第七話 天使の夏合宿(前篇)
楸 合宿二日目(夜)
「よせっ!椿ぃ!」
俺の制止を振り切り、椿は思いっきり殴った。
どうしてこうなった…。
こんなことを望んだんじゃないのに…!
俺はどこで間違ってしまったんだ。
この合宿を振り返ってみても…………分からない。
椿 合宿一日目
季節は夏。
何年も前から続く地球温暖化が太陽を怒らせているようで、最近出ずっぱりの太陽は、その怒りの熱を俺たちにぶつけている。そして、怒りは伝染する。俺は今、イライラしている。
では、俺がイライラしている原因は何か?それは大きく二つある。ちなみに、この二つの中に、単なるカルシウム不足と、俺の母校の野球部が地区予選で負けて甲子園に出られないこと、これらは含まれないことを最初に言っておく。
では改めて一つ目。それは暑いからだ。これは説明しなくても今が夏であるというだけで分かるだろう。だが、俺も毎年夏が来るたびに今のようにイライラしているワケではない。夏は暑いモノだと受け入れ、昼はそうめんを食べ、おやつにはスイカ、日が沈むまでは扇風機の前で甲子園を見ていた。つまり暑さにイライラしながらも、それなりに夏を満喫していた。では何故今年は例年以上にイライラしているのか。例年以上に暑いからというのもあるが、一番の理由はトレードマークの存在だ。この世界の主人公である俺は、ある日天使と出会い、ダークヒーローを目指して天使の仕事をするようになった。その時に、ダークヒーローである主人公のトレードマークとしてニット帽を選んだ。今年の春に買ったそれは薄手の物ではあるが、夏の昼間にかぶろうものなら熱中症で倒れかねない。昼間は尻のポケットに入れ、太陽が隠れてからやっと俺はトレードマークを身に付けることができる。しかし、太陽が隠れてから俺が活動することは稀有で、最近はめっきりトレードマークを身に付けず、ただ持ち歩いているだけになっている。だから、イライラしている。俺のトレードマークを欠落させる、この暑さに。
二つ目。つーか本当のことを言うと、この二つ目こそ、今イライラしている最大の原因だ。この二つ目の原因については、まず何から言っていいのか。とりあえず、そうだな…。
「ほらっ。早く中に入って荷物置きに行こっ」
「おお、わりぃ榎。………つーかここ何処だ!」
俺は、思いっきり叫んだ。
俺は今、自分がどこにいるのか分からない。まずはここからだ。自分がどこにいるか分からないと言っても記憶喪失やアイデンティティーの喪失のようなことではない。単純に、今の自分がいる場所が分からない。分かることと言えば、俺は今、ペンションのような建物の前にいる。目の前には海が見え、振り返って少し先には森もある。そんな所に、今いる。ここまで分かっていて何が分からないんだ、という疑問があるかもしれない。では俺は何が、何故分からないのかと言うと、俺はここに自分の意思で来てはいないからだ。つーか、来た時の記憶が無い。気付いたら今の場所にいた。これが記憶喪失に入るのだとしたら記憶喪失だと認めよう。前言は撤回する
何はともあれ、覚えている最新の過去を振り返る。
俺はたしか、大学に行っていた。別に授業に出るために行ったのではなく、久しぶりに学食のカレーが食べたいと思ったから学校に行った。だから、あれは午前十時頃だったと思う。朝食をとっていない俺は、早めのランチをしようと思ったから。
学食のカレーを食べ終え、その日は授業もなかったっつーか大学は夏休みだったから、俺は家に帰ろうとしていたんだ。だが、家に帰るのも面倒になり、近場の本屋に行ってゲーム雑誌を立ち読みしていた。そうだ。店内のクーラーが効き過ぎていて寒くなったから、公園のベンチに座って日向ぼっこしていたんだ。
日向にいて少し暑くなったから、木陰のある方のベンチに行こうと思って立ったのが、覚えている最新の過去だ。たしかあの時、気を失う直前、目の前に紫色のボールが現れた気がする。だが、それが何なのか、その後の俺に何があったのかは、分からない。
「よう、椿。やっと起きたか」
ペンション風の建物から、天使が出てきた。俺を天使の仕事に誘い込んだ、張本人の天使が。今日もいつもと同じ、浴衣に下駄という服装、そして棒付きのアメを咥えている。
「おい!何で俺はここにいる?何でお前はそこにいる?つーかそもそも、ここはどこだ?」
俺は矢継ぎ早に質問した。
質問は至って普通のことだったと思うが、何故か天使は不機嫌そうな顔になる。
「おい、椿。夏の暑さで頭がおかしくなったか?」
「はあぁ?お前の頭ほどおかしくはなってねぇよ」
「いや、壊れてる。しゃーねぇな。自己紹介から始めよう。当ペンション臨時オーナーの楸です。だから、『お前』って呼ぶな。楸さん、もしくはオーナーと呼べ」
天使が不機嫌になったのは、俺の呼び方が気に食わなかったかららしい。何でか知らないが、この天使は「お前」と呼ばれるのを嫌がる。そして俺が「お前」と呼ぶ度にいちいち自分の名前をさらっと言って来る。
俺は天使の呼び方など、今もこれからもどうでもいい。特に今は心からどうでもいい。だから俺が再度、ここにいる理由諸々を訊こうと思ったら、ペンションの中から〝聖なる堕天使″という矛盾した異名を名乗り、フリーで天使業をしている柊が現れた。
「何してんの? さっさと入んな」
柊はペンションの入口の前に立ち、俺と榎に言った。
柊は、白い肌と白い髪を際立出せるような黒い服を着ている。夏らしく、つーか俺が知っている限りではいつも通り、肩や脚を多く露出した格好をしている。しかし、色気のようなモノは一切出ていない。柊は、顔が整っていて美人寄りなのだが、いかんせん少年のような体型をしている。つまり、胸がない。全体的に細身だから胸が小さいと言うワケではなく、細身であることに変わりはないが、胸は小さいというより、無いと表現したくなるほどに無い。先ほどの天使の風貌より柊の方を詳しく説明するのは、単に天使のことで特筆すべきことが無いというのもあるが、この柊の貧乳に理由がある。柊はこの貧乳をバカにするとキレる。そしてキレると、普段は柊の背中に掛けるように納めていて、視覚防壁を張って隠している、悪魔の能力の一つ〝悪魔の剣″で斬りかかってくる。だから柊の貧乳をバカにしたら殺される可能性が多分にある。この長くなった説明は命を守る注意事項だと思えば、むしろ短く思えるだろう。くれぐれも死にたくなければ気をつけるようにと、俺は自分に言い聞かせる。
俺と榎は柊に従い、ペンションの中に入った。ついでにオーナーの天使も閉じたドアを開けて入って来た。ちっ、鍵を閉め忘れた。
ペンションの中に入るとまず、正面の大きな階段が目につく。建物の中心にドンと陣取り、途中から左右に分かれる大階段が。柊曰く、二階には個人の部屋があり、俺たちはそこの各部屋に寝泊まりするそうだ。詳しい説明は荷物を部屋に置いて来てから、一階にある食堂でゆっくりすると言うので、俺と榎は自分の荷物を持ち、天使から渡された鍵に書いてある番号の部屋へ行く。
俺は、天使に割り当てられた自分の部屋の前に来た。部屋の番号は104号室になっている。なんで二階にある部屋の百の位が1になっているのか、なんで十部屋以上ある部屋の中から俺がこの104という、ホテルや旅館では忌み嫌われ、03の次は05のように敢えて無い場所もある部屋番号を割り当てられたのか、疑問はあった。しかし、そんな疑問は、俺がペンションに入る前からずっと抱えている疑問に比べれば小さいと思う。ペンションの部屋番号はこういうもので、俺の部屋番号は天使の嫌がらせ。この程度だろう。
俺は自分の部屋の中に入った。その部屋は、大体六畳くらいの広さで、トイレや洗面台はあるが風呂やガスコンロなどはない、ベッドはあるがテレビはない、狭くはないが広くもない、そんな部屋だ。
一通り部屋を見て回ると、先ほどまでは手にあり、今はベッドの上に置いてある、大きな疑問へと近づく。その疑問とは何か?それは…。
「これって、俺の荷物…だよな?」
疑問の正体は、俺が用意した記憶の無い、この俺の荷物だ。俺はここに自分の意思できたワケではないので、来るための荷物なんてもちろん準備した記憶はない。しかし、この荷物を入れているカバンは俺の物だ。俺が高校の修学旅行で使ったカバンだ。
俺は恐る恐るカバンを開けてみる。もし俺の勘違いで、この荷物は他人の物だとしたら大変だと思っていたが、それは杞憂で、中身もちゃんと俺の物だった。数日分の代えの服と下着、ご丁寧に代えのニット帽まで入っている。とりあえずここで数日生活するのに事欠かないよう、荷物は歯ブラシセットなど他にも一式揃っていた。
