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皇龍后龍  作者: 紅猫
第一章 ~村~
4/14

舞う銀、靡く金

 シエンがアンナに案内された場所は、舞台から少し遠いながらも広場の全体を見渡せるとても見晴らしの良い場所だった。

 一件の家から色違いの衣装を着た四人の娘達が飛び出して舞台袖の方へと走る中に、ベールで頭を隠す娘が一人。

 群青色がとても美しいベール。

 ふと、そのベールから顔が覗いて、視線がかち合い交わった。

 初めて見た、娘の瞳はまるで夏の空のように鮮やかで突き抜けるような青色の瞳。

 それが、ふわりと、笑った。

 初めて見たはずの娘の瞳に見覚えがあるような、強烈な既視感にシエンは襲われていた。

 ふと、視線を広場から外してアンナを見る。

 あまりにも強過ぎる既視感に言葉が出ない。

「どうかしましたか?」

 首を傾げて見上げてくるアンナに、シエンは口をつぐむ。

 まさか、そんなこと、あるはずがない。

 自らにそう言い聞かせて、再び舞台へ視線を戻せば舞台袖から現れる四人の娘達。

 先頭を切って行く青い衣装の娘に、自分でも意識を集中してしまっているのがわかる。

 舞台の中央に膝を折り、胸の前で手を合わせて俯く群青のベール。

 その後ろに三人の娘が同じように膝を折って控える。

 雑音雑踏で満たされていた広場が、舞台を中心に、一気に静まり返っていく。

 一拍置いて、ベールで隠れていた顔が上がり、娘の空色の瞳が、空を射抜くように見上げ、同時に音楽が鳴り出す。

 その瞳の冷たさに、シエンの背筋が粟立った。

 先程の鮮やかな空色は、まるで凍り付いた湖の薄氷の如く。

 横笛は全てを凍てつかせようと吹き荒ぶ風。

 太鼓は痛いほど冷たく打ち付ける雪の礫。

 弦楽器は寒さのあまり噛み合わない歯鳴り。

 それらの冷たい音楽も相まって、娘の舞が夏も近付く晩春の広場を冬に戻してしまう。

 凍てつく風も、荒ぶる雪も、耐え難い寒ささえも従える、冬の精が、そこにいた。


 凍えるような錯覚に陥る冷たい舞を見つめながら、ふと違和感を覚えて、シエンはさらに舞に見入った。

 冷たさの中に、何か温かいものがある。

 少しずつ娘の舞が静かになっていく。

 耳を支配していた冷たい音楽も緩んでいく。

 同時に、後ろに控えていた緑の衣装の娘が立ち上がりそれまで踊っていた青い衣装の娘を少しずつ押しやっていく。

 先程の舞とは打って代わって温かく陽気で優しい動きのそれは音楽を少しずつ変えて、青の衣装の娘をさらに舞台の端に押しやっていく。

 緑の衣装の娘が舞台の中央を陣取る頃には、青の衣装の娘は後ろに控えて跪いていた。

「冬から、春へ…季節の移り変わりを舞で表したものです。

…厳しい冬は、優しい春に押しやられる」

「……あの娘が思う冬は…ただ厳しく冷たいだけではないのだな…」

「?」

 隣でアンナが首を傾げるのが気配でわかるものの、シエンは口を閉ざして舞台をただ見つめた。

 後ろに控えて俯く群青のベールが、荒い呼吸を整えるように上下しているのが見える。

 春の舞は短く、直ぐに赤い衣装の娘が立ち上がって共に舞い始めた。

「これから来る夏ですね」

 この国の夏は春に混ざるようにいつの間にか到来していて、いつの間にか過ぎ去り、長い秋が来る。

 そんな穏やかな季節の代わってか、この国の冬は人間が住む国の中で一番厳しい。

 さらに朱色の衣装の娘が立ち上がって舞い始める。

 秋を表すらしい朱色の衣装の娘は、涼しげな秋風を纏うようにゆったりと舞う。

 三人の舞は互いに寄り添っては離れ、違うような舞に見せながらも時折綺麗に揃って観衆を惹き付けた。

