番外編 出来れば前日までに言ってちょうだい
天使と悪魔の両方の力を持つ女天使・柊は、その力を使って困っている人を助ける事を仕事にしている。その仕事は、その人の置かれている状況や望みなど、様々な要件によって異なってくるため、内容は多岐にわたっている。
したがって、この仕事で生計を立てている柊は、依頼人と交渉することによって、その時の報酬を変えている。一応柊の中で基準を設けているし、また法外な値段を付けているワケではない。基準となるものを根底に置きながら、その時の仕事の内容や柊の気分などに従い、あとは依頼人との交渉で決めているのだ。
そんな仕事で、そんな報酬の貰い方をしていると、こういうケースも出てくる。
「あの…よかったらこれどうぞ」
こんな感じで、金銭の他に物を貰うこともあるのだ。
その日も、そうだった。
柊は、悩んでいた。
その手に持つ紙を見つめ、この日 何度目かの溜め息をつく。
「はぁ~。……どうしよ、これ?」
柊の手には、映画のチケットが握られていた。それも、二枚。
そのチケットは、昨日、仕事の報酬の一部としてもらった物だった。仕事を終えた後、報酬の話になった時に、依頼人が「よかったらもらってやってください。俺にはもう、必要ないんで」と押し付けて来たのだった。意中の人と行きたいが為に用意していた物だったらしいのだが、それも必要なくなったからと、肩を落としながら渡して来たのだった。そんな経路で入手したチケットだった。
そんなだった事があって、要らないからと報酬の一部としてもらったのだが、実は柊も持て余している。理由は、その依頼人と大差ない。二枚あるチケットの、自分ともう一枚は誰になるか、それが決まっていないのだ。しかも厄介なことに、その映画の上映は、今日までとなっていた。そしてさらに厄介なことに、多少もったいないとしてもほっておけばそれで済む事なのかもしれないが、実はその映画、柊も観たいと少し思っていたものであった。
つまり、柊にとってその映画を観ないと言う選択肢は無く、どうせ観るならチケットは二枚あるのだから、誰かと一緒に観に行こうとしているのだ。
そして、ここで改めて最初の悩みに戻る。
では、誰と?
これだ。
昨日、柊は映画のチケットを貰った後、今と同じようなことで悩んでいた。だが、仕事の後でお腹が空いていて、お腹一杯ご飯を食べたら眠くなり、とりあえず汗だけでも流そうとシャワーを浴び、その後誰か一緒に行ってくれる人を探そうと思ったのだが、睡魔に襲われて負けたのだ。
その為、今日の当日になるまで、一緒に行ってくれる人を見付けられないでいた。
仕方が無いので、映画上映最終日となっている今日この日、急遽でも一緒に行ってくれる人を探そうとしている。
と言っても、実を言うと、誰と一緒に「行きたい」のかは決まっている。
それはもちろん、柊の意中の相手、上司の高橋だ。
したがって、謝罪を一つ交えながら、改めて柊の現在の悩みを言おう。
柊は、高橋をどうやって誘おうか、で悩んでいる。
回りくどい事をしてすみませんでした。
映画のチケット二枚を手に、柊は高橋の部屋を訪れていた。
作戦と言った作戦は無いので、ありのままの事を伝えよう、そう決めていた。そう心を決め、椅子にふんぞり返って座る高橋の前、デスクの正面に立ち、柊は言う。
「あ、あの高橋さん」
「ん?どうした?」
高橋は、ぼんやり見ていた天井から、いつの間にか目の前に来ていた柊に視線を移す。
「高橋さん…あの……今日、仕事は?」
「あぁ。あ~、ああ」気の無い返事をした高橋は、しばし考えた。「どうすっかな?今日は楸も何もしないだろうし、俺も別にノルマ溜まってねぇしな。やる事も無い」そして、高橋の出した結論は、「昼間っから呑む酒も、格別だしな。なんつーか、同じ酒でもぜいたくな気分になるみたいな。呑むかな?」だった。
だったら何で職場に来ているのだ? 柊はそう思ったが、口には出さない。口に出さないと言うより、そんな疑問を吹き飛ばしてしまうほど、柊は喜んでいる。なぜなら、高橋が暇なら映画に誘いやすい、そう思ったからだ。
意を決し、柊は言う。
「あの、実は映画のチケットがあるんです…二枚。昨日、仕事で貰って。……それで、よかったら、一緒に行きませんか?」
柊は、言った。緊張を抑えながらも震える声で。あまり舞い上がっているように思われたくないと自分を抑えたのだが、上手くできた自信は無い。しどろもどろになったが、言いたいことは言えた。
不安と喜び、それと少しの達成感を覚えながら、柊は高橋の返事を待つ。
高橋は、柊の差し出した映画のチケットを眺めていた。緊張して返事を待つ柊を焦らすかのように、高橋は返事を引き延ばしている。一応どうしようか考えているのだ。
そして、高橋は結論を出した。
「あ~悪いな、柊」高橋は、言った。柊は、ショックでヒザから崩れ落ちそうだったが、何とか堪え、高橋の理由を聞く。「俺な、暗いトコ行くと、反射的に眠くなっちまうんだよ」
「え…でも…」
「だからよぉ、他のヤツ誘って行けよ。せっかくなんだからさ」
「……はい」
本当は、もっと食い下がりたかった。せっかくなんだから、高橋さんと一緒に行きたいと。寝ていても良いから隣に居てくださいと。
だけど、柊は諦めた。
