた。俺を殴った右拳は握り締めたまま、肩で息をしている。よっぽどビビったのだろう。殴られてしまったのは想定外で不満もあるが、まあいい。せいぜい怯えるがいいさ。
しかし、部屋にはもう、柊を怖がらせる要因は残っていなかった。それどころか、明るくなった部屋では、俺の表情は丸分かりとなり、俺のお茶目な企みが全面に出ている悪い顔も、柊に見られてしまった。
結果、また殴られた。
「痛いなぁ!てか、何で俺の居場所がわかったのさ?」
「ハッ!いくら姿隠しても、声を出してたらバレバレだよ」
柊は、自信満々に言った。
「なんか、プロの殺し屋みたいだな…」
俺がボソッと洩らすと、「何?殺してくれ?」とバカ耳が聞き間違えた。
「やだな」俺は、そのままだと殺されはしないにしても、更なる負傷の恐れがあったので、慌てて「プロの殺し屋みたいだって言ったんスよ、姐さん」とごまをすった。
「だから、その姐さんってのやめな」
「はい、姐さん」
そう返事すると、俺の訂正する意思が無い事を悟った柊は、「チッ!」と舌打ちをして、またソファーに腰を下ろした。
「なんでも良いけどさ、それ、どうすんの?」柊は、俺がせっせと付けた暗幕を「それ」呼ばわりし、暗に邪魔だと言ってきた。「高橋さんに無断でやったんなら、怒られるよ」
「そう?確かに無断だけど、もしかしたら高橋さん、よくやったって誉めてくれるかもしれないよ?」
「絶対ない!」柊は、断言した。
「絶対ってことは無くない?」
「ある。それに、暗いと危ないから、どっちにしろ外しな」
柊に命令され「え~」と反感を示したが、睨まれてしまった。さすがに機嫌が良いようだけど、これ以上茶化していると、また怒って暴力に訴えて来るかもしれない。それに、柊の眼が、「つべこべ言わず、さっさと戻せ」と言っているので、ここは大人しく従う事にした。
非常に残念だが、俺の暗闇パニックはこれで終わりだ。
「でもさ、でもさ。日差しを遮る事は、暑さを防ぐのにもイイ手段だと思うけど」
「それならカーテンで充分。あんなに暗くする必要はない」
「あっそ…」
やっぱり、俺の暗闇パニックは終わらせなければいけないらしい。
俺がせっせと暗幕を外している間、柊はケータイをいじっていた。時折休んで、着信があればまたせかせかケータイをいじっている所を見ると、メールでもしているようだ。
メールを送信し終えた柊は、ケータイをパタッと閉じると、顔を上げ「ねえ、高橋さんは?」と訊いてきた。
外し終えた暗幕を畳みながら、俺は「さあ?」とだけ答える。
「なに?知らないの?」
「うん。俺が来た時、高橋さん居なかったから。暑くてバテてんじゃないの?」
「ふ~ん。そっ」
残念だと思っているくせに、そんな感情をおくびにも出さず、柊は素っ気なく言った。そして、細くて白い脚を優雅に組み、テーブルの上に出ていたおせんべいにかじり付く。たった三口で食べると、次に手が伸びた。そして、また三口で食べる。そして、また次。結局、三分と経たず、器に入っていたおせんべい約十枚を平らげた。しょっぱい物を食べた柊は、今度は甘い物を欲した。冷蔵庫に向かい、中に何か入ってないか探す。だが、残念だったな。チョコレートはさっき、最後の一個を俺が食べたから、もう何も甘味類は入っていない。何も無いと諦めた柊は、ソファーに戻ってきた。
「アメ食べる?」
「要らない」柊は、俺の厚意を一蹴すると、「てか、今までアンタが食べてたヤツなんて、汚くて食べれないし」と苦い顔をした。
俺は、柊の方に差し出していたアメを口の中に戻し、「これはあげないよ。これじゃなく、別の」と言ったが、やはり柊は「要らない」と言う。そう言われると、俺も「あらそ」としか言えず、引き下がった。
暗幕も片付け終え、やる事のなくなった俺は、ストックしてあるアメを並べてみた。自分のデスクの上は、いつも通り散らかっているので、来客用のソファーに腰を下ろし、テーブルの上にアメを並べ、残りの数と種類を確認する。
「ちょっと」ブスッと不貞腐れた顔をした柊が、俺に声を掛けて来た。
「ん?」
「これ、嫌がらせ?」
柊は、俺のコレクションでもあるアメちゃん達を「これ」呼ばわりし、妙な勘繰りをしてきた。
「はて?何の事ですか?」
「アタシ、要らないって言ったよね?何?見せびらかしてんの?」
「そんなことないよ」
「ハッ!」
柊は、それ以上は言わず、俺のアメを無断で奪った。俺は最初っからあげるつもりだったけど、強奪するような形は想定外だったから、思わず「あーっ!」と悲鳴に近い声をあげた。許せなかったんだ。礼節をわきまえていないと言うだけでなく、あげるつもりのなかった俺お気に入りの味〝さくらんぼ″を奪った事は、特に許せない。
これ見よがしに包みを取ると、柊はアメを口に入れた。勝ち誇ったようないやらしい笑みを浮かべ、口の中で転がしている。
アメは棒付きだから、無理矢理取り返す事も、柊相手では不可能ではあるのだが、相手を考慮に入れない場合、可能性はゼロではない。しかし、仮に柊から取り返すことに成功しても、一度人の口に入ったアメなんて、汚くて食べられない。人の口ってのは、意外と雑菌だらけだって事を、俺は知っている。だから、もう柊の食べているあのアメは、俺には食べられない。
諦めは付く。ただ、悔しくもある。
柊の事を恨めしく思って見ていると、柊のケータイに着信があった。柊は、ケータイを開いて確認し、部屋に掛けてある時計をちらっと見た。思えば、柊は今日、やたらと時間を気にしていた。
「何?仕事?」
俺は、柊に訊いた。
俺の予想では、柊は今日仕事が入っていて、仕事に関するやり取りをメールでしている。そして、仕事に行く前に、出来れば高橋さんに会っておこうとでも思ったに違いない。だから、高橋さんが居ない事に落ち込んではいるが、深くはない。さしずめ、短い時間の中で会えたらラッキー程度に思って来ているのだろう。
しかし、俺の予想は違った。
「違う。榎ちゃん」
「榎ちゃん?」予想外の名前が出て来た。
「そ。今日、榎ちゃんと遊びに行く約束してたの。暑いけど、家にこもっているよりは、どっか涼しい場所に行かない、って」なるほど、だから今日柊の機嫌が良かったのか。俺がその事に気付いている間も、柊は話し続けた。「それで、約束はそろそろなんだけど、その前に一回ここに顔出しとこうと思って」
なるほど。俺の予想はあながち間違ってはいなかったらしい。仕事か遊びかの違い位でしょ。てゆうか、さも当り前のように言っているけど、こいつがここに顔を出さないといけない理由なんてないでしょ。下手に誤魔化さないで、はっきり「高橋さんに会いた~い」って言えばイイのに。
ってゆうか!
「何それ?俺 聞いて無い!」
俺だって暑くて、部屋を真っ暗に改造するくらい涼しい場所を探しているって言うのに、涼しい場所に、それも榎ちゃんと一緒に行くだぁ?ズルイ!
「だって、言ってないもん」シレッと言いやがった。
「俺も行きたい!俺も暑い!俺も榎ちゃんと遊びたい!」
俺が、みっともなくも駄々をこねていたら、柊に冷めた眼で見られた。
だが、どんなことでもやってみるもんだ。柊は、嫌々感は大いに見られるが、それでも「でも、榎ちゃんと二人っていうことで約束してたから、アンタもってなると、一応榎ちゃんに確認取らないと」と、可能性を感じさせてくれた。俺が「うん。確認してみてちょうだい」と頼むと、本当に確認のメールを打ってくれた。
しばらく待っていると、メールが来た。
「榎ちゃん、いいって」
「マジで?やったあ!」
これで、俺も夏の暑苦しさから脱出できる。
実際に涼しいオアシスと、榎ちゃんという心のオアシスが俺を待っている。そう思うと、すぐに動き出したくなる。なんだったら、柊を置き去りにしてでも飛んで行こうと、浴衣の中に隠れた羽がウズウズする。
「柊!早く行こっ!」
「はいはい」柊は立ち上がり、舐め終えたアメの棒をゴミ箱捨てた。
俺と柊は、高橋さんに会わないまま、部屋を出た。部屋を出る直前、高橋さんに置き手紙をしようかと思ったけど、どうせあの人も仕事してないだろうから言い訳は不要だろうと察し、やめた。あと、暗幕を使ってもう一度部屋を暗くしていこうと思ったけど、それもやめた。そんなバカなことをする時間が、すごく無駄に思えた。暗幕には、帰って来てから五十嵐さんの所に返しに行くと約束し、床に放置されたままの暗幕に別れを告げた。
○
榎と柊の待ち合わせ場所は、喫茶店にしていた。こう暑い日に外に居て、熱中症になるような危険は少しでも避けたい。だから、涼しい場所に行くことを目的として集まる場所に、涼しい喫茶店を選んだ。喫茶店でその後の予定を立てるつもりなのだが、もし立てられなかった場合、そのまま喫茶店でお喋りをすればいいから、そういう理由もあって、待ち合わせ場所に喫茶店という選択はベストだと思えた。
榎は、夏は嫌いではないが、暑いのは人並みに苦手だった。しかし、それでも友達と会うとなれば、話は別だ。炎天下の中でも自然と笑みが零れ、ウキウキしながら待ち合わせ場所の喫茶店へと足を運んでいた。
「楸さんも来るんだったら、椿君にも声掛ければよかったかな?」
まるで椿だけ除け者扱いしているような後ろめたさを感じたが、「ま、いっか」と気持ちを切り替えた。たまには、椿抜きで遊ぶのも、新鮮なような気がした。
ウキウキな気分で喫茶店に向かっていると、榎は、視界の端に〝何か″を見つけた。普通ではない何かが、視界の端で動いていたのだ。あれ?と思い、足を止める。もしかしたらただの見間違いかもしれないと思いながら、視界に入った〝何か″を探す。太陽の眩しさに目を細めながら少しアゴを上げ、辺りをキョロキョロと見回していたら、見付けた。
それは、宙に浮いていた。地面から二メートル強といったところだろう、空中に居た。
物珍しいものを見つけ、榎はついそれに見入っていた。そしたら、不意に目があった。向こうも、まさか、という気持ちを拭い切れなかったが、榎の目線は確かに自分に向いていたし、自分の勘違いかもしれないから確認するだけしてみようと考え、榎に近付き、目線の高さを合わせ、声を掛けてみた。
「もしもし、おネエさん?」
声を掛けられ、榎は戸惑い、驚いた。が、相手に害意はないようだと判断すると、「なんですか?」と応えた。
榎の反応に、相手は驚いた。「もしかして、俺の事 視えるんですか?俺の声、聞こえるんですか?」と、恐る恐る、もう一度確認する。
「はい。視えますし、聞こえますよ」
榎は、答えた。榎も驚いてはいるが、何とか冷静は保てていると言った感じだ。
榎の反応が確かなモノだと判明すると、それは喜んだ。驚き、まんまるくしていた眼も、次第に細くなり、ニタァッと口角が上がる。
榎は、相手の目を見て話をしていた。
だが、最初見た時は確か、と思い出すと視線を落とした。
「スゴイね、おネエさん」
榎の視線が自分の足元に向いた事に気付き、それは言った。
それは、人間の姿をしていた。顔立ちや背丈から判断して、おそらく小学生高学年と言ったところだろう。男の子だ。スッキリとした爽やかな短髪や、ヤンチャそうな笑顔、無駄な脂肪が無い体型からは、この男の子が活発であることを表しているかのようだ。だが、活発な男の子のイメージとして、榎の中には浅黒く日焼けした肌というのがあった。外で元気に遊びまわれば、自然と日焼けするだろうから、と。が、少年の肌は、不自然なほどに白かった。顔は黄色人種日本人なのだが、肌は白人の中でも特に白い、透き通るくらい白かった。しかし、それも肌ケアを怠らないまめな性格を表しているのかもしれない。榎は、そう自分に言い聞かせた。では、これはどうやって自分を納得させようか?少年は、活発に走り回る脚が無かった。それは、足が不自由だとか、運動不足で細すぎるとか、そういう意味ではない。本当に、脚が無いのだ。
「俺、幽霊だよ?」
少年は、笑って言った。
榎は、幽霊の少年と出会った。目を皿の様にして驚き、口がポカンと開いている。悲鳴こそ上げなかったが、思考回路は一旦ストップしていた。