 青い衣装の娘は控えたまま、動かない。

 三人の舞などそっちのけで、シエンは青い衣装の娘を見つめた。


 春、夏、秋の舞に、冬の出る幕は無い。

 マリアが後ろに控えたまま音楽は終わり、全く違う音調が流れ出す。

 静かなその音楽は弦楽器だけで演奏される。

 最後は、自然の全てに感謝する舞。

 優しい春が、短い夏が、穏やかな秋が、厳しい冬が、巡ってこそ生かされる命。

 四人並んで同じ舞を揃えて踊る。

 本来ならば特定の誰かに対して踊ることの無いその舞を、マリアは名前も知らない男に向けて踊っていた。

 あの時、あの男が支えてくれなければ、マリアは何処かしらを怪我していたかもしれない。

 もっと悪ければ足を挫いて踊れなくなっていたかもしれない。

 ぶつかったと言うのに捕まえることなく広場へ向かわせてくれた、そして、言った通り見に来てくれた。

 貴方のお陰で、今、こうやって踊っていられるのだと。

 ただその感謝を伝えたい心のまま、マリアは最後まで踊り続けた。


「あー、楽しかった!」

 踊りきった高揚感に満足しながら、着替えるために借りた民家から広場へ出る。

「マリア姐さんだけですよ、楽しかった、なんて言えるの…あたし、緊張で何も覚えてない…」

「マリアさんの冬の舞は鬼気迫っていて、やっぱりすごかったですね」

「うんうん、背筋がゾクゾクした!」

 観客も疎らになった広場で話し合う。

 話しながらもマリアはそれとなく広場を見渡して、人を探していた。

 その人は直ぐに見つかった。

 村の集会所脇の影になる細道に、外套を被った身長差のある影が二つ。

 マリアは前置きも無く走り出した。

「お先にー!」

 急に駆け出したマリアに、残された三人は呆気に取られたままその背中を見送ることしか出来なかった。

「旅人さーん!」

 マリアが声をかけて走り寄る。

 しかし二人は振り返らずに広場を背に、路地の方をむいたまま。

「……旅人、さん?」

 さらにマリアが近寄り外套の裾を引っ張る。

「あぁ?」

 振り向いたその顔は、マリアが探していたそれではなかった。

 フードから溢れる髪は赤銅色。

 フードの影でありながら鋭利な刃物のように危うい光を放つ右目は赤褐色。

 左目は無い。

 額の方から顎にかけて刻まれた古傷が左目を通って、目を潰している。

 漂ってくるのは、酒精が強い果実酒の香り。

「ごめんなさい、人違いだったみたい」

 慌てて頭を下げて後退るマリアの腕を、その男が引き留めた。

 マリアが顔を上げれば、値踏みをするような視線が絡む。

「お前、さっき踊ってた女じゃねぇか…?」

「私、人を探しているので…」

「んだよ、俺達が一緒に探してやるって」

 ヘラヘラ笑う隻眼の男のもう一方の腕が小さい方の人間に伸びる。

 そのフードの下にあったのは、丸々と太った鼠のような男の顔だった。

「べ、べべベールなんてやめれば…ももっと売れると思うっす」

「お前にしちゃ冴えてるじゃねぇか」

「うっす」

 吃り口調の小男のずんぐりした手がマリアのベールに伸びる。

 これに危機感を覚えたのはマリアの方で、ベールを外されないように慌てて押さえるが、その腕も隻眼の男に捕まってしまう。

「ちょっ…引っ張ったら痛いからっ!!」

 無遠慮にベールを引っ張る小男の手に、ベールを留めている髪留めが軋む。

 腕での抵抗は出来ない。

「いいい意外と、しっかりついてるっす…」

「痛いったら!」

「うるっせぇなぁ…」

「っ!!」

 隻眼の男の声が一変する。

 低くなった声と共に隻眼の男の手が動き、マリアの腕を片手で捕まえ直し空けた片手で小男と一緒になって無理矢理ベールを引っ張り始める。

