番外編 榎のお願い2
榎は、椿の部屋に来ていた。
椿の家を訪れた要件は、借りていたマンガ本を返すことだけだったのだが、椿の母が「あがっていきなさいな」と言うものだから、それに従うことにした。そして、いちいちマンガ本を借りて返してというやり取りをするのも面倒だろうと言う事で、椿の提案により、榎は時間の許す限り椿の部屋でマンガを読んでいくことにしている。それで、もし続きがどうしても気になるようなら、続きは持ち帰ればいい。そうすることにあまり意味は無いのかもしれないが、僅かでも労力を省くことは出来るし、榎もそれがいいと思っていた。
しかし、事情が変わった。
最初こそマンガの続きに見入っていた榎だが、今はそれどころではなく、本を開いているのに内容が頭に入って来ない。それどころか、視線も本から外れがちになっている。
では、その榎の視線は何処に向かっているのか。
それは、椿に、だ。
榎は、ベッドの上に腰をおろし、壁に背を預ける形でマンガを読んでいる。椿は、床に座り、ベッドに背を預ける形でポータブルタイプのゲーム機で遊んでいる。つまり、榎の視線は、ゲームに夢中になっている椿の背中に注がれている形になるのだ。
そんな形が形成されている部屋で、榎は、マンガそっちのけで非常に悩んでいた。
そして、もうマンガなんか読んでいられないってことでマンガ本を閉じ、深い溜め息をつくと、榎は物思いにふける。
――どうしよう……。そんなつもりで来たんじゃないのに。てゆうか、そんな気持ちなんて今まで微塵もなかったのに。でも、やっぱり……
そのようにして現状の悩みを解決することも出来ずにグルグル悩んでいると、榎からの視線と榎の異変を感じ取った椿が、不思議そうな顔をして言った。
「どうかしたのか?榎」
「えっ!どうして?」
「いや、なんか……」と、椿も榎の異変をなんとなく肌で感じ取っただけなので、具体的に何がどうとは言えなかった。だから、目に着いたので、閉じられたマンガ本を持つ榎の手元を指差し「つーか、本も読んでねぇみたいだし…」と言った。「それ読み終わったのか?次出そうか?」
「ううん。まだだからいいよ。ありがと」と、椿の申し出を断った後、榎は「ちょっと腕疲れちゃって、少し休憩してただけ」と笑顔で取り繕った。
椿は、榎の言っている事が嘘だと見抜いた。根拠は無いが、榎の言っている事が嘘であると確信を持っている。しかし、そのことはあえて追及しなかった。別にたいしたことない、くだらないことだろうということも、根拠は無いが感じ取っていたからだ。
椿は、鼻から大きく息を吐き出すと、立ち上がった。
「なんか飲むか。つーか、ずっと読みっぱだと腕だけじゃなく目も疲れんだろ」
「そだね。じゃ、お願いします」
「はいよ。何でもいいだろ?」
「うん」
榎が頷くと、椿は部屋を出て行った。
そしてまた、部屋に静寂が戻り、榎の悩みも再沸する。
椿がいなくなった部屋で、榎は、マンガ本を傍らに置き、天井を見上げて考えを巡らせていた。天井に求める答えなんて書いているはずも無いのに、ずっと一点を見続けている。
自分を悩ませている事の答えが欲しい榎は、頼りにならない天井から視線を移し、今度は正面の壁を見つめた。しかし、当然ながら、そこにも答えは無い。壁にあるシミのように浮かんでくる気配もなさそうだ。
答えを見つけられなかった榎は、がっくりと肩を落とし、また溜め息を漏らした。
仕方が無いので、外に答えを探すのではなく、自分の中に問いかけて、答えを探すことにした。何度か失敗しているが、今度こそと念じながら、榎は考え込む。
――どうしよう……。どんなに仲が良くっても、友達同士でやるようなことじゃないよね。というより、友達だからしないのかも。……友達にすることじゃないのかな?でも、それに、一般的にはどうなのかえわからないけど、付き合っているカップルだからってやることではないのかもしれないし
榎は、どうするべきなのか、いや、正確に言うと、してもいいことなのか、で悩んでいる。だが、人付き合いの経験が少ない榎は、今 したいことが世間一般の人間関係に置いて認められることなのか、許されることなのか、判断できない。
だから、してもいいのかどうかは置いといて、まず実行してみた時の後の光景を思い浮かべてみることにした。
――椿君、怒るかな…?もしかしたら、引かれるかもしれない
榎は、椿の対応を想像して思い浮かべ、おろおろと戸惑った。
だが、榎の気持ちは治まらない。
――でも、でも…。
と、リスクがあることはわかっていても、湧き上がる衝動は抑えられない。
そして、榎は決心する。
――やっぱり、したい。私、我慢できない。せっかく二人っきりなんだし、勇気を出そう!