ゆっくりながらもようやく回り始めた頭で、榎がまず最初に思った事は、「そうだ。柊さんに連絡しないと」だった。
楸 Ⅱ
榎ちゃんとの待ち合わせ場所は、いつもの喫茶店らしい。エアコンの付いている高橋さんの部屋から出てムアッとした空気が襲って来た時は、ちょっとどうしようかな、と行く事を躊躇ったが、待ち合わせ場所が喫茶店ならと希望を見出し、何とか歩く事が出来た。
俺も柊も、天使の資格の一つである〝空間移動″を持っていない。高橋さんは持っているこの資格は、技術面だけでなく知識も大いに必要らしく、取得は困難だ。そもそも、資格の取得には、天使各々の資質も大きく関わっていて、努力だけではどうにもならないモノもある。面倒だから詳しくは知らないけど、たぶん〝空間移動″は、俺に取れる資格ではない気がする。
とまあ、なぜ突然資格の話をしたのかと言うと、資格は取得が難しいが便利で、暑い日の移動なんかで苦しんでいる時、「ああ、やっぱり真面目に資格を取っておけば良かった」と後悔することになるのだ、と言いたいのだ。
そして、俺は今、柊と一緒に空を飛んで移動中なのだが、後悔している。「ああ、資格を取っておけば良かった。それか、高橋さんに連れてってもらえば良かった」と。
「私事でまで高橋さんの手を煩わせるわけにはいかないでしょ。甘えんな」
自分もじんわりと汗を滲ませているくせに、暑いくせに、あくまで毅然とした態度を崩さず、柊は言った。
俺は、暑さに対する免疫が少なく、それに精神力も逞しい方ではないので、ちゃんとダラけている。前を飛ぶ柊の後ろを、ふらふらと飛びながら、「でもさ、高橋さんにあっちゅう間に連れてってもらった方が、榎ちゃんを待たせる事もないから、そっちの方がいいんじゃないの?」と弱々しく言い返した。
「ハッ」笑われた。「だったら、榎ちゃんより早く着く位の気概で移動すればいいでしょ。もう少しシャキッとしな」
正論だった。それに、暑さでボーっとした頭では何も考えられないし、そもそも言い返す気力もない。だから、黙って柊の後を飛んだ。
それにしても、だよ。
何で柊は元気なの? 元気と言うか、何でバテないの? 暑くないの? 俺、超暑いんだけど。てゆうか、アレかな。浴衣がいけないのかな? 浴衣、結構暑いんだよね。通気性の良い素材ではあるんだけど、やっぱり暑いんだよね。肌の露出が少ないからかな。そう考えると、柊、肌出してるな。動き易いからって言って、柊の服はいつもシンプルなんだよね。今日の服装も、フリフリとか無駄なデザインが少ないし、肩や脚も出てて、生地も少ない。やっぱ、肌出してる方が涼しいワケ? てか、肌出してるくせに、柊白いな! 何なの、こいつ? 肌出してるのに、日焼けはしないで、涼しさは確保できてる。世の中、理不尽過ぎませんか?
俺が世の中の理不尽さに悲しみを覚えていたら、柊のケータイに着信があった。
「あれ?榎ちゃんからだ」
道中 柊から聞いたのだが、喫茶店で会った後、そのまま喫茶店で次の行動を決めることにしているらしい。前日までに大体の予定は決めていて、高橋さんの部屋でやっていたメールのやり取りはほぼ最終確認らしく、「それじゃあ、今から出るね」程度の話をしただけらしい。
つまり、この段階において、榎ちゃんから連絡が来るはずはないのだ。
柊も予想外の事に、どうしたんだろう、と不思議に思いながら、ケータイを開く。俺も話の流れは知っているから、どうしたんだろう、何かあったのか、と身構えてしまう。もしドタキャンだったら、柊と一緒で俺はどうすればいいんだ、と不安になる。
俺は、この後の展開がどうなるのか、とドキドキしながら柊がメールを読むのを待った。そして、メールを読み終えた柊は、頭にハテナマークを浮かべながら、言った。
「なんか榎ちゃん、公園に来てくれって」
「公園って、いつものトコ?」
「うん。良く分かんないけど、不測の事態でもあったみたい。事情は会って話すから、とにかく来てくれって」
柊の言い方から察するに、榎ちゃんは特にのっぴきならないような、危機的状況に置かれているワケでもないようだ。だから、俺も榎ちゃんの身を案ずる事はない。俺も、頭にハテナだ。
しかし、兎にも角にも、榎ちゃんに何かあった事には変わりない。
涼しい喫茶店から暑い公園に待ち合わせ場所が変更した事は、確かに辛い。が、榎ちゃんに何かあったのだとしたら、そこに行かないわけにはいくまい。
俺と柊は、何も言わずとも同時に方向転換し、公園のある方へと飛んだ。
公園の近くにまで来た。俺達は普段 空を飛ぶ時、〝視覚防壁″を張って、普通の人間から姿を見られないようにしている。したがって、直接公園に行ってしまうと、そこで姿を現すことになり、人の目につく可能性がある。榎ちゃんと自然に話をする為には姿を隠すわけにはいかないので、多少面倒であっても、人目に付き易い公園から少し離れた、人通りの少ない場所を選んで降りなければならない。という事で選んだ地面に降り立ち、視覚防壁を解いたから、あとは普通に公園に行って、榎ちゃんを捜す。
公園に着くと、榎ちゃんは容易に見つかった。てか、榎ちゃんしかいなかった。みんな暑くて外に出たくないのか、公園を通り道とする人は居ても、公園で遊んでいる人は誰もいない。気を遣って損した。
榎ちゃんは、木陰の下にあるベンチに座っていた。こんな暑い所に一人で待たせてしまって、ホント申し訳なく思う。柊もそう思ったのか、「ごめん、榎ちゃん」と小走りに駆け寄っていった。「お待たせ」
「お待たせ」走ると暑いし、下駄は走り難いから、俺も早足で行く。
俺達に気付くと、榎ちゃんは自身の横をチラッと確認してから、「こんにちは」と俺達に手を振った。だから俺は、「気にしなくても、ちゃんと姿視える様にしてるよ」と教えたのだが、どうやらそういう理由ではみたいだ。
「あ、ううん。違うの」と、榎ちゃんは首を振った。
榎ちゃんの様子がいつもと違う気がする、と若干の違和感を覚えた俺と柊は、顔を見合わせ、首をかしげた。
良く分からないけど、とりあえず暑いから、俺達も榎ちゃんの居る木陰に入る。柊は、榎ちゃんの隣の空いているスペースに座ろうとした。が、「ちょっと待って!」と榎ちゃんの慌てた声に止められた。
柊は、座ろうとして折りかけた膝を、また伸ばす。
「何で?」
「あの……ちょっとマズイから」榎ちゃんの言い方は、どこか歯切れが悪い。
「大丈夫だよ、榎ちゃん。柊は確かに大食いで上背もあるけど、ベンチがぶっ壊れることはないから」
擁護したつもりが、柊に殴られた。
「そうじゃないの」榎ちゃんは、言った。「そうじゃなくて…」
榎ちゃんは、何かを言いたそうにしている。でも、それを言葉にする術を持たないと言った感じだ。口ごもってしまった。俺達二人の顔を見て、何か反応を窺っているのかもしれない。
何だろう?
疑問を感じた柊は、自らの手で判断しようと、榎ちゃんに座る事を止められたベンチに触れようとした。触れれば、何か分かると思ったのだろうが、それも「待って」と榎ちゃんに止められた。
榎ちゃんが何も言わないようだから、自分達で確かめようとするけど、それも止められる。これはもはや、榎ちゃんの口から直接教えてもらえるのを待つしかない。
疑問を含んだ視線を榎ちゃんに送っていたら、榎ちゃんが恐る恐る言った。
「二人とも、何も視えない…?」
「「えっ?」」
榎ちゃんの言っている事の意味が分からなかった。
榎ちゃんの口ぶりでは、もしかしたら公園の中という広範囲なのかもしれないが、おそらく今 俺達の居る場所、向けている目線からだろう、何かが視えなければいけないらしい。でも、必死に目を凝らして見ても、特に変わったモノは見当たらない。俺の眼に映るのは、ベンチに座った夏ファッションが良く似合う、可愛い女の子一人。あと、その後ろに生えている草木やら土の地面やら、取り立てて変わった物は一つもない。ベンチに『ペンキ塗りたて』のような注意書きも見当たらない。
俺よりも先に、ある一つの可能性を見出した柊は、目を凝らしていたしかめっ面から、一気に血の気が引いた怯えた顔になり、「もしかして榎ちゃん…」と震えた声で言った。
「榎ちゃんの隣に、何か居るの?」
「うん…」榎ちゃんは、口元に笑みを浮かべてはいるが眉尻の下がった困った表情をして、頷いた。「信じてもらえるか分からないんだけど、私の隣におば…」
榎ちゃんは言いかけて止まった。正確に言うと、ビックリするぐらいのスピードと勢いで、柊に強制的に口止めされた。榎ちゃんは、柊に覆われた口を動かそうと試みるが、「んぁ」とか「んぐ」とか言葉ではない声しか出せていない。榎ちゃんは何か言う事を諦め、柊の事を見た。が、柊は、ひきつった笑みを浮かべ、ただただ無言で首を横に振った。
「しゃーねぇな」
何か面白そうな気配を察した俺は、柊を榎ちゃんから引き剝がした。暴れる柊を羽交い締めし、「イイから、まず聞いてみようよ。もしかしたら、『私の隣におばさんが引っ越して来たんだけど、その人が異国の方で、御裾分けにくれた料理がマジ不気味』的な愚痴かもしれないよ」となだめた。
口が動くようになった榎ちゃんは、一度口から新鮮な空気を吸って、吐いた。そして、語りだす。
柊は、ビビって身体が震えないように、腕を組むふりをしながら自分で自分の体を抱きしめた。柊とは対照的に、俺は興味津津で、榎ちゃんの話を聞く。
「実はね…」榎ちゃんは、神妙な語り口で、事情を話した。「今、私の隣におばけがいるの」
榎ちゃんは、言った。
榎ちゃんの話の真偽は置いといて、とにかく隣でビビっている柊が面白く、俺は「どんな?」と榎ちゃんに話の先を促した。
「うん。十歳くらいの男の子なんだけど、ここに座ってて」そう言うと、榎ちゃんは先程柊が座ろうとした、榎ちゃんの隣に空いてあるスペースを指差した。「少し話ししたんだけど、私だけじゃ力不足感があるから、二人にもって」
榎ちゃんは、怯える柊を見て、自分の判断が謝りで、迷惑を掛けてしまったと、後悔の色をにじませた。だから、そこは俺がすかさず「なるほど。そういうことなら俺達に任せてくれていいよ。なっ、柊」とフォローを入れた。
「う、うん」と柊は、頷いた。「で、でも榎ちゃん。見ず知らずのヤツを連れて来たら、何かの問題があるかもでしょ。だから、情が移っちゃう前に、早く拾った場所に返して来た方がイイよ。それも、そのコの為なんだから」
「いや、一応人間らしいから。ノラ犬みたいな言い方しているけど、人間のおばけらしいから」
尚も意味不明な抵抗しようとする柊を説得し、榎ちゃんに協力することにした。
しかし、ここでいきなり問題発生。
「でも、二人とも、彼の事 視えないでしょ」
問題とは、この榎ちゃんの言ったことだ。
榎ちゃんがおばけを見ることが出来る要因が、果たして〝願いを叶えやすくする力″から来るのか、それとも榎ちゃんに元々霊感が備わっているからなのかわからないけど、とりあえず視えている事は事実だ。榎ちゃんが嘘をつくとも思えないし、事実だと考えていいだろう。で、俺もおばけに出会った事が無いから分からないんだけど、どうやらおばけは、俺達天使といえども、普通に見ることは出来ない存在のようだ。視えないし、声も聞こえない。
「そうだね。アタシ達には、何も視えないし何も聞こえない」柊が、柄にもなく取り乱し、言った。「というか、榎ちゃんも気のせいだよ、きっと。榎ちゃん、疲れてるんだよ。だから、変な幻覚が見えたり幻聴が聞こえたりするの。ねっ、そうだよ。休もっ!アタシ、五リットルのパフェ出す店知ってるから、そこ行ってそれ食べて、リフレッシュしよう!」
柊はそう言うと、榎ちゃんの手を取った。
あたふたしている柊は面白いけど、俺は「いや、そんなん食べたら、余計変なモノ見えるから。身体壊して、巨大パフェの幻覚に襲われるから」とつっこむ。「それに、榎ちゃんの言ってる事信じないの?柊は」
「いや…そんな事はないけど…。でも…だからって、アタシ達には確かめる術がないでしょ」
柊は、またその問題に触れた。この問題を解決できない限り、この件は知らぬ存ぜぬで、無視を貫こうと思っているのかもしれない。若干表情に余裕の色が戻った。