「ったく、きっつい髪留めだな…」

「いっ、た…やめてったら!」

 髪留めはさらに軋んで限界を訴える。

 男二人がかりで引っ張られ、髪留めと一緒に髪の毛を引っ張られる痛みにマリアの目には涙が浮かぶ。

「何をしている」

 後ろからかけられた声に、助けを求めようとマリアが振り向いたその時。

 同時に男達の手がベールを引っ張り、ベールを留めると同時に髪を纏め上げていた髪留めが、遂に弾けた。

 男の手に落ちるベールの下から現れ、一気に広がる銀色の髪は腰よりも長く伸び見事に波打つ。

その色に隻眼の男は驚きのあまりマリアの手を離し。

 せめてもの抵抗にと後退るようにマリアが入れていた力の反動で、バランスが崩れるその体を別の腕が抱き止める。

 マリアの体が簡単に収まってしまう体格差。

 見上げれば、フードの下から心配そうに揺れ煌めく瞳と視線が交わった。


 広がる銀色に驚きながら、シエンは倒れ込んでくる体を抱き止めた。

「旅人、さん…」

 シエンを見上げる瞳はやはり空色で。

 娘の髪の色も相まって再び襲われる既視感をなんとか振り払う。

 不安と恐怖で揺れる瞳をどうにか慰めてやりたくて、シエンは娘の頭を撫でた。

「とても良い舞だった」

 そっと表情を緩め一言告げ、顔を上げる。

 男達の視線はシエンに向くこと無く娘の髪を凝視していた。

「国色、しかも銀色…」

「ぎぎぎ銀色は、高く売れるっす」

「おうよ」

 非常に不穏な会話。

 腕の中で娘の体が跳ねるように反応する。

 その背中に腕を伸ばし娘を外套の中にくるんでしまう。

「大人しくその娘を寄越しな」

 外套の中で娘がシエンの服を握り締める。

 応じるように、シエンは娘を抱き締める腕の力を強めた。

「嫌だ、と言ったら?」

「奪う」

 男の片手には、いつの間にか鈍色の小刀が握られていて。

 逆手に持って構える姿は、戦闘慣れしているのか堂に入っている。

 対して、シエンが手を伸ばすのは腰に帯剣していた一振りの剣。

 しかし、この剣をこの場で見せて良いものかどうか。

 一瞬の迷いがシエンの抜刀を遅らせた。

「っ!」

 襲いくる凶刃に、シエンはマリアの足と背中を抱えて跳び退る。

 刃先が掠めたらしく、首元で外套を留めていた編み紐が切れてしまう。

 留め紐を切られ不安定な状態だった外套は、言う間も無く、風に拐われて地に落ちた。

 現れるのは、シエンの瞳と、背中の中ほどまである真っ直ぐな髪。

 その両方が光を浴びて煌めく。

 それに驚いたのは男達だけでなく、広場にいた村人までもがその動きを止めた。

「黄金の、髪…」

 隻眼の男が呟いた。

 その呟きが聞こえたらしい、腕の中で小さくなっていた娘が顔を上げて、シエンを見上げた。

「おう、ごん?」

「…初めて見た、か?」

 シエンの問いに、腕の中で娘が頷く。

 空色の瞳が好奇で輝いて、シエンの髪に娘の指が触れる。

 娘の指をするりと抜ける金の髪に、娘の瞳は一層輝きを増した。

「すごい直毛…いいなぁ…」

 緊迫した空気の中でシエンの髪の色ではなく髪質を羨ましがる娘に、苦笑が溢れる。

 その安穏とした空気を切り裂いたのは、隻眼の男だった。

「金に銀…今日はついてる」

 小刀を構えてシエンに飛び掛かる。

 同時にシエンが動いた。

 先程の一太刀は正確に急所を狙う太刀筋で、躊躇う余地は無かった。

 娘の足を地に下ろし後ろに庇うように立たせると、今度は迷わず剣を抜く。

 迎え撃つべく構えると、小男が驚くほどの力で隻眼の男を影に引っ張り込んだ。

「あああの剣はやばいっす!

