第零話 天使が煙草を吸っていた頃の話(前篇)
ちょうどよく過去の話になるし、つけてみたかったから、第『零』話です。
椿 Ⅰ
牢獄に入れられたクソ天使を出すために戦った日の翌日。
昨日 俺は〝願いを叶えやすくする力″の副作用のようなもののせいで倒れ、大事には至らなかったのだが、安静をとる意味で、天使の館内にある医務室に一泊することになった。
榎は俺のことを心配していたが、今朝帰らせた。
天使の館は雲の中にあり、どうやって帰るのかと訊いたら、柊は「普通にドアから」と答えた。その意味が分からなかったが、榎のことは柊に任せた。榎に「椿君はどうするの?」と訊かれたが、「俺はここでまだやることがある」と言って、残ることにした。
この日は午前中に諸々の検査を受けた。その検査の中でレントゲンを撮った時、左手首にひびが入っていると言われ、念のためにとギプスを巻かれた。左手だったのが幸いで、日常生活に困ることは無さそうだ。
検査は午前中のみだと、俺を担当してくれているナースのヒナさんに言われた。
俺は出された昼食を食べ終え、外出の許可を申請した。榎に言った『俺のやること』とは別に検査ではなく、この後にあるからだ。
外出の許可を申請すると、「じゃあ、お夕飯の5時半までには戻ってきてくださいね」と言って、ヒナさんは外出を認めてくれた。
医務室を出て、今は天使の館の一階にいる。
昨日のことを思い出しながら、ある部屋を目指し歩く。
俺の今日やることとは、高橋さんに話を聞くことだった。
元々、高橋さんとは話をしてみたかった。しかし、昨日の一件で訊きたいことが一気に増えた。クソ天使のことについて訊きたくなったのだ。
部屋の前まで来て、一度深呼吸をする。失礼にあたる気がするのでトレードマークのニット帽は尻ポケットに入れた。
俺は今日やることとして、高橋さんに会うことを昨日の晩から考え、決めていた。しかし、高橋さんにアポは取っていない。もしかしたら追い返されるんじゃないか、そういう不安を感じながら、気持ちを整える。
気持ちが整ったところで、ドアをノックした。
待ってみても、返事が無い。
もう一度ノックするが、やはり返事が無い。
どうしたものかと悩み、試しにドアノブに触れてみた。ドアは何の抵抗もなく開いた。開きはしたものの、このまま入っていいものかと悩む。若干悩んだ末に心を決め「しつれいしま~す」と小さい声で言いながら、恐る恐る中に入った。
中に入っても、そこに高橋さんはいなかった。
外出中なのかと思いながら一度部屋を出て、部屋に掛けられたプレートを確認する。そこには確かに「給湯室」と書かれていた。
部屋はあっているのに、高橋さんがいない。
やはり外出中らしい。
俺は諦めて医務室に帰ろうとした。
が、その時。踵を返すと、頭の中に声がした。
『くくっ。バカかお前?俺の部屋が給湯室なワケ無いだろ』
その声は、昨日聞いた、高橋さんの声だった。
どこにいるのかと思い辺りを見渡しても、高橋さんの姿は見えない。
『くくっ。テレパシーで話しかけてんだよ。俺の部屋は三階にある。用があるんだったら、そっちに来い』
それっきり、頭に声は届かなくなった。
頭を掻きながら、俺は、給湯室前にある案内板を確認する。その案内板に描かれていたのは一階の見取り図だけだったので、取り敢えず上階への階段の位置だけ確認した。
三階まで来たが、高橋さんの部屋の場所が分からない。案内板も見当たらない。仕方が無いので虱潰しに探した。
思いのほか時間がかかったが、高橋さんの部屋に着いた。
俺がもう一度深呼吸をしたりして心の準備をしていると、部屋の中から「いいから早く入れ」と声がした。
俺は心の準備もできないまま、高橋さんの部屋に入る。
「しつれいしま~す」
今度はちゃんと高橋さんがいた。
入口から見て正面に、窓を背負う形で置かれたデスクに高橋さんは座っている。昨日のような黒いシャツに黒いジャケットを着ているが、薄い色のサングラスはしていなかった。
高橋さんは俺のことを確認すると、「ま、座れや」とソファーを指した。
「失礼します」
俺は指示された通り、四脚あるソファーのうち二人掛けのソファーに座った。来客用のソファーなのだろう、横にあるデスクの椅子より明らかに立派だ。
高橋さんは立ち上がると自分のデスクの横にある戸棚へ行き、「なんか呑むか?」と訊いてきた。
「はい。いただきます」
素直に好意に甘える。
高橋さんは戸棚の中を眺め、何にするかを選んでいる。そして、「これでいいか」と呟き、ウィスキーのボトルに手を掛けた。
「あの、すんません。できればノンアルコールで」
高橋さんがウィスキーのボトルに手を掛けたのを見て、俺は即座に言った。
「なんだ?お前、下戸か?」高橋さんは、意外そうな顔をした。
「いえ、そういうワケじゃないんすけど。まだ日も高いし、酒を呑みながらする感じの話じゃない気がするんで」
「くくっ。じゃあ、コーヒーでいいな」
「はい」
高橋さんはコーヒーの準備を始めた。電気ポットに水を入れて沸かし、沸くのを待つ間に、インスタントコーヒーをカップに入れた。まだお湯が沸かないので、高橋さんは部屋の隅にある冷蔵庫に行き、自分の分のグラスに氷を入れ、ウィスキーのボトルと一緒に俺の前にあるテーブルに置いた。
「あの、高橋さんは呑むんですか?」
「くくっ。だったら自分も、ってか?」
「いえ、結構真面目な話になると思うんで、できればシラフの方が…」
「くくっ。いいか、覚えておけ。俺は酒を呑むんだ、酒に呑まれるワケじゃねえ。俺はアルコールなんかに支配されねぇんだよ」
とワケの分からない理屈を並べ、高橋さんは飲み物の準備を進める。沸いたお湯をカップに注いでかき混ぜるだけだけど。
俺はちゃんとした話ができるのか不安になる。だが、本来職場にあるはずのない飲み物を平気で昼間っから呑むような人だ。何を言っても無駄だろう。つーか、高橋さんに口答えする勇気は無い。高橋さんはアルコールに異常に強い人か、高橋さんが出したボトルはカッコイイ入れ物に入っている麦茶であると思おう。
「ほらよ」
高橋さんは、俺の前にコーヒーを置いた。俺はそれを「ありがとうございます」と言って、一口飲む。
「砂糖は要るか?」
「いえ、結構です」
高橋さんは戸棚から一個ずつ包装されたチョコを出し、俺の前にあるテーブル上の器に入れた。そして、俺の右側、一人掛けのソファーに腰掛け、ウィスキーをグラスに注ぐ。
高橋さんの部屋に来て、手厚いもてなしを受けたものの、俺は何から訊けばいいのか頭の整理が出来ていなかった。だから、取り敢えず世間話っつーか、どうでもいいような話題から入ろうと、その話題を考える。
考えた結果「今日はサングラス掛けてないんですね」と、本当にどうでもいいことを訊いてしまった。
高橋さんはグラスに口を付けたまま「くくっ」と笑った。
「お前、そんなこと訊きに来たワケじゃねぇだろ?」
「いや、あの…すんません」
俺が謝ると「ま、世間話から入るのも悪くないか」と、気を利かせてくれた。
「で、なんだっけ?俺が今 サングラスを掛けてない?」
「あ、はい」
「くくっ。アレはな、俺の流儀だ。今から自分が戦うって時とかに、気持ちの切り替えをするために付けている」
「気持ちの切り替え?」
「おお」高橋さんはジャケットの内ポケットから、昨日掛けていたサングラスを取り出した。「コレを掛けたら目の前のこと一つに集中する。そんで、外したら次に行く。ちっせえ事だが、そうやって気持ち切り替えた方が仕事し易い。俺はオン・オフはっきりさせたいんでな」
「そうだったんですか」
「そうだったんですよ。ま、お前に分かり易く言うなら、サングラスを掛けたらバトルモードになるって感じだ」
「あぁ、それなら分かる感じがします」
「くくっ。だろっ?」
高橋さんはそう言うと、サングラスをしまった。
高橋さんは早くも一杯目のウィスキーを飲み干した。ウィスキーを注ぎ足すと、テーブルに置いたチョコレートを食べる。
「世間話はここまででいいだろ?」
高橋さんは言った。
俺は何から訊こうか考えた。考える為に糖分が欲しくなったので、テーブルの上のチョコレートに手を伸ばした。ビターチョコだった。苦い。
苦いチョコには用は無い。
俺はチョコレートの力を借りずに考えた。考えた結果、まずは昨日のことから訊くことにした。
「あの、高橋さんは昨日の裏の事情を知ってたんすよね?」
「ま、俺にとっては裏じゃねぇけどな。俺が提案したことだ。俺は誰よりも昨日のことについて知っている」