榎の気持ちは固まった。
榎は、マンガを読んでいる時から、視界に椿の背中が入っていた。最初は何も感じなかったのだが、ふとした拍子に見つめ続けていると、榎の中にある感情が生まれた。
それは、椿を踏みたい!というものだ。
何故かは知らないが、椿の背中を見ていたら、踏んでみたくなったらしい。
初めは、想像の中で色んな踏み方をするだけで満足していたのだが、それがとうとう現実にやってみたい欲に駆られることとなったのだった。
だから、榎は悩んでいた。椿を踏んでいいものなのか、と。
しかし、もう心は決めた。椿を踏む、と。
――前にビンタさせてもらった時は、柊さんや楸さんの力を借りたけど、こんなことで二人も手を煩わせてられない。今回は、私一人で頑張らなきゃ!
一度決めた榎の決意は、固い。
改めて決意した所で、椿が戻ってくるまでの間、榎は脳内作戦会議を開いた。議題はもちろん、『どうやって椿を踏むか』についてだ。思い付いた作戦を想定とした展開のイメージもしながら。榎の作戦会議は進む。
一、素直にお願い
「椿君、踏ませて」
「いいよ」と椿、満面の笑顔で答える。
――いやいや、ないでしょ。ちょっとポジティブ過ぎた
と、自分でツッコミを入れ、もう一度シミュレーションし直す。
「椿君、踏ませて」
「………」と、冷ややかな視線を榎に浴びせかけた後、無視する。
――しそうだけど…。すごく引いて、私の頭が大丈夫なのか確認とかしてくるんだよ、きっと。やっぱ、直接頼みこむのは無理かも…
ということで、却下した。
二、踏まれるとイイ事あるよと説く
「椿君、私に踏まれるとイイ事あるってもっぱらの噂だよ」
「もっぱらって…」と、その表現が気になった椿は呆れた顔をするが、ちゃんと「つーか、どんなイイ事があんだよ?」と話には食いついた。
「えっとね……」
ここで一度シミュレーションを止め、榎は、踏まれたら起こるだろう『イイ事』とは何なのかを考えた。もちろん踏まれたからといって、椿が怒る事はあっても、何か『イイ事』が起こるワケではないのだが、椿を踏む為の口実としての何か『イイ事』を考える。
――お金…はちょっと直接的すぎるって言うか無しだよね。手持ちも無いし。じゃあ何がイイかな?……レベルが上がって強くなれるよ、とか?でも、踏むならともかく踏まれて強くなるなんてなんか変かもだし。でも椿君、たまにビームみたいなのだそうと練習してたから、ビーム出るようになるよって言えばどうかな? でもなぁ、ビームはたぶん出ないよね…。
『イイ事』の候補探しはなかなかに難航していた。一般的に褒美となりそうなことから始め、椿が喜びそうな事も考えてはみたものの、これといった候補が見つからない。
そこで、榎は自分の性別が女であることに気付き、女から男へのご褒美になりそうなものについて、考えの方向を変えてみた。
――…………チュー
思い付いた候補でシミュレーションしてみようとしたのだが、止めた。
――却下!
顔を真っ赤にし、榎は頭の中でこの作戦そのものを取り下げた。
三、遊び半分で誤魔化す
「椿君、あのマンガのシーンを再現してみない?」
「あのマンガ?」
「うん。主人公の男の子が女の子に踏まれるヤツ」
「いや、そんなマンガしらねぇよ。つーか、あってもやりたくねぇし」
「…だよね」
――ダメじゃん
一度熱を持ってしまった頭では、思考回路の流れが悪い。充分な考えをするには、まだ余熱があり過ぎる。
榎は、考える事を諦めた。
榎の作戦会議は、一つも成果を上げることなく、これにて幕を閉じた。
考える事は諦めたが、椿を踏む事は諦めていない。
榎は、熱くなった頭と顔が冷えるのを待ち、具体的ではないにしても何も考えずにぶっつけ本番を迎えるようなことは避けたい、とどうするか考えようとした。
だが、榎の顔の熱も冷めきる前に、椿が戻ってきた。よったよったと気だるそうな足音が、一歩ずつ近づいて来ている。
椿が部屋に入ってくる前に、榎は元の格好に戻り、マンガを読むふりをする。
そして、椿が部屋の扉を開ける。
――もう、これしかない
榎は、決めた。
――強硬手段で行こう!