龍騎士になんて敵うはずないっす!!」

「……ちっ!」

 裏路地の影へ走り去っていく二人の背中と足音を聞きながら、シエンは剣を鞘に納めた。


 剣が鞘に納まる一瞬にマリアが見たのは、刀身に刻まれた紋章。

 それは円を中心に左右に開く四対八枚の翼を象形化したものだった。

 白の国と黒の国の他、人間が住む国に仕える騎士団は全てがそれぞれの国色の竜を旗印にしている。

 故に、国の騎士達はその旗印から“竜騎士”と総称された。

 よく見れば旅人の服装は詰襟のしっかりとした作りで、肩には肩章が、胸元には勲章か憲章だろう飾りが揺れている。

 肩章から脇に回されている飾り紐は、マリアが初めて見た黄金色で綺麗に編まれ滑らかな光を煌めかせる。

 さらによくよく見れば左肩には、剣にあった紋章が金の糸で刺繍されたエンブレムが縫い付けてある。

 やはり見たこともない紋章だった。

「旅人さんは、別の国の竜騎士様…?」

 少なくともこの国、銀の国の騎士ではない。

 銀の国の騎士の旗印は、銀色の竜だ。

 四つ足のがっしりとした獣の体に波打つ銀の鬣、湾曲した鋭い嘴と鳥のそれに似た羽毛で覆われた一対の翼を持つ竜。

「騎士は騎士だが…竜騎士ではない」

「?」

 マリアは首を傾げるしかない。

 騎士だと言いながら竜騎士では無いと言う。

 ならば何なのか。

 見上げる顔は苦笑を浮かべるばかりで答えをくれる気配は無い。

 と、旅人が振り向く。

 その視線を追うと舞の最中に一緒にいた人が立っていた。

「シエン、貴方と言う人は…あれほど外套を脱がないようにと言ったのに…何をしているのですか、全く…」

 非難めいた女の声。

 何処か聞き覚えがあるような気がしながらもその顔は外套のフードで隠れて見えない。

「いや、あの……これは、だな…色々と理由が重なって…」

言い淀みながら外套を拾う男を見ていられず、マリアが前に出た。

 外套の女を真っ直ぐ見つめて、男を庇うように立ち塞がる。

「私が不注意で、それを助けてくれたの。

だから、この人を怒るのは筋違いだわ」

 外套の女は動かない。

 マリアと対峙したまま微動だにしない。

 目が合っているのかもわからない女は、一つ深い呼吸を吐き出して口を開いた。

「貴女、名前は?」

「マリア」

「「……マリア…」」

「…何?」

 ポツリと呟かれた自らの名前は二人分が綺麗に被っていて。

 取り敢えず、女に問いを返す。

 女は俯いたまま、顔は外套のフードで隠れていて見えない。

「……御両親、は?」

 その問いに、今度はマリアが俯いた。

「父は顔も知らない。

母は幼い頃に亡くなったから…もう、ほとんど覚えてない」

 事実だ。

 幼い頃は鮮明に思い出せた母の顔は、歳を重ねる毎に薄れ、最近では顔も声も思い出せない。

 あの歌だけが、マリアの中に残る唯一の母の記憶だった。

「龍殿には、行かないの?」

 女は続ける。

 マリアは溜め息を吐き出すしかない。

 それは、幼い頃から様々な人に言われ続け、辟易としていることで。

「龍巫女になって、龍殿にこもって何をするの?お祈り?赤子に祝福?懺悔聞き?

私が祈ったって皇龍に届くはずもないし、私が祝福したってされた赤子の運に影響を与えるはずもないし、私が懺悔を聞いたって懺悔した人の罪が許されるはずもない…でしょ?」