俺は驚き、「昨日のって、高橋さんが提案したんですか?」と訊いた。てっきり、上の連中とやらが持ち出した計画だと思っていた。
俺が訊くと、高橋さんは笑っていた表情を引き締め「ああ。俺が提案した」と答えた。
「何でそんなこと?」
「俺は楸のことで色々と上のヤツ等に言われていた。だから、取引したんだよ。楸のことと引き換えに、お前らに実戦演習の場を作ってやるってな」
「……そうだったんすか」
天使の言っていたことは概ね合っていた。
高橋さんは、天使の疑いを晴らすために取引をした。
「そういう意味ではお前も嬢ちゃんも利用したことになる。すまなかった」
そう言うと、高橋さんは頭を下げた。
自分より上の人が頭を下げることに、俺は恐縮した。
「やめてくださいよ。昨日のことは俺にとってもいい経験になりました。それに高橋さんのお陰で榎も怪我無く無事に済みました。だから、気にしないでください」
高橋さんは頭を上げた。
「ま、俺もそこまで気にはしてねぇよ。ただの形式だ。謝っとかねえと後腐れが残るだろ」
高橋さんはケロッとしていた。
気にしないでくれとは言ったが、もう少し気にして欲しい。そう思い、俺は頭を掻きながら、「昨日天使に話を聞いたけど分かんなかったんで、昨日のことを一から教えてもらっていいですか?」と頼んだ。
高橋さんは露骨に嫌な顔をする。そして面倒そうに「俺が取引をした。楸が牢獄に入った。柊を伝言役諸々で送った。お前らがこの島に来た。実践演習が始まった。この時点で取引は概ね成立。お前が頼りないせいで、俺まで出張った。お前が捕まった。法廷で楸の疑いを帳消しにすることを宣言だけのするはずだったのに、お前が暴走した。ま、そのお陰で、楸の疑いがより無くなり、お前もただのバカで無害だと証明された。こんなところだ」と淡々と説明してくれた。
俺は一気に真実を聞かされ、頭の容量が超えた。
「取り敢えず、俺も天使も大丈夫なんですね?」
「くくっ。何を持って大丈夫って言うか、だけどな」
高橋さんは顔を伏せて、笑った。
取り敢えず、俺の頭の中で昨日の事の整理は出来た。昨日は高橋さんの取引の材料として俺たちは戦った。その甲斐あって、天使の疑いは無くなった。この程度だろう。
頭の中で整理を終えた。整理が終わったら、次へ行こう。
俺は次へ行くために、コーヒーを飲んで気持ちの切り替えを図った。
「おい。カップの中、空になったんじゃねぇか?」
高橋さんは俺が置いたコーヒーカップを見て言った。
「あ、はい」
「おかわり要るか?なんだったら、酒も種類あるぞ」
「……あとで貰います」
俺が言うと、高橋さんは自分のグラスにウィスキーを注ぎ足した。
一体どんだけ飲むんだ?こんなに呑んで、この人は平気なのか? 俺は疑問を持ったので、試すためにも「日本酒もあるんですか?」と訊いてみた。
「ん?呑むのか?」
「いえ、あるのかなぁって思って。ただの興味っつーか、好奇心です」
高橋さんはグラスを置いて、立ち上がった。
「ちょっと待ってろ。今見てみる」
そう言うと、高橋さんは確かな足取りで戸棚に近付く。そして戸棚を開けると、すぐに三本の一升瓶を取り出した。
「三本しかないな…」
「いや、充分でしょ」
俺に一升瓶を掲げて見せ、また戸棚にしまった。
確かな足取りで戻ってきて、ソファーに座る。
「土産に一本やろうか?」
「あ、ありがとうございます」
たぶんだが、高橋さんは酒に強い。グラス二杯のウィスキーでまだ決めるのは早いかもしれないが、弱い人だったらアレだけで酔いが回って足取りが覚束なくなるはずだ。顔も赤くなっていない。
少しだけ、ホッとした。
高橋さんの意識が確かなうちに重要なことを訊こうと思う。
「天使に前科があるってのは本当ですか?」
昨日のことには色々と裏があり、嘘も多く交じっているはずだ。だから、有り得ないこととは思いつつも高橋さんに訊く。
俺が訊くと、高橋さんはグラスを置いて俺の目を見た。
「教えてやってもいいが、一つ、先に俺から訊いとく事がある」
「なんです?」
「俺は今日、楸から頼まれていてな。椿が知りたがることや自分のことを話してやってくれって」
俺も昨日、知りたいことがあれば高橋さんに訊けと、天使に言われていた。だから、「はい。お願いします」と何も考えずに言った。
「俺が言うことには、お前が知りたくなかったことや、知ると怒りを感じることがあると思う。それでも聞くか?」
高橋さんの前ふりは、この後の展開を予想させるには充分だった。だから、「はい。お願いします」と、今度はしっかり考え、そう言った。
「分かった。教える」
そう言うと、高橋さんはグラスの中のウィスキーを飲み干した。できれば、酒で勢いをつけるのは止めて欲しい。
高橋さんはグラスにウィスキーを注ぎ足したが、グラスを持たずに、ソファーに深く座った。
「楸に前科があるのは本当だ」
高橋さんは言った。
自分の部下の汚点だから隠したり、それでなくても苦い顔をして言ったりするかと思った。が、しかし、高橋さんはあっさりと言った。
あっさり言われても、あっさり受け止めることは出来ない。
「本当…ですか?」
「ああ。あいつは昔、人間を殺した」
「なっ…!」
驚きで、言葉が出なかった。頭を抱えた。たった半年だが、天使とはそれなりに近い仲になったと思う。だが、その天使が急に、どこか遠く感じた。
あいつが…殺人?
俺がなんとか高橋さんの言葉を受け止めようとしていたら、「まず、これが楸のことを知る、第一歩だ」と高橋さんが言った。
「第一歩?」
俺が訊き返すと、高橋さんは頷いた。
「次は、あいつがついている嘘についてだ」
「嘘?」
天使はよく嘘をつく。だから、俺にとってはそれほど意外性はない。少なくとも、殺人よりは驚かない。
「楸がついた嘘を教える前に、知っておいて欲しいことがある」高橋さんは言った。
「なんです?」
「楸は、お前に会ってからいくつかの嘘をついた。大きい嘘から小さい嘘まで多種多様に。それで、あいつが嘘をつく理由だが、別に虚言癖だとかでも、お前を嫌っていたワケでもない」
「じゃあ、なんでです?」
「お前の反応を見たいからだよ。嘘に混ぜて自分の真実を告げたり、嘘に見せかけて真実を告げたりすることで、お前がどういう反応をするか、それを見ていたんだよ」高橋さんの言っている意味が分からず、俺は首をかしげる。「お前の反応を見て、それで自分のことを受け入れてくれそうかを試してたんだ。ま、嘘が遠回し過ぎてワケわかんなかったり、お前の反応がイマイチ過ぎたりしたから、ほとんどの嘘は意味を成してなかったようだがな」
高橋さんはそう言うと、チョコレートを食べた。
高橋さんの言っていることの意味がやはり分からず、俺は「じゃあ、あのクソ天使がついた嘘って何ですか?」と訊いた。兎にも角にも、天使がついた嘘を知れば少しは分かると思ったからだ。
「くくっ。クソ天使、ねぇ」
俺の質問には答えず、高橋さんは微笑した。
「なんです?」
俺はてっきり天使の呼び方に対して笑ったのだと思ったが、そうではなかった。
高橋さんは「一番大きい嘘はそれだな」と言った。
「どれ?」
「あいつは…楸は、天使じゃない」
「は…?」
俺は驚いた。もしかしたら、あいつが過去に殺人を犯したことよりも驚いた。いや、驚くというよりも、全く理解できない事をつきつけられた様に、一瞬思考が止まった。
俺が驚くような表情を満足そうに見ながら、高橋さんは「お前、楸のライセンスを見たこと無いだろ?」と言い、ジャケットの内ポケットから免許証のようなカードを出した。
「コレが、天使のライセンスだ」
高橋さんの顔写真が入ったそのカードが、天使のライセンスらしい。
「だってあいつ、初めて会った日にライセンスは忘れたって言ってたから」
初めて会った日を思い出して言った。
たしか『ライセンスは忘れたから今度見せる』と言っていた。しかし、その今度は無く、俺はあいつのライセンスを見たことは無かった。というより、自分でも不思議なのだが、俺は今まであいつのライセンスを見ようとは思わなかった。
「くくっ。忘れたんじゃねぇ。持ってないだけだ」高橋さんは言いながら、自分のライセンスをしまう。「人間を殺した罰で、楸のライセンスは剥奪された。ま、だから正確に言うと、楸は元天使だったヤツになる。柊と同じで、種として天使ではあるが、職業として天使ではない、そういうことだ。警察をやめても人は人、そんな感じで理解すればいい」
色々とワケが分からない。
理解するにはまだ時間がかかりそうだ。
つーか、何が分からない?高橋さんはあいつの事を話してくれているのに、俺は何が分からなくて頭を抱えている?