しかし、だ。俺は、不敵に笑い、柊の余裕を蹴散らした。
「何よ?」
「その問題、俺が解決して御覧に入れましょ」
「ハッ?」
「まあまあ。四の五の言わず、俺に任せなさいな」
俺が今から何をしようとしているのか、柊には見当もつかないらしい。不安の表情に、疑問の色を加え、俺の事を見ている。
しかし、榎ちゃんは違った。俺がやろうとしている事を、察しよく理解し、「アレだね」と笑顔を浮かべた。
榎ちゃんの言うアレとは、そして俺が今からやろうとしている事は、〝テレパシー″だ。俺が持つ天使の資格、テレパシー二級の能力を使えば、有線という制約はあるが、意思の疎通ができる。そして、テレパシーで通じ合う事が出来るのは〝意思″だけではなく〝意識″もらしい。まだ俺が未熟だから完璧には出来ないけど、たとえばテレパシーで繋いだ一方が視た景色を、そのままもう片方が認識することも可能なのだ。つまり、今の場合で言えば、俺と柊を榎ちゃんと繋ぐ事で、榎ちゃんの視えている景色、おばけの存在が視えるかもしれないのだ。もちろん、声も。
榎ちゃんの言葉に首肯し、俺は説明する。
「そう。百パーセント出来る保証はないけど、もしかしたらテレパシーで繋げば、俺達にも視えるかもしれない。榎ちゃんと同じものが」
俺の話を聞き、柊も大体の事は理解したようだ。柊に目配せしたら、唾を飲み込むだけで、何も言わなかった。逃げる素振りも見せないし、覚悟を決めたということだろう。榎ちゃんも心配そうに柊のことを見たけど、柊は「ん?」と笑顔で応え、恐怖心を誤魔化した。
どうやら、やってもいいらしい。
俺は、集中した。今からやろうとしているこれは、普通のテレパシーの応用技とも言えるもので、未熟な俺には「ほいそれ」と容易にできるものではない。だから、集中する。眼を閉じ、頂点を三つ持つ線、三角形をイメージする。柔軟に形を変え続けることが出来る、強靭な線で俺達三人を結ぶ、三角形。それをイメージする。三角の形を作った両手の指、その指先に力を集中させ、線を具現化させていく。そうして創り出した線を、まずは榎ちゃんのオデコに、次は柊のデコに、最後に俺のオデコに、直接指で触れて繋いでいく。
「ふう~っ」
張り詰めさせた緊張の糸をほどき、俺は大きく息を吐き出した。
そして、ギュッと目を瞑っていた柊と一緒に、ゆっくりと榎ちゃんの隣、榎ちゃんがおばけが居ると言っていた位置を見る。
そこには、確かに人が居た。けど、脚が無い。おばけだ。
「よっ!」
少年の姿をしたおばけが、気さくに手を挙げた。
「なあぁああぁ!」
恐怖を隠しきる事が出来なくなったのだろう、柊は声を出して驚いた。
俺も、柊ほどではないが、驚いてはいた。どちらかと言えば、言葉を失ったと言った方がイイのかもしれない。でも、お陰で隣のヤツの様に無様に悲鳴を上げることはなかったし、瀬戸際ではあるが冷静も保てている。
俺は、自分に冷静になるように言い聞かせ、少年の姿を確認することに努めた。
少年は、榎ちゃんの言う通り十歳くらいの容姿をしていた。肌は、おばけだからなのか、不気味なほどに白いし半透明だ。が、それ以外の風貌からは、少年が生前は活発であった事を窺わせる。
榎ちゃんの言っている事は、本当だった。
おばけの存在を確認したので、次は、それと話をしようと思った。が、おばけの姿が消えてしまった。
俺と柊だけが「えっ?」と驚いていて、榎ちゃんは何の反応もない。という事は、おばけはまだここにいるらしい。試しに「貧乳」と柊に対して念じてみたが、柊に何の反応もない。どうやら、俺は冷静を保っていたつもりなのだが、精神状態が極端に乱れたのか、それとも単に応用技を持続する限界が来たのか、なんにせよテレパシーが切れてしまったらしい。
「ごめん。テレパシー切れちゃった」
俺は、そのことを二人に伝えた。
榎
「ごめん。テレパシー切れちゃった」
楸さんが、照れ笑いを浮かべながら、謝った。
どのタイミングで切れたのか分からないけど、どうやらこれで、もう二人にはおばけ君のことが視えないらしい。
自分の〝力″が本当に不便だと思う。私に普通に視える聞こえることが、他の人には普通ではない。だから、そこに認識の差が生まれ、話がこじれる。
でも、解決の糸口は見えた。
おばけ君の姿は、ちゃんと二人にも見えたみたいだった。だから、もう一回楸さんに繋いでもらえば、話がスムーズに進む。楸さんには負担を強いることになるけど、でも、お願いしよう。
そう思っていたら、おばけ君に話しかけられた。
「ねえ、おネエさん」
「ん?なあに?」
「さっき何やったの?あの二人、急に俺の姿が見えたみたいだったけど。テレパシーって何?あっちの浴衣のお兄さん、もしかして超能力者的な何かなんですか?」
おばけ君は、好奇心を露わにし、興奮した様子で私に尋ねた。
「ああ」私は、楸さんと柊さんに「ねえ。おばけ君に二人の事とか話しても大丈夫かな?」と確認を取り、二人が首肯してくれたので、改めておばけ君の質問に応える。
「二人はね、天使なの。さっき浴衣のお兄さんがやったのは、テレパシーって言って、私の視えている景色を二人にも見えるようにしたの」
「へ~スゲェ」おばけ君は、自分もおばけという変わった身の上だからなのか、興奮してはいるが、天使という存在に対して特に疑問を抱かず、すんなりと受け入れた。そして、状況を察し「てことは何?今はそのテレパシーとやらが切れたから、あの二人には俺の事が見えてないの?」と私に尋ねた。
「うん」私は、おばけ君の質問にまた応える。「二人には、おばけ君の姿も視えないし声も聞こえないから、だからもう一回テレパシーで繋いでもらって、話を聞いてもらおっ?」
私としては、それがベストだと思った。楸さんも、「うん。任せて」と言ってくれている。でも、おばけ君の顔は曇っていた。「ん~」と唸り、私達の考えには同意できないでいる。どうしたんだろう、と思っておばけ君の事を見ていたら、おばけ君には妙案があったらしい。「そんなことしなくてもいいかもよ?」と言った。
「え?どういうこと?」
私が尋ねると、おばけ君は不敵に微笑んだ。「こういうこと!」そう言うと、おばけ君は楸さんに向かって飛びこんだ。今 楸さんにはおばけ君の姿が見えていない。無防備な楸さんに勢いよく向かっていくおばけ君は、そのままぶつかるかと思った。そして、実際ぶつかった、ように見えた。けど、楸さんは、少しビクンと震えただけで、少年一人が勢いよくぶつかったにしては、反応が少ないように見える。もしかしたら、そう思い、ベンチから立ち上がって楸さんの背後に目をやった。おばけ君は、おばけなのだから、もしかしたら楸さんにぶつかる事が出来ず、そのまま通り抜けたのでは、と考えたからだ。しかし、おばけ君の姿が無い所を見ると、私の考えははずれたらしい。
「ねぇ榎ちゃん。何かあったの?」
柊さんに訊かれたけど、私も「わかんない」と首をかしげた。
何があったのか、というかおばけ君は何処に行ったのか?頭を働かせていたら、楸さんが口を開いた。
「おっ。成功!」
楸さんは、突然そう言った。自分の手や脚がある事を見て確かめ、動かして確かめている。そして、自分の身体をペチペチ叩くと、ニヤリと笑った。
「おっネ~エさ~ん!」
私と柊さんが状況を理解できずに固まっていたら、一人だけ状況を把握しているっぽい楸さんが、柊さんに抱きついた。不意打ちの様にとび付かれ、柊さんは、何も抵抗できず、されるがままに楸さんの腕の中に収まった。そして、楸さんは柊さんを抱きしめたまま、柊さんの耳元で優しく「大好き」と囁いた。
「ハッ?」「えっ!」
突然の愛の告白に、私はきっと、目をこれでもかと丸くし、顔も赤くしていたに違いない。でも、私よりも絶対、柊さんの方が目を丸くし、顔を赤くしている。
ワナワナと震える柊さんを、楸さんは微笑を浮かべて見た。そして、そのままキスをしようとした。が、我に帰った柊さんは「いぎゃああぁぁ!」と奇声を発し、楸さんの顔を思いっきりグーで殴り飛ばし、距離を取った。
柊さんに思いっきり殴り飛ばされた楸さんは、意識を失って倒れた。
「何すんの!この変態!」
柊さんは、倒れている楸さんを罵倒した。また殴りかかっていきそうな勢いだったので、状況を把握することが出来た私は、楸さんとの間に入り、その足を止めさせる。
「止めないで 榎ちゃん!アタシは、アレを原型なくなるまでぶん殴る!」
「ダメだよ、柊さん。楸さんは悪くないから」
「……え?」
激昂し、我を忘れていた柊さんの耳に、私の言葉が届いた。肩で息をしていて、まだ完璧に冷静というワケではないけど、話を聞く事が出来ないほどに取り乱しているワケでもない。だから、私は何があったのか、私が視た事を伝える。
全部おばけ君がやった事だった。
おばけ君は、姿が消えたのかと思ったが、実際は楸さんの中に入っていただけだった。たぶん、「霊に取り憑かれた」というやつだろう。「憑依された」と言うのかもしれない。楸さんの中に入ったおばけ君は、それが成功した事を確信し、柊さんに抱きついたりという行動に出た。そして、柊さんが怒って、楸さんに殴りかかろうとした直前、おばけ君は楸さんの中から出て来た。この時「ふぅ~危なかった」と言って逃げ出したおばけ君を見つけたから、私はこれらのことに気付く事が出来た。
「こういうことでしょ?」
私は、おばけ君に今の私の推測が合っているか、確認した。
「うん。合ってますよ」おばけ君は、笑顔で肯定した。「てか、さっきのマジ危なかった。アレ、俺じゃなかったら死んでたかもよ」と冗談を言うと、楸さんの方を見て「あのお兄さん、大丈夫かな?」と心配した。
おばけ君には、あまり反省の色が見られない。だから、私は注意する意味で、おばけ君を小突こうとした。けど、その手は何にも触れることなく、すり抜けた。
私は、少し悔しさを覚えたが、自分の感情より、柊さんが先だった。
「柊さん。今 おばけ君に確認取ったよ。やっぱ、そういうことだって」
「……ハッ!」と笑うと、柊さんは「榎ちゃん。その幽霊、今どこいる?」と訊いてきた。
「ここ」私は、自分の右横を指差した。「どうするの?」
「決まってるでしょ。ぶっ飛ばす!」
柊さんは、手の骨をボキボキ鳴らした。殺気に満ちたその眼は、先程の発言が冗談ではないことを物語っていた。が、「それより先に、楸さんの手当てしないと」と、私は遠くに倒れたままの楸さんを指差す。
「あっ…そうだった」
すっかり忘れていたようで、楸さんの事を思い出した柊さんは、しぶしぶといった面持ちで楸さんの介抱に当たった。
柊さんが楸さんの介抱をしている間、私はおばけ君に詰め寄った。
「何であんな事したの?」
「そんな怒らないでくださいよ。俺は、あのお兄さんの身体をちょっと借りて、少し話しようと思っただけなんだから」
「だったら、柊さんに抱きつく必要ないでしょ」
「それはほら。『あいさつ』みたいな?」
おばけ君は、ませていた。
楸 Ⅲ
寝ていたようで、俺は目を覚ました。上半身だけをむくりと起き上がらせる。
何時からなのか明確でないが、記憶が飛んでいる。で、気付いたら、柊が謝ってきた。どこか焦りの色が見える柊に「ご、ごめん 楸」と言われたが、何の事か分からない。だから、そのまま「何の事?」と訊いたんだけど、柊は「何?アンタ、覚えてないの?」と返して来た。
「質問に答えろよ。何の事?」
「アタシの質問に答えろよ。覚えてないの?」と柊が、有無を言わせぬ圧を掛けて来た。
「……うん」
俺が渋々答えると、柊は、薄っすらと赤くなった顔をしかめさせ、複雑な表情を浮かべると「なら、いいや」と唇を尖らせ言った。話を有耶無耶にする気だ。
「何がいいのさ?」
「いいから、アンタは気にしなくていいの。ホントはヤだけど、特別許したげるって言ってんの」
「……許すって、俺なんかしたの?」
訊いたが、柊は何も言わなかった。勝手に一人だけ解決したようだ。
俺は、なんだよ、と不満に思い、ふと痛む右の頬に触れた。
え?てか、何で痛いの?
