第二話 天使とウサギとチキン
非常に平和な月曜日の午後。俺は公園のベンチにいた。
先日、俺の前にとつぜん現れた、浴衣を着て下駄をはいた、口うるさい、本当にうるさいダメ天使と一緒に天使の仕事をしたときの疲れを、自然に囲まれることで癒していた。
何故、俺は天使の仕事なんてものをしなければいけなかったのか。振り返ってみようか。
それは、俺の日頃の少しだけ非行的な行いと、俺の偉大な〝力″に目をつけた天使が、俺にダークヒーローにならないかと誘い、ダークヒーローになる手段として天使の仕事をさせたからだ。
そして天使は自分たちの、というか俺の仕事の出来を、果たして俺はダークヒーローとして活躍できていたのかを、天使の上司だという高橋さんなる別の天使に評価してもらってくると言って帰って行った。
しかし、その後音沙汰ない。
別に天使にすぐにでも会いたいというわけではない。むしろ、しばらくは会いたくないくらいだ。が、俺はただ、自分のした仕事に対する評価が早くほしかったのだ。
俺の〝力″、「中二病」から派生したものと言うよりは、少し癪ではあるが、あの天使が言っていた〝願いを叶えやすくする力″の方がイメージが良いのでこちらで呼ぶことにしたのだが、この力を使って、ダークヒーローになってみないかと天使に言われて、最初は怪しんだ。天使の存在も怪しいが、ダークヒーローの意味も分からなかったし。まぁ、今も具体的には分かっていないが。
だが、確かに俺はあの時、完璧とは言える出来ではなかったが、高橋さんが示した基準にあったような仕事ができたはずだ。人間、何かを成した後は評価がほしくなるものだ。評価してくれる相手は人間ではなく、天使ではあるが。
とにかく、待っていた。天使を。
別れるとき、次に会う約束をしなかったことを後悔した瞬間もあったが、それはホントに瞬間でしかない。次に会う約束というものは、友達か恋人とするべきものだと思ったから、後悔はしない。ただ、じれったい。
あの天使は、千里眼なる『遠くまで見渡せる目』を使う資格を持っていないと言っていたから、できるだけ外に出て、周りから見える場所にいるようにしている。
それが、今日はこのベンチという訳だ。
俺はここで先ほど手に入れた、毎週月曜日に発売されている、夢と愛とロマンとほかにも何かがたくさん詰まっている、面白い漫画週刊誌を読んでいた。
これを手に入れた経緯は、あまり大きな声では言えない。
俺の懐事情は日常的にあまりよろしくない。だから、毎週発売される週刊誌を真面目に買っているわけにはいかないのだ。だからといって、立ち読みもできない。袋に入れて売ってやがるからだ。
そんな俺でも、この本を手に入れる手段がある。
それは別に、友達が読み終わった本をもらうことでも、店員と仲良くなってもらうことでもない。もちろん店員に「金はないけど、本はください」なんて言えない。
では、どうするか。
もらうのだ。こっそり。俺の力を使って。
さっきも言った通り、俺には力がある。〝願いを叶いやすくする力″だ。
この力は、願いが強いほど、イメージが強いほど、それを現実にすることができるのだ。
例えば、喧嘩に勝ちたいと願い、強い自分をイメージできれば、今まで自分をいじめていた、いじめっ子に喧嘩で勝てるかもしれない。高く跳びたいと願い、鳥になった自分を想像したら、羽は生えないが、高く跳ぶことができるようになるかもしれない。
あくまで、「かも」である。
もともとこの力を持つ人は少なく、その中でもしっかりとした強い願いとイメージを持つことができる人は少ない。また、できないことはどんなに願っても、どんなにイメージしてもできない。人間に羽が生えないのがいい例だ。
だが、俺にはそれができる。
何故か。
俺が天才だからだ。さすがに羽は生えないが。
俺は店に入る前から、自分が盗みの天才であることをイメージし、そうなりたいと願う。そしてそのイメージに従い、店員にもカメラにも誰にも見られることなく、気づかれることなく、すばやく、自然に本を貰ってくる。
俺はこのようにして、自分の力を磨くためにも、日夜トレーニングに励んでいる。
以前、この行為を天使に咎められたが、もらう品数も減ったし、ダークヒーローで活躍したことも加味すれば、とんとんで許されるだろう。
だいたい、この本は俺が自分の力を駆使した結果得られた報酬と言ってもよいのではないだろうか。天使の仕事の手伝いは無報酬らしいから、あれはボランティアで、むしろこっちが仕事と言ってもよいのではないか。
ま、とにかく、そうやって苦労して得られた報酬の週刊誌を読みながらベンチに座って、天使が来る時を待っている。
しばらくして俺は週刊誌も読み終わり、ただただベンチに座って時間を潰していた。
何もすることがなく、さすがに今日はもう帰るかと思った時、急に風が吹いて何かがおでこに触れた気がした。
最悪のケースもすぐに思い浮かび、すぐに背もたれから背を離しおでこに手を当ててみたが、鳥のフンではなかった。かといって水滴のようなものも付いていないから、砂埃か何かかと思い、またベンチに体を預けた。
しかしその時、どこからか、待ってはいたのだが聞きたくない声が聞こえてきた。
『おい、椿。俺だよ、俺』
その声は別に、何時だかに流行った、自分の名を明かさずに「俺、俺」を連呼し近親者を装って金をだまし取る詐欺ではなく、ある意味、詐欺師よりたちの悪い天使の声であった。
「やっと来たか。つーか、どこにいるんだよ?」
辺りを見渡してみても、天使の姿は見えない。
『あれっ、調子悪いな。おい、椿。俺の声が聞こえても、あんまりその場で叫ぶなよ。変質者かと思われるぞ』
天使の笑い声が聞こえた
姿だけ消して話しかけてんのかよ、と思っていたら、また天使の声だけが聞こえた。
『おっ、きたきた。できるじゃないかよ。あ、別に姿消してるわけじゃないぞ』だとさ。
何が起こっているんだ?
『知りたいか。知りたかったら、前に行った喫茶店あるだろ。あの作戦会議した。先にそこに行って待ってるから、来いよ。教えてやるから。じゃ、またな』
自分の身にいま何が起こっているのかのか、よく分からなかった。
別に姿を消しているわけではないと言っていたから、話声自体はテレパシーであろう。確か天使はテレパシー三級の資格を持っていると言っていた。
だが、あいつは時折一人で何か意味不明なことを喋っていた。俺の思っていたことを読み取っていたような節があった。
何があったんだ?
もしかしたら、あいつ何か新しい資格を取得したのかもしれない。「強すぎる武器は持ちたくない」とか言っていたが、何か仕事に役立つ資格を取ったのかもしれない。
あいつにも向上心があったんだな。
そういえば前、天使の資格の中には読心術があると言っていた。これを取得したんじゃないか?取れたはいいが、級が低くて調子が悪いのかもしれない。それなら、あの謎の独り言も分かる。
読心術なら武器にはならないが、何かしら役に立つ場面があるかもしれない。
少なくとも、テレパシー三級よりはマシだろう。
何にしても、ここで考えていてもしょうがない。
確かあいつは喫茶店にいると言っていた。あの役に立たない作戦会議をした。そこに行ってみるか。
「よう、椿」
俺が喫茶店につくと、そいつはすぐに見つかった。
前とデザインは違うようだが浴衣を着て下駄をはき、口には棒付きのキャンディを咥えた天使が、窓際の席に座っていて、俺の名前を呼ぶ。
俺は店のコにコーヒーを注文して、天使の座る席に近づいた。
「おい、さっきのお前がやったんだろ」
あいさつもそこそこに、席に座るとすぐに疑問をぶつけた。
「何だよ、いきなり。まずはあいさつだろ」と、天使に礼儀を注意された。
礼儀もいいが何だ、お前のコーヒー。なんか棒が入ってるぞ。まさか、今食べてたアメを入れてるんじゃないよな。そうツッコもうとも思ったが、確かに天使の言うことも正しかったので、謝ろうとすると。
「それにな、前から言ってるだろ。何回も。お前って呼ぶなよ。俺には、楸って名前があるって言ってるだろ、何回も」と、うるさいから、謝るのを止めた。
「いい加減覚えろよな。お前だって馬鹿じゃないだろ。それともバカか、まさか、莫迦なのか」天使は今日も絶好調のようだ。
「うるせぇな。できる限り努力しますよ」俺は皮肉のつもりで言ってやった。
「人の名前を覚えるのに努力が必要なのか?それはそれは、ぜひ頑張ってくれたまえ」天使はまるで、俺を憐れむように言った。天使に皮肉は通じないようだ。
「それで、なんなんだよ、さっきの」
俺はこれ以上天使と話していると、天使を殴るという、おそらく人類初の暴挙に出そうだったので、話題を切り換えることにした。あ、そういえば前回、こいつのことを一回蹴ったな。
「ん、さっきの?」天使は、なんのことだ、と言ってきた。
なんでこいつとの会話は大事なものほど進むのが遅いんだ、と俺は先ほど運ばれてきたコーヒーを飲みながら呆れた。店のコがコーヒーをテーブルに置くときに、「お待たせしました」と言っていたが、こいつとの会話の進展速度に比べたらウサギとカメだよ。
「さっき、公園にいた俺に話しかけただろ」
「あぁ、あれか」思い出したか。
「あの時、お前は俺に姿も見せずに話しかけたよな」
「まだまだ努力が必要だな、楸さんだぞ」黙って聞けよ。
「あれがたぶんテレパシーって奴だろ」
「フッ、正解だ!」なんで偉そう?