好きな人の前でわがままを言うのは、柊には出来ない事だった。普段何でも一人でやってのけてしまうせいもあって、他人に甘えることが苦手なのだ。だから、こんな時、どう言えば相手に引かれずに自分の想いを伝えられるか、どこまで相手が許してくれるのか、分からない。分からない以上、下手なことは出来ないし、したくないと柊は考える。
本当の気持ちを抑えつけ、我慢する。
柊は、高橋と一緒に映画に行く事を諦めた。
そのまま何も言わず部屋を出て行こうとした柊の背中は、寂しかった。その寂しさの理由が自分にあるとは分からないながらも、高橋は柊の寂しさだけは感じ取っていた。
「…柊」
「はい?」
高橋に呼び止められ、柊は振り返った。
「映画はアレだが、今度メシでも行くか? メシなら俺も途中で寝ねぇしよ」
高橋は、柊が落ち込んだ理由を知らない。だけど、何か悩んでいるようだとは気付いている。だから、「メシの誘い」は、柊を元気づけることと、できれば柊の抱えている悩みを聞いてあげること、この二つの目的を持っての事だった。
そしてまた、すれ違うように、柊も高橋の真意には気付かない。
だけど、嬉しかった。
「はい!」
その嬉しさは、柊の元気のいい返事によって、高橋にも伝わった。
落ち込んだ気持ちが喜びに変わり、柊は笑顔で部屋を出て行く。
「なんだよ…元気じゃねぇか」
若い娘の気持ちは分からない。そう嘆く父親のように、高橋は呟いた。
高橋と食事に行く約束ができ、柊はご機嫌だった。
しかし、ご機嫌なのだが、この日の問題が解決したワケではない。
「高橋さんがダメなら、どうしよ?」
映画のチケットを見つめ、柊は呟く。
食事の約束が出来たとしても、それはまた後日のことで、今日この日の問題は未だ残る。また、本命の相手がダメだった事で、柊の次の手は鈍っていた。
しかし、その鈍る手で、柊はケータイを取り出す。
「いきなりだけど、榎ちゃん…大丈夫かな?」
高橋の次に一緒に行きたいと思う相手・榎に、柊は電話を掛けた。好きな人がダメなら、好きな友達と。そう思って掛けたのだが、何度も同じコール音が耳に入ってくるだけで、榎の声が聞こえてくる気配は無い。
「はぁ~。忙しいのかな?それに、いきなり誘われてもやっぱ迷惑よね」
ケータイをしまい、柊はうな垂れた。
これで、一緒に行きたいと思う相手がいなくなった。
もしかしたら榎から折り返しの電話が入るかも、そんな淡い期待を抱きながら、柊は次なる一手を打とうとしていた。
チケットを無駄にしたくない。その思いから、次の一手を打つ。
柊は、ある部屋の前で立ち尽くしていた。
先に言ってしまうと、柊が次に誘おうと思っている相手は、同僚の楸である。その楸が居そうな場所に、柊は来ている。
「高橋さん、楸は今日 仕事しないだろうって言ってた。だったら、ここに来ている可能性は高い」
そう頭で分かっているが、どうしても踏み切れないでいる。
何故なら、そこが柊の天敵である五十嵐の部屋だからだ。
楸が仕事をしないのであれば、椿と一緒に居る可能性は低い。もし一緒に居るとしても、そこには榎やカイ等が一緒に居る可能性が高く、その中でも可能性の高い榎が電話に出ないのであれば、楸と椿が一緒に居る可能性も自ずと低くなる。それは、あくまで可能性の話でしかないが、それでも仕事をしない楸が行きそうな場所と言えば、十中八九ここだと目星をつけていた。
しかし、それは同時に柊にとって最悪のケースでもある。何故なら、柊は、五十嵐が嫌いだからだ。出来る事なら顔を合わせたくも無い、そう思う位に柊は五十嵐を嫌う。
その五十嵐に対する嫌悪感から、柊の脚は鈍っていた。
「どうしよ…?楸がいるならアイツもいるだろうし…てゆうか、楸が一人でいるワケが無いんだし」
柊は悩んだが、グズグズしていると一日が終わって映画も終わってしまう、と五十嵐の部屋に入る事を決意した。
決意したとは言っても、そこに入りたくないというか五十嵐に会いたくないという気持ちは強く、恐る恐る部屋の扉を開け、中に楸がいるかどうかなど、まずは中の様子を探ろうと試みた。
当然ノックはせず、ゆっくり音が鳴らないようにソォ~っと扉を開け、中の様子を覗く。
室内には、案の定、楸と五十嵐の二人が居た。
浴衣を着ている癖っ毛頭の楸は、椅子に正座で座りながら、テーブルを挟んで五十嵐と向かい合っている。白衣を着ていて眼鏡を掛けている楸以上のモジャモジャ頭の五十嵐は、椅子の上に胡坐をかいて座っている。二人とも、一言も発さず、黙って神妙な顔を浮かべている。
いつもなら年甲斐も無くキャッキャキャッキャ遊んでいる二人なだけに、真剣な顔をした二人が静寂の中に居ることに、柊は違和感を覚えた。
「何してんの、あれ?」
柊は、疑問をぼそっと漏らした。
気になった柊は、その足を進める。五十嵐は嫌いだけど、別に自分をバカにするようなことを言わなければいいのだし、もし言ったとしても、ぶっ飛ばせばそれで済む事だと自分に言い聞かせ、柊は二人の方へと歩み寄る。
柊は、ゆっくりと近づく。
近づいて来る柊に、まず五十嵐が気付いた。目線だけを上げ、柊の事を一瞥すると、すぐに目線をテーブルの上に落とした。楸は、気付かない。正面から近付いて来ているので気付けた五十嵐と違い、背後からソォ~っと近付いて来る柊に、楸が気付く気配は無い。
柊は、楸の背後に立った。そこから覗きこむようにして、二人の間のテーブル上にある物を見る。それは、見ただけで何となく何かは分かったのだが、柊は訊いた。