俺は、荷物がちゃんと自分の物だと安心すると同時に、ますます疑問を大きくしていた。
中身を確認するため、一度全部を出そうとベッドの上に置いた荷物をカバンに入れ直していたら、ドアをノックされた。
「椿君。私先に行ってるよ」
ノックの主は榎だった。
「おお。俺も今行く」
荷物は適当にカバンに詰め、部屋の鍵を持って、榎の待っている廊下に出た。鍵を閉めようと思ったら勝手に閉まった。このドアはオートロックだったのだ。こういうことは先に言っておけと天使に怒りを覚えるのと同時に、鍵を持って出て良かったと安堵した。
榎と一緒に階段を下りて一階へ行くと、下りた左手側に食堂というプレートがかかっている部屋を見つけた。柊は食堂で今の状況を説明してくれると言っていたので、食堂のドアを開ける。食堂と言っても食べ物が無ければただの部屋で、そのただの部屋には、二十人以上が一度に座って食事できるような長方形のテーブルとそれなりの数のイス、あとは壁に絵が飾ってある程度だ。
長テーブルの端の短い辺の部分、たぶん上座に当たる席に天使が、その近くの天使を左側に見る席に柊が座っていた。上座にいる天使に座るように促されたので、俺は柊の斜め向かいの席に、榎は柊の隣に座った。席を選んだ理由は、そこに飲み物があったからだ。先に来ていた天使と柊の前に置かれている物と同じ、氷と茶色い液体が入ったコップが置かれている無人の席が二席あったから、俺と榎はそのコップの前に座った。茶色い液体の正体は麦茶だった。
「さて、諸君。揃ったかね?」
肘をついて組んだ手に顎を乗せ、天使が言った。その言い方は妙に芝居がかっている。
「知らねえよ。つーか、この四人しかいないのか?」
俺の疑問に対し、天使は否定も肯定もせず、ただ鼻でフッと笑った。なぜ笑った?
「うん。どうやら揃ったようだね、諸君」
天使は俺たち一人一人の顔を眺め、言った。揃ったらしい。どうやらこいつのペースがあるようで、ペースを乱す者は無視されるらしい。
天使は立ち上がると、手を後ろに回してテーブルの周りを歩き始めた。その歩きはゆっくりで、落ち着いている。
「諸君に集まってももらったのは他でもない」
天使はもう片方の端まで行くと、テーブルをバンッと叩いた。
「実は…」
「声が小さくて聞こえませーん」
「うっさいんだよ椿!黙って俺のやりたいようにやらせろよ!」
落ち着きを失くした天使が声を荒げた。おかげで、さっきよりは聞こえるようになった。
「ハッ。御託はいいから、さっさと用件だけ言いな」
天使のペースを乱す者は俺以外にもいた。柊だ。俺は心強い援軍を得た。柊に先を促された天使は頭を掻きながら、明らかに不満そうな顔で戻って来た。元の席に着くと、また肘をついて組んだ手に顎を乗せる元のポーズになる。そして、またさっきのような神妙な喋り方に戻る。
「諸君に集まってもらった理由。それは………合宿だ!」
「はぁあ?合宿ぅ?」と俺。
「それって、何するの?」
「よく訊いてくれた、榎ちゃん」
榎の質問は天使のペースを乱すどころか、ばっちりのタイミングだったようだ。天使は嬉しそうな顔をして、説明を続ける。
「俺たちは今から、この島で二泊三日の合宿をします」
「しっ、島ぁ?」
島という単語に食い付いたのは俺だけだった。
ペースを乱した者の質問に、天使は答えてくれない。
「簡単にこの合宿の目的を説明すると、俺たち四人の親睦を深めることと、先日可能になった俺と椿のタッグの戦闘強化だ」
どうせ何を訊いても天使は答えてくれない。だったらということで、俺は天使の言っていることを自分で解釈する努力をする。
まず、俺は今、どこかの島にいるらしい。ペンションがあるということは、別に無人島に漂着したということではないだろう。つーか、漂流すらした記憶はないが。それを証拠付けるように天使は先ほど、この島にいる理由は合宿をするからだと言っていた。漂着した島で合宿すると言うほど、ここにいるメンバーはポジティブではないはずだ。
次、合宿の目的について。最初の親睦と言うのは言葉通りの意味であるとして、この面子でやる意味はなんだろう? たぶんその理由は二つ目の目的にあるのだと、俺は思う。俺と天使は前に仕事をした時、運悪く会話のできないクソをリーダーにも持つクソ共に襲われた。本当は俺一人でもそのクソ共を返り討ちにすることはできたのだが、天使がしゃしゃり出て来たので、俺と天使は一緒に闘うことになった。その戦闘方法は、天使の〝テレパシー″二級の資格の力で俺と天使が繋がり、天使がサポートをして俺が動き、敵を倒すというモノだった。つまりここにいる面々の集められた理由として、俺と天使は言わずもがな、柊は戦闘相手役、榎は…オマケ?……じゃない、仕事仲間か。
俺の考察終わり。
俺が考察を終え、未だに喋り続けている天使の話に耳を傾けると、合宿の目的について話していた。
「親睦については言葉通り、一緒に仕事をすることが多いこのメンバーの仲をさらに良くしようということだ。そして次の目的についてだが、俺と椿が一緒になって闘う方法を開発できたのはつい先日のこと。俺としては戦闘とか危ないコトはできれば全力で回避したいけど、仕事上どうしても回避できない時の備えとして強化しようと思う。そして、その相手役は柊が引き受けてくれた。椿はあとで柊に、お礼として牛乳でも差し入れなさい」
相変わらずの芝居がかった口調で天使が説明した。
その内容は俺が考えていたこととほぼ同じで、俺は自分の考えがあっていたことを喜ぶと同時に、わざわざ自分で考えず天使の話を聞けばよかったと後悔した。
「目的については分かったけどよ、つーかコレって合宿って言うのか?」
「なんでだよ?どこからどう見ても合宿だろ」
俺の質問にやっと天使は答えた。その答え方はさっきまでの芝居がかったモノではなく、いつもの天使の話し方だった。ついでに言うとポーズにも飽きたようで、今は椅子の背もたれに全力で身体を預けている。
「でも天使さん。私は戦闘訓練もしないから、合宿って言うより旅行じゃないかな?」
非戦闘員の榎が言った。
「そうだ、旅行だよ。つーか俺、合宿ってしたことないから何するモンなのか、イマイチ良く分かんないんだけど」
「うん。私も」
俺と榎は合宿の経験が無い。合宿とは恐らく、中学や高校の部活、大学のサークルなどでやるのだろう。だが、俺と榎は中高一貫して帰宅部で、今も大学の部活やサークルに入っていない。帰宅部では合宿などしたことが無かった。合宿の目的が強化練習であるとすれば、俺たちはそんなことをする必要が無いくらい、完成された域にいる帰宅部員だったのだ。だから合宿と言うモノが具体的にどういうものか、経験したことの無い俺たちには分からない。
俺と榎の疑問に、天使は答えられないでいる。恐らく天使も合宿がどういうものか分かっていないのだろう。言葉の響きだけで合宿と言っている可能性が高い。天使は柊の方を見て助け船を求めているが、あいにく柊は、無くなった飲み物を冷やしていた氷をガジガジかじることに忙しい。
「…とにかく、これは合宿なの!それ以上でもそれ以下でもない!」
助け船が来ず、溺れかけていた天使は開き直った。
俺も榎も、これ以上合宿が何なのかについて問い詰めることはしなかった。俺としては、コレが合宿でも旅行でもどっちでもいい。夏休みのプチ旅行として、今の状況を楽しむように頭を切り替えた。
とにもかくにも、俺の夏休みの予定表に偶然空いていた空白が、これで一部埋まった。
コップの中の全ての氷を食べ終え、柊は席を外した。そして、俺と榎の入って来たドアとは別の、廊下ではなく隣の部屋へと繋がっていると思われるドアを通って何処かへ行った。すぐに戻って来た柊の右手には麦茶の入ったポット、左手には大量の氷が入ったコップ、口の中には氷があった。柊は自席に戻ると、自分のコップと榎のコップにだけ麦茶を注ぎ、ポットをテーブルの真ん中に置いた。俺は手を伸ばして置かれたポットを取り、自分の空のコップに麦茶を注いだ。天使は俺が置いたポットに手を伸ばすが、届かない。
「椿。お茶取って」
「無理。今、手の古傷が開いて、お茶取ったら壊れる」
「柊。お茶取って」
「無理。壊れた」
「何がぁ?」
俺と柊、二人に断られた天使が声を荒げた。
結局お茶は榎が取り、わざわざ天使のコップに注いだ。
天使は、榎に注いでもらったお茶を一気に飲み干した。
「ふぅ。やっぱ親睦は必要だな。特に椿の協調性の無さが目立つ」柊との協調性が光るコンビプレイは見なかったのか?
