雷雨は、黙し語らず
激しい雨の音。
雷が、雲から地へ走る音。
落ちたらしい雷が空気を震わせて、その衝撃を受けた何かがガタガと鳴る音。
煩いほどの自然の雑音に、マリアは目を覚ました。
見上げる天井は滑らかな白色の石造り。
見知らぬそれに、今居る場所を確認すべく起き上がろうと体に力を込めようとするが、痛みが身体中を走ってそれを拒絶する。
動かせない体を横たえたまま、マリアは視線を巡らせた。
壁は天井と同じく、白色の石造り。
直ぐ左にある壁には、高価な硝子で作られた窓が、カーテンの隙間から覗いている。
カーテンの大きさから考えて、マリアの体が一つ、十分に飛び出せそうな程だが、その窓の向こうは暗く、雨が打ち付け、稲光が走っている。
離れた右側にある壁には、何かはわからないが植物の彫り物が施された深い茶色の扉が一つ。
家具は、足元の壁際に、木で作られた大きめの引き出し棚が一つと、枕元の直ぐ側に小さな引き出し棚が一つ。
枕元の引き出し棚の上には手桶が置かれてあって、その淵には布が垂れている。
背中に当たるのは、藁の寝台とは比べ物にならない程寝易い適度な固さのある寝台。
体を覆うのは、夏に使うには暑過ぎる厚手の羊毛布。
取り敢えず、記憶を辿る。
放牧中に雷雨雲を見つけて帰ろうとして。
一匹足りなかった山羊を探して。
灰色の獣三匹と対峙して、山羊の為に谷に落として。
山羊を捕まえたと思ったら、谷津波に巻き込まれて。
山羊を手放してしまって。
岩に乗り上げて。
そこから先の記憶が無い。
「……、……」
何処、ここ。
そう呟きたいのに、マリアの喉は何かが絡まったような掠れた不快な息を吐き出すだけ。
声が、出ない。
「ぁ、っ…ぇほっ、げほ、っげほ!」
無理矢理出そうと息を荒げれば、喉がヒリつき、激しい咳が内蔵を引っくり返しそうな勢いで出てくる。
一旦出始めると咳は止まらず、息が出来ない。
咳き込みながら、痛む体を押して壁際に向けて寝返りを打つと気休め程度に背中を丸める。
同時に背後で軋んだ音がして、人の気配が近づいてくる。
「大丈夫、直ぐに収まりますよ。
収まったら咳止めの薬湯を飲みましょうね、大丈夫よ」
かけられた声は初めて聞く女性の声で、同時に毛布の上から背中をさすってくる。
背中を丸めた状態での咳は仰向けでするよりも大分楽で、背中をさする手の助けもあってか、少しずつ咳の間が開いて息が出来るようになっていく。
息苦しかったせいで自然と溢れた涙で顔はグシャグシャで。
咳のせいなのか痰が絡んでいるせいなのか、喉から出る息は濁り掠れた嫌な音を出す。
顔を枕に押し付けるようにして涙を拭ってから、ようやくマリアは振り向いた。
マリアの背中をさすっていたのは、薄い茶色の髪の、見知らぬ女性だった。
服は白い布をゆったりと使ったもので、袖は長く袖口に向けて広がっているから家事には適さなそうだ。
首元はしっかりした詰襟で、立った襟には扉に彫ってある植物の刺繍が銀色の糸で施されている。
ベルトの代わりに銀色の編み紐で胸下辺りを縛っていて、その紐には金糸の房がついた銀色の玉飾りが揺れる。
足元は見えないから服の丈はわからない。
服に沿って下ろした視線を顔に戻すと、女性の顔には年齢による皺が多く刻まれている。
顔だけで判断すれば、マリアの倍くらいは軽くある歳だろう。
マリアを覗き込んでくるのは目尻の下がった優しげな目で、収まる瞳は、煌めく薄い灰色。
銀色だ。
マリアが、自身の髪以外で、銀色を初めて見た瞬間だった。
ふと、自分の髪の毛の存在を思い出して、だるい腕を動かし頭に触れる。
ベールが無い。
そう言えば、髪を編み込んだ時の手触りも無ければ、頭皮が引き攣る感覚も無い。
しかし、紐か何かで纏められているらしく、寝台に散らばっている様子は無い。
髪が、晒されている。
マリアは慌てて毛布で頭を隠した。
「あら、どうしたの?」
毛布の中で首を横に振るが、声は出ない。
マリアは顔だけ出して女性を見上げる。
「…こ、え……で…なっ、ぃ…。
…か…み……か、くす…」
「あらあら、すごい声…風邪で喉が炎症を起こしているのね。
薬湯を飲んで寝れば治りますよ、安心しなさい」
毛布越しにマリアの頭を撫でる手は優しく、しかしゆっくりと毛布を外してしまう。
「髪も、隠す必要はありませんよ」
「りゅ、で…ん……や…」
「あらあら」
首を横に振るマリアに、女性は困ったように笑うばかりで。
「それは困ったわねぇ…」
「?」
何故、女性が困るのか。
「だって、ここは…」
首を傾げたまま見上げていれば女性が言葉を繋ごうとしたところを、扉を叩く音が遮った。
「巫女長様……薬湯をお持ちしました」
続いて扉越しに若い女性の声が届く。
「ありがとう、お入りなさい」
「失礼します」
入ってきたのは、マリアと同じくらいの年齢の女性で。
手には、陶器の器を乗せたお盆を持っている。
しかし、マリアが注目したのはそこではない。
入ってきた女性の髪。
肩に触れるか触れないかの辺りで切り揃えられたそれは、くすんでは居るものの、紛れもない銀色。
先程から銀色ばかり目に入るここは、何処なのか。
嫌な考えがマリアの頭を過る。
「先程の続きですけれどね…貴女が今居るここは、銀竜都の龍殿の巫女寮なのよ」
マリアの考えを感じ取ったのか読み取ったのか、巫女長と呼ばれた女性が、それはもうきっぱりと、しかし申し訳なさそうに言い切った。
「………」
沈黙する部屋の中、雷鳴が落ちる音と雨が窓を打ち付ける音だけが、ただ響いた。