「何してんの、それ?」
「ぅひゃう!」突然声を掛けられ、楸は飛び上がった。しかし、普段しない正座を無理して長時間続けていた為に痺れた足では満足に跳び上がることも出来ず、バランスを崩した楸は、そのままテーブルの上に倒れた。「ったぁ~!何?いきなり何?」楸は、打ちつけて痛めた肘を擦りながら、柊に非難の声を浴びせた。
しかし、柊は悪びれもせず、ただ楸を見下ろしている。
「おいおい。何してんだよ、楸ぅ」不満を漏らすように、だが顔は笑って、五十嵐は言った。「せっかくこれからがいいとこだったっつーのに、ぐじゃぐじゃにしやがってよぉ」
「だって柊が…!」
「ハッ。アタシのせいだって言うの?」
「6:4で楸が悪いな。ま、いきなり声掛けて脅かしたチャ子も悪いが」
「チャ子って言うな!」
柊は怒鳴った。言って分かる通り、五十嵐の「チャ子」という呼び名が気に入らなかったからだ。「チャ子」という呼び名の由来は、柊の細身の体型の中でも一際細い、というかハッキリ言うと、柊の無さ過ぎる胸を差しての「ペチャパイの子」であり、これを略して「チャ子」だ。したがって、柊もその由来も知っているので、自分をバカにしたその呼び方、そして呼ぶ五十嵐のことを、柊は許せないでいる。
だがしかし、暖簾に腕押し、蛙の面に小便の如く、五十嵐はこれっぽっちも気にしていない。怒っている柊を尻目に、楸が散らかしたテーブルの上を片付けている。
怒っていた柊も、何とか怒りを抑えた。五十嵐相手に怒っていても自分が疲れるだけで、本気でぶっ飛ばすつもりでないならば、相手にしない方が利口だと思っているからだ。大きく息を吐き出すと、しぶしぶ五十嵐の片付けを引き継いでいる楸に声を掛けた。
「それで、何してたの?」
「は?見ればわかるでしょ。将棋だよ、将棋」
「将棋って…どう見ても将棋崩しにしか見えなかったんだけど…」
柊が最初見た時、二人が挟んでいる盤上の中心には、不規則に積み上げられた将棋の駒の山があった。それは、どう見ても普通の将棋の光景ではなく、柊の知る限りでは、将棋の駒で成る山から音を出さずに指一本で一つ一つ駒を抜き出していく、『将棋崩し』と呼ばれるゲームに見えた。というか、それだった。
柊は、やった事は無いが、知っていた。だから、楸の発言のおかしさにつっこんだのだが、楸は不満そうに言い返す。
「これは将棋なの。れっきとした、立派な、確実に…うん、将棋なの」
「ハッ。言い返すボキャブラリーも少ないヤツに、将棋みたいな頭脳戦が出来るとは思えないけど…」
柊にバカにされ、楸は「ぐっ…」と口ごもった。
そこで、何も言い返せずにいる楸に助け船を出そうと、五十嵐が口を開いた。
「いいか、チャ子」
「黙れ!」
「ま、聞けや。普通の将棋ってのはな、戦術だの何手先を読むだの小難しい事言ってやがるだろ?それで頭の良さを競うように仕向けているんだよ。だが、よく考えてみろ。アレは、あくまで平面上での闘いなんだよ。四十の駒を9×9のマスの中で闘わせている。それに比べたら、四十の駒の幾千幾万では足りない複雑怪奇な組み合わせで成る山を音も出さずに崩していくってのは、平面だけじゃない三次元的空間把握を完璧に出来ないと勝てないんだ。そう考えると、普通の将棋よりこっちのがスゲくね?」
「スゲくね?」
「スゲくねぇ」
五十嵐の屁理屈に楸も同調したのだが、柊に一蹴された。
この時点ですでに、柊は呆れていた。この二人がやっている事もそうだが、楸を映画に誘おうとした自分自身にも少なからず呆れていた。
「まったく柊は……よっと」楸は、柊の事を見下すように言うと、集めた駒を、駒を入れておく箱の中に入れた。そして、それを盤の上に勢いよく被せ、慎重に箱を外し、将棋の駒の山を作った。「分かってないようだから教えてやるけど、さっき俺が黙ってたのは、考えてたからなんだよ。プロの棋士にもなると、数十手先を読むのに十何分、何十分っていう時間を掛けるんだ。長考ってやつ。それをやっていた時に声掛けてくるなんて、マナー違反も良いトコだよ」
「ハッ。たかが将棋崩しに長考も何も無いでしょうが」
柊は、心底そう思った。どんなに楸が自分を見下すようなことを言って来ても、それがただの戯言だとして受け入れていた。
しかし…。
「わかったか、チャ子」
「わかったな、チャ子」
楸と五十嵐にそう言われ、口に出さずとも「出て行け」という空気を醸し出して来た二人に、柊の怒りは爆発するところだった。
しかし、なんとか大爆発だけは抑え、柊は言う。
「すいませんでしたね。お邪魔なようなんで、アタシはもう出て行きますよっ!」
そう強く言うと、去り際に、柊は楸の後頭部を叩いた。それは、楸の身体を飛ばすには十分な威力だった。五十嵐との再局に臨もうと正座していた楸は、今度は頭っから将棋の駒の山につっこんだ。
そのまま楸のことになんか目もくれず、柊は部屋を出て行く。何で楸なんかを誘おうと思ったのか、そう思ってしまった自分の事を恨みながら、柊は五十嵐の部屋のドアを叩きつけるように閉めた。
柊の居なくなった部屋で、楸は叫んでいた。
「ぎゃあああ!オデコに駒が刺さったぁ!」
「慌てるな、楸。所詮、『歩』だ」
「そんな事言って、かなり痛いですよコレ!」
