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皇龍后龍  作者: 紅猫
第一章 ~村~
8/14

全ての水に、今願う

 カラリと晴れ渡った真っ青な空。

 短かった春はいつの間にか終わり、南東の方角――黄金の島の方から来る暑い風が牧草地を吹き抜けていく。

 マリアと、おばさんの子である男の子――ジュダは、牧草地の奥の高台から放牧されている羊と山羊を監視していた。

 濃緑の草が生い茂る広い草原は森に面していて、マリアとジュダがいる高台にかけて緩やかな斜面になっている。

 空には白星が夏の強い光を放つ。

「あっついわぁ…」

 今被っているベールは新しい物だ。

 春の感謝祭の一件で紛失したベールは、帰ってくることはなかった。

 ペンダントと同じく、母の形見の一つだったベール。

 そのベールに似ている生地で作ってあるはずなのだが、今のベールは風を通さないのか比べ物にならないほどの暑さを保っていて。

 何度ベールを投げ捨てたい衝動に駆られたかわからなかった。

 暑い風怨めしさに、それが吹いてくる南東の方角を見れば、その空には輪郭のしっかりとした雲が少しずつたち昇っている。

 遠くに見えるそれは、少しずつ、だが目に見える速度で成長を続けて。

 迫ってきているように見えなくもない。

「…今日は早めに戻るわよ」

「なんで」

「昼から雨が降る」

「……どのくらい?」

「滝雨に、雷のおまけ付き」

「よし帰ろう、早く帰ろう」

 ジュダは雷が苦手だった。

 大きな音を伴う稲光は皇龍の怒り、と言うおばさんの言葉を信じているらしい。

 ジュダが立ち上がると一緒に、白と茶色のフサフサした見事な毛並みが可愛らしい犬も立ち上がり、羊達を見つめて臨戦態勢をとる。

 あの祭りの後に貰い受けた牧羊犬だ。

 早く追い立てたくて仕方がないと言い出しそうな勢いで羊の群れを見つめている犬と、これから雷を降らせるだろう雲を見上げて戦々恐々としているジュダ。

 その差に笑ってしまいながら、マリアは手にしていた山羊追い棒を握りしめ、もう片手で人差し指と親指を輪にすると口に含む。

 息を思い切り吐き出せば、甲高い口笛が牧草地に響き渡り、羊も山羊も、それに釣られて顔を上げる。

 羊と山羊から集まる視線を合図に、二人と一匹は高台から駆け出した。

「私、山羊!」

「了解!」

 羊と山羊は、それぞれ別の厩舎があり、この広い場所でそれぞれで集めて帰る。

 さらに、その頭数を数えると言うのが非常に重要で、数え間違えると言うのは許されないし、足りなければ探しに行かなければならない。

 山羊は数は少ないが森に入り込むことが多く、羊は数は多いが群れから離れることがほぼない。

 どっちもどっちで、面倒なのだ。

 二人は駆けながらそれぞれが担当する方の頭数を確認していく。

 監視している間も数えてはいるが、いつの間にかと言うこともある。

 案の定、山羊の数を確認したマリアは、それはもう特大の溜め息を吐き出した。

「山羊、一匹足りない。

羊はカインが纏められるし、ジュダ一人で帰れるわよね?」

「おう、行くぞカイン」

「ワンッ」

 ジュダと犬の声にマリアは頷くと同時に山羊追い棒を投げ渡す。

 ジュダの手が棒を受け取るのを見届けて、マリアは方向を変えた。

 ジュダは牧羊犬のカインを連れて羊と山羊の群れを目指し、マリアは一人森の中へ。

「狼に気を付けろよな!」

「はいはーい!」

 後ろ手に手を振るが、まともな返事などしない。

 マリアは、未だに、狼を見たことが無かった。

 見たことの無い獣をどう気を付ければ良いのだろう。