俺が悩んでいる様子を見かねてか、高橋さんは「楸は『お前』って呼ぶと嫌がるのは知っているよな?」と訊いてきた。
「はい。で、名前を呼ぶようにしつこく言って来るんです」
「じゃあ、何でお前が『天使』や『クソ天使』と呼んでも訂正しないと思う?」
「えっ…?」
俺は考えたが、あいつの気まぐれ位としか解らなかった。
「楸はな、自分が天使だって思い込みたくて、一種の自己暗示みたいに自分は天使だと名乗っていたんだ。だから、お前が『天使』と呼ぶのは否定しない。否定すれば、自分が天使じゃないと認めることになり、あいつは自分が何者なのか、何をしているのかワケ分かんなくなる。そういうことだ」
「はぁ…」
何となくだが、理解した。
理解すると、今度は別の疑問が浮かんだ。
「え、じゃあ、俺たちが今までやってきた事って何なんです?」
クソ天使が天使じゃないとすると、今までやって来た天使の仕事が何だったのか分からなくなる。
「くくっ。アレはな、俺の分のノルマだ。お前らは俺の分のノルマをこなしてきた。だから、俺から楸とお前には報酬を出していた」
「はぁ…」
頭が混乱してきた。だいぶ前から混乱はしていたのだが、その混乱を解こうとするとさらに混乱する。厄介な混乱が俺の頭の中にある。
高橋さんは俺が混乱している様子を見て「くくっ」と笑っていた。
「ここまで話した内容は、事前知識として持っておいた方がいいと思って話しただけだ。今 全てを理解する必要は無い」
「あ、そうですか」
俺は混乱を解くのを止めた。これ以上頭を使うと、話を理解する前に医務室に逆戻りする可能性がある。
「バカにも分かるように、俺が今から昔話をしてやるよ。今から約百年前の楸が天使になった時から、天使じゃなくなる時、お前と会う前までの話を」
今日の俺はバカでイイ。だから、「お願いします」と素直に頼む。
天使が長命なのは知っていたが、百年以上前の話になるとは驚きだ。だが、別に気にしない。俺は今日はバカだから。
「そうだな。分かり易いようにするために、まずは風体から教えておくか」
高橋さんはグラスを片手に、思い出しながら話し始める。
「今からの話で主な登場人物は、楸と俺と柊、そんくらいだ。ま、他にも出て来るが、元からお前が知らないヤツだからいいだろう」
「はい」
「まず見た目だが、ほとんど変わっていない。百年前でもほとんど同じだ。俺は今の見たまんまでイメージしてくれていい。柊は、最初は髪が黒くて、今よりも短髪だった。楸は、今よりも髪が長くて、スーツにノーネクタイ。あと、タバコを吸っていたな」
高橋さんは見た目イメージを教えると、ウィスキーを呑んだ。
昔話が始まった。
楸 Ⅰ
ある年の春。俺は、天使になった。
座学は嫌いだったから学校では苦労したが、なんとかライセンスの取得を認められた。
俺が天使として配属された天使の館は、雲の中に浮いた島の上にある。ふざけた場所にある天使の館で、高橋という人が俺の上司になるらしい。
噂では、高橋という人は相当の変り者で、部下がたった一人しかいないらしい。
だが、俺はそういうことは気にしない。というか、別に興味もない。俺の上司がどういう人かなんてどうでもいい。
ただ、事前連絡が書いてある紙に、『服装は動きやすいモノなら自由』と書いてあったのは助かった。
天使の正装は白のローブだ。昔ながらの伝統として伝わる服装であり、服装の自由化が認められた今でも、学校の公式行事などでは俺もそれを着た。そして、天使の中にはそれにこだわり続けるヤツもいる。そういうヤツが上司だと、部下まで同じ服装をさせられることがあると聞いていた。だから、高橋という人が服装の自由を認めてくれる上司であることだけは良かったと思う。
服装はどうしようか悩んだが、無難にスーツにした。ネクタイは結ぶのが難しいし、動く時に邪魔になったら上司の定めた服装規定に反する。だから付けない。
初めて入る天使の館内は広かった。
高橋という人の部屋は三階にあるということだけ連絡の紙に書いてあったので、とりあえず三階に上がる。
部屋はすぐに見つかった。
部屋の前で一度深呼吸をする。深呼吸をして気持ちを落ち着かせ、ドアをノックした。
「おお。入れや」
部屋の中から声が返って来た。
「失礼します」
俺は部屋の中に入った。
入った部屋の中は、来客用と思われるソファーとテーブルが真ん中にあり、その奥に窓を背負う形で、上司となる高橋さんのデスクがあった。そのデスクの右手側には戸棚がある。
正面だけでなく、部屋の横にも目を向けた。入口のすぐ横には姿見がある。左右の壁際には、部下用と思われる壁に向いたデスクが二つずつある。だが、四つあるデスクの内、三つは使われていないようだ。向かって左側に、唯一使われているデスクの椅子に人が座っている。
噂は本当のようだ。たぶん、あの人がたった一人の部下なのだろう。そう思い、見ていたら目があった。その人は目つきが悪いのか、それとも睨まれたのか、どちらにせよすぐに逸らされた。
「くくっ。キョロキョロしてないで、ま、こっちに来いよ」
高橋さんに呼ばれた。
俺は手ぶらで来ていたので、そのまま高橋さんのデスクの前に行く。
「はじめまして。楸って言います。よろしくお願いします」
俺は簡単に自己紹介した。
高橋さんは俺の顔と、手元のA4用紙の資料を交互に見ている。
「くくっ。おう、はじめまして。俺は高橋。今日からお前の上司だ。よろしくな」
俺は「お前」って呼ばれるのは好きじゃない。だけど最初が肝心だと思い、いきなり悪い印象は残したくなかったので我慢する。
「おい。お前も自己紹介しとけ。これから同僚になるんだからよ」
と高橋さんは、一人だけいる部下に声を掛けた。
呼ばれたその人は立ち上がり、俺の方に近付く。座っていたから気が付かなかったが、立ち上がると俺よりも小さいのが分かる。
「アタシは柊。よろしく」
初対面の俺に何か不満でもあるのか、柊さんは不機嫌そうだ。
「あ、俺は楸って言います。よろしくお願いします」
柊さんが俺のことを品定めするかのように見て来る。どうしたものかと躊躇いながら、俺も柊さんのことを見た。
柊さんはやたら色白で、線が細い。髪も短いから、まるで少年のようだ。
「柊は、大体5~6年か?とにかく数年お前の先輩だ」
高橋さんが言うので、俺は、軽く先輩に頭を下げた。
柊さんは品定めを止め、「ハッ」とだけ言って、デスクに戻った。何に対する「ハッ」?