「じゃあ、続けて正解するぞ。お前はあの時、俺の心を読んだ。読心術の資格でも取得したのか?」どうだ。
「ブッブ~、不正解ぃ」天使は腕でバツ印を作り言った。腹立つな。
「違うのかよ」俺は天使の答えを受け入れず、自分の正解を認めさせようとした。学生時代も、同じように試験で点数が低い時に教師に食い下がったのを思い出す。
「違うな。俺は楸さんだってば」天使は生徒の必死の抵抗も無視する。そして、生徒を必要以上にがっかりさせる。
「そこかよ。しつこいな」
「しつこいもんかよ。名前くらい正しく言えよな」まるで、名前以外にも間違ったことばかり言っているとでもいいたいようだな。
「今、覚えてる途中だよ。ゆっくり見守ってくれ」
「できるだけ早くな」いやだ。
俺は天使のこだわりにうんざりしつつも、しかし俺は、まだ喜びを捨ててはいなかった。
「じゃあ、やっぱりあの時、俺の心を読んだのは読心術だったのか」
自分のことじゃなくても、できの悪いパートナーの成長は嬉しいものだ。生徒の抗議が受け入れられたのは学生時代にも経験が無かったから嬉しかった。
しかし、世の中甘くない。
「ブッブ~、不正解ぃ。ツー」天使がバツ印を作ってから、指を二本立てた手を向けてきた。
「えっ?」不正解って何が。
「これで椿のポイントはマイナスに。果たして、ここから逆転できるのか」天使がクイズ番組の司会者にでもなったつもりか?そんな番組はすぐに低視聴率、苦情殺到で打ち切りだ。
「あれは読心術じゃないのか?」
「当たり前だろ、読心術の資格なんて難しくて取れるかよ」
「いや、取得難易度はしらねぇよ」
「それにな、読心術ってのは一方的に相手の心の中をのぞき見る、そんな能力だぞ。そんなのフェアじゃないだろ。覗きは美しくないだろ」天使がそれ言うんだ。
おそらく、こいつは自分ができないことから、こうやって屁理屈をこねて逃げているのだ。その上、もし取得できたらできたで、今度は「読心術は相手の気持ちを察することができる素晴らしい能力だ」とかいって、あれこれ人の心の中を覗くに違いない。
「じゃあ、あれはなんだったんだよ?」
「お前も知ってる能力だよ」天使がもったいぶって言った。
俺も知ってる能力?まさか。
「テレパシーか?」
「正解ぃ。おめでとう。これでプラマイゼロに。さぁ、これで逆転の可能性が出てきた」まだ司会者ごっこやってるのかよ。つーか、俺は誰と競ってるんだ。
「テレパシーって心の中も読めるのか?」それじゃあ、読心術と一緒じゃないか。フェアじゃない。覗きは美しくない。
「心の中を読むっていうか、お前が思ったことを俺が受信したって感じだな」
「それって、何か違うのか?」
「違うだろ。読心術は一方的に相手の思っていることを盗み見るのに対して、これは双方向コミュニケーションだぞ。思っていることを共感しあう美しい能力だ」
「あっそ」勝手に始めたら読心術と一緒じゃねぇか。
「それにしても、取得するのに苦労したぞ。なんせ、前の仕事の後から勉強して取得したんだからな」 と、天使はわざとらしく疲労感をアピールしてきた。こいつが短い期間で取得できるということは、テレパシーの資格は取得難易度が低いようだ。
「お前、前からテレパシー三級持ってたじゃねぇか」それだけとは言わないのは俺の優しさ。
『楸さんだよ』
「テレパシー使ってまで抗議するな」
「だから、晴れてこの度、テレパシーの資格二級を取得したんだよ」
「はぁっ、二級?」
それって、三の上の二の級?
「そうだよ、二級だ。スキルアップだ」いらないスキルアップだな。
「なんで、そんなの取ったんだよ」天使の無駄と思える努力にイラッとして言った。
「おい、そんなのって言うなよ」天使がムッとした。
「じゃあ、どんなのだよ」
「便利なの、だよ」もうどうでもいい。
俺はもう、自分の考えが下回った方向に裏切られたのでどうでもよくなっていたのだが、「いや、俺考えたんだよ」と、天使が俺の呆れに気づかずに続ける。
「考えることをか?」
「違うよ。何だそれ」お前が前に言ったことだよ。
「じゃあ何を考えたんだ」
「テレパシー三級の限界だ」
「何だ、それ?」聞いても分からない。
そこで天使は、まるで自分の研究を発表する番が回ってきたと気合を入れるように、一度手を叩いてから、人差し指を立てて話し始めた。今回は短く終わりますように。
「いいか、テレパシー三級ってのは、自分から相手に話しかけるだけだったんだ。なかなか話しかけても返事がないから、ずっとおかしいなぁと思って。んで、高橋さんに訊いたら案の定、三級じゃ一方通行でしか話せない。それが、テレパシー三級の限界だったわけだ」バーカ。普通気づくだろ。と、ツッコみたいのも我慢して、黙って聞く。下手に口をはさんで話が逸れたら厄介になると思ったからだ。俺って賢い。
「それで調べてみたら、二級なら双方向の通信ができるらしいんだ。制限付きだけど。高橋さんにも何か新しい資格を取れって言われてたから、頑張って取ってみたってわけだ」新しい資格ってのは、テレパシー二級のことじゃなくて、何か別の、千里眼とかのことじゃないのか。
話が逸れるのを恐れて、コーヒーを飲みながら黙って聞いてはいたが、今日も俺の好奇心は活発だ。今日は頑張れよ。
「なぁ、制限ってなんだ?」
天使は、質問を嫌がることなく、むしろタイミングのいい相槌に対して満足しているようだ。
「よく訊いた。一級と違ってな、二級だと双方向の通信は有線じゃないとできないんだ。思い出してみろ、俺との通信が始まる直前、何かあっただろ」
そう言われて俺は思い出してみる。あまり時間は経っていないので記憶は鮮明だ。確か、俺は週刊誌を読み終わって、ベンチでぼぉっとしてたんだ。そしたら風が吹いて、おでこに何かが、あっ。
何かに気づいたような俺の表情を見て、天使もニヤッと口角を上げた。
「気づいたようだな。俺は最初、ベンチに座ってるお前に姿を消して近づいた。そして、お前のおでこに触ったんだ」
「あれ、お前だったのか」
「そうだ。鳥のフンでも水滴でも、砂埃でもない、楸さんだよ」
天使は、俺の、おでこに触れた何かの候補を正確に挙げた。あの時からすでに通信が始まっていたようだ。
「人の名前もロクに覚えられない椿でも分かったとは思うが、天使が対象者のおでこに直接触れて、線を繋ぐ。これで双方向の通信が可能になるんだ。あとは線を繋いだ天使の意思で線を切らない限り、離れても通信はできる。有線だからクリアな音声だ」
それだと、二級ってあんまり役に立たないんじゃないか?
「あの時は、お前が考えもなしに、いきなり話し始めるから失敗したかと思ったよ」
やれやれと首を振りながら、人を馬鹿みたいに言いやがった。
そろそろ本題に入るか。
俺は何もこんな話をするために天使が来るのを待っていたわけじゃないんだ。残り少ないコーヒーも冷めてきた。
天使も一通り喋ったのか、コーヒーに入っていた棒を取った。それは、本当にただの棒だった。その先にはなにも付いていない。しかし、天使が「あれ、アメないじゃん」と驚いているところを見ると、やっぱりあれはアメの棒らしい。まさか、コーヒーに溶けたのか。
天使はしぶしぶといった感じで、浴衣の袖口に手を入れ、そこから新しいアメを取り出した。アメはそこに入ってたのか。
新しいアメを咥えて、嬉しそうな天使に「なぁ」と切り出してみた。
「なぁ、この前の仕事の評価を高橋さんに訊いてきたんだろ。あの人はなんて言ってたんだ?」
すると、ご機嫌にアメをなめていた天使の顔が少し曇って、咥えていたアメをコーヒーに入れた。また溶けるぞ。
「あぁ、そうだった。それを言いに来たんだった。つい、テレパシーの自慢をしてたよ。椿が訊くから」口を尖らせながら言う。
「俺のせいかよ」もともと、お前が新しい能力を得て、それを使ってみたいからって回りくどい呼びだし方したことが原因だろ。
「前の仕事の後、すぐに高橋さんの所に行ったんだよ。そしたら高橋さん、初回ってことで、俺たちのこと最初から全部見てたんだと。で、怒られた」珍しく天使が落ち込んでいる。テキトーに仕事をしているようでも、上司に怒られるとそれなりに反省するらしい。
「なんで怒られたんだ?」
自分で言うのもなんだが、結構高橋さんの期待に応える働きをしたつもりだったから、少しショックだ。
「まずさ、俺がお前の情報を書いた紙を失くしたことで怒られて、んで、高橋さんのことを『悪魔』って言ったのを怒られて、アメの棒のポイ捨てで怒られた」天使がさらに口を尖らせて言う。
「それって、全部お前のことじゃねぇかよ」
「お前じゃないよぅ、楸さんだよぉ」天使がテーブルに伏せながら言った。
「あぁ、そういえば、喜べ椿」と、人を喜ばせる気を全く感じさせず、テーブルに伏せたまま天使は続ける。「お前の情報書いた紙な、あれ、高橋さんが拾っておいてくれたんだとさ」
「マジか!」
ホントォにありがとうございます、高橋さん。あの後、やっぱり放置はまずいと思って、街中を探し回ったんですよ、俺。
その俺の情報が書いた紙を失くした張本人は、そんなことはどうでもいいといったふうに続ける。
「あのオヤジ、よっぽど暇なんだろうな。俺がポイ捨てした回数まで数えてやがった。んで、捨てた回数だけデコピンされた。五回だよ。マジ痛かった」五回もいつポイ捨てしてたんだよ。つーか、今度は上司のこと「オヤジ」って言ってましたよ、高橋さん。
「お前のことはいいんだよ」
「楸さんだ。×5」天使が顔も上げず、開いた手だけを上げて言う。なんだそれ。
「それに、よくねぇよ。あの人、デコピンした上に、あの女から取り上げた俺のピストルも没収したんだよ。天使は弓矢派じゃねぇのかよ」知らねぇよ。つーか、こいつデコピンとピストル没収で落ち込んでるんだな。
「俺のダークヒーローとしての活躍については何か言ってなかったのか」
これがメインだろ。
実のところ、俺は少しダークヒーローが気に入ってきているのだ。ダークは付くがヒーローだから。男ならだれでも憧れるだろ。
「あぁ、腹抱えて笑ってた。彼に惚れられていたからな」
と、急にご機嫌になった天使が起き上がって言った。
「それで?」あの時のことを思い出し、俺は少し不機嫌になったが、先を促す。まさか笑ってただけじゃあるまい。
「あぁ、涙流しながら、『あいつはやっぱり面白い』って笑ってたよ。よかったな」天使が親指を立てて笑顔で言ってくる。よくねぇよ。俺はダークヒーローになるんだぞ。お笑い芸人になりたいわけじゃないんだ。
それはひとまず置いといて、何か引っかかる。やっぱり?