 ジュダが言うには、犬に似ているらしいが、牧羊犬のカインとは似てもにつかないらしい。

 意味がわからない。

 それよりも今は姿を眩ました山羊の方が先決だ。

 居なくなっていたのは所謂常習犯と言う奴で、探し当てる場所はいつも決まっている。

「また塩谷、かなぁ…」

 森を抜けた先には渓谷が一つ走っている。

 山脈から流れる雪解け水が削って作り上げた渓谷には岩塩が剥き出している箇所が多数存在し、そこから村の人間にそのまま塩谷と呼ばれていた。

 羊よりも野生に近い山羊は山の崖や斜面を登り降りしやすい足をしている。

 一度見つけて味をしめてしまったらしいその山羊は脱走する度に岩塩が突き出す崖で見つかるのだ。

 しかし、適度ならまだしも、塩分の過剰摂取はあまり良くない。

「繋ぐしかないか」

 森に入り込むと木陰は涼しく、吹き込んでくる風もその熱を幾分か減らしているようで、肌を撫でるそれの心地好さに息を吐き出し、同時に呟く。

 脱走する山羊や羊の首輪に縄を結んで行動範囲を狭めるのは、最終手段だ。

 麻紐などの植物由来の縄は噛みきられてしまうため、鞣し革を使った革紐を用いる。

 基本的に放し飼い放牧をするここの厩舎に、戒める物があっただろうか。

 マリアの記憶には無かった。

 しかしその前に、取り敢えず山羊を見つけ出さなければどうにもならない。

 知らない人間が入ればまず間違いなく迷う森を、迷うこと無く渓谷に向けて進む。

 下草を掻き分け、小枝を潜り抜け、木の根を飛び越え、積み重なった岩を登る。

 小高い岩山の頂上に立つと、眼下には植物一本生えない渓谷。

 切り立った岩の壁に挟まれた川はこの季節、雪解け水で水嵩を増して急流になる。

 それが山中のせせらぎのように少なく、さらにその流れには押し固められた雪の塊が浮いていた。

「塞き止められてる…」

 高山地帯がようやく春を迎える雪解けのこの時期、頻発するのが雪崩だ。

 その雪崩が雪解け水の通り道であるこの渓谷を塞ぎ、流れを塞き止めることが度々あった。

 少ない水量と、それに乗って流れてくる氷雪の塊は、それを示すと同時に、この渓谷に木が生えない理由である自然現象の前触れでもある。

「早いとこ、探さなきゃ…」

 渓谷の外であれば危険は及ばない、が、山羊は渓谷の中にいるはずで。

 マリアは目を凝らした。

 暗い灰色の、切り立つ岩壁。

 岩塩を含む層が幾筋も走り、白く浮いて見える。

 対岸ではなく此岸の岩壁を見下ろし岩塩層を視線でなぞっていく。

 マリアの居る地面に程近い一本の岩塩層に、薄茶色の何かが一つ。

 探していた山羊だった。

 そこまで続く足場を探しながら渓谷に沿って、再び走り出す。

 足場は難も無く見つかった。

 が、その足場に灰色の何かが蠢いて、山羊に近寄っていく。

 山羊の方は灰色のそれにまるで追い詰められるように足場の悪い方へ悪い方へと跳んでいく。

 灰色のそれは一つではなかった。

 少なくとも、三つは見える。

 それは、決して良いとは言えない足場を、時折崩しながらも確実に山羊に近付いている。

 何かはわからない。

 けれど、山羊を追い詰めているのは疑いようも無い。

 マリアは手近にあった太めの木の枝を折ると、それを手に渓谷の岩壁を下り始めた。

 人一人がギリギリ歩ける幅の足場は、岩塩を採掘するために村の人達が削って作った人為的な物だ。

 山羊を追い詰める灰色の何かは、獣だった。

 初めて見る。

「何、これ…」

 マリアの声に、最後尾にいた獣の一匹が振り向く。

 四つ足で、灰色の毛並みに、フサフサした尻尾。