気にし始めたら、どんどん痛みが増してきたんだけど、俺に一体何があったの? 俺は、激しく疑問と不気味な恐怖を感じた。でも、何となく分かった。この尋常じゃない痛み、柊に殴られたに違いない。身に覚えがある。で、何故殴られたのか、具体的な理由は分からないけど、推測は出来る。俺の記憶が一瞬飛んでいる事も関係していると思うのだが、たぶん、あの〝おばけ″の仕業に違いない。たぶん俺の身体、乗っ取られたんだ。
そう思い至ると同時に、俺にはある考えも浮かんでいた。対応策と言った方がイイかもしれない。俺は面白おかしく状況を楽しみたいだけなのに、被害を受けるのは好ましくない。だから、二度と今みたいな悲劇が起きないようにする為の、対応策だ。
俺の代わりに被害を受ける役として、椿を呼ぼう。
でも、俺が呼んだとしても、あいつが簡単に動くはずが無い事も、俺はわかっている。相棒なのだから、あいつの思考パターンくらい、なんとなくわかる。
ってことで、俺はそんな腹案を持ち、とりあえず柊と一緒に榎ちゃんの居る方へ戻る。心配してくれた榎ちゃんに手を挙げて応え、無事をアピールする。
「榎ちゃん。まだおばけは居る?」
「うん。私の隣に。それより、楸さん大丈夫?」
榎ちゃんは、俺の事を心配してくれた。チラッと柊の顔を確認すると、気まずそうな表情をしていたから、俺の推測は大体あっているようだ。「うん。俺は平気」と、榎ちゃんに答え、俺は、腹案を持ち出す。
「ねえ榎ちゃん。俺に考えがあるんだけど、いいかな?」
「うん。何?」
「あのさ、椿呼ばない?」
「椿君?」あの役立たず、と榎ちゃんは意外そうな反応をした。「椿君呼んでどうするの?」
「別に、あいつに何かしてもらおうってワケじゃないんだ。そもそも榎ちゃんは勘違いしてるみたいだけど、俺達天使はおばけ相手じゃ無力なんだ。専門は〝生きている″人間だから」
「そう…みたいだね。ゴメンなさい」
申し訳なさそうに榎ちゃんが頭を下げた。だから俺は慌てて「いや、頼ってくれたのは嬉しいよ」とフォローを入れる。
「でも、実際問題として、俺達が直接出来る事はないってわかって欲しくて。ね、柊?」
「……まあね」
面倒くさそうに、柊は言った。どうやら、一度怒りを爆発させた事によって、おばけに対する恐怖心を吹き飛ばしたようで、柊からはさっきまでの怯えが消えている。
「俺にしても、まだまだ未熟だから、さっきのテレパシーもたいして役に立たなかったでしょ。だから、ここはひとつ、椿に一役買ってもらおうかと」
榎ちゃんと柊は、俺の考えが読めていないようで、難しい顔をしている。たぶん、おばけもだろう。榎ちゃんが「椿君っていうのは、私達の友達の男の人」と説明しているのは、おばけに対してだと思う。
俺は、一人は視る事が出来ないが、それでもみんなの反応を窺いながら、続きを話す。
「俺達と違って椿はさ、まだ何も知らないワケじゃない。だから、椿には何も知らないままここに来てもらって、おばけ君の容れ物になってもらおうよ。生きている人間に入れば、その人の人格を乗っ取って、好きに行動できる。さっき俺にやったんでしょ?」
俺は、榎ちゃんに確認を求めた。榎ちゃんは、横を向いて、たぶんおばけの言う事を聞いているのだろう。暫し間を開けて、「うん。そうだって」と頷いた。
榎ちゃんの首肯で自分の考えが正しい事が証明できたのだが、同時に、俺の心境は複雑だった。これで今後の計画を実行に移せるのだけど、それは同時に、やはりさっき俺の身体が乗っ取られていた事も証明されたので、俺が乗っ取られている間に俺の身体で何をされていたのかを考えると、我が身が汚されたような、気持ち悪さを感じる。
が、それはひとまず忘れよう。気持ちを切り替え、俺は説明を続ける。
「俺達は、おばけ君が何を想っているのかを知りたい。仮に、おばけ君が成仏したいけど未練があって出来ないって言うなら、しゃーねぇけど仕事の一環として、何かしてあげなくもない。だけど、椿は今回、なんも知らない。だからせめて、あいつには身体を提供してもらおうって、そういう話なんだけど、どうかな?」
そう提案し、俺はみんなの反応を窺った。みんな 一様に渋い顔をし、すぐには判断できないでいる。
賛成か反対、どちらでもいいから反応を待っていると、柊が「それだけなら、榎ちゃんが通訳してくれればいいんじゃ?」と、提案した。
俺は「あ、そっか」と、その方法もあったなあと気付かされる思いでもあったが、それでは俺の身代わりが不在のままだ。それでは、また俺が理不尽な被害をこうむる可能性がある。即刻反対しようと思ったが、俺よりも先に、榎ちゃんが「でも、おばけ君も椿君に会ってみたいって」と、柊の考えを断った。
榎ちゃん、というかおばけもそれを望んでいるし、反対意見も出ないようだ。
これで、椿を呼ぶ事が決定した。
「それじゃあ、榎ちゃん。椿 呼んでちょうだい」俺が言うと、榎ちゃんは「えっ?」と、何で私が、という疑問の眼を俺に向けた。「俺が連絡しても良いんだけど、あいつ 俺だと無視する可能性があるから。今回は仕事ってワケでもないから特にね。だからさ、お願い」
「うん。わかった」
わかられたらわかられたで、複雑な気持ちになるのは何故だろう。
榎ちゃんは、ケータイを取り出し、椿に電話を掛けた。コール音が続いている間に、俺は「用があるからってだけ言って、詳しい事は伏せてね。あのチキン、ホントの事 言うと来ないかもしれないから。あと、俺が居る事も、一応内緒で」と榎ちゃんに指示した。
榎ちゃんが無言で頷いた時、椿が電話に出た。
『なんだ?』耳をそばだてると、電話のマナーを知らない椿の不機嫌そうな、無愛想な声が聞こえた。
「あ、椿君?今 ヒマ?」
『特別ヒマってわけでもない。今は、ウチで読書中』どうせマンガ本だろ?
「そう。あのさ、今からちょっと公園に来てくれないかな?あの、いつものトコ」
『……なんで?』
「ちょっと…」
『ちょっとって何だよ?』椿の訝る声が聞こえる。
「少しね、椿君に頼みたいことがあるの」
榎ちゃんが誤魔化すと、椿はややあってから『クソ天使もいるのか?』と妙な勘の良さを見せて来た。どうやら、こちらの企みに気付きかけているようだ。バカのくせに。
俺は、榎ちゃんに動揺しないよう、冷静を心掛けてくれと、興奮した動物を落ち着かせる為にドゥドゥとやるような仕草をした。それを見て、榎ちゃんは小さく深呼吸した。
「楸さんはいないよ。私と柊さんだけ」
瞬間、俺は不安を感じた。柊の名前が出て、椿がどう思うか、想定していなかった。これだったら、柊の名前も伏せておくように言った方が良かったかもしれない。柊が居る事によって、敬遠しないとも限らない。でも、柊も居るからという理由で、『行かない』という選択肢を取る可能性が減少するかもしれない。つまり、コレは賭けだ。榎ちゃん一人の名前だけの場合、俺の勝利が八割弱だとすると、今はどちらに転ぶか分からない状態だ。勝率が九割越えしているのか、それとも半分を切ってしまうのか。どちらか?
