始めに、別離有りて
暖かい陽気が窓辺の母子を包む、昼下がり。
窓の外は延々と牧草地が広がり、その先に微かに村の中心部の家並みが見える。
母の膝に抱かれて窓の外の牧草地を指差し少女――マリアは母を見上げた。
「かあさま、おそといこ?」
我が子の申し出に、母は黒い瞳を揺らし、マリアの銀色の髪を撫でた。
「夜になったら、ね」
「……そんちょうさんが…いってたよ?
おおかみがでるから、よるは、でかけちゃいかん…って」
村長の恐ろしい顔を思い出し母の腕の中でマリアはしょぼくれた。
そんなマリアを母が笑う。
「狼を見たことがある?」
母の問い掛けにマリアは首を傾げた。
狼に気を付けろ、狼が出た、と話を聞いたことは何度もあるが狼がどんな生き物なのか、マリアは知らない。
一度も見たことがなかったのだ。
「ない」
頭を振る娘に母は笑みを深めた。
「狼はね、私が怖くて近寄れないの。
私の娘である貴方も、同じ匂いがするから怖くて近寄れないの」
「かあさまが…こわい?」
「そうよ。
他にも人間や家畜を襲う動物達は多くいるけれど、皆、私が怖くて近寄らないの」
何故なのか。
その理由を聞いてみたい衝動に駆られながらも、母の揺れる瞳を見てしまうと言葉は喉元で引っ掛かり、マリアの口から出ていかない。
「…でもね…一つだけ、私を怖がらずに襲ってくるものがある」
「?」
「…そのうち来る。
そうなったら…戦わなければならない」
母の首に下げられた青い雫の形をした玉の首飾りが、午後の日差しで煌めく。
その首飾りを握り締めて、抗えない未来をまるで見通すように。
「……かあさま?」
マリアの呼び声にハッとしたように我に返った母が、マリアを抱き締める。
強くきつく、それでいて優しく守るように。
「貴方は私が守るから。
あの人がくれた、大切な命だから」
「それって…とうさまのこと?」
初めて聞く父の話に、つい顔を上げて問い掛けてしまう。
そんなマリアに、母はただ笑顔を溢した。
「貴方には話していなかったわね…。
貴方は、貴方のお父様に運ばれて、私の元までやってきた。
貴方がお父様似なのは、そのせいね」
「マリア…とうさまと、おなじいろ?」
母の腕の中で、マリアは自分の銀色の髪をいじって見る。
緩く波打つそれは、母の癖の無い真っ直ぐな黒髪とは髪質からして違う。
「その髪の色も癖も、目の色も優しさも…貴方の全てが、私にあの人を思い出させてくれる。
ありがとう……あの人の色で、生まれてきてくれて…」
そう言って母はマリアを抱きしめる腕に少しだけ力を込める。
鼻腔を擽るのは、蜂蜜のように甘く柔らかい母の匂い。
そんな母に甘えるように、背中へ腕をまわして抱きつき、柔らかい胸に顔を埋めマリアは目を閉じた。
ふと顔を横に向けて目を開けば、目の前に胸の形に沿って真っ直ぐに伸び下りる母の黒髪が見える。
心無い村の子供に言われた事があった。
黒色を持つ母から国色を持つ子が生まれるはずがない、お前はあの魔女に拾われた子だ、と。
言われるたび、嫌われても構わないから母と同じ色が良かったと、マリアが何度願ったことか、母は知らないだろう。
国の名にある八色――黒、白、赤、青、紫、銀、朱、緑――は総じて“国色”と呼ばれる。
国色を持つ人間、生き物、植物はそれだけですべからくその国の吉兆と言われ、国直轄の龍殿に納められた。
ちなみに、皇龍の住まう島の名にある二色――黄、金――は“極色”と呼ばれ、この世界において非常に稀な色だった。
その中で、黒の国の国色である黒は他の国で“黒色”と呼ばれる。
黒色を持つ人間、生き物、植物はそれだけですべからく他の国の凶兆と言われ、忌み嫌われていた。
マリアが国色を持ちながら母から離れることなく居られるのは、マリアが銀の国の国色を持つのに対して母が黒色を持つお蔭であり、さらに村長を始めとする優しい村人達のお蔭だった。