「そらそうだろ。『歩』だって『ト金』になりゃ強くなる。一見すると弱い『歩』だからって軽んじねぇこったな。いい教訓になったじゃねぇか」
「いいから抜いて!教訓とかどうでもいいから、早く抜いて!」
「待て、楸。下手に抜くと、出血多量で死ぬぞ。デコってのは浅い傷でも派手に血が出るし、『歩』の底力を舐めちゃいけねぇ」
「ああぁ!ヒナさ~ん!」
慌てふためく楸とは対照的に、現状を目一杯楽しむ五十嵐だった。
ただただイライラを募らせただけで、五十嵐の部屋へ行った意味がなかったと後悔しながら、柊は空を飛んでいた。五十嵐の部屋を出て、勢いそのままに『天使の館』からも出て、空に居る。
映画のチケットはポケットにしまい、それの代わりに仕事用のケータイを取り出すと、電話帳の画面を開いた。その画面を見つめ、柊は溜め息をつく。
「はぁ~。どうしよっか…」
画面には「楸」「高橋さん♡」「椿」「榎ちゃん」この四人の名前しか書かれていなかった。
本来ならこのケータイ、同じものをカイと篝火も持っているのだが、柊のケータイにはカイと篝火の電話番号やメールアドレスは入っていなかった。それというのも、このケータイは楸が高橋に頼み、高橋に頼まれた五十嵐によって作られたものであり、充電が不要などのスゴイ機能が付いているのだが、電話帳などのデータ入力は五十嵐の手によってでしかできない。濫用して人間の電話会社に迷惑を掛けることを防止するためだと、五十嵐は言っている。したがって、最初にケータイを貰った時に入っていたメンバーのデータしか柊のケータイには入っておらず、それ以来データの更新をしていない為、後からケータイを貰ったカイ達のデータ諸々は入っていなかった。では、何故柊がデータの更新をしていないかと言うと、それはただ大嫌いな五十嵐に頼むのが嫌だから、である。
とまぁ、このような理由からデータが乏しいケータイの電話帳を見つめ、柊はもう一度溜め息をついた。
「はぁ~。あとは椿だけかぁ…。でもアイツ、アタシが映画に誘っても来なさそうよね。……行ってくれるのかな?てゆうかアタシ、アイツと二人でどっか行った事なくない?」
柊は、椿との思い出をめくってみたが、椿と一緒に居る時には常に榎や楸など、他の誰かが居た。それに気付くと、とたんに気後れした。それは別に恥ずかしいとか照れだとかではない。なんとなく榎に悪いのでは等の事が頭をよぎり、椿を誘う事を躊躇った。
「アレを誘うのはやめよ」
柊は、そう決めた。
もしこの後どこかで会ったら、それとなく映画に行くか訊いてみて、それで椿も行きたいと言うなら連れて行ってやろう。そう決めた。
「そうしよ。それに、もしかしたら榎ちゃんから折り返しの連絡が来るかもしれないし」
そう決めたら、柊は一気に高度を下げた。空中散歩していても椿に会う確率はゼロ以上にならず、それにもしかしたら他の人に会えるかもしれないと思ったから。
「よお、柊」
柊は、道を歩いていたら、変な一団と出会った。そして、その一団の中で辛うじてまともと思える男は、柊がさっき頭の中に思い浮かべた椿だった。
柊は、椿を見た瞬間に、映画に誘う事を諦めた。
「よぉ。えーっと…アンタ等、釣りにでも行くんだよね?」
柊は、一団を眺め、曖昧に訊いた。どうしても、「釣りに行くの?」と素直に訊く事が出来なかった。
その理由は、その面子とその格好にあった。
「まあな。つーか、釣り以外 何に見えるよ」
そう言ったのは、椿だった。
釣竿を右肩にかけ、左の肩にはクーラーボックスを下げていた。服装は、普段とたいして変わりないが、ビーチサンダルを履いている。それなのに、普段通りにニット帽も被っていた。いくらトレードマークといっても、も少しコーディネートを考慮して…というかそれ取れよ!せめて普通のキャップだろ!そう柊が心の中でツッコミを入れたくなる服装だった。
柊は、椿から視線をその隣に移した。
それは、柊の知らない男だった。
「わぁ~おぅ。今度は白髪さんですか。椿君、僕がいない間に随分綺麗さんな知り合いさんが出来たですね。ひーちゃんに言ってやろ」
「なんでそこで榎が出てくんだよ。つーか、榎もみんな知ってっから」椿は不満顔で十六夜に言い返した。そして言い返した後、柊の「こいつ誰?」と説明を求めている視線に気付いた。「あっ、こいつは俺の友達」
椿がそれだけ言うと、十六夜はすかさず口を挟んだ。
「まっ!椿君、僕の事をフレンズだと思ってくれてたのね!」
十六夜は、両手で口を抑え、歓喜の涙を浮かべていた。
「いや、じゃなきゃなんだと思ってたんだよ。つーかやめて、そういう事言うの。なんか切なくなるから。つーか、お前が自分で名乗れや」
椿に尻を蹴られ、十六夜は一歩前に出た。涙を拭き、柊に笑顔であいさつする。
「はじめまして。あっしは、本国のシックスティーン・ナイトこと十六夜です。漢数字の十六に夜と書いて、いざよ。ひょんなことから椿君や榎ちゃんの幼馴染となっています。失礼ながら、お手前は?」
十六夜は、手の平を空に向けた右手を、柊の方に差し出した。
柊は、こいつ変、と直感した。
それと言うのも、その発言だけでなく、十六夜の見た目からもそう判断せざるを得なかったからだ。なぜなら、十六夜の服装は、椿と同じで釣竿を肩にかけ、本格的な釣りジャケットを着ている。全体的に見れば椿よりはまともなのだが、何故か大漁旗をマントのように羽織っていた。