「なぁ、今『やっぱり』って言ったよな?」
「あぁ、言ったな」天使は、それが何だよとでも言いたそうだ。
「てことは、高橋さんって俺のことを前から知ってたのかよ?」
俺は口にしてから、自分でも間抜けなことを言ってるな、とは思った。訊き方がマズかった。天使は、俺を完全に見下したように言う。
「当たり前だろ。前に言ったじゃん。天使か悪魔に殺される未来を持つお前に、ダークヒーローになるようにってことで、高橋さんが俺を向かわせたんだよ。忘れたのか、椿。あぁ、お前は俺の名前も覚えられないもんな。しょうがないか。ごめん」そこまで言うか。
俺は、人をバカにした天使の態度に腹が立ったが、怒るのは聞くことをちゃんと聞いてからだ。実は、前に仕事をしてから気になって訊きたいことがあった。
「じゃあ、なんで高橋さんは俺を知ってて、罰を与えるでもなく、ダークヒーローになれなんて言うんだよ?」
天使の仕事は大きく分けて二つあり、人を助けることと、人を裁くことのようだ。そして、全体的に天使は、天使としての性格上のものなのか、人を助ける仕事の方を好んでやりたがるらしい。
高橋さんも天使だから、人を裁く仕事は好まないのかもしれないが、やはり疑問はある。
やっぱり、俺の力に目をつけてだとか、俺の更生というより、本当は仕事をさぼるこの天使の更生をさせるためだとか、何か高橋さんには思惑があるに違いない。
何にせよ凄い理由が来ると思っていたのに、天使の答えはシンプルだった。
「面白そうだから、って言ってたな」天使は面白そうに言った。
「えっ?」それだけ?
「うん」
俺はがっかりした思いと、目の前の天使への怒りから、テーブルの下で天使の足を踏んだ。
下駄履きの天使は当然痛がり、「何すんだよ」と言って、下駄で俺の足を踏んだ。
踏み返そうとしたら、マスターが騒いでいる俺らを睨んでいたので、やめた。
蛇に睨まれた蛙よろしく、マスターに睨まれた俺たちは、一度冷静になるためにも会話を止め、コーヒーを飲むことのみに専念しようとした。
しかし、俺のコーヒーはいつの間にかもう無くなっていたので、ただ黙っていることにした。
天使のコーヒーはまだあるようだが、アメが溶けたコーヒーの味はいかがなものだろうか。こいつは気にすることなく飲んでいる。現に今も、アメを咥えたまま器用にコーヒーを飲んでいる。その様子を見ていると、もしかしたらおいしい飲み方なのか、と思うことはない。こいつの舌がバカなだけだろう。
バカ舌がコーヒーを楽しんでいる間、俺はすることもないので店内をただ見ていた。俺たちがコーヒー一杯で粘っていても店から追い出されないのは、仮にも俺たちが客であるということもあるようだが、店が混んでいないからであろう。というか、俺たち以外は一、二組しかいない。空いている席がほとんどだ。まぁ、混んでいる店で天使と話なんかできないか。もし誰かに話を聞かれたら、あいつらは頭がおかしいのか、とバカにされるに違いない。天使の方は正解だが、俺は違う。一緒にされては困る。
そうして俺がしばらく店内の様子を見ていたら、天使が空になったカップを置いて、また話し始める。
「そういえば、高橋さんからいくつか伝言だ」
「高橋さんから?」やっぱり、俺の仕事に対する感想が、「面白い」だけじゃなく、なにかあったのかな。天使の伝言とはいえ、高橋さんが俺に向けた言葉を送ってくれるのは初めてだったので、俺は少し背筋を伸ばして聞いた。
「あぁ、まず一つ。『数を減らそうが、天使の仕事を手伝おうが、盗みはダメに決まってるだろ、バカ』だとさ」あ、やっぱり。でも聞いてくださいよ、高橋さん。俺は無報酬で働いてるんですよ。少しぐらい、いいじゃないですか。
「それでな、このまま盗みとかの犯罪行為をさせるわけにはいかないからって、今度から高橋さんが報酬を出してくれるらしいよ」
たっ、高橋さん!あなたは分かってくれると思っていました。やっぱりこのバカ天使とは違う。ありがとうございます、高橋さん。
「そっ、それで、報酬ってなんだよ」やっぱり金かな。それとも、何か天使特製の品物とかかな。俺は期待して天使の話の先を促した。
「あれだよ、お前毎週、週刊誌とってるんだろ。それ見て『そんなに好きなら買ってやるよ』って高橋さんが言ってた。それが報酬だとさ」あれ、高橋さん?
「もしかして、それだけか?」俺は微かな望みを捨て切れずに訊いた。
「ああ。それだけだとさ」俺の報酬安すぎませんか、高橋さん。
「マジかよぉ、それだけじゃまた、やっちゃうよ俺」高橋さんの厚意とはいえ、不満を隠しきれない。
「それでな、『報酬を出すんだから、次、犯罪行為をやったら刺すぞ、矢』とも言ってたから気をつけろ。あの人はマジでやるぞ」天使が脅しのつもりなのか、腕を振りかぶった格好で言った。天使が矢を刺すのって、そんなに直接的なのか。弓は使わないのか。
「モチベーション上がらねぇよ」俺は天を仰ぐようにして嘆いた。
「まぁ、そう言うなって。働き次第では報酬上げてくれるかもよ」
「ああ」それは確かにあり得る。お願いしますよ、高橋さん。俺、頑張りますから。「たぶん、ないけど」と天使が最後に付け足した言葉は無視した。お願いします、高橋さん!