「悪い、時間かかった」と、椿は飲み物とお菓子を乗せたお盆を手に戻ってきた。
その顔は、これから動こうとする榎を安心させるかのように穏やかだ。もちろん椿にその気は無く、機嫌がイイのもただの偶然でしかないのだが、榎は少しホッとする。
「ううん、いいよ」
「それがよぉ、飲みモンは麦茶でいいやってすぐ決まったんだけど、イイ感じの菓子が無くてさ。でもほら、探してみたらかりんとうあった」
と、椿は、かりんとうを一つ食べ、お盆を部屋のだいたい中央に位置するテーブルの上に乗せた。
「ありがと」榎は、自分もかりんとうを一つ食べ、椿に笑顔を向けた。「ん、おいしい」
榎の反応を見て、椿は満足そうな顔をする。榎がどこか変な感じがすると思っていたので、いつも通りの榎だとホッとする。本当はホッと出来る状況ではないのに。
しかし、何も知らない椿は、元の位置、つまり榎に背を向ける形でベッドに寄り掛かって座り、ゲームをまた始める。
その椿の背中を、榎はジッと見つめた。
――だめ。やっぱり踏みたい。
椿のことを見て、榎は、その思いを再確認する。そして、それをもう抑えきる事が出来ないことも悟った。
椿は、覚悟を決めた榎の放つ不気味な気配を、背中に少し寒気を感じるという程度ではあるが、感じ取っていた。だが、手の中にある小さな世界の現状が危機迫ったところにあり、それどころではないと画面の中に集中する。榎の放つ気配を気に留めることも無く、背中が無防備にも関わらずゲームに熱中するとは愚かである。
愚かな男が油断している隙をついて、榎は動き出していた。
まず、マンガ本を閉じる。椿に気付かれると、「続き出すか?」などという余計な親切を見せられ、計画に支障が生じかねないということで、動きは慎重且つゆっくりである。閉じる音すらも出ないようにして、マンガ本を傍らに置く。この時点で、まだ気付かれる心配は微塵も無い。
次に、椿との距離を詰める。ここでもゆっくり、細心の注意を払った。ゲームの世界が危機的状況にある事を差し引いても、椿は全く気付かない。それほどまでに榎の動きが慎重であるともいえるが、椿の警戒心が全くないのも大いに関係しているだろう。そんな警戒心の無い男の背中を、射程圏内に榎は捕えた。
ここで、榎は一度動きを止め、考える。
――このまま椿君の背中を踏んでもいいけど、それだと踏むと言うより蹴るになっちゃうな。だからといって、頭を踏むのもなぁ…。それだと椿君、本気で怒りそう
そうして少し悩んだ結果、榎は、押し倒すという道を選んだ。座っている無防備な椿ならば押し倒せると判断し、また、横に押し倒しさえすれば、ベッドの上にいる自分が踏むことは容易であると思ったからだ。
ただ、この作戦にも問題と言うべき穴がある。榎としては、椿の背中を踏むことが理想ある。背中が無理であるならば腹でも仕方なしと受け入れる許容は持ち合わせているが、横に倒したまま横向きの椿の横腹を踏むことは、榎の理想と反する。
しかし、贅沢は言っていられないと、榎は腹をくくる。
腹をくくった榎は、ついに望みを叶えるべく動き出した。
背後から椿の両肩を掴み、一気に「えいっ!」と左方向に放り投げるように押し倒す、と言うよりは、投げ倒した。突然の事に驚いた椿は、辛うじて「うおぉ!」と奇声を発することが出来たが、何が起こっているのかまでは把握できず、されるがままに倒れた。倒れた椿は、ゲーム機を守ろうとする本能が働いたようで、腕を微かに挙げるような姿勢で、うつ伏せに倒れた。なんと榎の理想通りの姿である。
理想形に倒れた椿を前にして、榎を止めるモノは何も無い。
榎は、踏みつけると言うよりはそっと乗せる様にして、椿の背に足を乗せた。最初はそのように乗せただけだったが、足に伝わる椿のゴツゴツした背中の感触が確かなものだと感じると、踏む力を少し強くする。
榎は、椿を踏むことが出来た。
あまりの嬉しさに、榎は興奮した。喜び、恍惚とした表情を隠そうとグーにした両手で口元を隠すが、その目は確かに笑っている。
榎は、望みを叶えることが出来た。一度大きく息を吐き出し、そのことを実感する。満足感でいっぱいだ。
だがしかし、望みを叶えることは出来たが、その代償もある。