 狐をすこし大きくして骨張らせたような顔。

 ギラつく光を宿した灰色の目は、マリアを真っ直ぐ睨み付けてくる。

 両目が前に向いてついていると言うことは、肉食の獣なのだろう。

 体格は牧羊犬のカインよりも大きいようだが、毛並みは悪く、痩せこけているようにも見えて。

 聞こえてくるのはグルグルと言う低い喉鳴り。

 即席作りで持ってきていた棒を構えると、さらに獣に向けて歩み寄る。

 村に広まった棒操術、当然マリアも護身術として身に付けていた。

 こんなところで役立つとは、などと考えながらも獣に棒先を向けて構え続ける。

 獣は前足を踏ん張って瞳には警戒色を浮かべ、低い喉鳴りを続ける。

 チラと見れば、山羊は追い詰められた先の出っ張った小岩にようやく乗っているような、ギリギリの状態だった。

「どいてくれる?」

 一応言葉をかけてみる。

 しかし、獣は鼻頭に皺を寄せ、牙を剥き出し、喉鳴りを大きくさせた。

 山羊の足は生まれたばかりのように震えている。

 立っているのがやっとなのだ。

 猶予は、無かった。

 棒を握りしめ足場を確認しながらさらににじり寄ると、獣の攻撃範囲に入ったらしい、獣は狭い足場の地を蹴ってマリアに飛びかかった。

 棒操術は棒の先と後ろの両端を使う。

 まず構えた先端で殴り、その惰性の流れを利用して棒を回転させるように動くと、踏み込みながら後端でもう一打食らわせる。

 二打(ふたうち)と呼ばれるその型は、棒操術の最初に習う、基本中の基本の型だ。

 それを、獣の動きに当て嵌める。

 一打目で、まずは宙空にある獣の前足を払う。

 滞空中に崩された平衡は、簡単には戻せない。

 二打目は、踏み込んで薙ぎ払うように。

 一打目と同じ軌跡を描き惰性の力を利用することで、一打目よりも強くなる二打目は、一打目で横向きになった獣の背中に綺麗に食い込んだ。

「キャウンッ」

 どこか情けない鳴き声を上げて、獣は渓谷へ落ちた。

 その鳴き声に、それまで山羊に集中していた残りの獣二匹が振り向く。

 山羊と残る獣から目を離せないマリアが、落ちた獣を視線で追うことはない。

 下から岩が崩れる音が何度か響き、水に大きめの何かが落ちる音を最後に静まる。

 渓谷は岩だらけで、深い。

 水が大量に流れていれば助かる可能性もあったかもしれないが、今はそれが無い。

 渓谷底に直撃すれば、まず助からないだろう。

「あと、二匹…」

 獣の腹に棒が入った後味の悪い感触が、手に残っている。

 しかし、飼っている山羊と目の前の知らぬ獣を天秤にかければ山羊に傾くのは至極当然で。

 マリアは棒を握り直した。

 振り向いた二匹は、先程の獣と同じように全身を低く構え、既に臨戦態勢を整えている。

 今度は二匹。

 二打は、軌跡が一本であることから、対象物が一つである時のみ有効な型。

 他の型を、と体の記憶を頭の記憶として変換し辿る。

 しかし、その前に。

 二匹の獣はマリアに向けて細い足場を駆け出した。

「っ…!」

 前を走っていた一匹は地を蹴って飛び掛かり、もう一匹は地を走ったまま向かってくる。

 二段の攻撃に、マリアの体は自然と動いた。

 前にある先端を下後ろへ引く縦回転させ、後端が前へ来る速度を利用して飛んでくる獣を頭を叩く。

 一打(ひとうち)の型、天下(てんげ)

 上から下へ、空にあるものを地へ叩き落とす、一打だけの型だ。

 叩き落とされた獣は、足を狙うように地を走ってきていた獣の真上に落ちた。

 重なりあうように潰れた二匹を、今度は渓谷へ向けての横回転を利用した二打目で放り出す。

 天下と同じく一打の型、下天(げてん)