「それでな」
俺の気のせいかもしれないが、天使が少し真面目なトーンで顔を曇らせて話し始める。
今までの傾向から、どうせロクなことは言わないだろうな、と思いながら俺は耳を傾ける。
「高橋さんからの伝言二つ目だ。まぁ、これは伝言というか質問だけど、『力の副作用は大丈夫か?』だとさ。大丈夫なのか?」
意外にも、本当に真面目な話だった。
それにしても、ほぅ、高橋さんはともかく、こいつも俺の心配をすることがあるのだな。
おそらく、こいつが言っているのは〝願いを叶えやすくする力″を使うことで生じる身体への負担のことだろう。この力を使えば、普段はできないようなことが、願いやイメージの強さに比例して可能になる。しかし、できないことはできない。この力は、脳のリミッターを外すか何かで、何かしらの潜在的な力を引き出すものだ。俺も詳しくは知らないが、俺にはできる、それさえ分かればいい。ただ、この力がどういう仕組みでできるのかは知らないが、普段できないことを無理矢理するのだ。身体への負担は、力を使ってやったことの代償としてやってくる。速く走ろうと思って力を使えば、足が筋肉痛、やりすぎると筋肉ボロボロで歩けなくなる。下手したら頭も痛くなる。これが〝願いを叶えやすくする力″の副作用。
強い力に副作用は必ずあるもんだ。
まぁ、俺にはそんなものあってないようなものだが。
俺はダークヒーローになる男で、この世界の主人公だ。主人公たる者、やっぱり修業は付き物だろ。 俺が読んでる週刊誌でも、みんなこぞって修業をやっている。だから俺は常日頃から筋トレや走り込みは欠かさない。脳への負担がでないように、イメージトレーニングで脳も鍛えている(つもり)。これはたった今、高橋さんに禁止されたが…。とにかく、前回程度の力の行使じゃ、副作用なんて来ない。
しかし、面白い。
この天使が真面目な顔して、俺の心配をしているようだ。もう少し黙って見ていようとも思ったが、男の顔をじっと見続けるのは気持ち悪いと気づいてやめた。
自分の心配が杞憂であると気づいたら、こいつはどんな顔をするのだろうか。そっちに興味を移して「大丈夫かだって?誰に言ってるんだよ、俺はこの世界の主人公だぞ。あれくらいで、がたつくような身体じゃねぇんだ。そんな心配、無意味なんだよ」と相手の恥を指摘するように言った。
天使はそう言われ、怒るでも、俺を馬鹿にするでもなく、一際真面目な顔をした。ように感じた。
「そっちじゃねぇよ」
天使は眉間に皺を寄せ、俺を睨んで、そう言った。
その顔を見て、俺は悟った。 あぁ、こいつは、いや高橋さんかな、そっちまで知ってたのか、と。
気づいたら俺は、先ほどの自分が凄く恥ずかしく感じた。
「大丈夫だよ」
俺は天使の視線から目をそらし、ただ強がって、そう答えた。
少し空気が重くなったから、コーヒーを飲もうとしたら無かった。しょうがないから、黙ってまた店内の様子を見ていることにした。
それからは会話もなくなり、どちらからともなく席を立った。別にテレパシーを使ったわけではないが、どうせ会ったんだから何か仕事でも探すか、と通じ合ったのかもしえない。いや、こいつに限ってそれはないかな。
会計をする時に冗談のつもりで、「今回もおごってくれるのか?」と訊いてみた。嫌がるかと思ったが「いいよ」とあっさり言ってくれた。
「いいのか?」自分で言っておいて何だが、かなり意外だった。こいつはケチだから。
さっきの真面目な顔は既になく、いつものマヌケ面になった天使は、何が嬉しいのかニヤニヤして浴衣の袖口から財布を取り出しながら言う。ずいぶん年季の入った財布だ。
「ああ。この前高橋さんにコーヒー代分の手当てを頼んだら簡単に認めてくれてな。だから、これからもコーヒー代分くらいは俺が払ってやるよ」それって、お前が払ってくれてるわけじゃないんじゃないか、とは言わない。その代わりに、わずかな感謝の意をこめて「ごちになりま~す」とだけ言う。
「おう」俺の言葉で気分が良くなったのか、天使ドヤ顔。
くだらないやり取りもほどほどに、さっさと会計を済ませて店を出る。
今日もコーヒー一杯で粘り、しかも前より少しだけ騒がしかった俺たちを、店のコは「ありがとうございました」と笑顔で見送ってくれた。
マスターも威圧感すら漂う睨みのきいた笑顔で送ってくれた。
喫茶店を出てから、仕事を探して街をふらついていた。
前回の反省からゲイを助けることだけは避けながら、とりあえず仕事を探して歩いた。無職みたいだな。
今日はまだ体力的余裕があるようで、宙に浮かずに俺の隣を歩く天使は、アメを咥えて、ぼぉっとしていた。その無気力な顔に、仕事をする気はあるのか、と俺は不安になる。
しばらく歩いていると、突然天使が何かを思い出したかのようにはっとした。
「そういえば忘れてた」手を叩いてそう言うと、舐め終えたアメの棒を、プッと道路脇に吐き捨てた。おい、また怒られるぞ。
「何だ、いきなり」俺の苦い顔とは対照的に、天使は笑顔で言う。
「今日の仕事にはいいものがあるぞ」そう言うと、天使は浴衣の袖口に手を入れ、何かを探し始めた。その中いろいろ入ってるな。
「いいものってなんだよ」お菓子でも持ってきたのか。
「じゃじゃ~ん、こ~れ~」何かのモノマネなのか、ダミ声で言いながら、何かを取りだした。ピンポン玉くらいの大きさの、紫色の、ボールか?
「だから、それはなんだよ」
「見て分かんないか、ボールだよ」お前こそ、何故分かんないか。
「それぐらい分かるよ。それはどんなボールなんだって訊いているんだ」まさか、ただのボールってことはあるまい。いや、こいつの場合あるのかも。
「あぁ、これは五十嵐さんお手製のボールなんだけどな」
「ちょっと待て。五十嵐さんって誰だ?」おなじみ、みたいに言われても俺は知らない。そいつも天使なのか。
「話の腰折るのが好きだな、椿は」天使は、またかよと言わんばかりに大げさにため息をついて言う。
「五十嵐さんも、まぁ一応天使だ」
「一応ってなんだよ?」まさか、天使がいじめか。ハブか。
「あの人はさ、人を助けることにも、人を裁くことにも興味がないんだ。確か今は開発課にいるはずだ」
「開発課ってなんだよ?」
「質問攻めだな」天使が面倒そうに言う。お前の説明が下手なんだよ。
「悪いな、俺の好奇心が疼いて止まらないんだ」俺は反省のかけらも見せずに言った。
天使は、なんだそれ、と鼻で笑った。笑うな。
「開発課ってのは、簡単に言うと俺たち天使の仕事に役立つアイテムとかを作ってる所だな。天使はそこで必要なアイテムとかを買ったりするんだ。五十嵐さんはそこでアイテムの研究ばっかりしてるヒト」
「へぇ~」なんか凄そうな人だな。
「面白い人でさ、仕事で役に立つか立たないかは別として、いろんなもの作ってるんだよ。まぁ、できるアイテムのほとんどが没になるか、危険物取扱いの資格がいるものだけどな」どうやら変な人らしい。
「そんな資格もあるのかよ」
「あるよ。例えば、人の感情をコントロールする矢とか、人の精神を乗っ取る矢、街一つの住人全員を花粉症にさせる爆弾とかは、資格が必要だ」
「最後のヤツ、五十嵐さんの作品か?」
「よく分かったな」天使は驚いている。なんとなくだったが、当たったようだ。だって最後だけ爆弾だったから。つーかそれ、よく没にならなかったな。
「それで、そのボールも五十嵐さんの作品なんだな」話を聞く限りだと、五十嵐さんの作品はろくなものじゃなさそうだ。
天使はやっと本題に入れるとばかりに、「そう」と威勢よく言った。そして、天使はボールを軽く上に投げてキャッチしようとしたが、手ではじいてしまい失敗した。転がっているボールを拾いに行った。何してるんだ?
戻ってきた天使は、今の一連の流れがなかったかのように、シレッとしている。
悔しかったのか、もう一度「そう」と言った。どうやらテイク2が始まったらしい。またボールを軽く上に投げて、今度はキャッチし、俺の方に突き出してきた。成功したようだ。ニヤついている。よかったな。
「これも五十嵐さんの作品だ!しかも最新作だ!名前もまだない!」成功に気を良くしたのかやたらはきはき喋るな。
「それで、そのボールはなんなんだ」しっかり見ようと思い、突き出されたボールを取ろうとしたら天使がボールを高く掲げ、阻まれた。
「これは、ぶつけた人間を眠らせるボールだ」
「なんだそれ?」
「いや、ホントはさ、刺した人間を眠らせる矢ってのが既にあるんだ。でも五十嵐さんは、『矢なんてめんどくさいだろ。矢を引いている時間もかかるし弓だって邪魔だ』つって、これを作ったんだ」
天使は、俺に取られないためになのか、ボールを上に掲げたまま言った。
「弓矢が邪魔って…」天使にあるまじき発言だな。
「これ、まだ五十嵐さんも上の人に提出してないらしいんだ。非売品だぞ」
「じゃあ、なんで持ってるんだ」
「五十嵐さんが、使ってみてこいよ、って貸してくれたんだ」つまり実験してこい、ってことか。
しかし、果たしてこんなものが仕事で役立つだろうか。
確かに、前回みたいなピストルなんかを持った相手を黙らせることには有効に働くだろう。だが、天使の仕事が毎回ああいったものになるとは思えない。むしろ、あれはレアなケースと言えるだろう。こいつは例外なのかもしれないが、天使の仕事は基本、人を助けることらしい。人を助ける上で誰かを眠らせるなんてことは、ほとんどないんじゃないか。
天使にそのことを伝えようと思ったが、新しく手に入れたおもちゃを早く使いたくてウズウズする子供のように、ピッチングフォームの確認なんかしている。
取り敢えず無関係の人間に当てないようにだけ言って、ボールをしまわせた。
「おい、見てみろよ。カワイ子ちゃんがこっちに来るぞ」
五十嵐さん作のボールをしまうことに文句を言いながら、また仕事を探して歩いていた時、天使は突然言った。「ほら、あの白い帽子かぶった子」といって指差している。カワイ子ちゃんって、時代錯誤なのは服装だけじゃないようだ。
それより、あれってまさか。
「あ~、椿君だぁ。やっほー」俺は山じゃない。
俺にやまびこのように声をかけ、そいつは近づいてきた。
「なんだよ、お前あの子と知り合いなのか、椿君?」天使が驚きからなのか、声がでかくなった。つーか、お前まで『椿君』っていうな、気持ち悪い。
「ああ、まぁな」
「何で?お前って『彼女いない歴=年齢』のダメ男だったじゃん」
「ダメ男じゃねぇよ。それに、あれは俺の彼女じゃねぇ」
「あれは、ってことは、他にはいるのか?」
「…いねぇよ」
「だろっ」だろっ、て何だよ。満足そうな顔すんな。
本日一回目の天使の羽を引き千切りたくなる衝動を抑え、俺の前で元気よく立つ、そいつにあいさつを返した。
「よう、榎」
軽く手を挙げてそう言うと、そいつ、榎はへらへらして「よう」と手を挙げ、俺の真似をする。真似すんな。
こいつはいつもへらへらしていて、なんだろう、頭の中がフワフワしている感じのやつだ。最近出会った天使ほどではないが、たまに俺をイラつかせる。
「めずらしいね。椿君がお友達とお散歩?」
「友達じゃねぇよ」そんなことがあってたまるか。
俺は面倒だから、適当に紹介しようと思ったら、天使が俺を押し退けて、榎の前に立った。
「はじめまして、お嬢さん。私は天使なんだ」天使が左手を前に、右手を背中にまわして自己紹介した。何だその喋り方とポーズは?英国紳士にでもなったつもりか?