不思議な人が先輩になったなと思いながら、高橋さんの方に向き直る。高橋さんはまだ資料を見ていた。
「あの…何見てるんですか?」
「くくっ。お前のプロフィール」
高橋さんがそう言って資料を俺に向けた。たしかにその紙には、俺のプロフィールが書いてあった。顔写真付きで、身長や体重から、俺の持つ資格についてまで書いてあった。
「お前…」
「あの、すんません」 俺は我慢できず、つい高橋さんの話を遮ってしまった。「できれば、『お前』って呼ぶのは止めてくれませんか」
もしかしたら生意気だと怒られるかもしれないと思ったが、高橋さんは「くくっ」と笑い、「ああ、悪かった」と謝った。
「いえ、別に俺の我儘なんで…」
「そうか。で、楸」
「はい」
「この資料には、楸の持つ資格が一つしか書かれてないが、これであってるのか?」
高橋さんが資料の資格が書いてある欄を指さす。俺はそれを見て、それが正しいのを確認し、「はい。あってます」と答えた。
「今、俺が持っている資格は〝天使の矢″二級だけです」
「くくっ。配属されたてのヤツが二級の矢を持ってるのはスゲェな」
誉められた。別に喜びも照れもしないが「ありがとうございます」とだけ応える。
「だが、これだけでいいのか?」高橋さんは訊いた。
「と、いうと?」
「矢の資格は後から取っても遅くない。だから〝千里眼″や〝読心術″、他にも治療系の資格を取っておいた方が良かったんじゃないか?」
そう言うと、高橋さんはプロフィールが書いてある紙をデスクの上に放り、俺のことを見た。
高橋さんの言っていることの意味は俺にも分かる。確かに〝天使の矢″の資格より別の資格を先に取った方が仕事で便利だという、その理屈は分かる。だけど、俺は〝天使の矢″を取ることにこだわった。
「そういう別の資格は気が向いた時に追々取ります。俺はいつか一級の矢も欲しいから、早いうちから〝天使の矢″が欲しかったんです」
「なんでだ?」
高橋さんは、俺の目を真っ直ぐ見て言う。
ここで逸らすとカッコ悪い、そう思った。
「俺には『全てを救い、全てを裁く』っていう目標があるんです。だから、その目標のためには一級の矢が必要だと思うんです」
「くくっ。随分でかいっつーか、傲慢な目標だな」
言いながら、高橋さんは椅子にふんぞり返った。
「ダメですか?」
「いや。俺がどうこう言う事じゃない。それに、できるかどうかで考える必要は無い。できそうにないからやらない、ってのはカッコ悪いしな」
俺が頷くと、高橋さんは最後に「俺はできないと思うがな」と付け足した。
自分の目標が否定された気がして、俺はムッとした。
話は以上だと言うので、俺は、割り当てられた自分のデスクに行く。柊さんとは反対側、部屋に入って右手に見える二つのデスクのうちの一つが、俺のだ。
椅子が回転式だったので回ってみた。
背後の席の柊さんがコッチを見ていた。目があったら、またすぐに逸らされた。
椿 Ⅱ
「これが、俺と楸の出会いだ」
そう言うと、高橋さんはウィスキーを呑んだ。
天使が大層な目標を掲げ、仕事に熱意を持っていたことは意外だった。しかし、それ以上に俺にとって意外なことがあった。
「あいつの持っている資格って〝テレパシー″だけじゃなかったんですか?」
俺が訊くと、高橋さんはグラスに口を付けたまま「くくっ」と笑った。
「ああ。だが、これに関して楸は嘘をついて無いぞ。お前が勝手にそう勘違いしていただけだ。あいつは自分の持つ資格について、『テレパシー三級くらい』と言ったはずだからな。だからあの時、楸は正確に言うと、テレパシーと天使の矢の二種類の資格を持っていた、だ」
そう言われ、俺は思い出してみる。が、細かいあいつの発言は思い出せなかった。しかし「でも、たしかあいつは〝天使の矢″が嫌いみたいなニュアンスで喋ってましたよ」と、思い出せたことについて訊いた。
「だから、嘘に見せかけて真実を告げているって言っただろ。今の楸は本当に〝天使の矢″を嫌っている。そういう矢の存在をお前にも教えて、お前が欲しがるか、お前が嫌悪するか、反応を見てたんだよ」
「……それで、俺の反応を見て、あいつは満足だったんすか?」
「さあな?取り敢えず欲しがらないだけ良かったと思ってるんじゃないか?」
「人間の俺が、天使の資格を欲しがるわけ無いじゃないすか」
「くくっ。だよな」
高橋さんは可笑しそうに笑い、席を立った。
どこに行くのかと思ったら、俺のカップを手に取り、「おかわりを持って来てやるよ。今度は頭を働かせられるよう、砂糖入りでな」と言って、戸棚の方へ歩いて行った。
「ありがとうございます」
俺は高橋さんの背中にお礼を言いながら、高橋さんの挙動を確認した。先にお湯を沸かし直し、インスタントのコーヒーをカップに入れて準備しているその動きにフラフラとして酔っている様子は見られない。
高橋さんが酔っていないことに、ひとまず安心する。
コーヒーを淹れてもらっている間、俺は資格について話した時のことを思い出せる限り思い出してみた。何が嘘で、何が真実かを分ける為に。
取り敢えず、持っている資格の数については嘘だった。嘘っつーか、違っていた。
〝天使の矢″を嫌っているのも本当だとしたら、「強過ぎる武器は持ちたくない」とか言っていたのも本当だろう。だとすると、「暴力が嫌い」も本当になるのか?
考えがまとまらなくなっている所に援助が来た。
「ほらよ」
「あ、ありがとうございます」
高橋さんの持って来てくれた甘過ぎるコーヒーを飲んで糖分を補給する。
しかし、考えはまとまらない。
面倒くさいし、話の続きを聞こう。
楸 Ⅱ
初日は顔合わせだけだと言われたので、すぐに帰った。
そして、今日が仕事をする最初の日。
「おはようございます」
部屋に入ると、高橋さんも柊さんも既に来ていた。
「おう」
自分のデスクの椅子にふんぞり返って座っている高橋さんが、軽く手を上げて挨拶を返してくれた。柊さんは俺のことをチラッと見ただけで、すぐに顔を背ける。
柊さんの態度が気になったが、とりあえず自分のデスクに弓を置いて、高橋さんのデスクの前に行く。
「あの、今日の俺の仕事って何ですか?」
俺が訊くと、高橋さんは意外そうな顔をした。俺は別に変なことを訊いたつもりは無いので、「なんです?」と訊ねる。
「いや、別に。仕事は何ですかって変なこと訊くからよ」
「変なこと?」
「おお。楸は学校で仕事については習わなかったのか?」
たぶん、高橋さんが言っているのは基本的な仕事についてだと思う。
天使の仕事は大きく分けて二つで、人間を助けるものと人間に罰を与えるものがある。これらについて、どういう風にやったらいいかの例やシミュレーションのようなことは天使のライセンスを貰う為にしこたま教えられた。
だから当然「基本は習いましたよ」と答える。
「基本についてじゃなく、俺が実際に今日やることについて訊いているんです」
俺は真面目に訊いている。それなのに高橋さんは「くくっ」と笑った。
「学校で習ったんなら大丈夫だ。後は勝手にやって来い」
「はい?」
「自由にやってこいって言ってんだよ。やったことについて後で報告書にまとめてくれれば、それでいいからよ」
高橋さんはそれでいいと言うが、「ちょっと待ってください」と俺は待ったを掛けた。
「仕事って上司から指示を受けてやるんじゃないんですか?」
俺はそう聞いていた。事前調査が済んだ人間についての情報を貰い、そこで何かしらの処置をするのだ、と。だから、いきなり自由にやれと言われても困る。
「そういうヤツもいるがな、俺は違う。仕事は自分で探して自分の判断でやれ。ノルマさえこなしてくれれば俺は文句は言わないし、何か問題が生じたら手を貸してやる。必要なら助言もする」
高橋さんが言っている事は、噂で聞いた一部のやり方だった。処置に関する一部を天使個人の裁量に任せるのではなく、丸投げとも言えるような、全てを天使個人に任せるやり方。まさか自分の上司がその一部だとは思わなかったので、俺は眉をひそめる。
「俺、千里眼とか無いんですけど…」
俺がそう言うと、高橋さんは「くくっ。そうだった」と笑い、デスクの引き出しを開けた。何をするのかと思って見ていたら、なんかの人形を取り出した。
「…なんですか、それ?」
「これはな、『なんちゃら君 3号』っていう人形で、俺のダチが作ったモンだ。まだ未発表らしいぞ」
言いながら、俺に人形を手渡した。
その人形を見てみたが、味もそっけもない、ついでに言うと表情も無い人型の人形だ。
「で、コレが何なんですか?」俺は訊いた。