「かあさまの、おうた…ききたいな…」
子供に言われて母に似たかったと思う自分と、母に言われて父に似て良かったと思う自分の、醜く揺れ動く心を隠したまま、マリアは笑顔を見せる。
対して母は呆気に取られてマリアを見つめた。
「…あのお歌、好き?」
「とってもすき!」
「そう…」
首を傾げる母に、力説するマリアは頬を膨らませる、がしかし、直ぐにその表情は一転し上目使いに控えめに母を見上げる。
「…ダメ?」
そんなマリアに、母は笑みを深めた。
「…一回だけ、ね?」
母から離れ小さな木の椅子に座り、膝に頬杖をついて、母を見上げ歌を待つ。
深い呼吸の一つ後、静かな歌声が響き始めた。
≪Harm,wers sece
Deal,wers vol
Al live lif t hert
Al widy t tear al lif tech
Se barn you inby turn
Wers sice
Merogly forth glad sece
You gat se tim
Ria edles too alif syea fiar
Wers sice
Merogly forth glad sece
Merogly forth, Shyen
Yelludy sharl Shien drag
Ow wis
Al lif Belsharlio sild t selfis≫
聞き覚えて共に口遊みながら、やはり母の歌声を聞きたいマリアの歌声は小さく、母の歌声に混じって消えた。
この歌を歌うとき、母は決まって窓の外の空を見つめて歌う。
父のために作った歌ではないと言っていた。
ならば誰のために作った歌なのか。
意味もわからない言葉で紡がれる歌。
遠いどこかにいる誰かのためなのだろうと言う事は幼いマリアにもわかっていた。
「かあさまは…ごめんなさい、ってダレかにいいたいの?」
歌い終えても空の彼方を見つめたままの母にマリアが歩み寄る。
その声でようやく我に返った母がマリアを見つめて、驚きからか目を見開く。
「どうして…どうしてそう思うの?」
「だって、かあさまのこえ、そういってる。
ごめんなさい、ゆるして…って」
「……そう…これは、謝罪の歌。
私を必要としてくれた人を拒んで…拒んでおきながら一緒に居ると約束して。
その人の孤独を知っていながら、結局その約束を破って…その人をまた独りにしてしまったことへの謝罪の歌」
母の顔は悲しみの色を深めて再び空の彼方を見つめて、そう漏らした。
それきり、母はこの歌を歌わなくなり、代わりにマリアが口遊むようになった。
赤い夕暮れが迫る空の下。
マリアは一人、立ち尽くしていた。
目の前には焼け落ちた自分の家。
良く知っている、良くしてくれている村人達がバケツを片手にリレーしてようやく消えた火。
消えたばかりで蒸気が上がる黒い柱が、微かな風で倒れる。
近所、と言っても牧草地を挟んだ先の家の女性が、マリアを抱き締める。
その恰幅の良い体で、マリアの視界から、全てを隠すように。
「魔物が二匹も…」
「片方は竜じゃなかったか?」
「まさか、そんなことあるはずねぇだろ!
黒は魔物の色だ…聖なる皇龍様に列なる竜が黒いなんて、聞いたこともない!」
「やっぱり、黒い色を持つ人間なんて…最初に追い出して置けば良かったんだ…」
「マリアちゃんに聞こえるだろうが!!」
消火作業で疲れはてた村人達が地面に座り込み、話している。
そんな会話の全てが、マリアには何故か遠くに聞こえて。
他人事のようにしか聞こえなくて。
自らを抱き締める女性の服を小さな手で握り締めて、女性を見上げて、マリアは首を傾げた。
「かあさま、は?」
ようやく出た声は、家にいた筈の母の安否。
マリアのターコイズ色の青い瞳が女性を真っ直ぐ見詰める。
「……っ」
女性は、言葉を詰まらせ、涙を流してマリアを強く抱き締めた。
「…ねぇ、かあさま…どこ?