天使は立ち上がると「さっそく合宿スタートだ!」と開始宣言をし「まずはペンション内を案内するから、ついて来いやぁ!」と、勢いよく食堂を出て行った。
俺たち三人は、ゆっくり自分のコップにある麦茶を飲んでから、ゆっくり立ち上がり、ゆっくり天使の後に続いた。
天使が通って行ったドアは、先ほど柊が通ったドアだった。
そのドアの先は、広いキッチンになっていた。柊は、入るとまず、食堂から持ってきていた麦茶のポットを、キッチンの最奥にある巨大冷蔵庫にしまった。
「ここは、キッチンだ」
見れば分かることを、天使は両手を広げて大袈裟に言う。
しかし、その大袈裟が大袈裟と感じないほど、キッチンは広い。高校の家庭科室の様に個別に調理台が十台ほど設けられていて、その調理台にはガスコンロも水道もある。冷蔵庫は柊が先ほど麦茶を入れたもの一つだけだが、その大きさは家庭用と比べ明らかにでかい。業務用としても大きい部類になるだろう。冷蔵庫の横には小さい脚立が置かれているから、上の方はこれを使って取れ、という親切だと思う。そんな親切を置くくらいなら一回り小さいサイズの冷蔵庫を二台置けばいいのに、というふうに頭は回らないのだろうか。
天使はその巨大冷蔵庫に近付くと、扉を開け、中をチラッと確認した。
「俺たちは二泊三日の合宿をするワケだが、食事は自炊してもらいます」
天使が面倒くさいことを言う。
こういうのは専属のコックやペンションのオーナーがやってくれるモノだと思うが、ここに専属コックはいそうもないし、このペンションのオーナーは臨時とは言っていたがこの天使だ。そうであれば、自炊も仕方ないと納得するしかない。
「この冷蔵庫の中と隣の倉庫には二泊三日分 二十人前の食料が入っているから、好きに使ってくれて構わないよ」
「ちょっと待て」俺はすかさず言う。「俺たちは四人だぞ。それだと食料多すぎないか?それとも他にもここに来るのか?」
俺の質問に対し、天使は「俺たち四人の中にひとり、何十人前も食べるヤツがいるんだよ」と言って、そいつを指さした。指をさされた柊は自覚があるらしく、無表情、無言で顔の横にピースサインを作っている。
「ねぇ。自炊ってことは、ご飯はみんな別々なの?」
「うんにゃ。安心して、榎ちゃん。この合宿の目的は親睦だから、自炊って言っても料理は二人一組でそれぞれ四人分作ってもらって、食べるのはさっきの食堂で四人そろっていただいます」
天使にどういうペアでやるのか訊こうとしたら、「んじゃ次行きまーす」と部屋を出て行ってしまった。
キッチンを出てすぐ隣の倉庫に行った。
背の高い棚が何列か並んでいる倉庫の中には、野菜や小麦粉などの食材以外にも様々な調理器具があった。その他にもトイレットペーパーや、代えの洗剤なども見られるから、ここに生活必需品のストックがまとめて置いてあるらしい。
「見ての通りここには色々あるから、何か必要な物探す時はここ見てね。んじゃ次」
天使の説明もシンプルで短かった。
「んじゃ、次は向こっ側ね」
倉庫を出て階段前の広いスペースに来ると、今いた側にもう部屋はないということで、階段を挟んで向こう側の部屋を説明すると、天使が言った。
「その前に、このペンション自体の説明してくれよ」
俺が訊くと、榎は頷いた。
天使のペースを乱した質問とはいえ、「あ、私も聞きたい」と榎も知りたがる疑問を天使は無視できない。しぶしぶと言った感じで、天使は口を開く。
「…そうだな。まずはこの建物について説明するか」
「キッチンよりも先にそっちだろ」
「うっさいな、椿は。ゴホンッ。この建物は、俺たち天使が所属する組織が持っているペンションなんだ。使用届を出して受理されれば、食料などの生活必需品を用意してもらえて、合宿や旅行など、どんな目的で使ってもいいことになっている。今回は俺が高橋さんに合宿するからって頼んで、必要な物とか諸々の申請をしてもらったんだ」
つまり天使は何もしていない、準備のほとんどは高橋さんと別の誰かがしてくれたはずなのに、天使は誇らしげに言った。
「でもそれって、私たちみたいな人間も使っていいの?」
「ん…?大丈夫じゃない?椿も榎ちゃんも天使の仕事をしてるし、高橋さんに頼んだらOK貰ったし」
「でも…」
と、天使の施設を利用することに罪悪感に近いものを感じている榎に、柊は「ハッ」と笑って見せた。
「気にするこたぁないよ。アタシだって言ってみりゃ、今は組織の部外者なんだからね」
榎は、柊が言うことを聞いて、「うん…」としぶしぶ納得した。俺はそんなこと聞かなくても納得している。天使の上司である高橋さんがOKを出したんなら問題ない。もし万が一問題があったとしても、責任はこのペンションの臨時オーナーに取ってもらおう。
「さっきここは島だって言ってたが、島もその組織所有なのか?」
俺は天使に訊いた。
「いや。でもいいだろ別に。空いてる島なんだから」
空いている島ってことは無人島だと思うが、こんな立派なペンションが建っていて無人島と言うこともあるまい。それに、今は俺たちがいるから無人島ではない。
この島は、天使の組織が国に黙って占拠している島だと思えばいい。……いいのか?