「皇龍が…」

「何?」

 それまで口を閉じていた男が、ポツリと呟く声を耳にして、マリアは振り向いた。

 至極真面目に酷く真剣にマリアを見つめてくる金の瞳と視線が絡む。

「皇龍が、お前の願いを聞き、叶えたら…龍殿に行く気になるのか?」

「は?」

 マリアは呆気に取られた。

 突飛な内容に思考が追い付かない。

 皇龍がマリアの願いを聞き、叶える。

 そんなこと有り得ない。

 何だかもう、溜め息しか出なかった。

「…この村から、離れるつもりは無いから」

 それ以上の答えはない。

 願いなんていっぱいある。

 さらに言えば、一番の願いはマリアが努力して叶えられるようなものではない。

 けれど、皇龍に願ったところで叶えてもらえるようなものでもない。

 否、正確には皇龍でもどうすることもできないだろうことを、マリアはわかっていた。

 収穫祭のせいか、裏路地を通ってきた風は昼間から酒精の匂いを乗せてくる。

 三人は立ったまま、言葉も無く、甘ったるい匂いを運ぶ風が吹き抜ける。

「……マリア…」

「何?」

 降ってくる男の呼び声に顔を上げると金の瞳が、やはり煌めいてマリアを見つめてくる。

「…………」

「………何?」

 続く言葉は無く、マリアは首を傾げることしかできない。

 言葉を待つ間も風が吹き抜ける。

 男の金の前髪が揺れ、時折額を露にして。

 その額には切り傷だろうか、縦に一本、薄ら赤い筋が走っている。

 その赤みに、マリアは背筋を凍らせた。

 先程の刃傷沙汰。

 男の外套の中に匿われたマリアは一部始終を見ていたわけではない。

 まさか、その時に切られたのだろうか。

「っ…額、切られたの?」

「ん?」

 激しい動揺に襲われる。

 男の肩を捕まえると、額の筋を見ようと精一杯の背伸びをしてみる。

 これに驚いたのは男の方で、あたふたと後退り、自らを捕まえるマリアを引き摺るような形で女の方に近寄っていく。

 額を手で覆い隠しながら、背を反らして抵抗する男にマリアはさらに顔を近付ける。

「こっ、これは生まれつきだ!」

 傷を隠す男のあまりに必死な姿にマリアは疑心を募らせた。

 調度良く居る知人らしい女に聞けばいい、と、マリアは男の肩を捕まえたまま視線を女に投げる。

「ねぇ…この人が言ってること、本当?」

 急に投げられたマリアの問いに、女は体を跳ねさせた。

 次いで二人に向き直る。

「私が会った時には既にありましたから」

 女の声は苦笑混じりで。

 女と男を何度も見比べる。

 額を隠して慌て続ける男とは対照的に、女は静かにマリアの方を向いている。

「そう、なら…良いけど」

 納得出来ないながらもマリアは男の肩を離し、地に足をつける。

 男は安心したように息を吐いて額から手を下ろし前髪を整えた。

「シエン…そろそろ行きましょう。

貴方の色で、人が集まってきました…」

 女が広場に背を向ける。

 言う通り、マリアが広場の方に目をやると祭りの見物客や村人達が揃って男を見つめている。

 男の顔に苦い笑いが浮かんだ。

「逃げるが勝ち、だな」

 その一言と同時に男は外套を着直し、先程切られた留め紐を結ぶと、その腕でマリアを抱き上げる。

 そして、駆け出した。

「ちょっ…えぇっ?!」

 人を一人抱えて運んでいるようには感じさせない速さと足取りで男は走る。

 それも、足の速さを意外と自慢に思っていたマリアが、並んで走れるかどうかの速さで。

 前を見れば、女も同じ速度で一定の距離を保って走っている。

「すまない、少し堪えてくれ」

「へ?」

 間抜けなマリアの反応に言葉が返ることは無く、マリアを抱える腕に力がこもり、外套の中に包み込まれる。

 視界は暗闇で覆われ、何も見えない。

 視界を奪われた不安から、マリアは男の服を握りしめた。

 と、次の瞬間、マリアを襲ったのは下の方へ体を引っ張られる強い力で。

 かと思いきや今度は内臓さえ浮かせるような浮遊感に襲われる。

 間髪入れず最後に襲ったのは、ベッドに飛び込んだ時のような衝撃。

 何が何だかわからないマリアは、耐えきれずに男の外套から顔を出した。

「なに、これ…っ!」

 男が走っていたのは村の中心部。

 しかし暗い裏路地ではない。

 そこは、屋根の上だった。

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