「そいつはな、人間の強い感情をキャッチする人形だ。そいつにデコピンすると起動して、何かしらの反応を示しながら、対象となる人間の所へ導いてくれる」
「へ~」
「やるよ、それ」
話の雰囲気からして、気軽に貰えるような代物ではない気がしたので「…いいんですか?」と確認した。
「くくっ。ああ。俺には必要ないからな」
「あ、じゃあ…ありがとうございます」
俺は軽く頭を下げた。
自分のデスクに戻り、人形を再度見てみる。やはり愛嬌がない。
高橋さんは自分には要らない物だと言っていた。千里眼を持つ人にとっては必要ないものなのだろう。要らないと言うなら、素直に頂こう。
しばらく椅子に座って人形を観察していた。
待っていれば、高橋さんか柊さんのどちらかが仕事に出るだろうと思っていたが、二人はともに動きが無い。
高橋さんは、拳銃を出して手入れをしていた。天使には矢があるのに、銃の方に興味があるらしい。興味があるのかと思ったら、高橋さんは「めんどくせえ」と言って銃をデスクの上に放り投げた。ワケが分からない。
柊さんは特に何もせず、高橋さんを見ていた。上司の意味不明な行動に関心があるのだろう。しかし、関心があるのかと思ったら、柊さんは「はぁ~」と溜め息をついて、デスクに伏せてしまった。ワケが分からない。
ワケの分からない二人はほっといて、仕事に行こうと思った。思ったが、その前に一服したくなった。
「高橋さん。この部屋、禁煙ですか?」
来客用のテーブルにも灰皿が無かったので、訊いてみた。
「いや。灰皿なら、戸棚の中にあるぞ」と、高橋さんは答えた。
立ち上がり、高橋さんが指さした戸棚を開ける。
戸棚の中には様々な食器類の他、コーヒーやお茶のような飲み物、茶菓子など、色々入っていた。その中に、職場に相応しくない物がある。
「なんで酒が入ってるんですか?」
訊くと「俺が呑むからだ」と当然のようで当然ではない答えが返って来た。
「俺が呑むからって、ここ職場ですよ?」
「くくっ。いいんだよ。ここは確かに職場だが、俺の部屋でもある。それに、俺は酒が好きだからな」
良く分からない理屈であったが、正直どうでもよかったので「そうですか」と応え、お目当ての灰皿を取る。
「酒は俺の許可が必要だが、他のものだったら自由に飲み食いしていいからな」
「ありがとうございます」
俺は自分のデスクに戻り、煙草に火を付けた。
煙草を吹かしながら、「高橋さんは吸わないんですか?」と訊いてみた。酒を呑む人だったら煙草も吸うんじゃないかと単純に考えたからだ。
「あーたまにな。年に数本、吸うか吸わないかだ」
「なんですか、それ?」俺は一箱を一日か半日で吸ってしまう。だから、年に数本という高橋さんが信じられなかった。「年に数本なら、吸わないのと同じじゃないですか」
「くくっ。そうかもな。ま、俺は吸いたいと思った時に吸う。だが、決してニコチンとかの影響では吸わない。俺はそんなモノに支配されないんだよ」
またワケの分からない理屈が出た。そんなのを聞いていたら、煙草を吸い終わっていた。
吸い殻を灰皿に押しつけながら「じゃあこの灰皿、俺のデスクの上に置いといてイイですか?」と許可を求めた。
「くくっ。構わねぇよ。ま、身体には気を付けな」
「ありがとうございます」
早速仕事に行こうと、後ろ髪を縛る。そろそろ切ろうと思いながらずっと切らず、伸びた髪を邪魔にならないように縛った。
自分の弓を左手に、高橋さんから貰ったばかりの人形を右手に持った。
「じゃあ、いってきます」
「おお、気ぃ付けてな」
俺が出て行った部屋に、高橋さんと柊さんは残っていた。
「なぁ、柊。お前、あいつのこと嫌いなのか?」
高橋さんは椅子にふんぞり返ったまま、柊さんに訊いた。
「いや…そういうワケじゃないんですけど……高橋さんの部下ならアタシ一人で充分じゃないですか」
そう言った柊さんは、唇を尖らせ、どこか不満気だった。
「くくっ。別に充分ってことはないがな。ま、嫌いじゃないなら良かったよ」
高橋さんの言葉に、柊さんはもどかしそうに頭を掻いた。
「…アイツも、すぐに辞めるんじゃないですか?」
心配そうな顔をして、柊さんは訊いた。
これは柊さんから後日聞いた話だが、高橋さんの部下は多い時で三人いたらしい。だけど、柊さん以外はすぐに辞めていった。たまに新しく入ってきてもすぐに辞めて別の上司の下に異動するから、部下はずっと柊さん一人という状況が続いていた。
職場に酒を持ちこんで呑んだり、自由放任すぎる態度に嫌気が差したりと、高橋さんに対する不満が辞める理由のほとんどらしい。
天使は一応聖職者だ。職場はともかく、普段でも酒や煙草に反対する人もいる。そういう真面目な考えを持つ人は結構多くいて、高橋さんのような人にはついていけないと見切りを付けたのだろう。
「くくっ。そうかもな。ま、俺はすぐには辞めないと思うが」
「…何でです?」
「今まで辞めたイイ子ちゃんたちと比べて、楸は不真面目そうだし」
「あんな大層な目標掲げといて、不真面目ですか?」
「くくっ。たぶん、な」
「そうですか」
柊さんはしつこく訊かず、納得した。
その後、柊さんは自分と高橋さんの分のコーヒーを淹れた。高橋さんのデスクに「どうぞ」と優しくコーヒーを置く。
高橋さんはお礼を言い、コーヒーを一口飲むと「そういえば、柊と同じで自分のことは名前で呼べって言ってきたよな。お前よりは幾分やんわりと」と昔を思い出した。
「あの時の事は、忘れてください」
柊さんは恥ずかしそうに過去のことを忘れるように頼んだが、「くくっ。やだ」と、あっさり断られた。
「ま、お前らは似ている所もあるんだ。無理にとは言わないが、できれば仲良くやれ」
「…はい」
柊さんは頷いた。
暫らくして、コーヒーを飲み終え、カップの片付けも終えた柊さんが「それじゃあ、アタシも仕事に行きます」と言って、コートを羽織った。
「おう。気ぃ付けてな」
「はい。いってきます」
柊さんは笑顔で出て行った。
「ただいま帰りました」
初めての仕事を終え、部屋に戻ってくると、部屋には高橋さんだけがいた。
「おお。おかえり」
高橋さんに迎え入れられた。
自分のデスクに弓を立てかけ、高橋さんから貰った人形をデスク上に座らせるように置いてから、俺は、報告書をまとめる為に椅子に座る。
報告書には、その日やったことを細かく書き、一件の仕事として終わっていなければ進行状況などを書くことになっている。経費が掛かったのなら、それについても記入する。俺の今日の仕事はその場ですぐに終わったので、その旨を書いた。
報告書を書き終え、高橋さんのデスクの前に行き「よろしくお願いします」と言って提出した。
俺から報告書を受け取ると、高橋さんは軽く目を通して判子を押した。
これで、仕事が完了になる。
「楸。初めての仕事はどうだった?」
「はい。まずまずの出来だったと思います」
俺はそう答えた。実際にまずまずの出来だと思う。
部屋を出てからある街へ降り、仕事を探すために人形を起動した。人形は眠気と疲れが取れないようなしぐさで起き、すぐに騒ぎ始めた。騒ぐ人形が指さす方へ飛んでいくと、その場所は意外に近く、人形はすぐに二度寝した。
記念すべき最初の仕事は、ひったくり犯を罰することだった。
ひったくり犯に遭ったと見えるお婆さんが倒れる十数メートル先に走って逃げる男がいたので、俺は空中から〝天使の矢″でひったくり犯の男を射った。
矢は、男の背中に命中した。
男はその場に倒れ、足を押さえた。男の右足が負傷するように、俺が矢に力を込めたからだ。そのまま男は近くにいた通行人に取り押さえられ、盗られた荷物もお婆さんに返った。
これで最初の仕事は終わった。
その後は、仕事が案外早く終わったので、人間の街を眺めてみることにした。俺は視覚防壁を張って姿を隠すのが下手なので、羽だけ隠すということができない。だから、全身を隠したまま、空から眺めていた。
しかし、それもすぐ飽きたので、帰った。
「くくっ。そうか、まずまずか…」
高橋さんが俺を見て言う。その顔が何か言いたそうだったので「なんです?」と訊いてみた。
「いやな、楸の初めての仕事だったから、俺は千里眼を使って見てたんだよ」
俺は見られていたことを知っても、別に驚かない。だから「そうだったんですか」と軽く相槌を打つ。見られていたことよりも、高橋さんが自分の仕事をしたのかどうかが気になった。
「仕事自体はイイと思う。現場にすぐに駆けつけ、スピード解決。矢に頼り切った感はあるが、初めてにしては上々だ」