――なんで大漁旗?それって海釣りから帰ってくる時、船に付ける物なんじゃないの?こいつ、変。たぶん、榎ちゃんの幼馴染と言っても椿寄りのバカだ
しかし、初対面からあまり邪険にするのも失礼だと思った柊は、とりあえず差し出された手を押し退け、挨拶を返した、
「アタシの名前は柊。椿や榎ちゃん、あと知っているか分かんないけど楸っていう浴衣着たバカとも知り合い」
「あ、楸君なら知ってるよ」
「そ。……ま、よろしく…」
「はいな」
友好的な笑顔の十六夜と終始冷たい態度の柊による自己紹介は終わった。
そして、その様子をジッと見ている者がいた。あえて柊は触れずにこの場を去ろうと思っていた、奇妙な一団の最後の一人だ。
そいつは、あからさまに構ってオーラを出していた。
さすがの柊も、このまま無視しては気の毒だと思い、嫌々ながらもそいつに声を掛けた。
「えっと…久しぶり、篝火」
「あい」
「じゃね」
そう言って立ち去ろうとした柊だが、すぐに篝火に呼び止められた。「ちょ、待ってよ。私とも何か二言三言会話を交わしましょうよ」
少し強い風が吹けば聞こえなくなるんじゃないかという消え入りそうな声だが、必死な呼び止めを受け、柊は足を止めた。
「何?」
「いえ、何でもいいわよ。はいっ」
そう水を向けられ、今度は露骨に嫌そうな顔をして柊は言った。
「えっと…じゃあ…個性的ね」
柊の言う個性的とは、篝火の見た目だった。しかし、それは篝火の真っ青な長いストレートの髪を差しているのではない。何度か会っているので、その奇抜な髪の色はもはや気にならない。問題は、他の部分だ。いつもなら、黒のロングドレス風の服装なのだが、今日は違った。築地のおっさんが履いているような撥水性の高そうなズボンと長靴、それと『攻めの姿勢』と書かれた白のTシャツを着ていた。それだけでも充分に個性的と言えるが、まだあった。篝火も、他の二人のように肩に背負っている。ただし、それは釣竿ではなく、大きな石だった。
「そうなの。無理しちゃって。さっき気付いたんだけど、川で拾えば良かったのよね、石。もう重くて重くて身体がへし折れそうで」そう言うと、篝火は道の傍らに石を置いた。捨てたのだ。邪魔だからちゃんとした場所に捨てろよ、そう柊は思ったが、言わないでおいた。しかし、「……私ってば」と舌を出した篝火が頭をコツンっと叩く、ドジっ子アピールが癇に障り、思いっきり罵ってやろうかと思い直していた。
怒りを堪えると、もうこのままこの場を離れてもイイと思ったのだが、どうしても気になるので訊いた。
「アンタたち、ホントに釣りに行くの?てか、アンタ等ってどういう集まり?」
怪訝そうな顔の柊に訊かれ、椿は答えようとした。
「釣りには行くよ。当たり前だろ。で、俺達の関係は…」
しかし、そこまで言ったところで、説明を遮られた。
「ちょっと待ったぁ!」
「んだよ、十六夜」
「ここからは、今回の釣りの主催者である僕から説明させていただきやす」そう言って椿を制すると、十六夜は柊の前に一歩出て来て、ここまでの三人の経緯を説明し始めた。「ではさっそく…ほわんほわんほわ~ん」
「…いや、回想シーンに入る効果音出してもいかねぇから。つーかちゃんと口で説明しろ」
椿につっこまれ、十六夜は引き下がった。その顔は、一仕事やってやったぜ、と言ったような満足感が漂っていた。
そして、十六夜と入れ替わるように、今度は篝火が一歩前に出て来た。
「私が説明するわ。二人に合流したのは私なんだから、私主観の説明の方がいいでしょ」そう前置きし、篝火はここまでの三人の経緯を説明し始めた。「ではさっそく……実はかくかくしかじかで」
「それだけで伝わるかバーカ!」
椿につっこまれ、篝火は引き下がった。その顔は、これでいいんでしょ、と言ったように勝ち誇った笑みを浮かべていた。
ろくすっぽまともな説明をされず、柊はイライラを募らせていた。それは、十六夜と篝火のボケに対してもそうだが、何でこいつらの事に興味を抱いてしまったんだろうといった、自分自身に対する怒りもあった。また、この日のこれまでの経緯も重なり、柊は少し怒りっぽくなっている。
そんな柊ちゃんの御冠なご様子に、椿はいち早く気付いていた。
これ以上余計なボケを重ねたら、柊の怒りが爆発するかもしれない。そう察し、二人には任せておけないからと、しぶしぶ自分で説明することにした。
「実は今日、俺と十六夜は釣りに行く約束をしてたんだよ」
柊と会う約二時間前、椿は十六夜の家に来ていた。釣りに行く為に十六夜を迎えに来ているのだ。
遡る事さらに数日。
十六夜の家で、椿は十六夜とゲームしていた。といっても、やっているのは一人用のRPGだった為、十六夜がプレイしているのを椿が傍らで見ているだけだった。だが、それにも飽き、椿が一人マンガを読んでいたその時、突然十六夜は言った。
「あ~。フィッシングしちゃいちゃい」
「あ?」
「だ~か~ら~、釣りしたい気分。そんな気分。釣り気分」
それは、普段家に引きこもりがちな十六夜の口から出るとは到底思い難い、アグレッシブでアクティブな言葉だった。そして何より、珍しく自分から外出の意思を示したのだ。
椿は、十六夜のその気分を、心から歓迎した。
「おお、いいじゃん釣り。行こうぜ」しかし、気になることもある。「つーか、どうして突然釣りなんだ?」