既に賽が投げられた今、俺は結果を黙って待つ。
『わかった。行けたら行くけど、行けなかったら悪い』
俺は、勝った。
榎ちゃんは電話を切ると、俺達とではなく話し始めた。たぶん、おばけと。
(そいつ、来るの?)「うん。今のは、来るって意味だと思うよ」(でも、なんか微妙なこと言ってなかった)「それでも、たぶん来てくれるよ。ちょっとね、変な所で意地張ったりして、素直に『うん』って言ってくれる事が少ない人だから」(へ~。めんどくさっ)「えへへ。でしょ?」
榎ちゃんが何に対して同意したのかは分からないけど、榎ちゃんの顔は笑っていた。
椿が来るのは、たぶん早くないだろう。急ぎのようならともかく、今の榎ちゃんの話し方からは緊急性も感じられなかったし、ゆっくり来るに違いない。絶対に走っては来ないだろうから、結構待つかもしれない。
椿を待つ時間は、柊の提案した、榎ちゃんに通訳になってもらうやり方で、おばけの話を聞く事にした。といっても、本題は椿が来てからゆっくりと聞けばいい。だからとりあえず、「憑依するってのは、どういう感覚なの?」と、この後の事において、椿に洒落にならないような〝もしも″があっては不味いので、その事について質問した。
榎ちゃんは、「うん……うん…」と相槌を打ち、おばけの話を聞いた。そして、少しずつ区切りをつけながら、俺と柊に話してくれた。
「その辺の話をするには、ちょっと前置きをする必要があります。…これは俺の経験から話す事だから、根拠っていう根拠はありません。…まず、霊感がある人ってのは、実際に居ます。…俺を視る事が出来るレベルの人は稀だけど、霊が居るなって感じるだけなら、出来る人は少なくありません。…それで、憑依の話に戻りますけど。…それは、実際に入ってみないとわかりません。…けして、霊感がある人、霊力が強い人だからと言って、成功率が上がるかもしれませんが、憑依が絶対可能とも限りません。…必要なのは、最低限の霊に対する耐久力と憑依する霊との相性です。…とどのつまり、憑依してみないと、なんとも言えません」
へーそうなんだ、と感心していたら、榎ちゃんが突然「えっ。それ言っていいの?」と慌てふためいた。何だろうと不思議に思っていたら、榎ちゃんが言いくるめられたようだ、「わかった」としぶしぶ言い、説明を続けた。
「だから、さっき浴衣のお兄さんの中に入った時、お姉さんを抱きしめて愛を囁いたのは、どれくらいの行動が可能なのか、確かめる為です」
榎ちゃんは、恥ずかしそうに俯き、声をくぐもらせていた。
榎ちゃんが言うのを躊躇った話の内容を聞いた時、俺の中にあった感情は、不快感と怒りだった。俺の身体使って、なんてことをしてくれたんだよ。榎ちゃんの反応から察するに、じゃれ合って抱きつくと言うよりは、本気で抱き締めたと解釈していいだろう。ホント、なんて事をしてくれたんだ。そんで、確かに質問したのは俺だけど、そんな律義に答えることないし、なんだったら気を遣ってオブラートに包んで言ってくれればよかったんだよ。じゃないとほら、俺は知らないけど、その時を思い出して急激にまた恥ずかしくなった柊が、行き場の無い想いを発散させる為に、俺を殴るんだ。
「大丈夫、楸さん? あ、あの…ゴメンね」
榎ちゃんが、俺を心配してくれた。その優しさに救われた俺は、「大丈夫。榎ちゃんが悪いんじゃないし」と応えた。榎ちゃんは、尚も喋った自分が悪いんだと罪悪感を感じているようだけど、悪いのは、すぐに暴力に訴える理不尽な胸無しと、人の迷惑も考えないで好き勝手行動する脚無しだから。それに、二人は謝りもしないでしょ。まあ、おばけの方は知らないけど、実行犯はそっぽ向いてるよ。だから、「榎ちゃんは気にしないで」。
俺は、朦朧とする意識を、気合でハッキリと保ち、榎ちゃんに安心するように伝えた。
それにしても、だ。
榎ちゃんに通訳してもらうやり方は、発想としては悪くないが、ダメだ。榎ちゃんに言いたくない事を言わせるかもしれないし、余計な心労を掛ける。やはり、椿が必要だ。
けど、やはりその前に、今 している会話だけでもしっかりと終わらせたい。だから俺は、自分に鞭打って、再びテレパシーを繋ぐ事を試みた。創り出した線を、俺と榎ちゃん、また抱き締められるとでも勘違いしたのか身構える柊にも繋ぐ。
成功したようだ。また、おばけの姿が見えた。「いいよ。今なら、自分の口で喋っても、俺たちに聞こえるから」と、おばけに話の続きをするよう促した。おばけは、俺や柊の視線がちゃんと自分に向けられていることに気付くと、驚いた顔をした。感心しているのかもしれない。
「ホントにイイの?」とおばけは訊く。
「どうぞ」
「では、改めて。憑依の相性について、さっき確認したお兄さんとの結論だけど、ハッキリ言って中途半端って感じですね」
微妙な判定だった。けど、別におばけとの相性なんて良くても嬉しくないし、判定した時の行動について、俺は記憶が無いから何とも言えない。つまり、この評価に関しては、すごくどうでもいい。
俺が苦い顔をしていると、おばけはそれを説明不足による釈然としないものだと解釈したらしい。説明を続けた。
「お兄さんの身体を支配することは出来た。ちゃんと言葉も喋れた。人によっては相性が悪いと、入っても身体を動かす事が出来ない場合もあるし、身体を動かす事が出来たとしても、ちゃんと言葉を発せない場合もあります。『あ~』とか『う~』とか呻き声だけで。だから、一応憑依は出来たってことでイイ方ではあるんだけど、完璧でもないですね」
「完璧じゃない? 聞く限りだと、それでいいんでないの?」俺は訊いた。
「いえ、完璧じゃないですね。何故なら、俺自身には抱き締めたっていう感触も、女の人特有のいい匂いも感じられませんでしたから」柊は、それを聞いて、嫌悪感をむき出しにしておばけを睨んだ。が、一度死んで恐怖感に疎いのか、おばけは気付いていない。「もっと完璧にリンク出来れば、感覚の共有も可能なはずなんだ」
おばけは、そこで説明を終えた。どうやら、おばけとしてはこれ以上〝憑依″について言う事はないのかもしれない。けど、まだ肝心の部分が残っている。
「それで、リスクってあるの?」
俺が訊くと、おばけは「それ言うの忘れてた」と、うっかりミスを自ら笑った。
「あるよ」と平然と答え、「俺自身に関しては無いと思うけど、被憑依者については、霊に対する耐久力が無い、もしくは少ないと、精神が蝕まれ、下手したら廃人になる事もあるって、別のおばけに聞いた事がある」とリスクについて説明を加えた。
「まじ?」
俺達の顔に不安の色が差し込むのを見ると、おばけは慌てて取り繕うように「あ、でも安心してください」と言った。「俺、結構練習もしたし、場数も踏んで、上手くできる自信があります。もし相性が悪いって分かれば、何か異常が出る前にすぐ肉体から出ていくし。だから、その椿って人に危険が及ぶ可能性は低いと思ってくれていいですよ」
「あ、ゼロじゃないんだ」
「そこはほら、どんなに強力だと謳う洗剤でも、除菌力が百パーにならない事と同じだと思ってくださいよ」つまり、おばけの為の保険ってことか。「一応言っておくと、下手なヤツは、一度入った肉体から出られない事もあるし、タチの悪いヤツは、相性が悪くても無理矢理支配しようとして、最終的に憑依した人間を壊す事もある。俺は、それは十中八九ないから安心してください」やっぱ百パーでは無いんだ。
更に取り繕うようにおばけは言ったが、俺達の不安は拭い切れない。
「椿君、大丈夫かな?」と榎ちゃんは、俺達に訊く。
「さあ?」俺も、何とも言えない。
「ハッ。別に話聞くだけだったら、感覚なんて効かなくても出来るでしょ。楸、もっかい取り憑かれな」他人事だからと、柊は軽く言う。
「やだ。絶対」俺は、断固拒否した。
「あ、俺も出来れば感覚欲しいですね。ですから、その椿って人に賭けてみたいです」
「ほら、おばけ君もこう言ってるし、モルモットが来るのを待ちましょ」
「椿君 来たよ」
榎ちゃんの声に反応し、おばけは「どの人ですか?」と首を伸ばした。
「あの人、あのニット帽被ってる」
榎ちゃんの指差す方を、おばけは見た。
しかしここで、身代わりとなる椿が来た事で、俺はうっかり安心してしまい、テレパシーが切れてしまった。これで、一旦おばけの姿が見えなくなる。
でもたぶん、まだおばけは、椿の事を品定めするように見ているはずだ。
椿は、まだ俺達のことを見つけられないでいる。ポッケに手を入れて、たらたらと気だるそうに歩き、俺達を捜している。やはりというか、椿に急いできた様子は微塵もない。
「お~い。椿君」榎ちゃんが、手を振った。
あ、気付いた。
椿は、俺達を見つけると、露骨に嫌そうな顔をした。俺が軽く手を挙げて、好意的な笑みを浮かべて挨拶しても、礼儀を知らない椿は、顔をしかめた。重い足取りを更に重くさせ、「何でクソ天使も居るんだよ」とぼやきながら、俺達の方へと歩いて来る。
しかし、あと数メートル、三メートル弱くらいかな、俺達の輪の中に入るか入らないかという所で、椿は脚を止めた。
「どうしたの?」
俺が訊いても、椿は答えない。訝るように顔をしかめ、俺達のこと、俺達の周囲をしげしげと見ている。そして唐突に「帰る」と踵を返した。
「ちょ、待ってよ 椿君!」
榎ちゃんが止めようと声を掛けるが、椿は「つーか、先に言ってあったはずだ。行けなかったら悪いって。急用を思い出したから、帰るわ」と聞く耳を持たない。そのまま椿は、振り返らずに帰ろうとした。が、これまた急に止まった。というより、見えない壁にでもぶつかったように、椿の意思とは関係なく止まった。
何があったのか分からずに、椿はぶつけたオデコを抑えているだけだが、俺は、椿が止まった原因に心当たりがあり、柊を見た。
右手を椿の方に伸ばした柊が、「ハァ~」と深く息を吐き出した。
「柊。あれ、柊の仕業でしょ」
「そっ。椿の態度があんまりにも悪いから、強制的に居てもらう事にした。アタシの持つ悪魔の能力〝空間凍結″を使って」
「やっぱり」俺の予想は当たっていた。
柊は、〝空間凍結″という、定めた範囲の空間の時間を止める能力を使っていた。この能力は、意識して定めた範囲内にある動植物や空気の様な無生物など全てを止める事が出来る。もちろん、人間も例外ではない。でも、柊が今やっているのは、椿の周りの空気を止めるだけで、椿自体は止めていない。したがって、椿は動けるが故に、見えない空気の壁に衝突したのだ。ちなみに、「出せ!柊か コラ!出せ おい!」と椿が暴れている所を見ると、椿は四方を空気の壁で囲まれ、捕えられてしまったようだ。知らない人が傍から見れば、あいつパントマイム上手いな、と思うかもしれない。
「うるさい」柊が、不機嫌そうな顔をして、椿に近寄った。「上に蓋しないだけありがたく思いな。それともアンタ、窒息してもいいの?」
柊に脅され、檻の中の猛獣、じゃなく空気の壁に取り囲まれたチキン・椿は大人しくなった。暴れる事をやめ、逃げる事を諦めた椿は、先程までの怒り狂っていた時からは一段とトーンダウンした、壁のせいでくぐもった声を出した。
「つーか、お前ら何する気だよ?俺のこと捕まえて、何したいんだ?」
椿の質問に、俺達は答えない。ここで本当の事を言うと、また暴れ出しかねない事くらい、俺達にはお見通しだからだ。だから、俺は「ちょっとさ、力貸してもらうよ」とだけ椿に言い、榎ちゃんに目で合図を出した。
おばけが視えない俺の代わりに、今度は榎ちゃんがおばけに目で合図を出した。
榎ちゃんからGOサインを受けたおばけは、たぶんだけど、椿の頭上、唯一空いている所から空気の壁で出来た囲いの中に入った。
そして、椿に憑依する。
椿は、まるで空気の大砲にでも被弾したかのように、ドクンと身体を揺らした。
おばけが椿の中に入ったようだと判断し、柊は空気の壁を消した。
椿は、というかおばけは、まだ何も反応を見せない。アゴを引いて、頭をカクンと垂らし、そのまま硬直している。
まさか、と最悪の可能性が頭をよぎった時、椿の身体が動いた。
椿の身体は、何も言わず、俺達の事を順に睨むように見た。そして、視線が榎ちゃんまで行くと、じっと榎ちゃんを見つめた。そして、そのまま榎ちゃんとの距離を詰める。
榎ちゃんは、ゆっくりと近付いて来る椿に怯え、ビクッと身体を強張らせた。たぶん、今 榎ちゃんの頭の中には、おばけが入った俺が柊にした様な、椿と自分が抱きあっている姿でも想い浮かんでいるのだろう。それで、嬉しいけど恥ずかしい、逃げたいけど逃げたくない、みたいな葛藤を抱いている。
もしもの時は椿の身体に怪我を負わせるのもやむを得ないとし、俺は状況を見守る。
「榎…」椿は言った。
「はいっ!」
「俺に、何した?」
椿の身体の支配権は、椿にあった。
「えっ?」と、俺と柊は、呆気にとられる。それは、榎ちゃんも一緒だった。事の成り行きが見える榎ちゃんの反応は、つまり、おばけは確かに椿の中に入ったけど、中身が椿のままであるという違和感を示している。
「答えろ、榎」
疑問を抱える俺達のことなんか気にも留めず、椿は、一番質問に答えてくれるだろう相手、榎ちゃんに詰め寄った。怒りを滲ませ、椿は榎ちゃんの目の前で止まった。
そして、榎ちゃんに抱きついた。
え、あれ?