矢に頼り切った、という部分が引っかかったが、「ありがとうございます」と上司の労いを素直に受ける。
「ま、俺が気になったのは、その後だな」その後と言うと、俺が街をふらついていたことか。やっぱりマズかったのか?「いや、別に街をふらつくのは悪くねぇよ。仕事を早く片付けられたから出来ることだ。むしろイイことだろ」
高橋さんは俺の心を見透かすように、そう言った。しかし、自分でやっといて何だが、仕事中なんだし、イイことではないと思う。
「じゃあ、何が気になったんですか?」
「くくっ。お前、視覚防壁が苦手か?」
痛い所を衝かれた。しかし、その通りなので「はい」と頷く。
「やっぱりな。どこまでできる?」
「自分を全部消すのは出来ます。でも、羽とか一部を消したり、物を消したりするのは全く…」
「そうか…。物もか…」
そう言うと、高橋さんは顎に手をやり何かを考え始めた。しかし、今すぐに考えがまとまらなかったのだろう、「ま、覚えておく」とだけ言った。
「ごくろうだったな。明日からも頑張れよ」
「はい」
俺はデスクに戻った。
デスクに戻り、煙草を吸った。やることがないので、数本続けて吸った。
「やることなかったら帰ってもいいぞ」
「……高橋さんはまだ帰らないんですか?」
「ああ。まだ柊が来ないからな」
報告書なら明日確認することも出来るはずだ。それなのに高橋さんは、柊さんを待つという。上司よりも先に上がるのは気が引けるが、日も暮れたことだし、本当にやることがなかったので、「じゃ、お先に失礼します」と軽く頭を下げ、弓を持ち、帰った。
「おう。またな」
これで、俺の初仕事の日は終わった。
初日以降、特に問題なく仕事をこなしていった。
仕事に問題はないが、色々と気になることはある。
朝 出勤すると、部屋には必ず高橋さんがいる。仕事に出る時は「気ぃ付けてな」と言って見送ってくれ、帰ってくると「おかえり」と迎えてくれる。それがお決まりになっていた。それが別に嫌ということはない。むしろ嬉しいと感じるようになってきた。だが、俺が部屋に行くと必ずいる高橋さんが、いつ自分の仕事をやっているのか気になる。
高橋さんは、俺と柊さんが早い時間に返ってきて報告書を出すと、日が高くても、職場でも気にせずに酒を呑む。きっとこの辺に反感を持つ部下が辞めて行くんだと思った。
あと、高橋さんは俺が報告書を持っていくと、何かしら話しかけて来る。何でもない世間話などをし、黙って受理することはない。それが鬱陶しいと感じる日もあるけど、それもまた嬉しいと感じることが多くなった。
ある日、報告書を出すと「楸は弓を常に持ち歩くのか?」と高橋さんに訊かれた。
「はい」
俺はいつも仕事の時は、弓を持っていた。
〝天使の矢″は、上達すると弓だけあれば事足りる。天使が既存の矢に力を込めて放つことも出来るが、それだと矢が無くなったら困る。そういうことが無いように、上達した天使は力を込めた矢を強くイメージして具現化し、それを使用する。俺もそれが出来るが、弓だけはないと矢は射てない。弓は具現化できないから。
だから俺は、弓を常に持ち歩いている。
「毎回使うワケじゃないのに、邪魔じゃないか?」
「そりゃ、邪魔な時はありますけど、でもいざって時に無いと…」
俺がそう言うと、高橋さんは「くくっ」と笑った。それに対して「なんです?」と訊くと、高橋さんはデスクの下にある紙袋に手を入れた。
「いや、好きで持ち歩いているんだったら、コレが無駄になったと思ってな」
そう言って高橋さんが取り出したのは、前に「ちょっと貸せ」と言われ、無理矢理奪われた俺のスーツのジャケットだった。
俺はジャケットを受け取ると、紙袋に入れられて付いた皺を伸ばした。
「これが…何です?」
「くくっ。論より証拠、百聞は一見にしかず、ってな。ちょっと弓を持ってこいよ」
言う通りにして弓を持ってくると、高橋さんに「ちょっと貸せ」と言われ、今戻って来たばかりのジャケットと弓をとられた。
何をするのかと思い見ていると、高橋さんは、ジャケットの内ポッケに弓を入れ始めた。
「ちょ、何してんですか?」
大きさ的に考えて、絶対入るワケが無い。下手したらジャケットが裂ける。そう思い慌てて止めようとしたのだが、俺の意に反し、弓はすんなりと内ポッケに入った。
しかも、無理矢理入れたにしても、ポッケに膨らみがない。
「くくっ。成功だな」
高橋さんは笑っているが、俺は笑えない。何が起こったのか、全く理解できなかった。
「それ、どうなってるんです?」
俺が訊くと、高橋さんは、今度は楽しそうにしまった弓を取り出した。
全く理解できない。
「くくっ。これか?これはな、俺の持つ資格〝空間移動″を応用して、ダチに作らせたモンだ」
簡単過ぎて理解できない。それに、元々俺は、自分の資格以外の知識には疎い。
「どういう意味ですか?」
「まず、空間移動の資格は、基本はドアから別地点にあるドアへの空間を繋いで長距離の移動を一瞬で可能にする資格だ。ここまではいいか?」
「はい。便利な資格ですね」
「くくっ。だろ? で、開発課に所属して変なモンばっか作っている俺のダチに、大きな物でも持ち運べる小さい袋が欲しいって話を持ち掛けた。そしたら、そいつは俺の資格を応用して、ポケットをドアに見立てて、それを物置きのような空間に繋ぐ事ならできるって言うから、それでいいって頼んだんだよ」
「それが…これ?」と俺は、自分の手元に返ってきたジャケットを見ながら言った。
「まぁな。勝手しといて何だが、気に入らなかったか?」
「あ、いえ。あの…ありがとうございます」
実際に便利だと思ったし、高橋さんの気遣いが嬉しかったので頭を下げた。
「くくっ。ま、真面目に働いているようだし、俺からのプレゼントだ」
たしか、さっき『成功だな』って言っていた。成功の確信を持ってやったことではないらしい。それに勝手にやったという自覚もある。それなのに、高橋さんは椅子にふんぞり返り、偉そうに言った。まあ、上司だから偉いんだけど…。
「えー、楸ばっかりズルイ!」と、ずっと座って俺たちのことを見ていた柊さんが詰め寄って来た。「高橋さん。何で楸にだけプレゼントあるんですか?アタシも欲しいです!」
何か居た堪れなくなり、俺は少し離れた。
柊さんの要求に「何でだよ?柊は弓 持ち歩かねぇだろ」と、高橋さんは面倒くさそうに答える。
「そうですけど…。でも、欲しいです。あの…なんだったら別のでも……何でもいいですから」最後の方はしおらしく、柊さんは言った。
「なんだそれ?前にコートあげただろ」
「そうですけど…」
「分ぁったよ。今度な」
高橋さんにそう言われ、「はい!約束ですよ」と柊さんは笑顔になった。
仕事を始めてからだいぶ経ち、色々気付いたことがある。
まず、人を助けるために矢を使う場面は意外と少ない。でも、それでも俺は〝天使の矢″にこだわる。高橋さんのプレゼントで持ち歩きに不便が無くなったので、常に仕事には弓を持って行った。高橋さんのダチっていう五十嵐さんに頼んで内ポッケと繋ぐ場所も変えたから、整理整頓をして、人形などいろんな物を難無く持ち運べるようになった。
高橋さんは噂通りの変り者で、とても天使とは思えない言動が多々ある。仕事をしている所は見たこと無いし、酒ばっかり呑んでいる。でも、悪い人じゃない。時々嫌になるけど、俺も天使としての常識に欠けているからなのか、むしろイイ上司だと思うことも増えた。
あと、女っぽいと思っていた柊さんは、女だった。
椿 Ⅲ
「くくっ。俺もおっかしいと思ってたんだよ。夏とかに仕事終わると、楸が柊を風呂に行かないかって誘うからよ」高橋さんは、その時のことを思い出して笑っている。「半年近くも柊を男と勘違いしていたようでな、ある日、本人に確認したんだよ。柊さんは女ですか、ってよ。そ、そしたら、柊がブチ切れて…楸を半殺しにしたんだよ」
部下が部下を半殺しにした話を、上司が笑いを堪えながら話している。
「そいやぁ、楸が俺んトコに来たのは、あの時が初めてだったな。ポケットの先を自分が知っている場所に繋ぎ直してくれって」
「へーそう。つーか、アンタ誰だ?」
俺の正面のソファーには、いつの間にか、白衣で眼鏡でモジャモジャ頭のオッサンが座っていた。
「あ?俺ぁ五十嵐って科学者だよ」
「い、五十嵐さん?アンタが?」
俺の前に座っていたオッサンは、五十嵐さんだった。
俺のDグローブや、天使の館があるこの島を作った、変でおなじみの五十嵐さんが、俺の前にいる。いつの間にか俺の前にいて、いつの間にか酒を呑んでいて、いつの間にか顔を赤くしている。