「この建物についての説明はもういいよね。んじゃ次行くよ」
その後は天使の先導で、食堂があった方と反対側の部屋を見て回った。風呂は大浴場の様になっていて、露天風呂もあった。当然、混浴ではなく男女別々で風呂は用意されている。次に行った洗濯場は風呂場の隣にあり、洗濯機や乾燥機が数台置いてある。利用日数が多い場合や、汚れた物をすぐに洗いたい場合はここを利用するのだそうだ。
「これで一階は一通り説明したな。じゃあ次は地下だ」
「地下もあるのかよ」
地下へ実際に行くことはなく、その場での説明になったが、地下は確かにあるらしい。地下は主に遊技場になっていて、体育館の様な運動できる広い部屋の他に、ビリヤードやダーツなどをできる部屋、カジノ部屋なんてのもあるらしい。
「あと、このペンションには隠し階段があって、さらに地下へと行けるんだって」
「さらに地下ねぇ」
やはりそこへ行くことはなく、これもその場での説明になったが、その場所は確かにあるらしい。隠し階段を下りた先には部屋があり、その部屋の中は実際の世界よりも時間が進むのが遅くなっているとのことだ。なんでも、仕事の成績を上げたいと思って訓練のためにこのペンションを利用する者が多いことを見かねたある天使が、冗談半分で作った部屋なんだそうだ。嘘くさい存在のその部屋の名は『精神の時と部屋』というらしい。どこかで聞いたような名前だ。
「…ちなみに、その『ある天使』ってのは?」
「五十嵐さん」
「やっぱりか…」
五十嵐さんは、開発課という所に所属する天使で、変な物を主に発明していると聞いてはいたが、まさかペンションの設計にまで手を伸ばしているとは思わなかった。
「俺も、その部屋のことは五十嵐さんから聞いただけなんだけど、その部屋は完璧な失敗作で、入ったら最後、次元の狭間に閉じ込められるんだってよ」
「ハッ。アホくさっ」
柊は、天使の言うことを一笑に付した。
天使の言うことがどこまで本当かは分からないが、とりあえず俺は悩んでいた。
もしマンガとかのセオリー通りに行くなら、この後主人公の俺の周辺で、その部屋は何かの事件に使われるはずだ。まぁ本当にその部屋があればだが、何かが消えたらその部屋を真っ先に疑う程度には、用心しておこう。
「あとは各自の部屋がある程度で、このペンションの説明は終わり」
俺が『精神の時と部屋』で起こり得る事件をシミュレーションしていたら、天使が言った。
「ねぇ天使さん。この後はどうするの?」
榎の質問に対し天使は「せっかく目の前には海があるんだし、泳ごうよ」と答えた。どうやら、合宿一日目は海水浴から始まるらしい。
「各部屋にはいろんな水着が用意されていると思うから、好きなの着て。それじゃ、着替えて海に集合ね」
天使が言うと、それぞれ自室に戻って行った。
部屋に戻ると、ベッドの上に置きっぱなしにしていた疑問があった。一体俺のこの荷物はどうやって準備したのか、という疑問が。誰かに訊こうにも、他のヤツの部屋が分からない。それに、今のタイミングで他の部屋に行って、そこが天使以外の部屋だったら事だ。仕方ないので、もう一度疑問のままに置いておく。
水着を探すと、部屋のクローゼットの中に綺麗に畳んで置いてあった。ダイビングで使うような本格的なモノや競泳水着、何故かフンドシもあったが、俺は普通にサーフパンツタイプの水着を選んだ。水泳キャップがこれ見よがしに何枚も置いてあったが、それは被らない。クローゼットの中をさらに探すとアロハシャツが出てきたので、俺はそれが綺麗かどうか臭いを嗅いでまで確認し、上に羽織る。
着替え終え、しっかり鍵を持って部屋を出た。
「アレッ?水泳キャップは被らないのか?」
ペンションの玄関前にいる天使に訊かれた。天使の恰好は水着ではなく浴衣のままで、その手にはビーチパラソルとビニルシートがある。
「てっきりトレードマークの代わりに被ると思って置いておいたはずなんだけどな」
やはりあの水泳キャップは、天使の仕込みだった。
「誰がんなモン被るかよ。つーか、何でお前は浴衣のままなんだよ」
「楸さんは泳がないから、このままでいいんだよ」
「泳がないんじゃなく、泳げないんじゃないのか…?」
「鍵は食堂のテーブルにでも置いておけよ」
天使はそう言い残し、そそくさと出て行った。
俺は、天使に言われた通りに食堂のテーブルに部屋の鍵を置くと、そのまま倉庫に向かった。天使の持っていたビーチパラソルとビニルシートが気になったからだ。アレがあいつの私物とは思えない。おそらく倉庫から見つけ出したものだろうと推察し、俺も欲しい物があるので、倉庫へと向かう。
倉庫の中に入ると、先ほど説明された時には思わなかったが、棚ごとに食料品や日用品、雑貨などと種類分けされていて、きちんと整理整頓されているのが分かる。おかげで、俺が欲しかった物は容易に見つかった。
浜辺に行くと、ビニルシートの上でビーチパラソルの作る影に入って横になっている天使がいた。俺は、海へ行く前にすることがあるので、一度天使の横に座る。
俺が海へ行くための準備を始めようとしたら、柊が飛んできた。その格好は水着ではなく、さっきの服のままだ。
「おい、楸。どんなに探してもアタシの部屋に水着がないんだけど」
柊は、地面に足をつけることなく、そう言った。
着替えていないのは、泳ぐ気が無いからではないらしい。
「え?柊も水着になるの?」と天使は寝そべったまま、意外そうに訊く。
「…どういう意味?」
「いやあ、てっきり柊は水着NGなのかと思っちゃグフッ…」天使は、柊の高速落下を腹に受け、最後まで言い切れなかった。そして、柊に腹の上に立たれたまま、苦しそうに喋った。「…あの、ごめんなさい。あのあれ…榎ちゃん。榎ちゃんの部屋にあるヤツ、それ使って」
柊は、すぐに飛んでペンションに戻って行った。
「お前…バカだろ」
俺は、腹を抑えて「ごほっ、ごほっ」とむせ返る天使に言った。俺はしっかりと自分への注意事項を守っていたから、余計なことは何も言わなかった。仮にあそこで「榎の分の水着のサイズが柊に合うのか」などと言っていたら、俺も今頃むせ返っていただろう。
「ああ。さっきのは楸さんがバカだった」
天使は素直に認めた。
俺は、気を取り直し、海へ行くための準備、さっき倉庫から見つけてきた浮き輪を膨らませる作業を始めた。
「椿も浮き輪が無いと泳げないのか?」
「っせ。ちげよ」
俺は息も切れ切れに、ニヤついた面で見ている天使に言った。結構大きい浮き輪だから、ポンプのような道具もなく膨らませるには、かなりの体力がいる。
浮き輪を膨らませ終えるころには、俺は肩で息をしていた。途中何度も諦めかけたが、立派に膨らんだ浮き輪は俺の期待通りの大きさになり、諦めなくて良かったという達成感を覚えたものだ。
俺が浮き輪を膨らましたのは、これが無いと泳げないからではもちろんない。苦しい思いをしてまで浮き輪を膨らませたのは、海の上で尻を浮き輪の穴にはめて乗り、のんびり波に揺られようと思ったからだ。
早速海へ行こうと立ち上がり、俺は上着を脱ぐ。
「おっ待たせぇー」
俺が海へ行くためにパラソルの外へ出ると、水着に着替えた榎と柊が来た。
榎の声がした瞬間、寝ていた天使はガバッと勢いよく起き上がった。
「合宿やって良かったぁ」
と天使は、水着でやってきた二人を、もしかしたら二人じゃなく榎だけかもしれないが、それを見て、感慨深げに言った。
榎は、縞々のビタミン色のビキニでビーチサンダルを履き、手にはタオルを持っている。柊は、黒一色のワンピース型の水着でビーチサンダルを履き、手にはタオルと大剣を待っている。
二人はビニルシートの上に、それぞれの手荷物を置いた。