つーか、普通いきなり自分は天使だっていうか。天使だってこと隠さなくていいのかよ。こんな怪しいヤツ信じるわけないだろ。
そう思ったのだが…。
「はじめまして、天使さん。私は榎って言います」榎は普通に笑顔であいさつしていた。えっ、信じるんだ?
「俺は、楸っていうんだ。楸さんって呼んで」喋り方がまたいつものに戻ってるぞ。
「うん。天使さん」
俺を無視して、バカ二人が自己紹介を終えた。握手なんかしてる。
無駄かもしれないとは思ったが、「ちょっと待てよ」と俺は口を放む。「榎。何、お前いきなり現れた天使を名乗る男をナチュラルに受け入れてんだよ。つーか、名乗ったのに結局『天使さん』って呼んでるし」どうでもいい細かいところまでつっこんでみた。
「なんでぇ?私は天使だ、って言ってたじゃん」榎は天使を指さしながら言う。
「だから、なんで天使だって言われて信じてるんだよ。お前は俺の妹だって言ったら、お前信じるのか?」
「え、椿君って私のお兄ちゃんだったの?」
「だから信じるなよ!」
「お兄さん」黙れ天使。
もう嫌だ、こいつら。
うな垂れる俺を見て天使は笑っている。笑うな。
榎は、初めて会った天使に興味を示したのか、俺のことは無視して、天使の方ばかり見ている。そんなヤツ見て面白いか?
浴衣で下駄をはいた天使に疑問でも持ったのか、天使の周りを一度まわってから「ねぇ、天使さん」と榎は質問した。
「ん、なんだい」
「翼って無いの?」
科は訊いた。
ナイス、榎!と、俺は心の中で叫んでいた。
初めて会ったときに引っ張られてから、天使は羽を一度も出すことがなかった。俺は何とかして羽を出させ、引き千切ってやりたかったのに、警戒されてしまっていてチャンスを得られないでいる。だが、不意に訪れた、この好機。ナイス、榎!俺はもう一度心の中で叫んだ。
「ごめんね、今出せないんだ」天使は手を合わせて、榎に謝った。
「なんでだよ、榎が頼んでるんだから羽くらい見せてやれよ」俺のためにも、とは言わない。
「あのね、俺の羽を引っ張ろうとする野蛮な男がいるから、今は見せてあげられないんだ」そう言って天使は俺の方を指さす。ちっ、気づいてやがった。
「代わりにアメを上げるよ」
そう言って、浴衣の袖からアメを取り出し、榎に渡した。
「ありがと」榎は受け取って包み紙を外すと、嬉しそうにアメをなめ始める。もらうなよ。
「つふぁきくん」アメをなめながら、榎は俺の方を向いて「天使さんの翼、引っ張っちゃだめだよ」と注意してきた。ついでに天使も「ダメだよ、椿君」と言う。うるせぇ。
こうして俺の前から、天使の羽を引っ張るチャンスは、二度とその姿を見せることがないような気配を感じさせ、逃げて行った。俺はあきらめない、また探すよ。
チャンスとの別れを惜しみ、再びめぐり合うことを決意した俺は、目の前でアメをなめるバカ二人に向き直った。
波長が合うのか、ガッカリしている俺を置いて二人は楽しそうに、「頭の上に環っかもないね?」「あれ使えないし、ただのファッションだよ。つけたいヤツだけつけるんだ」だとか、「浴衣似合うね」「榎ちゃんも、その白い帽子可愛いよ」と話していた。
そういえば、いつものことだから忘れていたな。
「これ、帽子じゃないよ」
榎はそう言うと頭にかぶっていた、いや、乗せていた白いモコモコをおろして、天使に見せた。
「これ、大福」
そう言って、天使に見せた。大福という名前の白ウサギを。
さすがに天使も、帽子だと思っていたものがウサギだと知って驚いているようだ、目を丸くしている。まぁ、頭にウサギを乗せてるヤツに出会ったら驚くか。
何故か榎は昔から頭の上にウサギを乗せたがった。大福を飼ってからは、いっしょに外出するときはいつも頭の上に大福を乗せていた。
目を丸くして普段使わない頭で情報処理している天使はおいといて、俺は大福の頭をなでた。
「少し痩せたか、大福」それに元気もないようだ。
「うん、最近餌もあんまり食べないから…」榎も大福を心配しているのか笑みが無くなり、沈んだ顔になった。「それで、さっきお医者さんに診てもらったら、どこも悪くないから歳なんだって言われたの…」
「そうか」
「大福も、お月さまに行っちゃうのかな…」
そう言った榎の声が今にも泣きそうだったので、俺はバカにすることも、安心させる言葉も言えず、ただ黙っていた。
そこへ、フリーズしていた天使が湿っぽくなった空気を払うような、能天気な声で入ってきた。
「そういえばさ、月にいるウサギってなんで餅つきしてるんだ?」
「あれは月の影がそう見えるってだけだよ」面倒だったが、俺は答えた。
「いや、そうだとしてもさ、おかしいだろ。ウサギが餅つきって」
「何がだよ」
「だってさ、ウサギの細腕でどうやって杵を振るんだよ?」
「知らねぇよ。月は地球より重力が少ないから軽いんじゃないか」
「重力ね。それでいいや。じゃあ、ついた餅はどうするんだ」
「食うんだろ」
「それがおかしいだろ。あいつら草食じゃないのか?ベジタリアンは月へ行って卒業か?」
「別に菜食主義でも餅は食うだろ。よっぽど旨い餅なんじゃないのか」
「食べたことあるのか?椿」
「あるわけないだろ」
「適当だな。あぁ椿が旨い餅とか言うから、あんこ餅食べたくなっちゃったよ。それかきな粉」
「うるせぇよ!」
天使にそう言って会話の終了を告げた時、何が面白かったのか、榎が笑っていた。
「えへへっ」
「何笑ってんだよ、榎」榎の笑顔を見て安心したが、意味が分からない。笑うようなことあったか?
「椿君と天使さん、仲イイね」
「ハァッ!」何言ってんだこいつ。冗談じゃない。
「何か元気出てきた。ありがと」いや、ありがとって言われても。
「ねぇ、榎ちゃん。榎ちゃんは、椿と友達なの?」天使は、自分と俺との仲については興味がないのか、全く反応せず、榎に質問した。
榎は、ホントに元気になったのかいつもの笑顔になり、脇を抱えて持っていた大福をまた頭に乗せた。
「おい、元気ないんだったら大福頭に乗せるなよ」
天使が質問の横入りをされて何か言いたそうだが無視して言った。
「いいの。大福もここがいいって言ってるし」
「ウサギが喋るかよ…」
俺は呆れて言うが、榎は聞き入れない。それどころか、何を言っているんだとでも言うようにムキになって「喋るよ」と言われた。
大福は、やっと定位置について安心したのか、丸くなり、榎の頭で大人しくなった。
一応納得して大福を一度なでた俺は、横で何かこそこそしている天使の方を見た。何してるんだ、こいつ。
「ねぇ、榎ちゃん。今、少し時間ある?」
「うん、少しなら」
「じゃあ、あっちに公園があるから、そこのベンチに座って少し話そう。うるさい椿は置いといて」
そう言って、天使は俺の方を見た。
うるさい天使にうるさいと言われ、その上なぜか俺は置いてけぼりにされそうだったので、こちらを見てニヤついている天使に抗議しようと近づいた。すると、いきなり目の前に紫色のボールが現れた。それが天使の投げた五十嵐さん作の「ぶつけた人間を眠らせるボール」だと気づいた時には、もう眼が開かなかった。ここで使うんだ、それ。
背中が痛い。
五十嵐さん作のボールで眠らされた俺は、目を覚ました時、公園のベンチの上で横になっていた。
「やっとお目覚めかよ、椿」
まだ頭がぼぉっとしていた。体を起こすのもだるかったので、寝たままの恰好で、隣に並んだベンチに座る天使の方を見上げた。
「お前が眠らせたんだろうが」寝起きで抗議するのは、やはりつらい。
「楸さんだ」もういいや。
「やっとって、俺はどれくらい寝てたんだ?」空が赤くなり始めていたから、だいぶ経ったのだとは思うが。
「だいたい、二時間くらいかな」効くなこのボール、と天使はボールを弄びながらそう言った。そして、ボールを浴衣の袖に入れると、肩を回して、首を回し、疲れをほぐしているようだ。
「感謝しろよ。街中で寝たお前を、俺がここまで運んだんだぞ」
「だから、お前が眠らせたんだろ」
「まだ寝ぼけているようだな。楸さんだぞ」はぁ~、もう疲れた。