やくそくしたの…かんむり…」
牧草地では動物達に咲く前に食べ尽くされてしまう白爪草と蓮華草。
マリアの手にはその花達をこれでもかと言うほどに編み込んだ花輪。
自らの色を忌み嫌う人達に気を遣って家から出ることの少ない母への土産。
色など気にするなと言ってくれた村長が、焼け跡に入っていく。
足腰は丈夫だが背骨を痛めてから手放せない杖で焼け跡を探り。
その杖先が何かを拾い上げて。
さらにその辺りを探って別の何かを拾い上げて、マリアの元に歩いてくる。
手に白い何かを持って。
女性の肩越しに見えるそれは、マリアが毎日見る見慣れたものだった。
「あの人のベールと、ペンダント…じゃな」
黒い髪を隠すための、黒い目を隠すためのベール。
肌身離さずつけていた、父の瞳の色なのだと言っていた雫の形のペンダント。
花輪の存在も忘れて、受け取る。
煤けたベールはただ煤けているだけで、特に焼けた痕はない。
しかし、母の優しく甘い匂いは無く、代わりに鼻をつくのは肉を焼き焦がしてしまった時のような、嫌な臭い。
「………かあさま…かあさま、っ!!」
女性の腕を振り解き、焼け跡に走る。
しかし、すぐさま村長の腕に捕まり近付くこともできない。
「近づいちゃいかん!」
真上から降る厳しい叱咤の声にマリアの体は跳ね上がるように反応し動きを止めた。
精一杯睨むように見上げれば、目に入ったのは、悲痛に歪む村長の顔で。
普段は無愛想で無表情で何を考えているのかわからない村長が、眉根を寄せて、眉尻を下げて、瞳を揺らしている。
体から力が抜けて、マリアは崩れ落ちるようにその場にへたり込んだ。
「…ゃ、あっ……ぁ…いやああああっ!!」
絶叫は受け入れがたい事実を拒絶し、しかしその事実を理解してしまった心は箍を外したようにマリアの瞳から涙を次々と溢れ出させていく。
ベールとペンダントを掻き抱いて、マリアの絶叫にも似た嗚咽が響く。
森から流れ込む風が焦げた空気を浚い、白いベールを靡かせ、ペンダントの青い雫を揺らし、マリアの銀色の髪を舞い上げ、花輪の花の香りさえ攫って、吹き抜けた。
「いやああああっ!!」
小さな寝室にマリアの叫び声が響く。
跳び起きれば、そこはようやく慣れ始めた新しい寝室で。
「あーあ…朝から、やな汗かいちゃった…」
木枠に干し草を詰め込みシーツを敷いたベッドから下りて寝巻を脱ぎ捨てる。
下着は肌にべったりとくっつき、窓から吹き込む風が体温を奪っていく。
胸元で、ペンダントの青い雫が揺れる。
「おいマリア!
早く支度しないと遅…ぎゃあああ!」
何の前置きも無くいきなり扉が開き、男が一人入ってきては、悲鳴を上げて出て行ってしまう。
朝の風でも引ききらなかった汗を布で拭き取ると、いつものエプロンワンピースを着込んで、小さな鏡を覗き込み、髪の毛をとかして纏め上げ、鏡の側に畳んでおいたベールを手に部屋を出る。
「ノックぐらいしなさいよ」
「起きてると思わなかったんだよ!!」
「私が祭りの日に寝坊するわけないでしょ?」
「…そりゃそうだけどさ!」
居候させてもらっている家の男の子は、まだ頬を赤らめたまま、納得出来ていないようで。
しかし、そんな二人のやり取りを聞き付けて、台所の方から恰幅の良い女性が出てくる。
「ジュダも、マリアちゃんも!
本当に祭りに遅れるよ!
マリアちゃんはきちんとベールを被って…今日だけは他所の人間も来るからね、特に気をつけておいで」
言いながらマリアの手にあったベールを取り、マリアの銀色の髪を隠すようにきっちりと被せてしまう。
髪留めでとめられたそれは、簡単にはずれないし外れない。
「私みたいな田舎娘が龍殿に引き取られるわけないわ、大丈夫よ」
「マリアちゃんはそう言うけど……この国の国色は、皇龍さまと竜の国の色の次に少ないからね」
不安げに眉根を寄せる女性に、マリアは笑う。
「そんな心配しないで、ね?
行くわよ、ジュダ!」
「ちょっ、まっ…!!」
笑顔を振り撒いて、男の子を置いてマリアが家から飛び出す。
目の前の牧草地を走りながら、振り向けば女性は玄関で大手を振っていて、男の子は慌てて駆け出すがマリアの方が速いために追い付かれることはないだろう。
女性に大手を振り返す。
「楽しんでおいでー!」
「はーい、行って来まーす!」
「一緒に行く約束だろーっ!!」
非難の声を上げる男の子を待つこと無く前に向き直れば家畜を囲う柵が迫っていて。
柵に手を着くと慣れたようにヒラリと軽く飛び越えて、住宅が密集する村の中心部の方へ、マリアは走った。
途中、走る砂利道を振り向く。
マリアを追いかける男の子の、さらに後方。
村外れの森へ続く道の先。
既に跡形無く整地されたマリアの家の跡には、あの日、母に渡せなかった白爪草と蓮華草が咲き乱れている。
前に向き直って走り続けながら、服の中で、胸の谷間に挟まれ揺れる青い雫を服の上から、マリアは握り締めた。
あの日。
母が亡くなったあの日から二十年が過ぎた。
マリアは今年で二十四歳。
美しい女性に成長していた。