「どお、椿君。似合ってる?」
榎は自分の水着を見ながら、俺に訊く。俺は榎の水着よりも柊の持ってきた剣の方にどうしても目が行くが、「おぉ。海で水着だもんな」と応えた。
俺の返答が気に食わないらしく、頬を膨らまして不満げな榎に、天使は「すっごくカワイイよ榎ちゃん!」と言った。誉められた榎は嬉しそうに微笑んだ後、「バーカ!」と俺の脛を蹴り、俺の浮き輪を奪って逃げた。
俺が蹴られて痛む脛を抑えていたら、天使は立ち上がり、そのまま俺と柊から離れて行った。何をする気なのかと思って見ていたら、天使は、浴衣の帯紐より上を脱いだ。天使が上半身裸になったことで、久しぶりに天使の羽が見えた。以前一度だけ引っ張った時に弱点だと判明してから、天使はずっと羽を隠していたので、不意に訪れたチャンスに俺は、その羽をもう一度引っ張りたい衝動に駆られる。
しかし俺が動き出す前に、天使が意味深に笑い、口を開いた。
「榎ちゃんの水着姿は眼福そのものなのに、それに引き換え、柊はなんだよ。普通 黒の水着って言ったら色っぽい、大人の色気が漂うもんだろ。なのに、お前は色気ゼロ」
そう言って天使は笑った。
「あのバカっ…」
天使の発言は、自殺行為としか思えなかった。
俺は、身震いするほどの殺気を感じ、恐る恐る柊の方を見た。
柊は、静かに怒りを燃やし、持って来ていた剣を手に取った。そして、鬼の形相で天使に飛びかかり、剣を振り降ろした。ズザァッという激しい音とともに砂煙が舞う。
明らかに自業自得。天使は斬られた。俺はその亡き様を見届けようと、砂煙が晴れるのを待った。
しかし、煙が晴れても天使の遺体は、そこにはない。
どこに行ったのかと辺りを見渡すが、どこにもない。
「はっはっは!バカ共めぇ。上を見ろ!」
死んだはずの天使の声が上空から聞こえた。俺と柊は、太陽の眩しさを手で隠しながら目を細めて声のした方を見ると、そこには無傷の天使がいた。
「俺が本気を出せば、ざっとこんなもんよ」
そう言って油断している天使に、柊がまた斬りかかった。
今度こそジ・エンド、かと思ったのだが、天使は消え、柊の剣は空振りした。今度は砂煙が出なかったのでギリギリ見えたが、消えたと思うほど速く、天使は動いていた。
「ちっ!」
悔しさに顔を歪める柊は、俺の横に降りて来て、羽を閉じた。予想以上の天使の動きに、一度体勢を整えるつもりなのだろう。
「ったく、まだ話し中だろ。まぁいい。さっき椿が言った通り、俺はバカだった!本気を出せば柊に追いつかれることも、斬られることもないってのになあ!」
俺と柊のことを見下ろしながら、天使は「あーっはっはっは」と高笑いした。
「本気って、羽を出しただけだろ…?」
「いや、違う。アレはちょっと厄介だね…」
俺がボソッとこぼした疑問に柊が答えてくれた。
「なんか違うのか?」
「楸は普段、羽を出さずに飛んでいるだろ。アレはアタシや他の天使にはできないのよ」
「は?アイツ 普段、そんな高度なことしてたのかよ?」
驚きを通り越し呆れ、そう訊いたら、柊は首を横に振った。高度なことではなかった。
「技術どうこうじゃない。羽を動かさずに飛ぶなんてのは、楸しかできない。てゆうか、他のヤツはしようとも思わない」
「つまり、アイツが出来るのは周りから浮いているからか?」
「ハッ。そうかもね」と柊は微笑した。「とにかく、楸はめんどくさがって普段は羽を出さずに飛ぶ。そんで、羽を出して飛べば速くなる。スピードは、アタシより遥かに上だ」
柊は最後、悔しそうに言った。
「その通ーり!」また天使の声が降って来た。「悔しかったら俺を捕まえてごらんなさい」そう言って遠ざかる天使は、たしかに速かった。速さを見せつけるように、ワザとグネグネ進んだり、緩急をつけたりして逃げて行く。
俺が天使の意外な特技に驚いていると、柊が声をかけてきた。
「なぁ椿。アンタ、楸の羽を引っ張りたいって前に言ってたね?」
「ああ」俺は頷く。
日頃からムカつく言動の多い天使の弱点が羽だと知っているのに、引っ張ろうにも羽は浴衣で隠れている。そして、男の浴衣を剥ぐという行為をイメージするとその気持ち悪さから尻込みしてしまい、いつも実行に移せないでいた。
「だったらアタシに協力しな」
そう言うと、柊が耳打ちをしてきた。こそばゆい感じがするが、黙って聞く。
「楸はたしかに速いけど、捕まえられないワケじゃない。さっきは怒りで少し取り乱したけど、今度はアタシが〝読心術″でアイツの動きを先読みする。だから椿は、楸を追いかけ続けて、アタシが捕まえる為の隙を作りな」
俺は、それにも黙って頷く。柊の作戦に了解した。
「よし。んじゃ作戦名『夏の浜辺でスイカ割り~スイカの代わりは楸の頭で~』開始よ」
無駄に怖い作戦名が付けられた作戦が、スタートした。
俺は、天使のことを捕まえる為に、砂浜でも速く走れて高く跳べる自分を強くイメージする。そして願う。「天使の羽を引き千切りたい」と。
俺は〝願いを叶えやすくする力″を使い、天使を追いかけた。
作戦通り、柊が直接攻撃を仕掛けることはない。俺の行動と天使の行動を先読みし、天使の隙を窺いながら、ここぞという時を待つ。
そして、俺と柊の二人に意識を払う天使が、跳びかかってきた俺の攻撃にのみ気を取られた瞬間を狙い、柊は動く。
「うぎゃあ!」
叫び声が海に響いた。
しかし、天使のではない。俺と柊のタッグで追い詰めているが、天使はギリギリのところで何とか逃げていた。つまり、天使は叫び声を上げるような状態にはまだ陥っていない。
叫び声の主は、榎だった。
榎は、俺の浮き輪を奪って海へ行き、俺のしたかったことをしていた。しかし、その浮き輪は俺の身体ならピッタリサイズでも、小柄な榎には大きすぎた。降りることもできず、何とか浮き輪にしがみ付いていたが、波で揺られた拍子にでも落ちたのだろう。
浮き輪の穴からスッポリ海に落ちてパニックになっていた榎のもとへ、天使がいち早く駆け付けた。天使は、「もう大丈夫だよ」と声を掛けて榎を落ち着かせると、浮き輪に掴まらせ、浮き輪を引っ張って浜辺へと連れてきた。
「あ…ありがと天使さん」
両手と膝を砂地につけて荒い呼吸をし、榎は言った。
「いいえ」
天使は、榎に笑いかけた。そして倒れる。後ろから近付いた柊に、頭を殴られたからだ。榎を助けたことで刑が軽くなったらしく、柊の剣で斬られることはなかった。
「かっ。ざまあみろ。つーか、榎もバカだな。なに溺れかけてんだよ」
俺は、天使と、俺の浮き輪を奪って溺れかけたバカな榎を嘲笑した。そして倒れる。柊に頭を殴られたからだ。榎のことを笑った罪らしい。
「バーカ!」
榎は、倒れている俺に浮き輪を投げつけ、砂を蹴りかけた。
榎と柊は、俺たちを残してペンションへ帰った。
男二人を残し、日は暮れていく。
海に沈んでゆく夕日が綺麗だが、それを綺麗と思うほど余裕がないことが残念だ。
ダメージを回復した俺と天使は、起き上がり、ビーチパラソルとビニルシートの片付けをしてからペンションに戻った。
「着替えてこいよ、椿。食堂で待ってるから」
ビーチパラソルとビニルシート、浮き輪は天使が倉庫にしまっておいてくれるというので、お言葉に甘え、俺は水着から着替える為に部屋に行って着替えを持ち、風呂場へ行く。シャワーだけ軽く浴びて着替え、すぐに天使の待つ食堂へ行った。
「あの二人は?」
予想はしていたが、食堂に榎と柊の姿はない。
「たぶん、どっちかの部屋だろ」
「ちっ。面倒だな」
食堂を出て、天使と一緒に柊の部屋の前に行く。ノックをしても返事が来ない。ここにはいないらしい。仕方ないので次に榎の部屋の前に行き、ノックをすると、「なんだよ」と怒気をはらんだ柊の声の後に、榎の「なんだよ」という不機嫌な声が返ってきた。