そこで、俺はやっと気付いた。「あれ、榎は?」
「とっくに帰ったよ」当たり前だろとばかりに天使は言う。
そりゃそうか。元気ない大福を連れていつまでも外にいるわけないよな。
「それで。俺を眠らせてまで、榎と何を話したんだよ?」俺はまだ起きる気にもなれなかったんで、暇つぶしに天使に訊いた。
「あぁ、ちょっとな。気になったこともあったし、なんでお前なんかと仲良しなのかとか、いろいろな」
俺はてっきり、こいつは榎に少なからず好意を持っていると思っていたから、どこか歯切れの悪い天使の反応は意外だった。
「それで、なんて言ってたんだ榎は?」
「あぁ、椿君は優しいし面白いから、だとさ」
それから天使は、榎との会話の内容を話し始めた。
榎が小さいころ、両親から虐待されていたこと。今とは違い、暗く人見知りだったため、学校でもクラスになじめず、いつも一人でいたこと。小学生の時、ウサギの世話をしていたこと。そのウサギを頭に乗せていたら男子にバカにされ、いじめられたこと。そのいじめっ子を俺がぶっとばしたこと。他にもいろいろ。
あいつ、初対面の天使にそんなに話したのか。
だいぶ頭もすっきりしてきたし、話が終わるころには、俺は起き上がって聞いていた。
別に俺は知っていたから、会話の内容には驚かなかった。それよりも、天使の様子がどこか暗いことと、こいつの話にしては短かったことに驚いた。
「あの娘もいろいろと大変だったんだな」天使がそう最後にぼそっと言った。
「まぁな。けど、大変じゃない奴なんていないだろ」
「…確かにな」
そこでやっと天使もいつもの能天気顔に戻った。暗いこいつも違和感があったが、戻ったらめんどくさくなる。暗いままでよかったかな。
「それにしても、優しかったんだね、椿君」
「うるせぇよ」
「何で榎ちゃんに優しいの?好きなの?」
天使が中学生男子のようにはしゃいできた。さっきの暗かったお前に戻ってくれよ。
「違げぇよ。ただ、なんとなくほっとけないだけだ」
「それって好きなんじゃないのぉ」天使がグーにした両手で口元を隠して言う。今度は女子高生か。
「だから違げぇって。あいつさ、今はやめさせたから人前ではあんまり言わなくなったけど、妖精が見えるとか、動物と話せるだとか言うから、周りに煙たがられてたんだよ。だから、ほっとくと何か不安と言うか、まぁ、そんな感じだ」
「あ、そうそう、そういえば」天使は手を叩いて、咥えていたアメの棒を吐き捨てた。
「さっき、榎ちゃんが自分で言ってたけど、ホントに妖精が見えたり、動物の声が聞こえたりするのかな?」
「はぁ?んなわけないだろ。あいつはおかしいんだよ」俺は自分の頭ではなく天使の頭を指して言う。
「なんで?」なんでって…お前。
「妖精なんていないだろ。それに動物は鳴きはするが喋らない。常識だろ」
そう言うと、天使は「ハァ」とため息をつき、あからさまな呆れを見せた。
「椿、お前は天使は信じるのに、妖精は信じないのか」
「いや、だって…いないだろ」それに、俺はまだお前が天使だと百パーセント信じたわけではない。
「何でいないって言い切れるんだ?」
新しいアメを咥え、天使は訊いてきた。
「…だって見えないし。あり得ないだろ」
また天使は「ハァァ」と大きくため息をつくと、咥えたばかりのアメを俺に向けて話し始めた。そんなもの向けるな。
「そんなこと言ったら、酸素だって見えないだろ。酸素はないのか?」
「それはまた別の話だろ」
「いいか、椿。『見えない=ない』じゃないんだ」
「じゃ、じゃあ…妖精はいるのか?」
「それは知らない。俺も見たことないもん」なんだそれ。「天使と妖精はまた別物だからな。俺が言いたいのは、見えない、聞こえない、知らない、っていう理由だけで、それがあり得ないと決めつけない方がいいぞ、ってことだ」
「じゃあ、お前は妖精はいるかもしれないし、動物は喋るかもしれないって言いたいんだな」
「そう、楸さんはそう言いたいんだ」それにな、と天使は指揮棒のように振っていたアメを口に戻して続ける。「それにな、俺はもしかしたら、あの子も椿と同じ力があるんじゃないかと思うんだ」
また口から出したアメを向けてきた。
「同じ力って〝願いを叶えやすくする力″のことか?」榎が?まさか。
「正確には違うけどな」そう前置きをして天使は説明を始めた。「椿、お前の力ってのは要は自分のことを、自分の内側を信じてヘンテコパワーを発揮するみたいなもんだろ」
「ヘンテコ言うな」
「そうして、自分の力を過信してしまったナルシストな椿は、自分以外、自分の外側をあまり信じなくなった」哀れだとでも言いたそうだな。
「ナルシスト言うな」
「彼女は、お前と真逆なんじゃないか」天使はこれが正解ですよ、とでもいうようにはっきりと断言した。
「逆?」
「あぁ」天使は先ほどまでの浮かれた顔ではなかった。むしろ少し怒っているのか、それか悲しんでいるようでもあった。アメを口に入れ、また話し始める。「きっと彼女は、虐待され、一人ぼっちでいる時間が長くて、自分のことを否定するようになってしまったんだろうな。自分が悪いから、自分に原因があるせいで、親もクラスのヤツも相手をしてくれないって。まぁ、後で一人例外もいたようだが」
一人の例外と指さされた俺は黙って聞いた。
「それで、彼女は自分以外、自分の外側のものを憧れ、信じるようになった。最初は飼育していたウサギだったのかもしれないな。どうしても友達がほしかった彼女はウサギでもいいから友達になってほしいと願い、試しにウサギに話しかけてみた。すると、ウサギの声が聞こえた。話せたんだ。それで彼女は、普通の人、特にお前なんかが信じないような、見えないもの、聞こえないものを、普通であると信じるようになったんだ」
「だから、あいつには妖精が見えたり、動物の声が聞こえたりするってのか」
天使の説明を聞き終え、俺は天使に訊いてみた。
「たぶんな。彼女はお前と違って、速く走ることも強い力を出すこともできないが、よく見え、よく聞こえるってところかな」
天使は、二ィっと笑って言う。感情の変化が激しくて忙しそうですね。
「バカバカしい。んなわけあるかよ」俺は天使の考えを一蹴した。
「ほら、すぐ否定する。だからダメなんだよ椿は」
「だいたい、もしあいつが友達がほしくて願い〝力″に目覚めたとしよう。でも、それなら俺と出会って願いが叶ったことになるんじゃないか。何でまだ力を持っているんだよ」自分で言って恥ずかしくなった。これだと、自分は榎の友達だと主張しているみたいだ。
「榎ちゃんにとって、椿なんか男Aとかなんじゃないのか」自分で思うのはいいが、こいつに言われると無性に腹が立つ。「冗談だ。睨むなよ椿」黙れ、クソ天使A。
「これは俺の推測だが」
と天使はまだ説明しようとする。これはって、全部お前の推測じゃないか。
「彼女は元々素直な性格なんだろうな。純真無垢だ。そんな彼女にとって、一度見えたもの、聞こえたものを椿みたいに汚い心で否定することはなかったんだよ。彼女にとっては妖精が見える、動物が喋る。それが常識なんだ」
「なんで俺の心だけ汚いんだよ。お前も妖精が見えないんだったら同じだろ」
そんな俺の言葉は、心だけじゃなく耳の中まで汚い天使には届かない。
「そんなに難しく考えるなよ、椿。彼女にも力がある。妖精が見える。動物と喋れる。彼女の心はきれいで、彼女はかわいい。椿の心は汚い。それでいいじゃないか」
「最後の二つ以外はな」
実際、俺もそれでいいと思った。きっとあいつには見えるし聞こえる。俺には見えないし聞こえない。俺にとっては見えない聞こえないが普通で、榎はおかしい。だから俺は榎をバカにする。ついでに、天使は心だけじゃなく全て汚い。それでいいじゃないか。
どっかの学者も言っていたが、自分の目に映るものが真実とは言い切れないらしい。そんな偉い学者が考えるようなことを俺たちが、特にこの天使が考えること自体無意味なのだ。
榎に頭の中についての考察は終わり。
だが終わったのはいいが、俺たちは今日何をしていたんだ?