「え?」
「ハ?」
「……あれ?」と、あれは椿だと油断していた俺達だけでなく、椿本人も驚いていた。
驚きの渦中にある俺達の中でも、榎ちゃんは顔を赤くし、高速で瞬きをしている。
「んだこれ?」
椿は、自分で自分の行動を理解できないでいた。そして、今度は「愛してる、榎」と榎ちゃんの耳元で囁いた。
なにこれ?
俺の理解の範疇を超え、謎としか言いようがない事が、目の前で起こっている。そのせいでモノローグも満足にできない。
とりあえず、簡単な所から状況を整理していこう。柊は、気持ち悪い物を見るかのような目つきで、椿を見ている。で、榎ちゃんは、放心状態だ。顔を真っ赤にし、口はワナワナとふるえるだけで、悲鳴も出せない。で、椿が一番謎だ。椿は、榎ちゃんへのセクハラをエスカレートさせ、今度はキスまで迫り始めた。しかし、唇を尖らせ、榎ちゃんに迫っているが、キスは出来ないでいる。何故なら、「んだこれ?」と椿本人が、左手で榎ちゃんの肩を、右手で榎ちゃんの頭を掴み、距離を取って接触を拒み続けているからだ。
ホント、なにこれ?
「おい柊。頼むから、俺から榎を引き離してくれ。クソ天使でもいいから」
椿の頼み方が気に食わないから、俺はパス。柊が、しぶしぶと言った感じで、榎ちゃんを椿から引き離し、ついでにバシーンと椿に強烈なビンタをお見舞いした。
「いや、俺 悪くねぇよ」椿が、ぶたれた左頬を抑えて言った。「つーか、俺の方が何起きてんのか説明して欲しいくれぇだし」
椿の疑問は、俺達も同じだ。
そして、それに答えられるだろう存在は、ここにいないおばけだけだ。
どうしようか考えていたら、ふと閃いた。
「ねぇ、椿。全身の力抜いてさ、頭も何も考えない空っぽの状態にしてみて。頭は普段通りだから、簡単でしょ」
「誰の頭が空っぽだよ!」
「いいから。ほら」
椿は、まだ文句を言いたそうだったが、それでも自身の疑問を解決する方を優先したのだろう、俺の指示に従った。虚脱状態になり、余計なことは考えず、頭をからっぽにする。
すると、突然「いや、まいりましたね」と椿が言った。いや、たぶんおばけの方だ。
「おばけ君?」と榎ちゃんが確認したら、椿の身体は首肯した。
「おい。何がどうなってんだよ?」
椿が、動揺を隠しきれず、自分の身体に質問した。
「実はですね」と、椿の身体が答える。自問自答を内面でせず表に出す様はなかなかに面白いから、俺は黙って聞く事にした。「俺、おばけ的な存在なんですよ」
「は?」と、自分の口から発せられる言葉に、耳を疑う椿。
「だから、おばけなんです。幽霊。ゴースト。ユー、ノウ?」
「…NO」
「だから…」
「ちょぉ、待て。つーか俺はな、幽霊だとか非科学的なモノは信じないんだ」
「天使は?」俺は、思わず口を挟んだ。
「天使は……ギリセーフ。でも、幽霊はギリアウト。つーかあれだろ?お前は、俺の中に巣食う別人格的な、もう一人の内なる俺的な存在だろ?」おばけを頑なに認めたくないのだろう、バカが必死だ。
「違いますよ。俺は、歴とした俺自身です。あなたとは違います」
「て言うがよ、それ言ってんのも俺の口だろ?つまり、お前は俺なんだよ」
「違いますってば。疑うんなら、みなさんに確認してみてくださいよ」
椿は、俺達の顔色を窺った。俺の口が言っている事は、果たして真実なのか、と。だから、俺達は頷く。お前の口が言っている事は、真実ですよ、と。しかし、椿は何が気に入らないのか、チッと舌打ちした。
その後も、椿の身体一つで行われる討論は、終着点を見つける事が出来ないまま続けられた。が、そのやり取りは不毛と言う他なく、そうであれば「不毛な言い合いは止めなよ」と仲裁に入るのは、妥当な行為だろう。「一回落ち着いてさ、座って話しましょ」
俺が提案し、椿をベンチに座らせて話をする事にした。といっても、既に目の前にはベンチがあるのだが、公園に来た時から大分時間が経ってしまったせいで、真上にあった太陽が傾き始め、木陰がかからなくなっている。つまり、このベンチでは暑い。
場所を移す事も、俺が提案した。今度は、どれだけ話していても日陰に居られるよう、木陰の下でもあり、きのこの傘の様な屋根の下にある、きのこの柄の部分を囲う様に一周しているベンチに、腰を下ろした。
「ちょっといいか」ベンチに腰を下ろす際、椿が「さっきの能力で、俺の手を縛ってくれないか」と柊に頼んだ。
「さっきのって、〝空間凍結″?」
「ああ。腕を柱の後ろに回して手を組むから、そこで手を縛って欲しい」
「いいけど…」柊は、訝るような視線を椿に向けた。「何で、そんな事すんの?」
柊に質問され、椿は嫌そうな顔をして、答えた。
「決まってるだろ。俺が、勝手に変なことしないようにすっためだよ」
ああなるほど、と俺達は同感する。
確かに、椿の先ほどの奇行が、椿本人の意思でなく、椿自身も止められないのであれば、その考えは正しいだろう。
「わかった」柊は、了承した。が、「でも、さっきのやり方で縛るなら、あれは空間を縛る能力だから、紐で縛るような時と違って、アンタの手はその位置から動けなくなるよ?」と忠告を加えた。
「ああ、構わない。つーか、榎にいきなり抱きつくぐらいだったら、それくらいの事、余裕で我慢できる」
椿のそのデリカシーに欠ける物言いに、榎ちゃんはガクッと肩を落とした。「そんなに嫌…?」と嘆くが、その囁きは椿の耳には届かなかった。
「わかった。じゃ、やるよ」
「おう。頼む」
椿は、先程自分で言っていた格好になる。その様は、まるでこれから拷問を受けるかのようだ。椿の背後に回ると、柊は右手を前に出し、人差し指で八の字を描いた。それで椿の両手を縛る、空気の手錠を作ったのだ。
「はい、いいよ」
柊が終わった事を告げると、椿は、腕をぐいぐい動かして、本当に動かす事が出来ないのか、確認し始めた。もちろん、動かせない。これで、榎ちゃんに抱きつく事も出来まい。というか、何をされても反撃すら出来まい。
その事に気付くと、俺の中の何かが、俺を唆した。俺は、抵抗しようと試みたが、おばけにでも憑依されてしまっているのか、身体が言う事を聞かない。脚は止まらずに椿の前に俺を運び、腕は上がり、右手はデコピンの構えを取る。ダメだ、笑みも止まらない。
しかし、いざデコピンという所まで来ると、「つーか、お前は何やってんだ」という椿の怒声と共に、椿のキックが飛んできた。
「痛っ!」蹴られた左の脛を抑え、ぴょんぴょんと飛びまわる。脚は自由に動く事を、失念していたのだ。「柊!椿の両足も縛った方がイイよ」
そう助言しても、柊は「ハッ」と笑うだけで、何もしなかった。
そして、俺と榎ちゃんの椿に対する恨みにも似たどす黒い感情を置き去りにし、俺達が見守る中、椿は会話を再開させた。
「で、俺…」
「だから、俺はあなたじゃないですってば」
と、顔に呆れを滲ませたおばけが、会話に入ってきた。
「っせえよ。いいから答えろ。俺は、何だ?」
「俺は何だって、なんですかそれ?自我の喪失ですか?あなた、バカですか?」
「椿は、バカだよ」
と、俺はおばけの疑問に答えたが、椿に「っせぇな!お前は黙ってろ」と怒られた。
「で、俺…」と、バカな椿は、話を改めようとした。が、すぐに「だから、俺はあなたじゃないですってば」とおばけに訂正される。また不毛な言い合いが始まろうとしていた。けど、今度は違った。
学習能力のある方だから、たぶんおばけの方だろう、椿の口が俺達に言った。
「すみません。俺からじゃ無理そうなんで、誰か言って納得させてくれません?」
おばけの頼みに、俺達は二つ返事で答える事が出来なかった。何故なら、バカにモノを教える事は、それなりに疲れる事だからだ。また、椿は明らかに、おばけの存在を否定している。ビビりだから、おばけも嫌で、その存在を認めたくないのだろう。そうなれば、今のおばけの依頼に応える事は、余計に疲れるし、かなり面倒くさい。
しかし、だからと言って、無視する事も出来ない。しぶしぶではあるが、俺達はおばけの依頼に挑戦する。
まずは、榎ちゃん。
「あのね、椿君。今、椿君の中にはおばけが入ってて…」
「ああああ!聞こえない」
榎ちゃんの声は、ビビりの喚きにかき消された。
次に、柊。
「ああああ!聞こえませんよ」
「大丈夫。アタシも、まだ認めたワケじゃないから。今回だけは全面的にアンタの味方になってやるよ、椿」
説得を試みたはずが、説明することでおばけの存在を認めてしまうのではないかと、恐怖心がぶり返してしまい、柊は裏切った。
裏切り者を下がらせ、真打・俺の出番。
「あのさ、おば…」
「あああああ!」
「おばあちゃんっ子って、優しい印象ない?」
「あああああ。…あ?」
「ぷぷっ。勢いで怖がってやんの」
椿を嘲笑っていたら、「アンタも何してんの」と柊が俺を小突いた。
結局、真面目に椿を説得する意思があるのは、榎ちゃんだけだった。だから、榎ちゃんに説得を続けてもらい、俺は援護に徹する。柊は、邪魔なので待機。
しかし、どんなに説得しようとしても、無理にでも言いくるめようとしても、椿は頑としておばけの存在を認めようとしなかった。
だが、諦めずに根気強く粘り続けていたら、椿は「わかった」と言った。
努力が報われ、俺と榎ちゃんはホッと息をつく。が、それも一瞬だった。何故なら、椿が「俺の中に、俺の別人格でもない〝何か″が居る事は認めよう」とのたまいやがったからだ。
「何でそうなるんだよ」
という俺のツッコミを無視し、椿は続ける。
「俺の中には、いつの間にか別の〝何か″が巣食っていた。寛大な俺は、それは認めよう」椿は「それ」を強調するよう。語気を強めた。「でだ。俺は、お前と、ちゃんと人として接したい。おばけなんてバカげた相手としてじゃなく、な。だから、まず名乗れ」
椿は、あくまでも〝おばけ″の存在は認めたくないらしい。けど、どうやら話としては前進している。俺達はそれを感じ取り、おばけも同じようだ。やや間を置いてから応えた。
「……レイラ」
「そうか、レイラか」
「うん。生前は別の名前があった気がするけど、忘れちゃったし、今風の名前にしたいから。それに、ラ行が名前についているとカッコいい感じがするから、幽霊の『霊』に羅生門の『羅』で『レイラ』でいいよ」
椿の口で、おばけは名乗った。
しかし、すぐに今度は椿の方が、慌てて言った。
「おまっ…。生前とかサラッと言うなよ。つーか、名付け方も止めろ、それ!」
「いいじゃないですか。どうせ俺、幽霊なんだし。名は体を表すってことで」
「だから、そういう事言うなよ!」
また言い合いが不毛な方向へと逸れていく気がした。だから、俺は二人、というか椿の間、いや間ではないな、でも二人だけど実質喋っているのは椿だけだし…とにかく、二人の間に割って入った。
「ちょっとストップ!」
「あ?」
「俺らは、そのレイラってヤツの話が聞きたいんだよね。正直に言うけど、椿にはそいつの容れ物として、話す口の役をやってもらいたかっただけだから、悪いんだけど少し黙ってくれない?」
俺が丁寧に頼んだのに、椿は「ざけんな!お前やれよ」等と騒いだ。が、しばらくすると騒ぎ疲れ、「仕方ねえ。やってやるよ」と口役を受け入れてくれた。なんだかんだ言って、椿もレイラの話が気になるのだ。
椿が無抵抗を決め、全身の力を抜くと、レイラが椿の身体の主導権を握った。