その声が二つとも怒っていたので、俺と天使は顔を見合わせ、部屋の前で謝ることにした。
「悪かった。機嫌直せよ、榎」
「ごめん柊ぃ」
しっかりと互いの相手に謝ると、柊だけが出てきた。
柊は、天使の腹を殴ると「許す」と言った。許したヤツのすることではないだろ、と思い見ていると、柊が俺を部屋の中に突き飛ばした。
よろけながら入った部屋の中には、さっきとは別の水着を着た榎がいた。身体や髪の毛が乾いているので、シャワーを浴びた後、わざわざまた水着に着替えたらしい。
オレンジ色を基調として、スカートの付いたビキニを着た榎は、一目で分かるくらい不機嫌な顔をしていた。
「どお、椿君。似合う?」
「おぉ。あれだな……海じゃなくても似合ってるよ。カワイイ」
下手なことは言えないと思い、言葉を選んだ。
何とかなったようだ。一目で分かるくらい、榎の機嫌は良くなった。
「ありがと。えへへ」と榎は満面の笑みを浮かべた。「ほら。着替えるから、もう出てって」
「おお。じゃ、食堂で待ってる」
「うん」
あれで良かったのか、と女心の複雑さや面倒くささに頭を掻きながら榎の部屋から出ると、中の様子を盗み聞いていた柊に軽く頭をペシッと叩かれ、天使には思いっきりビンタされた。すぐさま天使にビンタし返した。
そのまま俺と天使がケンカになりそうなところを、柊に「うるさい」と強く咎められた。
俺たち三人は階段を下りて、食堂に行く。
食堂で榎を待つこと数分。
「お待たせしました」と言って、榎は来た。長いテーブルで、最初に座った席に着く。
時計は五時を回っていた。俺たちは今から夕飯の準備に入る。思えば早めのランチでカレーを食べて以降、何も食べていない。他のヤツがどうかは知らないが、俺は腹が空いていた。早く料理作りに入りたいが、その前にやることがある。
「榎ちゃんも来たし、ペア決めしますか」天使が言った。
やることとは、料理をする時のペアを決めることだ。料理は二人一組でやり、それぞれが全員分を作ることになっているのだが、まだそのペア決めをしていない。
「どうやって決めるんだよ?」
「ちょっと待て…」と天使は浴衣の袖口に手を入れ、「はい、これ」と四本の紐を取り出した。四本のうち、二本の先は赤くなっている。
「最初は公平に俺が決めようと思ったんだけど、柊がダメって言うからクジにします」
天使がそれぞれの前に紐を差し出していく。それを榎、柊、俺の順で引いていく。残った一本が天使の分になる。俺の紐の先は赤くなっていた。
「あっ、私 椿君と一緒だ」
「なんだよ。アタシは楸とか」
ペアは俺と榎、天使と柊になった。人間チームと天使チームに。
天使は、唇を尖らせ明らかに不満そうだが、運が悪かったと受け入れた。
俺としては天使以外のヤツであれば誰でも良かったから、榎で良かった。
俺たちは食堂の隣のキッチンに来た。
広い食堂の端と端に、ペアで分かれた。お互いの作るモノが何か分からないよう、後の楽しみにするためにと、榎が提案したからだ。
「別に時間制限はないけど、あんまり長過ぎるのはダメね。あと、最初に言ったけど、そこの冷蔵庫の中だけじゃなく、隣の倉庫にあるモノも好きに使っていいから。それじゃあ、レッツ・クッキン!」
天使の号令で、料理作りを開始した。
ちなみに、合宿の定番と思われるカレーは、「定番過ぎて面白味に欠ける」という天使の気まぐれで禁止となった。俺としては今朝カレーを食べたので、禁止にならなかったとしても作る気はなかったが。
何を作るにもまずは米ということで、俺は倉庫に行って一升炊きの炊飯器と精米を持って来た。米を研ぎ、炊飯器の電源を入れる。これで、ひとまずOKだ。
俺は一休みを兼ね、壁際に置かれていた丸椅子を二つ持ち出し、座る。もう一つの椅子には榎が座った。
「ねぇねぇ椿君。何作ろっか?」
俺が米を研いでいる間にキッチンに置いてあるエプロンを身に着けた榎が、訊いてきた。
「あー何だろ?卵かけごはん、とかか」
「もうっ!真面目に考えてよ」
「俺は至って真面目だよ。お前だって卵かけごはん食べたことあるだろ?あれはシンプルだけど、いやシンプルだから、卵と米 素材の味を醤油が引き立て、最高に美味しく感じることができるんだよ。」
「そりゃおいしいけど…。でも今は何か別のにしようよ」
その後、どんなに俺が卵かけごはんの魅力を説いても、榎は認めてくれなかった。空腹感から説得に力が入らなかったことが、唯一の敗因だと思う。
のんびりしていたら、お急ぎコースでやったご飯が炊きあがった。論より証拠ということで、俺は、冷蔵庫から卵を一つ取り出し、茶碗によそったご飯の中心に箸で穴を開け、その穴に卵を割り入れる。そこに醤油を垂らしてかき混ぜれば、完成だ!
「ほれ、食べてみ」
卵かけご飯を否定し続ける榎の口に無理矢理入れようと箸を向けたら、榎は意外にあっさりと口を開いた。
「うん。おいしい…」
「だろ」
俺は、榎にあげた残りを食べようとしたのだが、榎に茶碗と箸を奪われた。
「ストップ!」榎は、何故か取り乱している。「あの…こ、これでチャーハン作ってあげるから」
榎はそう言うと、冷蔵庫の方へ小走りで向かった。
冷蔵庫を開け、すぐまた閉めると、冷蔵庫横に置いてある脚立を出した。そして、脚立に乗り、また冷蔵庫を開けると、ネギとハムを取り出し、持ってきた。それを危なっかしい手つきで切り始める。切り終えた具材と俺から奪った卵かけごはんを、熱したフライパンに入れ、チャーハンを完成させた。
「はい。どうぞ」
俺は出されたチャーハンを、新しく出した箸を使って食べる。
「どう?」
「ん? んん…んん…うまい」
うまいとは言ったが、正直微妙だ。
榎の作ったチャーハンは、パラパラには程遠く、味も薄かった。薄いというか、榎は塩コショウなどでの味付けをしていなかった。だから、このチャーハンは、具が入った卵かけごはんを炒めただけなのだ。
「そうだ!みんなの分のチャーハン作ろっか」名案を閃いたかのように榎は言った。
「ん?んん。悪くないが、一升近い米をチャーハンにするのは面倒だろ。米はそのまま白米として食べて、何かおかずになるモノを作るか」だって、さすがにあのチャーハンは…。
「いいけど…何作るの?」
「あー何だろ。生姜焼きやチキン南蛮とか、そのへんでいいか。俺がそっち作るから、榎は付け合わせのサラダか何か作ってくれ」
「わっかりました!」
元気よく返事をし、榎は倉庫に行った。
俺は重い腰を上げる。あのチャーハンでは榎に任せるのは得策ではないと判断し、自分が作ると言ってしまった手前、後には引けない。
手を洗い、面倒と思いながら必要な食材を集めに行く。
持ってきた材料を使い、手の込んだものではなくオーソドックスな豚の生姜焼きとチキン南蛮を作った。どちらか決めるのを悩むくらいなら、柊もいるしということで、両方作った。途中、サラダに使う野菜を切り飛ばして地面に落としている榎が気になりはしたが、何とか俺も榎も作り終えた。
作り終えた時には、天使チームはいなかった。
大皿に盛り付けた豚の生姜焼きとチキン南蛮、炊飯器を俺が、サラダとチャーハンの残りを榎が持って、食堂に行く。
食堂の席には既に天使と柊が座って待っていた。
テーブルの上には、各自の席の前に皿や箸などといった食器類一式があり、大きな丸皿に乗った黄色い山のような物がひとつ置いてあった。その黄色い物の近くに、生姜焼きとチキン南蛮、サラダを置き、炊飯器は少し離して、チャーハンは天使の前に置いた。
「遅いぞ、椿」
天使は、自分の前にだけ置かれたチャーハンを気にしつつ、席に着いた俺に言う。