椿の疑問に、十六夜は、ゲーム途中のテレビ画面を指差して答える。
「これね、今 釣りやってるんだけど、結構簡単なのださ。ボタンを押すタイミングさえミスんなきゃ、僕でも二メートル越えの大物釣れるのよん。しかも何を隠そう、それかなり高く売れるのね」
「結局金かよ」
「そんなことないわね。結局は、釣りの楽しみに目覚まし掛けられた気分」
「意味わかんねぇよ。つーか、それただのミニゲームだろ。本筋から離れたオマケ要素の釣りで、釣りの何がわかるんだよ?」
「いいのですよ。釣れた時の喜びってのは、ゲームも現実も大差ないと信じる御年頃なのだから」
椿は呆れたが、それでも十六夜の意思は尊重したかった。
たしか家に昔使った釣竿があるはずだ、そんなことを考えながら、椿は頭の中だけで釣りの準備を始める。しかし、その準備を一時中断し、頭をよぎった不安を口に出す。
「つーか、今から行くのか?」
今から行くとなれば、それは夜釣りになる。それに、頭の中以外の諸々の準備もまだ全然出来ていない。また後日となれば十六夜のせっかくのヤル気が無くなってしまうかもしれない、と椿は危惧しているのだ。
しかし、その心配は杞憂だった。
「そんなことないよ。いろいろ揃えたい物もあるし、他にも準備に時間かかるから、行くのは早くても今週末かな?」
十六夜は、言った。
椿は、十六夜のその言葉を信じた。今週末釣りが実施されることを信じ、その日帰った後から釣りの準備を着々と進めたのだった。
そんな準備期間を設け、いよいよ釣り当日。
椿は、自分の分の釣り道具一式を持ち、十六夜の家の前に来ていた。
電話で近くまで来ていることを知らせていたので、すぐに十六夜は出て来た。
「グッモ~。いや~、絶好の釣り日和ですね。釣り以外何すんだってぐらいの日和ですね」
「おう。つーか、何だその大漁旗?なんで羽織ってんだよ?」
「これは僕の気合の表れなのです。覚悟と言ってもイイ。これを背負って、絶対釣ったるわい的な。いや~、作るの大変だったのよん」
「作ったのかよ?スゲーな!」
十六夜の自作した大漁旗のまさかのハイクオリティに、椿は驚いた。
それから、十六夜の家を出発し、釣りの出来る場所へ移動している最中、二人は篝火に出会った。
篝火の存在に気付いたのは、十六夜が先だった。
「椿君、前方よりブルーヘアーの女性接近。注意されたし」
「注意されたし、じゃねぇよ」
また厄介なヤツに出会ったな、椿はそう思ったが、篝火もこちらの存在に気付き、声を掛けて来た。
「あら、椿君。お久しぶりね」
「よお、篝火。相変わらず元気なのかどうか分からないな」
「今日は割と元気よ。いつも私を悩ませる頭の痛みも穏やかだし」
「痛みが無いワケじゃないんだな。つーか、あんま呑みすぎんなよ」
「うるさいわね。私の勝手じゃない」
椿と篝火のやりとりを、十六夜は口をポカ~ンと開けて見ていた。
「ちょちょいちょいちょい椿君。こちらの方とお知り合いの仲?」
十六夜に訊かれ、椿は面倒だと思いながら、それに答えることにした。どうせなら、と二人を互いに紹介する。
「十六夜。この青髪は、篝火って言って、何つーか…知り合いだ。天使との仕事の関係で出会った。で、篝火。これは十六夜って言って、俺の昔からの友達だ」
椿に促される形で、二人は自己紹介を始めた。
まずは、十六夜から。
「はじめまして。ご紹介にあずかりました、十六夜と申します。椿君や榎ちゃんとは小学生前後から友達として活躍してました。ちなみに、人間とヴァンパイアのハーフで、半ヴァイです」
十六夜の適当すぎる自己紹介を真に受け、篝火もそれに答える。
「私は、篝火と申する。椿君たちとは、なんやかんやの知り合いでござんす。で、私も、元悪魔というでございました」
十六夜の半ヴァイ発言 (嘘)を真に受け、篝火も自分が元悪魔だった事 (真実)をうちあけた。椿は、ただただ呆れるしかなかったが、当の二人は波長が合うようで、謎のハイタッチを交していた。
それからは、十六夜と篝火は古い友人ように言葉を交わした。
「え~、十六夜君、何してたの?」
「俺?俺は今から椿っちと釣りっち。篝火っちゃんも来る?」
「行く行くぅ~。すぐ用意して戻ってくるから待ってて」
そう声を弾ませて言うと、篝火はどこかへ走り去った。
キャラが変わるぐらい意気投合してしまった二人の会話に、椿は口を挟む余地すらなかった。
そして、数十分後。
篝火は戻ってきた。いつも着ているような、事実さっきも着ていた黒のドレス風な服から着替え、本人なりの釣りの服装で戻ってきた。
「攻めの姿勢?」
十六夜は、篝火の着ているTシャツに書かれている文字を読んだ。
「つーか、何で石持ってきた?竿持ってこいよ、竿」
十六夜と椿の疑問に篝火は答える。
「いい?世間では釣りは忍耐だって言うけど、違うのよ。大きな石を川の中の石にぶつけることによってできる衝撃波で、魚は気絶してプカ~ンって浮いて来るっていう寸法よ」
「ズガーン!本当ですか、篝火さん」
「ええ。昔テレビで見たような、見なかったような気がする」
「限りなくガセに近いな。つーか、それもう釣りじゃなくね?」
呆れる椿をほっといて、十六夜と篝火は盛り上がっていた。
「にゃ~るほど。さすが『Sの策士』と呼ばれていただけのことはあるね」
「いや、呼ばれてねぇよ。つーか、お前初対面だろ」