突然のことに少し驚いた。
「あ、あの…俺、椿っていいます。Dグローブありがとうございました」
前から五十嵐さんにはお礼を言いたかった。座ったままだが、俺は頭を下げる。
しかし、当の五十嵐さんは「おお。お前さんが椿か」と俺に関心を示してくれたが、すぐに「ん?D?」と首をかしげた。
ピンと来ていない様子の五十嵐さんに、「ほら、これです」と尻ポケットに入れていたDグローブを出して見せる。
「これのお陰で、色々と…」
「おい、ちょっと待て」
感謝の意を示していたら、神妙な面持ちの五十嵐さんに止められた。
「なんすか?」
「たしか、そのグローブの名前はSグローブ。ストロングローブだったよな」
五十嵐さんの言う通り、Dグローブは正しくはSグローブと言う。しかし、名前がダサいので、俺の一存でDグローブ、ダークグローブと改名したのだった。
勝手に変えてしまっていたのを思い出し、「あ…いや、これは…」と口ごもっていると、五十嵐さんは「いや、名前を変えたことを怒っているワケじゃねぇよ」と言った。
俺はホッとすると同時に、「じゃあ、何すか?」と疑問を口にした。
「いいか、名前ってのは力だ。どんな名前で呼ぶのも所有者の自由だが、正しい本来の名前で呼ばないと、百パーセントの力は出せねぇぞ」
五十嵐さんは、真面目な顔で言う。
「ホントすか?」
俺は半信半疑で、五十嵐さんに訊き返した。
五十嵐さんの言うことは、俺も聞いたことがある。名は力で、それを知ると知らないとでは大きく力が違う。名とは魂ということも聞いた気がする。
「ああ、本当だ。そのSグローブの真の力を引き出せれば、拳圧だけで相手を倒すことも容易になる」
ファンタジーの産物である浮島を作れる五十嵐さんだ。もしかしたら本当かも知れない。そう思いながらDグローブを見ていたら、「くくっ。んなワケねぇだろ、バーカ」と高橋さんに笑われた。
高橋さんの笑いにつられ、五十嵐さんも笑いだした。
俺はオッサンにからかわれた。嘘なのだと、そこで気付く。
五十嵐さんは「おい。灰皿どこだ?」と高橋さんに訊き、戸棚の中だと言われたので、取りに行くために立ち上がった。
五十嵐さんはイイ感じに出来上がり、灰皿を取りに行くその足取りは、フラフラしている。
フラフラながら、しっかりと灰皿は持って来て、ソファーにドカッと勢いよく座る。
五十嵐さんは煙草を吸い、酒を呑む。日暮れ前なのに。
五十嵐さんが最も聖職者から遠いんじゃないか、そう思った。
「つーか、昨日給湯室から出てきたのは、その空間移動とかいう資格の能力だったんすね?」
俺は高橋さんに訊いた。
「くくっ。そうだよ。俺は千里眼を使ってお前らの様子を見ていた。で、あんまりにも頼りないから、そこのドアと給湯室のドアを繋いで、俺は行き来したんだ」部屋のドアと床、おそらく給湯室の方を指さしながら、高橋さんは言った。「それなのに、どこぞの腐れバカは、俺の部屋が給湯室だと勘違いしやがる」
「す、すんません」
腐れバカと言われた。それなのに俺は謝った。
謝りついでと言うワケではないが、ついでに「あいつの浴衣も同じ原理なんすか?」と訊いた。
「浴衣の袖口に手を突っ込んで、バドミントンのラケットみたいな大きい物を出すし、やたら色んな物が出て来るから気になってたんすよ」
「ああ。アレも俺と五十嵐の作った服だ。つっても、浴衣自体は買った物だがな」高橋さんは認めた。「浴衣タイプは、楸が俺の部下になって十年目の節目にプレゼントしたのが最初だったな」
「へー」
「そうそう」部屋の隅にある冷蔵庫を漁りに行っていた五十嵐さんが、戻って来た。「浴衣の袖はポケットとはワケが違うから苦労したぞ」
「へー。あの浴衣ってスゴイ物だったんすね」
何かを思い出した五十嵐さんは「あ、そいやぁよぉ」と言って、膝を叩く。
「楸にだけ十年目のプレゼントあげたら、あの乳なき子、怒ってたよな」
五十嵐さんは言った。
乳なき子とは誰か、名前を聞かなくても分かった。
「そんで俺んトコ来て、アタシの服にも楸のポケットと同じ機能を付けろ、とか言ってきてよぉ。俺一人じゃ出来ねぇってのに」
「くくっ。そうだったな。楸にだけ何かやると、決まって柊が突っかかってきやがる。ったく、腐れガキには困ったモンだ」
乳なき子は、やっぱり柊だった。
そんなことより、二人の話を聞いて、昨日看守の天使が言っていたことを思い出した。
看守の天使は、柊は高橋さんの事が好きだと言っていた。もしかしたら、それは本当かもしれない。
しかし、当の高橋さんは柊を腐れガキ扱い。
柊に同情すると同時に、高橋さんはニブイ人なのだと気付いた。
「さて。話は戻るが、楸が変わり始めたのは、柊が悪魔の力を手に入れて、俺の所を辞めた後くらいだったな」
そう言い、高橋さんは、口の中のチョコをウィスキーで流した。
ここからは、乳なき子・柊の話になった。
楸 Ⅲ
この前、高橋さんから浴衣を貰った。
働き始めて十年目の節目のプレゼントだと言っていた。実際は十年を数年過ぎていた。
浴衣を貰った時、また柊がごちゃごちゃ騒いでいた。自分もたまに貰っているくせに、意地汚い貧乳だ。
何で浴衣なんですか、って貰う時に高橋さんに訊いた。別に不満があったワケではないが、単に理由が知りたかったから。
訊くと、高橋さんは「楸が視覚防壁張るの下手だからだよ」と答えた。
「それで、何で浴衣なんです?」
「くくっ。浴衣なら、上をはだけるだけで羽を出せるだろ。そんで、ちゃんと着れば羽を隠せる」
そう言われて、高橋さんの言っていることの意味が分かった。
俺は、姿を隠すための視覚防壁が下手で、羽などの一部を隠すことはできない。
いつも着ているスーツなどは、背中の部分に穴があり、そこから羽を出している。羽を出していないと飛べない為、こればかりはどうしようもない。
仕事の時は全身を消して、人間と接触するから問題ない。しかし、羽が隠せない以上、むやみやたらに人間の前で姿を出せない。姿を出せないと、買い物などで都合が悪い。
そんな俺の事を考慮しての浴衣なのだろう。貰った浴衣の背中に、穴はない。
「あの、ありがとうございます」
高橋さんの気遣いを理解し、俺はお礼を言った。
「おう」
高橋さんはぶっきらぼうにそう応えた。
しかし、高橋さんから浴衣を貰ってから、俺はまだ一度もまともに着ていない。
何度か鏡の前で袖を通した事はある。だけど、いつもスーツを着ているからか、浴衣はスースーするというか、しっくりこない。別にスーツもネクタイを締めていないが、それでも浴衣を着ることには違和感があり、貰ってからずっと部屋に飾ってあるだけになっている。
ある年。
俺のライセンスは中二級になった。
高橋さんのライセンスは中一級だと言っていた。俺はとうとう、あの人の一つ下のライセンスにまでなっていた。
しかし、まだ〝天使の矢″は二級のままだ。
仕事もしているし、一級を取るのは二級とは比べ物にならないほど難しい。
だから、俺の矢は二級のままだ。
その年の冬。
「柊、最近来ないですね」
自分のデスクで煙草を吸いながら、高橋さんに言った。
「…そうだな」
高橋さんは元気なく答える。
秋の終わり頃から、柊の様子が変わった。
部屋に来ても元気が無く溜息ばかり吐き、一人で何かを考える事が増えていた。ノルマはこなしているが、仕事に関して何か悩んでいるようだった、と高橋さんが呟いていた。
そして、ここ一週間近く、柊は姿を見せなくなった。
柊が来なくなってから、高橋さんがこの部屋で酒を呑む姿も見なくなった。
高橋さんも元気をなくし、俺の気分まで落ち込むことが増えた。
柊が姿を見せなくなって十日以上経ったなぁって思った日の夕方。
「あの…高橋さん」
柊が来た。
十日ぶりに会った柊は、髪の毛を真っ白に染めていた。
そして、背中には身の丈ほどもある大剣を背負っていた。
表情は、重く暗い。
「柊…?」
自分のデスクの椅子より座り心地の良い来客用のソファーで煙草を吸っていた俺は、あまりの変わり様に驚き、柊かどうかすら疑った。
柊は頷くと、そのまま高橋さんのデスクの前に行った。
俺はソファーの背もたれに肘を掛けて振り返り、二人の会話を黙って聞くことにした。
「柊…お前、ひょっとして…」
眉間に皺を寄せる高橋さんは、柊の姿を見て、何かを察したらしい。
柊は、背中に背負っていた剣を外すと、高橋さんに見せるように持った。そして、
「はい。アタシ、悪魔の力を手に入れました」
と、そう言った。