「ああ。つーか、その黄色いの何だ?」
「オムライス」
柊が自信満々に言うそれは、たしかにオムライスの様であった。中にチキンライスが入っているのが、卵焼きの隙間から見える。普通オムライスは卵焼きで包むはずだが、おそらく一升の米で作ったのだろう、この大量のチキンライスを包む術はなかったようで、チキンライスの上に数枚の薄い卵焼きを乗せている。
全員が席について、夕飯の時間が始まる。
「では、諸君。いた…」
「いただきまーす」と元気な榎。
「いただきます」と量が心配な俺。
「うまっ。この生姜焼き美味しいね。あぁ、いただきます」わんぱく柊。
麦茶の入ったグラスを上から持った天使が何か言おうとしたが、全員に無視された。柊に至っては若干フライングしていた。
「この生姜焼きは榎ちゃんが作ったの?」
「ううん。違うよ、柊さん。それ作ったの 椿君」
「へ~。椿、アンタ料理巧いんだね」
「それぐらいだったらな。オムライスも美味いぞ」
「ハッ。誰が作ったと思ってんのよ」
「じゃあ榎ちゃんはサラダ作ったの?」
「あとお前の前のチャーハン」
「楸さんの前の!」
天使は何を疑っているのか、ずっとチャーハンに手を付けていなかった。が、榎が作ったと聞いて勢いよくチャーハンの塊を口に運んだ。
「どうかな?冷めちゃったから、あんまりおいしくないかも」
「ん…?んん…んん…すっごく美味しいよ、榎ちゃん!」
天使は、榎のチャーハンを誉めた。一瞬、「あれ?」とチャーハンの出来を疑ったはずなのに、美味しそうに完食した。偉いな、と俺は少しだけ感心した。
夕飯は和やかに進んだ。多すぎると思った料理は、その大半が柊の胃袋に収められた。
夕飯の片付けは四人で分担してやり、すぐに終わった。
食堂の椅子に座って一息つき、後は風呂にでも入って寝ようと思っていたのだが、そうはいけそうにない。何故なら…。
「んじゃ、この後は俺と椿の特訓な」
天使が面倒なことを言い出したからだ。
「もういいだろ今日は。飯も食ったし、後は風呂に入って寝ようぜ」
「もういくない!これは合宿だって言っただろ。海で遊んで飯食って寝るって、旅行か!」
「……風呂にも入るけどな」
たっぷりと食休みを取った後、ペンション前の庭に出た。そこは芝生敷きになっていて、つい寝転がりたくなる。
夏と言っても海辺の夜は冷える。そのおかげで俺は、トレードマークのニット帽を被ることができた。
「それじゃ、まずは意思確認だ」横に並んで立つ俺と天使の前に、俺達と向かい合って立つ柊先生が言った。「楸。アンタはこれでいいんだね」
「ああ。どうせこれからも仕事してたら、嫌でも厄介事にも巻き込まれるでしょ。だったら転ばぬ先の杖、後悔先に立たず、備えあったら嬉しいなってね」
適当なことばかり言った天使は、包みを開けたアメを咥えた。
「ハッ。 じゃあ椿、アンタはどうなのさ?今からアンタら二人の特訓をすることについて、何か異論ある?」
「異論ねぇ…」もう寝たいってのはナシなんだろうな…。
いきなり聞かれても困るな。
天使は事前に考えていたかもしれないが、俺はその場で考える。答えは、簡単に出た。
「あー異論はない。天使の言う通り、厄介事に巻き込まれた時に困るしな。だったら俺も強くなりたい」
「ただ強くなりたいってだけか?」
「ああ。前は俺と天使の二人だけだったから自分の身一つで良かったけど、次は違うかもしれない。仕事の対象の人と一緒にいる時に襲われるかもしれない。そうじゃなくても、榎だってしょっちゅうついて来る。だったら、自分の身は当然、一緒にいるヤツ等のことも護れるくらいには強くならないとだろ」
柊に訊かれて、前のクソ共にやられかけた自分を思い出し、自分の一番望むことを考えたら、こういう答えになった。
「ハッ!上等!」
柊は満足そうに笑う。
「あっ俺もそんな感じ。俺も護るからね、榎ちゃん!」
「あ…うん。ありがと椿君。天使さん」
俺達三人から離れた場所で見物している榎に、何故か礼を言われた。まだ何も礼を言われるような事はしていないのに。これから助けた時に言う礼の前払い?
「じゃあ、二人とも強くなりたいってことでいいね」
「おう」
「はいよん」
天使は気の抜ける返事をしたが、これで特訓スタートとなる。
「あ、そうだ。忘れてた」
そう言って天使は、浴衣の袖口に手を入れ、そこから黒い手袋を取り出した。
「ほれ。コレ、前に言ってたプレゼントだ」
俺は天使から手袋を受け取った。
それは革製でも布製でもなく、不思議な感触のする手袋だった。
「これ何でできてんだ?」
「特殊素材」
「特殊って言えば説明つくと思うなよ」
「だって俺も知らないんだもん。それは五十嵐さんが作ってくれた手袋で、殴った時に痛くないようになっている。高温低温にも耐えれて、刃物なんかもある程度防げるってさ」
天使は、手袋と一緒に出した紙を見て説明した。
「ほぼ軍手だな」
「で、その手袋の名前は、強い(ストロング)グローブということで『ストロングローブ』略して『Sグローブ』だってさ」
「……名前変えていいよな?」
あまりにもダサいグローブの名前は、『Dグローブ』に変更した。ダークグローブ。ダークヒーローに相応しい名前に変えた。天使は「そっちの方がダサい」と言うが、聞こえないことにした。
不思議な感触のDグローブは、付けてみてもやっぱり不思議だった。付けているという感覚があまりない。試しに拳をぶつけ合わせてみたが、痛みを感じない。
「そろそろいい?」
柊は、俺がDグローブの感覚に慣れるのを待ってくれない。
「そういや特訓って何すんだ?」
俺は訊いた。が、「その前に、アタシが思うアンタらの闘い方について言っておく」と柊は話し始めた。
「俺たちの闘い方?」
「ああ。楸には前に軽く言ったけどね。まず、アンタらの闘い方は悪くない。けど、良くもない。付焼き刃のスタイルで勝てたのは相手が弱すぎたか、ただのマグレね」
勝利を無下にされたのは気分いいことではないが、それよりも「良くないってのは何でだ?」という疑問の方が大きかった。
「ハッ。簡単よ。いくら二人分の眼があっても、動くのが椿一人じゃ限界があるってこと。それに人間相手の場合、どうせ楸は姿を消すだろうから、椿一人が狙われるワケでしょ」
「たしかに…」天使がイの一番に姿を消したことを思い出す。
「ホントは二人が互いにサポートしあって、互いを動かすことができればベストなんだけど、楸は闘う気は無いんだろ」
「ははっ」
柊に言われ、天使は笑って誤魔化した。
「相手にばれずに意思の疎通ができ、その速度は普通に話すよりも速い。だけど動くのは椿一人。だったら、その椿の動きの質を高めるしかないでしょ」
「俺の動き?〝願いを叶えやすくする力″でか?」
「ハッ。そんなの要らないよ」そんなのって言わないで。
「じゃあどうすんだよ」
「簡単。ただ、互いを信頼すればいい」
「はぁ?」
俺は驚き、信頼しろと言われた相手を見る。
その天使は、このことを事前に知らされていたようで、驚きもせず、ニヤついた面で手をヒラヒラ振って来た。
「椿は、自分の考え…まぁアンタの場合は自分のイメージや願いよりも、時として楸の声を優先しなくちゃならなくなる。楸は、椿のイメージや願いを感じとり、椿の邪魔をしないよう椿の動きに合わせて指示を出す。つまり、自分の意志とは別に、相手のことを考えながら闘わなきゃならない。互いに足を引っ張らないで、それが自然にできるようになるには、相手を信頼するしかないでしょ」
「天使と仲良くしろってことか?」
「別に仲良くする必要はない。ただ、相手を信頼しろって言ってんの」
俺は天使と目を合わせる。
果たして信頼し合うことができるのか?