さっきまでは赤かった空もだんだんと暗くなり始めていた。
確か今日は、天使が新しいテレパシー能力を試し、喫茶店で前回の評価を聞き、仕事を探して歩いていたら榎に出会い、俺はその後五十嵐さん作のボールの効果で二時間ほど眠り、公園のベンチで榎の頭の中について考察していたら、夜だ。もう一度言おう。俺たちは今日何をしていたんだ。
「なぁ、今日俺たちは何をしたんだ?」三回目は口にして、俺は天使に訊いた。
「何って、確か、俺が新しいテレパシー能力を試し、喫茶店で前回の評価を伝え、仕事を探して歩いていたら榎ちゃんに出会い、椿はその後五十嵐さん作のボールの効果で二時間ほど眠り、公園のベンチで榎ちゃんの頭の中について考察したんだ」
「やっぱり、そうだよな」
「何か不満か?」何か不満かって。
「今日、天使の仕事してないぞ。いいのかよ」俺は別にノルマを抱えているわけではないが、ダークヒーローとしての自覚が芽生えてきたのか、これではいけないような気がして、天使に詰め寄った。
「いいんじゃないか。それだけ世の中平和だったってことだよ」
天使は実にあっけらかんとしている。
「世の中って、ほとんど喫茶店と公園じゃねぇかよ」
「俺は、俺の目に映る世界が世の中だと思っている」
「世の中狭いな」
「だからみんな、世間は狭いとか言うんじゃないか?」
「みんなが目に映る世界だけを世の中とは思ってないと思うし、そうだとしても喫茶店と公園よりは広いだろ」
「やっぱり?」
自分で天使を非難したものの、一度眠らされたせいか、それともこの天使を相手にしているせいか、おそらく後者が原因だろう、身体には疲労感があって、この後もまじめに仕事を探そうと言うほどの気力もなかった。
そのことを天使に伝えると、あっさりと「今日はお開きにしよう」と言ったので、俺はそれに反対なんてせずに従うことにした。
「じゃあまた」と別れようとした時、不意に思った。そうだ、「また」だった。
「なぁ。俺からお前に連絡って取れないのか?」
「なんだ、寂しくて楸さんと連絡を取り合いたいのか」まさか。ニヤニヤするな。
「そうじゃなくて。俺らが会うのは、このままだと一方的に俺が見つけてもらう形になるだろ。それだと不便だ。いつ仕事をするか、どこで会うか、連絡を取り合えた方がなにかと便利だろ」
「…それもそうだな。…わかった。高橋さんに相談してみる」
「頼んだ」
「じゃあ、連絡取り合う手段が決まるまではしょうがない、俺がお前を探すよ。それか、寂しくて俺に会いたくなったら『楸さーん!』って叫べ。なるべく早く来るようにするから」笑いながら「じゃな」と付け足し、天使は帰って行った。相変わらず、羽も出さずに空を飛んで。
俺は、絶対に名前を叫ぶことだけはないと思い、帰った。
今日はまだ終わってなかった。それに、天使の名前を叫ぶことになるかもしれない。
天使の仕事もせず、ただ榎や天使と話をしただけなのに、疲労感を抱えていた俺は、家に帰ってからも特になにをするでもなく、夕飯を食って、くだらないテレビを見ていた。
そろそろ九時台のドラマが始まる時間だが、俺は今シーズンのドラマは何も見ていない。風呂に入ってもう寝るかと思っていた時、ケータイが震えた。着信相手は榎だ。
「もしもし。なんか用か榎?」
俺は訊いた。
しかし、返事はなく、電話の向こうでは、榎が鼻をすする音が聞こえる。
なんだ、泣いているのか?
俺は、はねる様にして起き上がり、耳に神経を集中させた。
「椿くん、…あのねぇ、大福が…、動かないのぉ。息はしてるみたいなんだけど…。私、どうしよう?」どうしようったって。
「分かった!とりあえず、すぐ行く。家にいるんだろ?」
「うん…」
「泣くな。待ってろ!」
俺は電話を切るとすぐに外に出た。
だが、自分に何かができるとも思えなかった。昼にあった時、榎は医者に診てもらったと言っていた。医者の話だと大福は病気とかではなく、もう歳なんだそうだ。
俺に出来ることはない。医者もダメ。そうなると、人間以外の者に頼るしかないじゃないか。最近の環境の変化か、すぐその考えに至った。できれば頼りたくはないが、アイツだ。
俺は榎の家に向かって走りながら考えたが、他に方法も思い浮かばない。
アイツに頼るのは癪だし、自分から名前を叫んで呼ぶことはないと決めていた。しかし、今はそんなことで躊躇している場合じゃない。
「おい、天使!すぐに来い!すぐだ!」
俺は空に向けて叫んだ。ご近所のみなさん、うるさくしてすみません。
「楸さんって、名前を呼べと言っただろ。それにこんなところで『おい、天使』って、お前の方が恥ずかしいだろ。どんなプライドだよ?」
走りながら待っていたら、一分足らずで天使は現れた。別れた時とは違う、たぶん寝巻なのだろう、別の浴衣を着て、浮いている。
「あとな、俺今ドラマ見てたんだよ。時間帯を考えて呼べよ。今日はアケミがな…」
「ごちゃごちゃうるせぇよ。緊急なんだ!」
文句を言っていた天使も、ふざけている状況じゃないことを察したのか、真剣な顔になって訊いてきた。
「何があったんだよ?息なんか切らして」
天使は浮いたまま俺についてくる。
「大福がやべぇ」
「大福って、もしかして榎ちゃんのウサギか?」
「ああ、そうだ」
俺がそう答えた時には、すでに榎の住んでいるアパートの前に立っていた。榎はペットと住めるところを探していた。ここの大家さんは話の分かる人で、ペットを飼うことを許可してくれたらしい。ウサギなら騒がないし、と。
「それで、なんで俺を呼んだんだ?」
天使は、俺の隣に降りて訊いてきた。
「大福を助けてほしい」
「はぁ?確かあのウサギって寿命なんじゃ…」
「そうだよ。でも、天使なら何とかできないのか?」
「…いや、無理だよ」別にお前なんか最初からあてにしていない。
「お前じゃなくても、高橋さんとか。そうだ、五十嵐さんは何かこういう時のためのアイテムは研究してないのか?」
俺はまさに、藁にもすがる思いだった。
しかし、天使の答えは同じだった。
「無理だよ、椿」
無理。
俺は天使の言った言葉は、たぶん最初から自分でも分かっていた。寿命で死んでいく命を救うなんてことは「無理」だと。だが、俺はそれを受け入れることができず、気づいたら天使の胸倉をつかんでいた。
「無理ってなんだよ?お前ら天使だろ。何もできないのかよ!」
「悪い」天使は、俺から視線をそらして言った。「……泣くなよ、椿」
天使に言われて泣いていることに気づいた。だが、今はそんなことはどうでもいい。
「頼むよ!……大事なんだ。大福は、榎にとって大切なんだよ。だから…頼むよ」
どんなに頼んでも、無理なことは分かっている。天使はまた、「無理だ。」と言うに決まっている。だけど…頼むよ…。
そう懇願している俺に向けられた天使の声は、先ほどまでのあきらめではなく、また希望に満ちているものでも決してないが、どこか力のあるものだった。
「しゃーねぇなぁ」
ぐしゃぐしゃと髪を掻きむしりながら、天使は言う。
「は?」
「いくぞ、椿。ついて来い」
そう言って、浴衣の乱れを直すと天使は、アパートの方へ歩き出した。なんだ?さっきは無理だとか言っておいて何かできるのか。そう不思議に思って立ち止まっていた俺の方を振り返り、天使は「早く来いよ。部屋の場所分かんないよ、俺は」と言った。じゃあなんでついて来いって言ったんだ。
「あと、椿。涙は拭いとけよ」
俺を指さして天使は微笑する。
「うるせぇよ」
確かに、榎に「泣くな」と言っておいて、自分が泣いてたらおかしいな。俺は腕で目をこすってから、アパートに向かって歩き始めた。
俺は天使の前を歩いて、榎の部屋のドアの前まで来た。インターフォンを押すと、中で慌てた足音が鳴り、榎がドアを開けた。
「椿君…。天使さんも…」
俺の言ったことを馬鹿正直に守っていたのか、榎は泣いてはいなかった。が、目は腫れていた。
「榎ちゃん。ウサギは?」
天使がそう訊くと、科は、部屋に上がるように言った。
俺たちは、足早に部屋に上がる。
部屋には、カーペットが敷かれ、部屋の隅にはタオルも敷いてあった。そこの上に、大福がいる。その様子はウサギの生態に詳しくない素人の俺にも分かった。もう長くない、と。
「榎ちゃん。今、ウサギとは話せる?」俺の前に出てきた天使が、大福と榎を見ながら訊く。
「ううん。息はしてるんだけど、話しかけても、大福、答えてくれない」電話で話した時よりははっきり喋るが、我慢しているのが分かる。
「たぶん、話すだけの元気がないんだ。榎ちゃん、こっち来て」
天使は、大福の前にしゃがみ、手招きをして榎を呼んだ。榎も言われるままに、天使のそばにしゃがんだ。そして天使は優しく、右手の指を大福のおでこに、左手の指を榎のおでこに当てた。
「それって、まさか…テレパシーか?」
「ああ。本来は使用者を誰かと繋ぐものだけど、俺自身が線の役割を果たすことによって、ウサギと榎ちゃんでテレパシーすることは可能なはずだ。たぶんな」
俺の方を見て答えた天使は、真剣な顔で榎と向き合う。
「いい、榎ちゃん。今から、頭の中で念じる様にしてウサギに話しかけるんだ。もしかしたら喋れないだけで、ウサギもそれに応えるだけの力はあるかもしれない。辛いかもしれないけど、命が尽きることは変えられない。だからこいつが死んじゃう前に、せめてお別れの言葉だけでも贈るんだ」
「…うん」
反論することなく、榎は小さくうなずいた。そして、目をつむった。
天使の言葉に何も言い返さないのは、大福との別れが悲しくないからじゃないだろう。
きっと榎は、俺なんかより大福との別れを覚悟できているんだ。どんなに別れが辛くても、逃げないで、今、向き合っているんだ。
誰も声を発しなかった。短いのか長いのか分からなかった時間が流れた。