「それほどでも…。だから、私の攻めとあなたの待ち、二段構えの攻撃で世の魚を一網打尽にしてやりましょう」
「照れてんじゃねぇよ。つーか、世の魚はお前らバカに捕まるほどマヌケじゃねぇからな」
椿はつっこんだが、二人は気にしない。
最強タッグここに誕生といった感じで、十六夜と篝火は固い握手を交わすのだった。
「ってな事があってな、今に至るワケだ」
椿は、事ここまでに至る経緯を簡単に説明した。その間、十六夜と篝火は、頷きや合の手、効果音などを担当していた。初対面なはずの二人の息はピッタリだったという。現に今も、盛り上がる場面ではないのに、「「フゥ~フゥ~」」とハイタッチしている。
十六夜と篝火のその一連の奇行を無視し、柊は、椿の説明を黙って聞いていた。途中、何度かツッコミを入れたくなる場面や、もうついて行けないと諦めそうになる場面もあったが、それを乗り越え、説明を全て聞き終えた。
一応全ての流れを理解した上で、柊の感想は「アンタ等、バカ?」だった。
「「フゥ~」」
「いや、フゥ~じゃねぇよ!つーか、何で俺までバカの括りだよ」
仲良し二人組にツッコミを入れ、柊に食ってかかった椿だが、それ以上は何も言い返さなかった。あまり余計なことを言っても自分が不利になるだけだから、と察しているのだ。
言い返したい事全てを堪え、椿は言う。
「つーか、柊は何してんだ?」
「あ、そうだ」
椿に言われ、柊は思い出した。
自分はこんなバカ共に付き合っている暇は無いのだ。一刻も早く、と言うほど切羽詰まった状況ではないにしても、今日中に一緒に映画を観に行ってくれる人物を探しているのだった。
当初の目的を思い出した柊だが、ここで少し考え込む。と言うより、候補の一人として挙がっていた椿は、今から釣りに行くようだから誘うワケにも行かない。だから、特に用も無いこの場から立ち去る前に、気掛かりなことを確かめておこうと考えた。
「ねぇ、椿。今日、榎ちゃんは?」
「……何で俺に訊くんだよ?」
椿は、不満そうな顔をして言い返した。
そして、さらに不満そうな顔をして、柊も言い返す。
「なに?知らないの?」
「いや、知ってるけど…」
「「知ってるんか~い」」
「っせぇ、バカコンビ!」余計な茶々を入れて来る十六夜と篝火を黙らせ、椿は柊の質問に答える。「たしか、今日は朝からバイト入ってるって言ってたから、たぶん今頃はバイト中だ。で、夕方からは何か用があるとか言ってたな」
「……自分から訊いといて何だけど、何でアンタそんなに榎ちゃんの予定知ってんの?」
柊は、そう怪訝そうに言った。だが、椿も質問に答えてくれたので、一応は満足だ。
椿は、柊の新しく芽生えた疑問には答えず、「「ストーカーか~い」」と声を揃えて自分をバカにしている二人の相手をしていた。
もう行こっ、そう思った柊は、じゃれ合っている三人をそのままに歩き出した。しかし、少しした所で、あることを思い付き、踵を返した。
「そうだ、椿」
「ん?」
怒りの形相で逃げ回る二人を追いかけていた椿は、柊の声に足を止めた。
そして、柊の質問に答える。
「あぁ、それなら……」
「そっ。じゃ、行ってみる」
大体の説明を受け、柊は再び歩き出した。
「クソッ!意味わかんねぇよ。マジで意味わかんね!」
道端で一人、大声で不満を漏らす男が居た。
カイだ。
「なんで日曜にガッコ行かなきゃなんねんだよ。レポートって何だ?セーブでもする気か?なんで半ピラのレポート用紙一枚仕上げんのに図書館まで出向かなきゃなんねんだよ」
そういう理由で、カイは怒っていた。
少し細かく理由を説明すると、ある授業の課題として出されたレポートは、図書館にある資料を用いて若干の調べ物をした上でまとめるような内容だったのだ。そして、それを週末まで放置していたカイは、未提出という失態だけは避けたいからと、しぶしぶ大学の図書館にまで足を運んでいるのだ。自業自得と言えば自業自得以外の何物でもないような気がするのだが、それでも日曜に学校に行く事は、カイをイライラさせていた。
レポート用紙や筆記用具の入ったカバンをブラブラさせ、カイは何度もついた溜め息をまたつく。
本気を出せば常軌を超えた素早さで動く事が出来るカイも、今は動きが遅い。重い足取りは、学校に着く時間を何倍にもしていた。
そんな気だるく歩くカイの耳に声が、カイにとって幸福な女神の声が聞こえた。
「なにアンタ、も少しシャキッと歩きなよ」
「ひ、柊さん!」
何処からか聞こえた柊の声を頼りに、カイは必死に柊のことを探す。周囲を見回してもいないと言う事は、そう思うと案の定、柊は空から降りて来た。
カイにとってそれは、まさに憂鬱な日曜日に舞い降りた天使だった。
舞い降りた女神に失礼のないよう、カイは気だるくて丸まっていた背筋をシャキッと伸ばす。
カイは、色々言いたいことがあった。どうしたんですか?何しているんですか?もしかして、俺に何か用ですか?等々。 しかし、テンパってしまい口ごもっていると、先に柊が話し始めた。
「実は椿に聞いて来たんでけど…」
「椿に?」
「うん。アンタ、本当に休日に学校行ってるんだね。てか、あのバカの妙な勘の良さは何なの?」