「いや~やっと本題に入れますよ」レイラは、やれやれといった感じで首を振り、そう前置きをした。「この椿って人、俺の姿は視えてないようだったけど、感じる程度の霊感はあったようだし、免疫力も相当あるみたいなんですよ。そして何より、俺との相性はピッタリみたいなんですよね」
「へ~そうなの」
「はい。あの、榎さんって言いましたっけ?」
レイラに指差され、榎ちゃんは「うん、そうだよ」と頷いた。
「榎さんを抱き締めた時の柔らかな感触も、女性特有のいい匂いも、確かに俺は感じる事が出来ましたから、身体の相性はピッタリだと思います」
レイラに言われ、榎ちゃんはその時の事を思い出し、顔を赤らめた。そして、椿は、すぐさま身体の主導権を取り戻すと、間髪入れずに「気持ち悪い言い方すんな」と怒鳴った。
「いいじゃないですか、別に」レイラは、あっけらかんと言い返す。しかし、「でも」と、今度は悩んだ顔になり、不満を洩らした。
「身体を動かす事も出来るし、喋る事も出来る。感覚を共有する事も出来るなんて、それを待ち望んでいた俺にとって、天にも昇るくらいの感動でしたよ」
「ホントに昇ったら成仏だよね」と、俺は茶々を入れた。
「そうですね。そう思うと、これで良かったのかもしれないけど、でも完璧に思えた椿さんの身体にも、許し難い欠点があった」
「欠点?」
榎ちゃんが首をかしげ、それは何かと尋ねると、レイラは苦い顔をして答えた。
「それはですね、反発力が強過ぎる!」レイラは、力強く言った。「俺も、予想だにしてませんでした。普通、憑依された人間っていうのは相性が悪くない限り、浴衣のお兄さんの時の様に、憑依されている間の意識は完全になくなり、身体の主導権を完全に明け渡すもんなんです。だから、憑依されている時に、憑依した側とされた側、二つの意識が同居することは、まずあり得ないんですよ」そして、レイラは考え込んだ。「ですけど、この椿って人、自己防衛力が異常なまでに強いんです。〝自分″ってモノを強く保とうとしている、まるで怯えているかのように」
レイラの発言に、椿は「なワケねぇだろ!」と強く反発したが、俺達は全員一致で、なるほど、と納得した。椿とレイラの相性は置いといて、椿が自己を保てている理由が〝怯え″から来るというのであれば、すんなりと理解出来る。それだけ、椿の恐怖心は強く、チキンハートの持ち主だと、俺達は知っているからだ。
椿が自分の中に居るレイラに反論しているなかで、頃合いを見計らい「ちょっといい?」と榎ちゃんが手を挙げた。
椿もレイラも、もちろん俺と柊も、黙って榎ちゃんの言葉を待つ。
榎ちゃんは、神妙な面持ちで、言い辛そうに話し始めた。
「レイラ君って言ったよね。私の勝手な思い込みかもしれないけど、死んだ人が幽霊になってこの世に留まる場合、何か未練みたいな想い残しがあるからじゃないのかな?」
榎ちゃんの質問で、この場の空気が一転した。
レイラは、生前からそうであったのか、いきなり抱きついたり愛を囁いたりと軽薄な行動が目立つ。それに、声は明るく、あっけらかんとした雰囲気が、自然とあふれている。だからか、目の前のおばけは、そういう〝人″なのかもしれないと錯覚してしまうが、榎ちゃんの言う通り、レイラは〝おばけ″で、本来この世に居ない存在なのだ。
そうであれば、当然のように榎ちゃんと同じ疑問は俺達にもある。忘れているワケではないが、ただ重い話題から避けていたのかもしれない。
榎ちゃんは、目を背けなかったのだ。
椿は虚脱状態になり、身体の支配権をレイラに明け渡していた。表に出て来たレイラは、初めこそキョトンとした面持ちで、まだ面白おかしく話をしているのだと思い、榎ちゃんの言葉の真意には気付けなかったが、次第に表情を暗くした。
「俺が、この世に留まる理由?」
レイラは、榎ちゃんの質問を繰り返した。そうすることで、榎ちゃんが訊こうとしている事を明確にする為だ。
榎ちゃんは、頷いた。
「うん。できれば、教えて欲しい。余計な御世話だって思うかもしれないけど、もし私にも何かできるなら、力になりたい」
「私じゃなく、俺達、な」
レイラ、じゃなく椿も、榎ちゃんの意思に賛同し、ぶっきらぼうに言った。
俺も頷く。柊も、微かにではあるが、アゴを引いたように見えた。
「…俺は」と、レイラは、過去を思い出しながら、言葉を絞り出すようにして話した。「俺は、数十年前に死んだ。まだ、小学生だった。俺はその日、気持ちがでかくなっていたのか、理由もなく冒険感覚で、自転車でいつもより遠出したんだ。その時、詳しくは知らないんだけど、自動車事故に巻き込まれて死んだ」
レイラの話が始まると、俺達は黙った。というか、何も言えなかった。
レイラは、死んだ時に見えた景色を思い描くように、空を見上げた。夏の、青い空だ。綿アメを千切ったような雲が、そこらに散らしてあるが、青空を遮る事は出来ない。けど、今のレイラの目から見えるのは、きのこの屋根に半分近く隠された、夏の空だ。
「死んだ時、死ぬ寸前だったかな、ビックリしたよ。ああ、俺死ぬんだ、って。普通さ、死ぬ事なんて想像して生きてないでしょ。特に俺みたいなガキは、〝死″が遠くにあるから、自分とは無関係なんだと、少なくとも生きていた時の俺は思っていたと思う。生きてりゃ、必ず死ぬのにね。だから、死ぬ時に死ぬ事を自分で意識できるのが、すごくビックリだった。今にも命の灯が消えようとしている時、それまで意識してなかった死を身近に感じた時、それをちゃんと認識できた自分に、ビックリしたんだ」
そこで、レイラの声は、一段と弱くなった。震える、泣きそうな声になった。
「でも、意外と〝死″は身近にあった。意識してないだけで、俺達の生活には常に死が付き纏っているんだよ。俺は、それを死んでから知った。死んでからじゃ、遅すぎるってのになぁ」
レイラは、目を閉じて俯いた。後悔しているのかもしれない。
が、しばし間を置くと、再びレイラは空を見上げた。
「榎さんはさ、俺に何か未練があるんじゃないかって言ったけど、未練を残さずに死ねる人間の方が少ないと、俺は思いますよ。以前フラフラと空を漂っていて、小学校のマラソン大会を見た時に思った事なんですけど、低学年の小さい子は、距離に関係なく、結構初めっから全力で走る子が多かったんです。後でバテるかも、なんて考えてないんですね、きっと。で、実際、初めに飛ばし過ぎた子は、後からどんどん追い抜かれていく。きっと、ああいうことから学んで、いつでも何にでも余力を残していく事を覚えるんですかね。だけど、人生は、余力を残したらだめだったんですよ。いつでも、スタートダッシュから全力で、いつかバテて抜かれるかもしれないなんて考えず、全力で走り続けないといけなかった」
レイラの話は、俺の中に、すんなりとしみ込んできた。確かに、長距離走では、ペース配分が重要だ。でも、人生にペース配分は、それほど重要じゃない。少なくとも俺は、要らないとすら思う。一瞬一瞬を全力で生きる、難しい事だけど、そうするべきなのだ。
人生っていうマラソンを、思いもしない形で、自分には余力がまだまだ残っているのだとどんなに主張しようとも終わらされた、レイラの言葉には、重みがあった。
「時としてヒトは、理不尽に命を奪われる事になるから、ホントに満足して死ねる人の方が少ないんじゃないかって、俺は思います。だから、何が言いたいかって言うと、俺も、特別な想いがあったワケじゃないと思うんです。死にたくなぇな、その程度だったと思います」
「でも…」
榎ちゃんは、レイラの事を想い、レイラ以上に苦しそうな表情で、それだけ言った。
レイラは、かぶりを振った。榎ちゃんを安心させるような、穏やかな笑みを浮かべ、続ける。
「本当に、『このまま死にたくなぇな』って、それだけだったと思います。生きてる間は、根拠もない明日に賭けて、ただ漫然と生きていた。それこそガキだったから、朝起きてメシ食って、学校行って勉強そっちのけで遊んで、帰って来てからも遊んで、疲れたからメシ食って風呂入って寝る。そういう、そりゃあ むちゃくちゃ楽しかったけど、達成感とかからは無縁の生き方しかしてなかった。だけど、死ぬ時になって初めて、色んな後悔が浮かんできた。初めて、生きていたいと思った。それだけです」
レイラは、真剣な面持ちで、榎ちゃんの方を見据え、続ける。
「生きている間は、『また明日』『いつか』って、本気で生きていなかった。死んでからも、死んだ事を受け入れられず、どうせなら色んなモノを見ようとフラフラしている間に、両親ともに死んでいた。親より先に死ぬ事が不幸だって言うし、親の死に目に会えない事もダメだって言う。俺は、生きていても死んでいても、後悔ばかりだ」
レイラは、顔は笑っていたが、また声が震え始めた。
「未練ばかり残る生き様だ。それは、幽霊になっても変わらない。俺は、ずっと、いつも、失くしてからその大切さに気付く。だから、死んで色々学んでからは、後悔の無いように生きるつもりだった。でも、すぐに気付いた。この世界は、俺の居ていい世界ではない、と。俺は、何処に居ても傍観者だった。どんなに楽しそうな輪を見つけても、そこに交じっていく事は、もうできない。死人は、この世に居ても、生きてはいない」
「だから、レイラは身体を欲しかったのか。この世界を感じる事が出来る、生きた身体が」
俺の言葉に、レイラは頷いた。
「この世に残した未練を断ち切りたくて、幽霊が存在するのだとしたら、俺は、幽霊になっても、未練を増やし続けている。人間っていうのは、未練や後悔で出来ているんですかね?いや、幽霊か」
そう言うと、レイラは自嘲するように、薄く笑った。
「お前の未練って、何?」椿が言った。気遣いの感じられない、ある種突き放すような冷たさが混じった声で、訊ねた。「さっき榎が言ったけど、何かして欲しいんなら、まあ力を貸さなくもない」
「でも…」
とレイラは、声をひそめて俯いた。遠慮しているのだ。
「そうだよ」と、俺も言う。「合縁奇縁、袖振り合うも多生の縁、言うだけ言ってみなよ」
レイラは、俯いたままだ。
そして、俯いたまま、俺達の耳に届くのがやっとの声で、自分の胸の内を明かした。
「俺は、小さい頃から、『可愛い』って言われてきた。でも、同年代には『カッコいい』って言われた。大人からすれば可愛い、同年代からはカッコいい、容姿端麗の俺が将来どうなるか、楽しみだった。それが、一番の未練かな」
「「知らねえよ!」」
椿と柊の、刺すような怒りのツッコミが、辺り一面に響いた。
それで、重い空気が何処かへ吹っ飛んだ。
「え?」レイラは、何故怒られたかわからず、キョトンとしている。
「なにバカみたいな事を真面目に言ってんだよ!てっきり暗い話になるかと思って身構えてたこっちの身にもなれよ!」
椿は、呼吸も忘れ、一気にまくしたてた。
呼吸を思い出し、ぜぇぜぇと荒く息を吸って吐く。
「何言ってるんですか?俺は本気ですよ」息が整うと、今度はレイラの方が、平然として応える。「健康管理や身だしなみに気をつけていれば、沢山の愛をもらい、与える事が出来るような男になっていたかもしれないのに。そういえば、アダルトビデオの進化は目覚ましい。俺の心を、一瞬でも癒してくれる。俺は、結局の所、愛に飢えているんだ」