天使は、榎が目を開けたのを確認して、大福と榎のおでこから指を離して立ち上がった。
榎は大福を抱きしめ、黙ってお別れした。
「おい、テレパシーは成功したのか?」
部屋の隅で大福を抱えている榎から離れ、俺は天使に訊いた。
「さぁ。俺はウサギの言葉分かんないし」
「いい加減だな」
「意外とな」
そう言って笑う天使の顔は、どこか悲しそうだった。
「あ~、さっきは悪かったな。掴みかかったりして」
俺は、一度泣いたからなのか、それともこの場の空気がそうさせるのか、素直に謝った。
「ああ。いいよ別に」天使も意外と優しい。
「それと、サンキューな」自分でもびっくりするほど、俺、今素直だ。
「どうした椿、気持ち悪いほど素直だな」天使が俺を気味が悪いとでもいうように見る。
「うるせぇ」自分でも分かってるよ。
天使は笑った顔を引き締めた。そして俺の方を見て言う。
「なぁ、椿。人間も天使もさ、死んでいくヤツにできることなんて、ほとんど何もないんだよな。医者でもない俺たちはなおさらだ。治すどころか延命措置もできない」
俺は、天使の言っていることが痛いほど分かっていた。だから何も言えず、黙って聞いていた。分かっている。俺は…無力だ。
そんな俺の落ち込んだ顔を見て気を遣ったのか、天使が明るい声で続けた。
「でもさ、そんな俺達でも、残されるヤツになら、してやれることがあるんじゃないか。お前には、できることがあるんじゃないか。なぁ、主人公」
そう言って微笑した天使は、榎の方を指さした。
この天使に教えられるとは思わなかった。こんな当たり前で、大切なことを。俺は悔しかったので「フンッ」と鼻を鳴らし、天使から顔をそむけた。
落ち込んでいる榎に何をしてあげられるのか分からなかったが、取り敢えず榎の横に座った。足をのばし、壁に寄り掛かって座る。
榎は俺に気づくと、抱いていた大福をタオルの上に優しく置いて、膝を抱きかかえるようにして座った。
何を言えばいいか分からなかったので、俺は「大福とお別れのあいさつはできたのか?」とだけ訊いてみた。
「うん。大福ね、『いつもの頭の上より高いけど、月から榎ちゃんのことを見てるよ』って言ってくれた」
そう言って笑う榎は、明らかに無理をしている。もう泣いてもいい、とは言えなかった。
その代わりに、「ウサギって結構喋るんだな」と言うと「喋るよ、当たり前じゃん」ってバカにされた。
「だからね、私、月に行ったら…、おもちだけじゃなく…お野菜も、ちゃんと…食べるんだよって…」 そう声を詰まらせながら言うと、榎は泣き出した。今まで我慢していたものを全部出すくらい泣いていた。
天使は、俺にはできることがあると言っていたが、それはなんだろう。
泣いている榎に慰めの言葉一つかけてあげられない。そんな俺に出来ることってなんだろう。
いくら考えても、何ができるのか分かんないし、泣いている榎にかけてやれる気のきいた言葉も思い浮かばなかった。
ただ泣いている榎の側にいてやることしかできなかった。
俺たちが座っている前で、天使は反対側の壁を向いて、横になっていた。
俺は天使に話すべきか悩んだ。それにいくら泣いているとはいえ、榎の近くでカッコ悪い話はしたくなかった。だから俺は自分のおでこを指しながら、天使に頼んだ。
「おい、天使。俺と繋げ」
天使は不満そうに起き上がり、俺に近づくとデコピンした。ずいぶん荒い繋ぎ方だな。
『楸さんって呼べよな』そう言うと、また元の格好に戻った。
『それよりさ、今日、〝力″の副作用は大丈夫かって訊いたよな』
俺は怒る気にもなれず、自分のおでこをさすりながら訊いた。
『ああ』
『あれさ、どこまで知ってんだ?』
『たぶん、全部。さっき泣いてたのも、少なからず副作用に関係してるんだろ』
天使は、茶化さずに答えてくれた。
やっぱり、知ってたか。知っている相手になら隠す必要もないな。
『そうだよ。俺はあの時、怖かったから、泣いた』
天使は何も言わずに聞いてくれた。
俺の力の副作用。それは身体への反動だけじゃない。たぶん喫茶店で天使は俺に、こう訊こうとしたんだ。「そっちじゃねぇよ。心の方だ。」と。
俺は自分に力があると気づいた時に、もう一つのことにも気づいた。俺は臆病だ。俺は怖い。何かを失うことが耐えられないくらい凄く怖い。
今でこそ平然としていられるが、それに気づいたばかりの頃は酷かった。
例えば、俺が生まれるよりも前に起こった大震災の映像を見た時。その日以降たびたび、何時またこのような地震が起きて、考えたくもないが俺の前から俺の大切な人がいなくなったらどうしようと考えるようになった。そして、それを思い出すたびに四六時中、どこでも、恐怖心に襲われて泣き出しそうになった。実際に泣いたことも、吐いたこともあった。
恐怖は想像で生まれ、想像力で増大していく。見える恐怖よりも見えない恐怖の方を人は恐れる。見えないから想像し、恐怖する。
そして、より強い恐怖は、より強い想像力で生み出される。
俺は、強い想像力を持っていたから〝力″を使えた。そして、強い想像力を持っていたから「臆病」になった。
そして、今でも臆病な俺は、頻繁に恐怖心に押しつぶされそうになる。
だから、天使は訊こうとしたんだ。「心の方は大丈夫か」と。
『榎が大福を失って悲しくて泣くのが、苦しむのが想像できた。なんでか俺はそれが怖くて、辛くて。で、気づいたら泣いてた』
『やっぱりな』今、こいつは呆れた顔でもしているのかな。
『こんなに弱いヤツがヒーローなんておかしいよな』
ダークヒーローにならないかと言われて最初は疑ったが嬉しかったし、なりたいと思った。俺でも何かを守れる、助けられるんじゃないかって。でも俺にはやっぱ無理のようだ。
暗い俺の声とは対照的で、天使の声は明るい。テレパシーだから声じゃなくて電波なのか?明るい電波を送ってきた。
『なぁ、椿。高橋さんがお前をダークヒーローにさせようとした理由、話したよな』
『面白そうだから、だろ』
『そうなんだけどさ。まあ聞けよ。高橋さん言ってたんだ。「面白いヤツがいる。とにかく臆病なヤツだ。臆病なくせに強がってる。何かを失うのが怖いんだな。でも何をしたらいいのか分からないから、それでずっとフラフラ生きてきた。最近じゃ自分のことを主人公だとか言いだした。そんな不安定の塊みたいなバカがいる」って』
『高橋さん、厳しいな』
『だろ。それでさ、「楸、お前こいつに道を与えてこいよ。そうだな、ダークヒーローになれとでも言ってよ。こういうヤツはフラフラしてるより、何か道を与えて真っ直ぐ歩かせた方が面白そうだ」って。それで面白そうだから俺もその案に乗った。んで、お前の所に行ったんだ』
顔は見えないが、天使が笑ったのが分かった。
『それって…』
『ああ。お前はそのままでいいんだよ。臆病なままで。俺も高橋さんも、そんなお前がなるのがダークヒーローだと思ってるから』
前に示したダークヒーローの基準に「臆病」も加えられた。だけど、嬉しかった。
高橋さんが、こいつが、俺に道を示して、俺を救ってくれていたとは思わなかった。
だから、俺は口を滑らせた。
『ありがとな、楸』
『楸さんだ』
『……は?』
『だから、「さん」をつけろ。「さん」を。見た目は若くても年上だぞ』
「なんでだよ!」
俺は気づいたらテレパシーではなく、直接口で抗議していた。
「今、ちょっといい感じだったじゃん。普通あそこで、お前が『ああ』とでも言えばカッコ良く締まってただろ?」
壁の方を向いて寝ていた天使も、起き上がり、俺の方を向いて座った。
「何だよ締まってたって。それにせっかく覚えたのに、また『お前』になってるぞ。楸さんだって」
「そんなこと言ったら、榎だって『天使さん』って呼んでるじゃねぇか」
「いいんだよ。『さん』ついてるし。可愛いから」
「黙れよ。あ~あ。少しでもこんなヤツに感謝した数秒前の俺を殴りたい」
「じゃあ、俺が殴ってやろうか?」
「なんでお前が殴るんだよ?今の俺を!」
「楸さんに殴られても泣くなよ、椿」
「誰が泣くか!」
「ダークヒーローは臆病でもいいが、泣き虫はダメだ。俺は、男の涙は嫌いなんだ」
「俺も嫌いだよ」
「じゃあ自己嫌悪だ」
「うるせぇよ!」
そう言って会話を終わらせた時、何が面白かったのか、さっきまで泣いていた榎が笑っていた。
「えへへ」
「何笑ってんだよ、榎」
そう言って榎の方を見ると、目は腫れて充血していたが、確かに笑っていた。
「やっぱり、椿君と天使さんは仲イイね」
「はぁ?」
何を言ってるんだとは思ったが、榎が笑っているし、まぁいいか。
「そうでーす。仲良しでーす」
天使が悪ノリして、肩を組んできた。
「やめろ!」肩は組むな。
椿の幼馴染の女の子、榎です。榎と書いて「ひさぎ」と読みます。当て字です。
少し変わった子ですが、よろしくお願いします。
椿の“力”について、少し。
後々本編でも触れるかもしれませんが…。
本当は、力を使うことによって『副作用』が生じるのは肉体に関してのみです。椿の場合、『恐怖心を増幅させるくらい想像力豊か(な臆病者)』であったため、力に目覚めたようなものなのです。
ややこしいので、そういうものか、となんとなくで理解していただければ十分です。
文体について。
わざわざここで書くようなことでもない気はしますが、この話では全編、椿がモノローグをやっています。椿は、いちいち口を挟むと話が進まないからと、心の中でツッコミを入れています。
そのせいで読み難いところが多々生じ、申し訳ありません。
ウサギを頭に乗せるって、首の負担もあるだろうし、バランスにも問題あるし、万が一にも逃げられたらどうするのだ?
今回、一番自分でも「おかしいだろ」と思った部分です。