その柊の言葉に、俺は耳を疑った。しかし、高橋さんは「そうか…」と、うな垂れるだけだった。どうやら、高橋さんが察したことが当たっていたらしい。
俺は黙って見ていようと思ったのだが、状況が飲み込めなかったので「ホントか?柊」と口を出した。
俺の疑問に答えたのは、高橋さんだった。
「俺たち天使は、たまに悪魔と遭遇することがある。そのまま何も無ければいいが、不運にも好戦的な悪魔に遭った場合は、戦闘になる。そして、悪魔の力を浴び、殺された天使の髪は、どれも真っ白になるって話だ」
悪魔の存在は知っているが、それに襲われて死んだ天使の話は初めて聞いた。
「それで、柊も髪が白くなったんですか?」
俺が訊くと、高橋さんは顔を伏せたまま、首を横に振った。
「違うんですか?」
「違うだろ。見ての通り、柊は生きている。死んだ天使の髪が白くなるのは、悪魔の力への拒絶反応の現れだと言われている。悪魔の怨嗟の声とかで精神を病んだ結果とか…ま、詳しいことは俺も知らん」
「てことは…どういうことですか?」
「つまり、悪魔の力を内に入れたまま生きているってことは…」
高橋さんは一度言葉を切り、柊の事を見た。
柊はビクッと震えた。俺の位置からは見えないが、高橋さんの眼が、怒りのこもった鋭いモノなのだろう。
「柊。お前…自分の意思で、悪魔の力を求めたな」
「は?んなワケないじゃ…」
「はい。そうです」
とてもじゃないが信じられなかったから、高橋さんに反論しようとした。しかし、俺の言葉を遮ったのは、他でもない、柊だった。
「アタシは、自分から悪魔の力を求めました」
「どうして…?」
俺が訊くと、大きく息を吐き出してから、柊は、とつとつと語り始めた。
「アタシは、前々から、天使としての力に限界を感じていた。仕事で出会った人間を、ろくに救うことができなかったから。それは、アタシが未熟だからだと思っていたけど、それだけじゃなかった。……人間は、無駄が多過ぎる。下らないプライド、見栄、建前、意地、感情、そういう余計なモノで身動きが取れなくなって、大切な物をポロポロ零していくヤツが、多かった。そういうヤツを……アタシは、ほっとけなかった」
柊は、一度言葉を途切らせた。鼻をすすっている。
「ある日、悪魔の能力で〝悪魔の剣″というモノがあることを知った。その剣は、何でも斬ることができるという。物質はもちろん、人間の理性などの精神まで。アタシはそれを知って、もしかしてと思った。悪魔は人間の理性を斬り取り、人間が本能のままに暴れるのを見て楽しむという。けど、それなら、理性じゃない、人間が行動する時に動きを鈍らせる、余計な感情とかも斬り取れるんじゃないかって」
柊は、剣を持つ手に力を入れた。
「実際に剣を手に入れ、怒りで自棄を起こしていた人間を斬った。その人間の身体に傷は付けず、怒りの感情だけを斬り取ることができた。その人間は平静を取り戻した。アタシの思った通りになった。だけど、剣を握った日から、頭の中が騒がしくなった。歓喜する声、憤怒する声、泣く声、苦しむ声、色んな声が響いて、頭がおかしくなりそうだった。三日三晩、四六時中、それに耐えたら、髪が白くなっていた」
事の顛末を聞くと、「そうか…」と高橋さんは立ち上がった。
「それで、お前はこれからどうする?」
高橋さんは訊いた。
「ここは…辞めようと思います。悪魔の力は自分の意思で手に入れたし、それに関して後悔はしていません。だけど、悪魔の力を手に入れたアタシがいると、二人に迷惑がかかる。だから、ここに来る前に、支部長に辞職届を出してきました」
高橋さんは、ゆっくりとした足取りで柊に近付いた。
「柊。ちょっと歯ぁ食いしばれ」
そう言うと、高橋さんは柊の頬を叩いた。
頬を叩かれた柊は、俯きながら「ごめん…なさい…」と、弱々しい声で謝った。
「勘違いすんな。俺は、悪魔の力を手に入れたことを怒ってるんじゃねえよ。お前が何日も無断で顔を出さねえから、そっちに怒ってんだ」
高橋さんは優しく、諭すように柊に話しかける。そこで、柊はやっと顔を上げた。
「高橋…さん」
「あと、辞める理由もだな。二人に迷惑がかかる?んなモン、いくらでも掛けりゃいいだろ。俺は、お前の上司なんだから」
「俺は同僚ですけどね」
俺はソファーに寝転がり、念のために言った。
「ま、悪魔の力を手に入れたことをうるさく咎めるヤツもいるだろう。だから、辞めること自体に反対はしない」
「じゃあ…あの。……アタシ、またここに来てもいいですか…?」
「おお。いつでも来いよ。都合良くデスクに空きがあるから、柊の席もそのまま残しておく。酒は俺の許可が必要だが、他は今まで通り、自由に使え。ここは、お前の居場所だ」
「……はい」
いつもの柊からは想像できない位、か細い返事が聞こえた。
「ところで、その剣はどうやって手に入れたんだ?」
「グスッ…。その辺にいた悪魔を、やっつけて、奪いました…」
「くくっ。追い剥ぎかよ」高橋さんは、苦笑した。「……何はともあれ、無事でよかった」
そう言うと、高橋さんは柊の頭を撫でた。
「……はい。……心配…掛けて、すみませんでした」
柊は泣いた。声を上げて泣いた。
初めて柊が泣いているのを、俺は聞いた。
「それで、ここを辞めた後の身の振り方は考えているのか?」
ひとしきり柊が泣いた後、高橋さんは訊いた。
柊は涙をぬぐい、「はい」と答える。
「ここを辞めた後も、天使の仕事は続けようと思います。折角手に入れた悪魔の力で、天使にできない形で、人間を救おうと思います」
「そうか。気ぃ付けてな」
「はい」
「分かっていると思うが、力を使う時は、良く考えろ。あと、力に飲まれないよう、くれぐれも注意しろ」
「はい」
柊は、剣を背負った。
「フンッ」俺はソファーに寝そべったまま、口を開いた。「悪魔の力を手に入れて、ここを辞めて、天使の仕事は続ける?なんだそりゃ?柊は何なの?堕天使?聖なる堕天使?」
「ハッ。うるさいよ。何そのアホみたいな…」
「くくっ。聖なる堕天使?くくくっ。確かに、アホみたいだな。どっちつかずで、ややこしい。今の柊にぴったりかもな」
俺は柊をバカにするつもりで、思いつくままに言った。柊も、アホみたいだと否定した。
しかし、高橋さんには〝聖なる堕天使″というフレーズがハマったらしい。笑っている。
意外だったので、俺も驚いて起き上がり、高橋さんを見た。柊も、信じられないといった面持ちで、高橋さんを見ている。
「高橋さんは、その…聖なる堕天使ってのが、アタシにピッタリだと思うんですか?」
遠慮がちに、柊は訊いた。
「くくくっ。おお。いいんじゃないか」
「そう…ですか」
思いがけない贈り物をもらったかのように、柊は頬を緩めた。
高橋さんは戸棚に歩み寄った。ずっと呑まずに我慢していた酒を取り出し、嬉しそうにグラスに注ぐ。
「何か困ったら、今度は早めに相談しろよ。いつでも力になってやるから」
「はい!」
高橋さんは柊の方にグラスを傾けて、言った。
そして、そのグラスの中を一気に飲み干した。
「くくっ。柊の門出か。少し寂しいが…やっと、酒が美味くなった」
高橋さんは、柊のことを笑って見送っていた。
だけど、俺には良く分かんない。
柊の考えも、一理あるとは思う。
だけど、だからと言って、悪魔の力に手を出すのは違う気がする。
柊は、天使の力に限界を感じていたと言っていた。
本当に、限界か?
いや、違う。
俺にはまだ、上がある。
悪魔の力なんかじゃない。〝天使の矢″一級だ。
柊は、必要以上の感情を仕事に持ち込んだ。だから、悪魔の力を求めることになった。
俺は、違う。
俺は、俺のやり方で、力を付けて、上を目指す。
俺は、全てを救う。
俺は、全てを裁く。
それから、数年後。
俺は、念願だった〝天使の矢″一級の資格を取得した。
柊について少し。
悪魔にやられて死ぬと髪が白くなる。それなら、〝悪魔の剣″そのものを奪えば、髪も白くならず、悪魔の力を手に入れたことを周囲に気付かれないで済む。柊はそう考えて悪魔の剣を手にしました。けど実際は、悪魔の力を手に入れて苦しむことになり、髪も白くなりました。普通なら死ぬような苦しみでも、柊は強かったので死なずに済み、悪魔の力をコントロールできるようになりました。
こんな経緯です。
今回の話にあって『柊が悪魔の力を手に入れる』ということは、楸の変化のきっかけではあります。しかし、そこを深く触れるとややこしくなる気がしたので、こういう形になりました。
柊は、元気です。
なんでも屋のようなことをしていると思います。