「サイテーなんだけど、こいつ」
レイラは、柊の冷たい声を受け流した。そして、ぎゃーぎゃー騒ぎ、自身を非難してくる椿に、冷静に、アダルトビデオの素晴らしさや愛の素晴らしさを、滔々と説いている。
俺を含め、誰もがレイラに呆れ、柊に至っては蔑む視線を送っていた。が、榎ちゃんだけは違った。
「でも、未練はあるんだよね」と真剣な面持ちで、レイラに語りかける。「さっき言ったでしょ。余力を残して死んだ、ご両親の死に目に会えなかった、自分は傍観者で悔しいって」
「悔しいとは、言ってませんよ」
と、レイラは笑顔で揚げ足を取った。それは、敢えて話を逸らそうとしているようだと、俺には見えた。榎ちゃんも同じく感じたのだろう、ゆっくりと首を横に振って、おちゃらけようとするレイラを制した。
「悔しかったはずだよ。だってレイラ君、椿君の身体に入れて、私達と話をしている時、生き生きしてた」
「…おばけ、なのに?」
「うん。おばけなのに」と、なおもふざけようとするレイラの言葉に、榎ちゃんは真剣に応える。「レイラ君、寂しかったんじゃないの?」
榎ちゃんの言葉は、確信を衝いていた。レイラは、目を見開き、開いた口で何か言おうとしたが、口をつぐんだ。そして、また何か言おうと口を開けたが、言葉が発せられる事はなかった。
真っ直ぐに向けられたレイラの眼を、受け止め、榎ちゃんは言う。
「ひとりぼっちで楽しそうな輪を見続けるのって、辛いよね」
レイラは、眉間のしわを濃くした。目に力が入っているのが解る。泣きそうだ、と思ったら「俺の身体で泣くなよ」と椿が迷惑そうに言った。
「いいじゃないですか、少しくらい」と、レイラは震えて声で、反論した。「どうせ、泣いているのは俺の方なんだから」
「…ほどほどにな」
「うん。……あのさ、椿さん、榎さん」
「あ?」「なに?」
「俺、今からけっこう泣くんで、榎さんの胸借りてイイですか?」
「「ダメ!」」
椿と榎ちゃんは、声を揃えて強く否定した。
俺は、代わりに柊を差し出そうと思ったが、生憎と柊には胸が無い。それに、レイラは、すでに泣いていた。時折「ううっ…」と洩らしながら、俯いて、静かに泣いていた。
「俺、少し泣きましたけど、別に榎さんの言っている事が本当だったからじゃないですよ。ただ、ちょっと目にゴミ、拳位でかかったな、それ入っただけだから」泣き終わったレイラは、唐突に顔を上げると、取り繕うように、苦しい言い訳を並べた。「俺、別に寂しくないし。ホントに、大人になった俺が、沢山の愛に囲まれることが出来なかったのが残念なだけだし。もっとエロく生きたかっただけだし」
「わかったから」と、椿も呆れて応える。
「絶対分かってないでしょ。ていうか、俺、子供の身なりで死んで、今も子供の姿のままだから一応敬語使ってるけど、おたくらの方が年下だからな。そこんとこもわかってんのかよ、椿?おい」
「いきなり生意気になりやがったな。つーか、いい加減俺の中から出ろよ!」
「やーだよ!」
不貞腐れる子供の様に、椿の口からベェーと舌が出た。
レイラは、椿の中から出て来る事を拒んだ。確か、『そういうタチの悪いおばけもいるけど、俺は違う』ってレイラが言っていた気がするが、気のせいだろうか。
それにしても、だ。
「どうでもいいけどさ、暑いからどっか行かない?」
俺は、椿とレイラ以外に言った。
「そうだね」と柊も同意する。
「じゃあさ、さっき柊さんの言っていた所行こっ」
榎ちゃんも、気持ちの方向がすっかり変わった。
「いいね。それじゃあ、パフェ食べに行こうか」
「五リットルだっけか?絶対腹壊すよ。というか、パフェの量を示す単位って、リットルなの?」
そう文句を言ったが、結構気になっていた。それは、みんな同じだろう。誰ともなく、脚が動き始めていた。
「待って!俺も行きたい。せっかく感覚ある身体で、パフェ食べたい」
「つーか、柊!もう外せよ、手ぇ!」
柱に縛られたヤツらが、俺達の背後で、何か言っていた。
自分から縛ってくれと頼んだくせに、椿の態度は横柄そのもので、それでは柊姐さんは納得しなかった。「ちょっと 椿。ちゃんとお願いしてくださいよ」とレイラから苦情を受けて、初めて椿も態度を改めた。「外してください。お願いします」と、なんと「お願いします」の一言を加える事が出来るようになったのだ。
柊も鬼じゃないから、椿達を解放した。
すると、二人は、俺達に追い付く為、駆け寄ってきた。レイラの方が今は主導権を握っている事が、直後に判明した。
「ありがとう。柊さん」
と、柊に抱きついたからだ。
そして、当然、殴られた。
ぶっ飛ばされ、地面に倒れたまま「頼むから、お前マジで出てけ。お願いします」と椿の方が力無げに言った。けど、「椿。痛覚があるって素晴らしいね」と言っている所を見ると、レイラはまだ椿の中だ。
「お前、マゾかよ?」
「いえ。感覚がある事に感動しただけです。こんなに痛いのは、望んでません。余計な事したなって、ちょっと後悔もしてます」
「やっぱお前…後悔でできてるよ……」
あ、気絶した。
「わぁ~。おっきいね」
五リットルのパフェが運ばれて来て、榎ちゃんが、戸惑いながらも、歓声を上げた。
「これ、五人でも食べられませんよ」
「つーか、四人な。お前は俺の中だから、胃袋は四つなんだよ」
榎ちゃんに頼まれた俺が担いで来なければ居なかったヤツらが、言った。レイラは、引きつった笑みを浮かべている。
「大丈夫。胃袋一個、ブラックホールみたいなのがあるから」
俺は、柊のことを見た。
柊は「ハッ」と短く笑うだけで、気持ちは既にパフェだ。
「おいしいね」
パフェを食べ始め、榎ちゃんが、レイラの方を向いて言った。
「いや、ホント。生きてた頃、こんな美味いもんなかったよ」
「それにしても、ちょっと寒いね」
柊が、二の腕周辺をさすりながら、言った。
「そりゃそうだろうよ」
と、俺は、柊の食べている部分を見た。四人掛けの四角いテーブルで、柊は俺の正面に座っている。パフェは、テーブルの真ん中に置き、みんなの手が届く場所にある。量が量だけに、みんなで一斉につついているのだが、柊の食べている箇所だけ、減りが異常に早い。みんな同じスプーンで食べているはずなのに、柊だけシャベルでほじっているのではないか、と疑いたくなる。
「そんなに寒いなら、俺が温めてあげようか?」
「やめろ、お前。つーか、懲りろよ」
レイラの暴走を、いち早く椿が止めた。
止めなければ、生クリームが口の横に付いている事も知らず凄んでいる柊に、またぶっ飛ばされる事になっただろう。
「それがダメなら、その口の横のクリーム、舐め取ってあげますよ」
懲りないおばけのせいで、椿は動きを封じられた。逃げられないように両手両足を〝空間凍結″によって作った空気の錠で縛られたからだ。
「おい、待て!もうレイラ出てったよ」
「まだ居ますよ」
「出てけ、お前!」
あとがきに代えて
「レイラ君は、数十年前に、交通事故で亡くなりました。その時、レイラ君の胸の内にあったのは、『もっと生きたい』という願いと、『周りの人への謝罪』という後悔、などの強い想いだったそうです。その強い想いは、未練となり、レイラ君をこの世に留まらせる要因となりました。普通なら、その未練と、どうにかして折り合いをつけ、成仏するそうなのですが、レイラ君には出来ませんでした。未練を断ち切ろうとすればするほど、その想いも強く残り続け、また、別の未練も生じさせてしまう事になりました。具体的な事は知りませんが、レイラ君の中には、未だ、満たされない想いが多くあるようです。だから、この世に残り続け、生まれ故郷から離れて、様々な場所を流れ、心を満たす旅をしているらしいです。そして、流れ着いた場所が、私たちの居る場所、だったという事のようです」
「というのは、榎さんの勝手に作り上げた妄想に近いデタラメな話で、ここからが本当の事です。俺は、確かに数十年前に、交通事故で死にました。その時、強く俺の中にあった感情は、『まだ女の子を知らない』という強い後悔でした。それが未練となり、俺はおばけとして、この世に留まる事が出来ました。しかし、おばけの俺が『女の子を知る』のは、容易なことではありません。なにせ、身体がありませんから。そこで、考えた俺は、『憑依』という可能性に行きついたのですが、そこでもまだ問題が残りました。それは、俺に感覚が伝わって来ない、という事です。それでは、全く意味がありません。うわべだけで女の子を抱いても、俺の心は満たされません。だから、感覚を持てる位、相性の強い身体を探していました。そして、苦節数十年、やっと見付ける事が出来ました。それはもう、天にも昇る想いです。ですが、これも一筋縄ではいかないようなんです。ですので、ここは試しに、誠心誠意心をこめて、お願いしてみようと思います。榎さん。俺に、女の子を教えてください」
「絶対ダメ!」
「つーか、俺の身体でさっきから何言ってんだよ!」
「いいじゃないですか、椿。椿だって、男でしょうに」
「っせえよ!」
「はぁ~。うるさい椿は置いといて榎さん。白衣やコートを着て、前を開けて、前かがみになった時、胸の辺りから腰にかけて空間が出来るじゃないですか。俺、そこに入り込みたいんで、とりあえず白衣着てみてくれません?」
「頼むから、俺の身体でそういう人格疑われるような事、言わないでくんない」
あとがきに代えて、とかやっているけど、こちらでも少し。
カイや十六夜が登場する時の話は、キャラクターと一緒に話の展開を考えたのですが、この話に関しては、できた経緯が全く違います。
話の中でレイラが言っていた「マラソン大会で初めから全力で走る子」を、正確には少し違うのですが、そういう場面を私が見たことが、この話を作るきっかけとなりました。昔は「バカだな」と冷めた感情しか持たなかったのですが、その時は何故か「すごいな」と感動したのです。
「後先考えず、その瞬間に全力を注ぐことができること」に感動した私が、「余力を残したまま終わる」ということに後悔にも似た悲しみを覚え、この話を書くことへと繋がります。
だから、こういう話を書こうと頭の中に概容を浮かべ、それを語ってくれるキャラクターとして、レイラが生まれました。
すごく辛い設定を与えてしまった、という私の反省を隠す意味でも、レイラの性格は明るくなっています。エロくなってしまったのは、何故でしょうか?
うまく書き表せなかったのでここに書きますが、榎が「さみしかったよね」とレイラに言わなければ、レイラは、あのまま「自分の中にあった想いを聞いてもらえたし、面白おかしく会話を終えられたのでよかった」となりました。『あとがきに代えて』の部分も、榎の優しさを受け取れないひねくれ者、ということになっています。
レイラの未練を解消してあげて成仏させる、という話の流れも考えたのですが、この話では、作者である私の思ったことをレイラに語ってもらう、ということに主眼を置いたので、それはやめました。
ゆっくり、私の満足がいく形で、レイラは見送ろうと思っています。
いつも以上に動きのない、しかも主人公(一応)の椿が半分近く出てこない話になってしまいました。できれば「つまらない話」としてではなく「珍しい話」と思っていただければ、助かります。