かなりでかい疑問だが、信頼し合っているかを確認して疑問を解消する為に、この特訓がある。そう思うことにする。
俺と天使が無言で見合っている間に、柊は髪を結んだ。後ろ髪を高い位置で縛っている。
「さて、説明はここまでだ。さっそくやるか」
柊が言った。
「やるって、何を?」
天使が訊いた。どうやらここから先については何も聞かされていないらしい。
「信頼し合うためには仲良くなれって方が簡単な気もするけど、アンタらにそれはムリそうだからね。そうとなれば実戦あるのみ!」
柊は両手の指の骨をゴキゴキッと鳴らす。その様はまさに、戦場を遊び場とする強者が喜ぶようだ。
「しゃーねぇな。やるか」
そう言うと、天使は俺のオデコに触れ、テレパシーの線を繋いだ。
全ての指の骨を鳴らし終えた柊は、足を前後肩幅に開き、戦闘の構えを取る。
「ルールは………面倒だから、アタシに一撃当てたらアンタらの勝ちでいいよ。ハンデとして、アタシは素手で、読心術も使わないでやる」
『ルールって、特訓にルールなんて必要なのか?』
『いんじゃない?勝てたら、俺たちは強いってハッキリ分かるんだから』
『それもそうか』
『それじゃ、行くぞ 椿。乗り遅れるな』
「ハッ!いくよ!」
こうして、俺と天使の特訓は開始された。
いくら柊が相手でも、ハンデが付いていて、その上2対1の状況は、楽勝に思えた。
特訓の決着はすぐについた。
いやぁ~柊は強かった。俺と天使は惨敗だった。
柊は、俺の攻撃は簡単に避けるし、避けないとしても軽くいなしてカウンターを狙って来る。相手は柊一人だけだから集中していれば天使の力を借りずとも勝てると思ったのに、俺の蹴りをジャンプして避けて更に頭上を飛び越えて背後をとる、なんて身軽さを見せるから、柊の動きを掴むことすら困難だった。
あとはこんな感じ。
『左から蹴りが来るぞ』
『だったらそれを受け止めて足を払う』
『わりぃ、上からだ』
柊は天使の最初の指示の後、すぐに蹴りを止め、高くジャンプしていた。そして、そこから俺の頭に柊のかかと落としが炸裂。
『しっかり指示しろよ!』
『椿もちゃんと動けよ!俺は避けてもらうつもりで言ったのに、その場から動かないし』
『だから、受けて柊の体勢を崩すって言っただろ!』
俺と天使の言い合い中、
「闘いの基本。相手から目を逸らすな!」
柊の脳天への拳骨でダブルノックアウト。
終了のゴングが、頭の中で響いた。
「ハッ。大したことないね」
バテバテで倒れている俺たちに向かって、息一つ切れていない柊が言った。
俺と天使は、榎にもらった濡れタオルで負傷個所を冷やした。
「これで分かったろ。アンタらが信頼して噛みあやぁ強いかもしれないが、それが出来ないとただ足を引っ張り合うだけだって」
「「は…は~い」」
これで、柊先生による特別レッスンは終わった。
特訓の後、傷が沁みるのを我慢して風呂に入った。
天使が大人しく風呂に入っているのが気になったので、湯船に浸かりながら訊く。
「てっきりのぞきでもするかと思ったが、しないんだな」
「あ?ああ…まぁな」とお疲れの天使は、天井を見上げながら応えた「のぞく価値もない柊っていうおっかないガードがいるからなぁ。露天風呂には立派な竹垣あるし」
言い方から察するに、のぞきができるならコイツはするかもしれない。
風呂から上がり、脱衣所に行くと、先に上がっていた天使が椅子に座っていた。海から上がった後、シャワーを浴びた時に見たその椅子は、たしか背中の所に窪みがあった。
「なんだそれ?マッサージ器か?」
「うんにゃ。羽を乾かすドライヤー」
なんでも、濡れた羽に温風を当てて乾かすことができる椅子だそうだ。
天使は風呂から上がる時、鳥みたいに身体を振るわせて羽の水気を取っていたが、それだけでは足りないらしい。やたら気持ち良さそうに椅子に座って羽を乾かしているが、羽の無い俺にその椅子は必要ない。
風呂上りにキッチンへ行き、俺は牛乳を飲んだ。天使はフルーツ牛乳を飲んだ。
使ったコップをキッチンの流しで洗い、片付けながら天使にこの後の予定を訊いたら、「特に決まってないけど、夏の夜だし、怪談話でもする?」と訊き返された。それを丁重に断り、自分の部屋に戻った。
部屋に戻ってベッドの上に横になってみたが、まだ眠れそうにもなかった。テレビも無い部屋で何をするか考えていたら、部屋がノックされた。
「椿くーん。天使さんの部屋でトランプしよ」
「…やだ」
榎の誘いを断ったら、またドアをノックされた。今度はさっきよりも音が大きい。
「つーばきくん。トランプ」
「……はい」
今度のノックは柊だった。何故か怒りのこもった声で柊が誘ってきたので、俺は断るに断れなかった。
部屋を出ると、高校のジャージを着た榎と、黒いパジャマを着た柊に案内され、天使の部屋に行った。
「夏の夜の定番の怪談大会は椿と柊に拒絶されたから、大トランプ大会ぃ!」
天使の部屋には、風呂前も後も同じ、浴衣を着た天使がトランプを持って待っていた。どうやらこの大トランプ大会は怪談大会の代わりに開催される物のようで、怪談大会は柊にも断られたらしい。つーか、榎は怪談大会でも良かったのか?
円卓と椅子四つを準備し、大トランプ大会は始まる。
大トランプ大会は、ババ抜きから始まった。ババ抜きでは天使が一番に上がった。次に榎。柊が三位で、俺がビリ。俺から隣の柊へと、ババは一度も移動しないで終わった。一度も動かないのはおかしいと思い 柊を問い詰めると、やはり柊は〝読心術″を使っていた。
大トランプ大会において、読心術禁止令が布かれた。
読心術禁止令が布かれた状態で、もう一度ババ抜きをした。結果は柊が二位に上がり、榎が三位になった。俺と天使の順位は変わらない。二回とも一番に上がった天使は上機嫌で、第二回の結果を見届けずに「お酒飲む人ー?」と訊いて、倉庫へと行った。戻って来た時、また俺がビリなのを知ると、更に機嫌を良くした。
大トランプ大会三回戦は、神経衰弱になった。天使は缶チューハイを呑みながら、俺は日本酒を呑みながら、神経衰弱は行われた。榎は呑めない、柊は呑まないと言ったので、俺と天使のみ、神経を更に衰弱させるハンデを負って勝負に臨んだ。
神経衰弱の結果は、柊が一位、俺が二位、榎が三位、天使は脱落となった。
天使は酒に弱かった。呑むと言って持ってきた五本の缶チューハイを、一本と半分呑んで、寝てしまった。
「おい。コイツどうする?」
「ハッ。ここは楸の部屋なんだし、ベッドに放っておきな」
柊の指示で、俺は天使をベッドに放った。ベッドのバネが軋んだ。
大トランプ大会第四回戦は、大富豪になった。三人なので物足りないが、開始された。
開始されてすぐ、中止になった。柊が天使の残した缶チューハイを呑んだからだ。
柊は、天使の残した半分のチューハイを呑むとすぐに赤くなり、おいおい大丈夫か、と心配して見る俺と榎をよそに、次々と残りの缶チューハイにも手を伸ばした。
その結果、壊れた。
「はははっ。ひ~さぎちゃ~ん。ふふっ」
酔った柊は、榎にベタベタと絡み始めた。
「おい。大丈夫か?柊」
「ハッ。うっさいよバカ。アタシを誰だと思ってんの」
心配してやったのにバカにされた。
「それより榎ちゃ~ん。あっちでお話しましょ」
「えっ?うん、いいよ」
あっちとはどっちなのかと思ったら、こっちというかそこだった。柊はその場から一歩も動かず、その場で榎と話し始める。
「何のお話しましょっか?お菓子の話?美容の話?恋の話にしましょっか」
「う…うん」
「アタシも言うから、榎ちゃんも言ってね。アタシの好きな人はね…」
「ちょ、ちょっと待って柊さん!そういう話は私の部屋に行って、女の子同士でしよっ!」
榎が慌てて止めると、「…は~い」と柊は手を上げた。
「じゃあ、椿君。おやすみ」
「おう。おやすみ」
「歯ぁ磨けよ!夜に爪は切るな」
変な忠告を残した酔っ払い柊を連れて、榎は自室へと行った。
残された俺は、トランプを片付け、天使に薄い毛布をかけ、残った酒を持ち、天使の部屋を後にした。部屋を出る時には、天使に掛けた毛布が落ちていた。
自室に戻り、残った酒を呑んで、俺も寝た。
これで、合宿一日目は終わった。
楸 合宿二日目(夜)
あれっ?一日目終わった?
なるほど。夜の記憶が途中でないのは、俺が酔い潰れちゃったからなんだな。てゆうか柊は壊れ過ぎ。
それにしても、やっぱり振り返ってみても分からないな…。
あーでも、これって二日目の出来事だし、ちゃんと二日目まで見ないと。
てことで、二日目の朝へゴー!