「おい、榎」倒れたままで榎に踏まれている椿は、自身が踏まれている理由は理解できないまでも、踏まれているという事実は理解できている。今にも爆発しそうな怒りを堪え、冷静さを保った落ち着いた声で、榎に問いかける。「これは、どういうことだ?ちゃんと説明があるんだろうな?俺を納得させるだけの理由が」
やりたいことをやったことの代償に気付いた榎は、一度平静さを取り戻してから、椿に笑顔を向けた。
「えへへ」
「えへへ、じゃねぇよ!」質問の答えが微笑み返しだったことに、椿の怒りは爆発した。踏まれた状態のまま、声を荒げる。「質問に答えろよ!何で俺踏まれてんの?何でお前はそんなに満足そうなの?つーか早く足どけろ!」
だが、榎は足をどけない。
椿を踏んだまま、ピンと伸ばした両手の人差し指で宙に不規則な線を引き、榎は椿の質問に答えようとする。
「えっとねぇ…なんか椿君のこと見てたら、その…踏みたいなって」
榎自身も明確な理由があったワケではなく、なんとなく踏みたい程度の理由だった為、回答するのに苦戦した。だが、それでも何とか回答を捻りだすことが出来た。しかし…。
「はあ?んなもん答えになってねぇよ」と、椿は納得しない。榎としては精一杯の説明だったのだが、椿の理解力が足りないのだろうか、それとも、まだ踏まれているから怒りっぽくなっているのだろうか。「つーか、足どけろ!」怒っているようだし、たぶん後者だろう。
だが、榎は足をどけない。
あまりにも榎が足をどけないので、椿は無理矢理起き上がり、榎の足をどかした。
「きゃっ!」
榎は、バランスを崩してベッドの上に倒れた。
倒れた榎を見て、椿の中に復讐心が芽生えた。眉間にしわを寄せたまま不気味な笑みを浮かべ、榎を見下ろす。
「覚悟しろよ、このガキ」
「ガキって同い年でしょ」榎は、倒れた身体を肘で支えて少しだけ浮かせ、椿に反抗を試みる。「それに椿君より私の方が上だよ。だって椿君、早生まれじゃん」
「うるせんだよ。つーか、今は生まれ順なんか関係ねぇだろ」
「なんでよ。椿君が言い出したんじゃん。私のことガキだって」
榎の言う通りである。
椿は、バカゆえに勝手に追い込まれた。劣勢なのを悟り、「カッ!うるせんだよ」と開き直った。「いいから覚悟しやがれ!」と無理矢理なことを言い、榎のことを踏んづけてやろうと、もう一度榎をベッドに押し倒す。
その時だった。
「何バタバタやってんの?」椿の母が来た。ノックもせずの扉を開け、「お店の方まで響くから、も少し静かに…」と苦情を言おうとしたのだが、途中で口をつぐんだ。息子が部屋で女の子を押し倒している現場を目撃してしまったからだ。「失礼。お取り込み中だったわね」笑顔を浮かべた顔を伏せ、謝罪の言葉を残してドアを閉めた。
「ちょ…母さん!」
母親の誤解を解こうと、椿は部屋を飛び出し、母の腕を掴んで止めた。
「いやいいのよ。ただ、まだ日も高いワケだし、お客さんも居るから、出来るだけ静かに」
「なに気持ち悪い誤解してんだ!」
この後、椿は十分以上にわたり、必死に母の誤解を解いた。榎の弁解も加わり、母は納得した。榎は、日頃の仕返しや強い者を征服したいという感情から椿を踏み、椿は、それに仕返ししようとした。これが、母の納得の仕方だ。
理由は何であれ、女の子を踏もうとした下衆な根性を、椿は母にたしなめられた。
椿は、背中の注意を怠らない、自分は主人公なのだから感じた寒気などは気のせいのはず無いだろう、と反省し、榎への怒りはいつの間にか何処かに失くした。
榎は、満足感でいっぱいで、鼻歌交じりのご機嫌で帰っていった。
実際にお願いはしていないけど、榎はやりたいことができました。
ところで、ひとつ前の話で、カイがモノローグをやりました。その時、『椿』『楸』のように『梅』という形で区切ったのですが、大丈夫でしたでしょうか?カイの本名は、「かいらぎ」と言い、『梅花皮』と書きます。だから『梅』という形で区切りをつけました。ややこしいことをしてすみません。ちなみに、ケータイなどだと変換されないかもしれませんが、実際に辞書にはあります。
どうでもいい話ですが、春夏秋冬を名前に使った後、次に使おうと思ったのが『梅雨』だったのです。だから、そこから『梅」』の字を取って、刃物に関する名前として『梅花皮』に。変換も面倒なので、普段は『カイ』です。