柊は、椿達と別れる際、椿にカイの居そうな場所を聞いていた。それに対し椿は「つーか、電話で連絡とりゃいいじゃねぇか?」と言ったが、柊もある種の意固地になっていたので、「いい。もし会ったら程度の用だから」と言い返した。柊にとって、椿の物を借りる形でとはいえ、五十嵐の作ったケータイに頼る事は敗北をも意味しているので、それを嫌に思ったからだ。椿は、そんな柊の個人的な理由は知らないので、柊が意地を張ることが理解できなかった。しかし、質問には答えようと考え、「……どうだろ?……大学とかか?まだ図書館も開く時間じゃねぇから大学周辺。それが違ったら、適当に河原周辺を走っているか」と教えていた。
そして見事、椿の予想は当たっていた。
柊は、椿の勘の良さを気味悪がったが、カイは、柊を自分の下へと導いてくれた椿に胸の内で感謝していた。
とりあえず用も済んだ事だし、と二人は、椿の事を頭の中から消した。
「ねぇ、アンタ。今、忙しい?」柊は、カイに訊いた。
「い、いえ!全然暇ッス」カイは答えたが、本当は暇ではない。最悪夕方までかかるかもしれないと踏んでいる課題のレポートをやらなければいけないからだ。しかし、目の前の柊と まだ期限が先の課題の二つを天秤にかけ、柊をとらないカイではない。カイの心の中の天秤は、一瞬にして柊に傾き、微動だにしなかったという。天秤から振り落とされた課題には目もくれず、カイは「な、なんでですか?」と訊いた。
「そう。じゃあさ…」そう言うと、柊はポケットにしまっていた映画のチケットを取り出した。それをカイに見せ、「映画でも行かない」と誘う。
「え?えいが?」
「実は映画のチケット余ってて、一人で行っても良いけどもったいないからどうかなって?」
あまりに突然訪れた幸せに、カイの頭はついて行けなかった。が、持ち前の素早さですぐに追いついてきた頭を起動させ、現状を把握する。
――えっ?俺…今、映画に誘われた?お相手って、柊さんだよな?マジか?これマジか?夢だったら、そりゃ夢でも嬉しいけど、起きた時にショックで枕ぶっ潰すぞ?てか、夢じゃねぇし。だって俺、さっき起きたとこだもん。さっき起きて、飯も食ったもんよぉ。顔だって冷水で洗ったし、夢じゃねぇよ。もしかして、人違い?……いやでも、目の前の天使は柊さんだよ。勝ち気そうな眼差しにちょっと強めの口調、白くてスラっとした身体。こんなパーフェクトな女性、柊さんの他にいねぇよ!
この間、約三秒。カイは、現実を受け止めた。
「どう、行かない?」
「はい、喜んで!」
カイは、過剰過ぎるんじゃないかというぐらい幸せな現実に押し潰されないように足を踏ん張り、寿司屋ばりの威勢の良い返事をした。
「そ…。じゃあ、行こ」
「はい!」
カイは、嬉しかった。理由は言わずもがな。
柊も、嬉しかった。チケットを無駄にすることがなくなり、また、一人で行ってもいいと思いはしても、やっぱり誰かと一緒に行って感想を言い合ったり感動を共感したりしたいと思ったから。
とりあえず理由の違う喜びを互いに感じながら、二人は映画館へと向かった。
観に行った映画は、人間と動物の友情を描いたハートフルムービーだった。
元からこの映画に興味を持っていた柊は、期待通り、いやそれ以上の内容に感動していた。映画が終わりに近づくにつれ、鼻をすする回数は増え、目にはうっすらと涙が滲んでいた。しかし、柊の目から涙が零れることはなかった。
なぜなら、隣でめっちゃ泣いている男がいたからだ。
別にカイは、柊に映画に誘われたのが嬉しくて泣いているワケではない。単純に、映画を観て涙を流していた。
映画が始まる前、館内が暗くなる直後位までは、たしかにカイは映画そっちのけで隣に柊がいることを喜んでいた。それはもう、映画なんか始まらなくていいと思う位。しかし、映画が始まると、カイの意識も映画の方に向いた。その映画の心温めてやろう感 漂う内容に、苦手意識を持っていたカイも、話が進むにつれ、どんどん惹きこまれていった。
そして、泣いた。すごく泣いた。号泣だ。
泣くまい、泣くまい、と必死に堪えようとするが、涙は流れ続けた。
そんなカイの口を一文時に固く結び、眉間に皺を寄せながら泣く姿を見たら、柊は泣けなかった。カイの泣き顔を見た瞬間こそ驚きで若干引きもしたが、柊の顔はすぐに穏やかなものになった。
映画が終わると、エンドロールが流れている間に目をごしごしと拭いて涙を止めていたカイが、何事もなかったかのように柊に言った。
「面白かったですね」
「アンタ、号泣だったね」
柊は、茶化すように言った。
「なっ…!」自分が泣いた事はバレていないと思っていたカイは、ダメ元で「いや、泣いてないッスよ。でも確かに、ちょっといい話だなって、うるって来たかもしれないですけど」と誤魔化した。
しかし当然、柊は誤魔化されない。
「いーや。アンタ、完璧に号泣してたよ。お陰でアタシ、アンタの顔見て、泣くに泣けなかったんだから」
「えっ…!いや、あの…すんませんでした」
「いいよ。楽しかったし」
柊の言葉は、本心だ。
映画自体も面白かった。それのオマケで見れた、カイの泣き顔も面白かった。高橋や榎と行けなかったのは残念だったが、その二人と行っては見られなかっただろうモノも見れたことで、柊は満足していた。
ちなみに、椿達釣り組はボウズだった。
柊を動かしたかったので、柊メインの話になりました。本編では、柊は万能すぎるために出番が制限されます。なので、番外編で出しました。
椿が榎の予定を知っているのは、束縛が厳しいからではありません。