 一打目の天下と対になる型で、横回転を利用して地にあるものを宙に浮かせたり、払い飛ばす型だ。

 二打目を食らった獣二匹は、先に落ちた一匹と同じような情けない声を吐いて宙を舞う。

 程無く、岩を崩す音が何度かして、水に落ちる音が二つ、届いた。

 ようやく下を見る。

 渓谷の細い流れに、獣が三匹、横たわっている。

 遠目でも、獣達の体があらぬ方向に曲がっているのがわかる。

 彼らの命の巡廻を、自らの手で早めてしまった。

 理由はどうあれ、彼らの今生を絶ってしまったのだ。

 マリアは、胸の中央で拳を握り、目を閉じた。

「アル・ティア

オウ・ウィス

アル・リフ・レタン・ファルス」

 命を水に流す時に、決まって唱える言葉だ。

 渓谷の流れは海に繋がっている。

 水が少ない今、肉体はしばらくこの場所に残るだろうが、生を終えた命は、巡廻のために流れる水に乗って外洋へ出て皇龍の下へ還る。

 人は肉を食べる。

 時折、完全な菜食者もいるが。

 マリアは菜食者ではないから、勿論食べる。

 羊も、山羊も、鹿も、鳥も、兎も、猪も。

 肉にするためには当然、締めなければ――殺さなければ――ならない。

 その作業は決まって川辺で行う。

 命を水に流すために。

 そうしなければ、魔物が命の回収に来る。

 実際に、魔物が来るのだ。

 山の中や森の水辺でない場所で動物が死んだりすると、魔物が何処からともなく飛んでくる。

 鳥の姿をした、鳶よりも少し小さいくらいの真っ黒な魔物だ。

 その魔物は、竜と戦う魔物のように攻撃手段は持たないが、命を回収する能力を持っているらしい。

 回収されてしまった命は、その鳥の魔物によって黒の国に運ばれ、新たな魔物になると言われている。

 命が見えるわけではないから半信半疑なのだが、鳥の魔物は存在する。

 そして、もし新しく生まれる魔物が強いものであれば、竜との戦いは激しさを増すだろう。

 村に危険を及ぼす要因は少ない方がいい。

「ちゃんと流れて行ってよね」

 最後に一言告げて、阻むものの無くなった足場に視線を戻す。

 山羊はいつの間にか足場に帰ってきていて、何事も無かったかのように岩壁の岩塩を舐めていた。

「……全く、もう…」

 沸き上がる感情を押さえながらも八つ当たり気味に山羊に歩み寄る。

 塩に夢中な山羊の側で屈み込むと、前足二本と後ろ足二本を片手ずつで捕まえ、山羊の腹に頭を潜らせ立ち上がる。

 足は捕まえたまま、肩掛けにするように山羊を担いだところで、マリアはようやく気がついた。

 地鳴りと共に、前方から、マリアが恐れていたものが迫る。

「うそ、っ…」

 大きな氷雪の塊や自ら削り取った岩をこれでもかと飲み込んで膨れ上がった、壁の如き轟流。

 遮るもの全てを飲み込み、谷壁を広げる自然現象。

 谷津波。

 マリアが山羊に気を取られていた間に迫っていたそれは、瞬く間に一人と一匹を飲み込んだ。

「っげほ、ぅ…ぐっ」

 辛うじて浮かび上がるが、冷たい水を多量に飲み込み、内から外から体温が奪われていく。

 山羊は波の壁に拐われた際に手から離れ、既に濁流に消えていた。

 今や岸に変わった谷の淵に何とか近寄ろうと、マリアは荒れ狂う流れの中で足を動かした。

 薄い生地で出来た夏服と言えど、布地の広いエプロンワンピースは水を吸って体に張り付き、動作範囲を狭め。

 氷水とも言える水流はその刺すような冷たさでマリアの四肢を麻痺させ。

 荒れる流れに乗る氷雪と岩はマリアの肌を擦り、手足を打ち、背中を殴り、間を置かずに責め立てる。

 ようやく岩壁に泳ぎよると、掴まれそうな岩を流れる先に探すが、悴んだ腕では狂う水流の中で体を支えられない。

 体ごと岩にひっかかるしかないが、津波に流されず谷壁にあるままの岩など早々無い。

 それでもある程度距離を流れれば速度も少しずつ緩くなり、同時に削られずに岩を突き出したままの岩壁が見え始める。

 水流の勢いに乗って、岩にぶつかりながらも悴み震える腕を叱咤して何とか乗り上げる。

「っ、はぁ…っ」

 震える体を岩に横たえたまま、上流を振り返る。

 谷津波が流れる速さは非常に速く、既に村の森は影も見えない。

 水を吸った服は重い上に冷たく、夏の暑い風は谷津波に運ばれた氷雪で冷やされた風によって押しやられて一吹きも来ない。

 今は冷たさで痛覚も麻痺している。

 しかし、身体中に打撃を受けた覚えはあるから、服を捲れば打撲傷や擦過傷だらけだろう。

 荒れる流れの中で無理矢理動いたせいか、顔を上げることも億劫なのだが、それでも顔を上げ自分の体を返り見ると下肢は両方共に満足で、変な方向に曲がってもいない。

 岩や氷雪が掻き混ざる流れの中をこの状態で助かったのだから、運は良いだろう。

「ここ…何処ら辺、だろ…」

 塞き止めていた雪解け水を全て吐き出したのか、その水位を下げ始めた谷津波を横目に見送りながら、寒さと体力消耗に堪え切れず、マリアは意識を手放した。

津波や雪崩による塞き止めダム等、自然災害の表現を致しましたが、全ては作者の想像の産物であり、実際経験されている方々にはご都合主義と読める内容かと存じます。

後書きで申し訳ありませんが、ご容赦頂きたくここで申し上げます。

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