母の歌、母の形見
白星の最後の足掻きで、空が赤く染まる。
反対側の空は、昇ったばかりの黒星が放つ闇が侵食し始めている。
マリアは独り、庭の東屋にいた。
ウルスラはマリアを落としたと言うことで巫女長に呼ばれたまま、戻ってこない。
マリアが見上げる巫女寮と教えられた建物は、三階建ての立派な石造りで、昼間はただ白かった壁を宵も間近の空色を映しながら庭の三方を囲い聳え立っている。
建物の無い側には高い壁。
ウルスラの背に乗った時、見えた水辺も対岸も、庭に降りてしまった今は見えない。
庭は四方を高い人工物で囲まれた正方形だった。
同時に空も四角く切り取られていて、酷く窮屈で。
村の見渡す限りの牧草地と彼方まで続く空とは、まるで違う。
四方からの圧迫感に、マリアは溜め息を吐き出した。
風が植物を揺らして、空へ抜けていく。
見上げる空は、白星と黒星が同時にあって、光と闇がせめぎあい。
空は、燃え上がるように赤い。
ふと、マリアは口を開いた。
《ハルム・ワーズ・セス
ディアル・ワーズ・ヴォル
アル・リヴ・リフ・ト・ヘルト》
溢れ出る掠れた声は、母の歌。
意味も解らぬ言葉の羅列。
旋律は変わらないはずだが、掠れて途切れるせいでどこか物寂しい。
マリアの記憶の奥深く。
追憶の空が、燃え上がる。
続きは歌えなかった。
口を開いても、声が出ない。
旋律も歌詞も、覚えているのに、歌えない。
「響け、我が歌。
届け、我が声。
全ての生ける命と心へ」
「……ウルスラ?」
「君が今歌った言葉の意味だ」
いつの間にいたのか、ウルスラが花木の向こうに立っていた。
東屋を囲む低い花木を避けて、道筋に生え広がる芝生を踏み締めて。
「何故、君がその歌を知っている?」
問い掛けながら、近付いてくる。
「……?」
マリアは首を傾げた。
マリアが逆に聞きたいくらいだ。
何故、ウルスラ――騎士――が母の歌を知っているのか。
東屋に着いたウルスラは、マリアの隣に腰かけた。
一拍置いて。
ウルスラは息を吸い込む。
《Al widy t tear al lif tech
Se barn you inby turn》
低い歌声が、響いた。
意味の解らない、言葉。
けれど、知っている。
何度も何度も口遊んだ、母の歌。
《ワーズ・シス
メログレイ・ファルス・グラッド・セス》
《Wers sice
Merogly forth glad sece》
釣られて、マリアの声が溢れた。
何度も声が掠れて途切れてしまうが、ウルスラの低い歌声が寄り添うように支えてくれる。
高い音域のマリアの歌声と、低い音域のウルスラの歌声。
重なった旋律は、風に紛れて、闇が濃くなる空に消えていく。
小節の合間の小休符で、二人は同時に息を吸い込んだ。
《Merogly forth,Shyen》
《ヨウ・ガット・シー・ティム》
しかし、二つの旋律はそこで分かれた。
ウルスラの歌は、母の歌の途中がすっぽりと抜け落ちている。
マリアは歌を止めて、ウルスラを見上げる。
ウルスラもマリアを見つめて、二人は同時に首を傾げた。
「ウルスラは、このうたのことばが、わかるの?」
まず最初に聞かなくてはいけない。
ウルスラは意味をわかって歌っているのか。
「竜なら誰でもわかる言語だよ。
同時に、竜と皇龍様しか発音出来ない言語だ。
皇龍様が、この言語で創世されたことから、創造主祝詞と呼ばれる」
言葉を失った。
竜にしか発音出来ない。
マリアの母は、竜だったのだろうか。
ウルスラのように、人の姿を取った、竜だったのだろうか。
では、マリア自身は。
マリアは、母の歌を発音出来ない。
と言うことは、マリアは竜では無いのだろうか。
と言うか、マリアには、自身が竜であるなど自覚も、それらしい思い当たる点も無い。
「今歌ったのは、大昔にいたらしい竜姫が紡いだ歌で、皇歌と呼ばれてる。
その竜姫が、皇龍様に贈ったのが始まりで、原曲は歌詞が今のものより長かったらしいけど……って、聞いてる?」
自分は、母の娘ではなかったのだろうか。
母と娘では無いと言うなら、色彩がまるで違ったのも頷ける。
しかし、それでは、マリアの本当の母親は誰なのか。
自分は、誰の娘なのだろうか。
「かあさま、の……うた、なの……」
思い出せるのは歌だけの母。
その母が、母ではないかもしれない。
マリアの考えは暗い方へ暗い方へと、坂を転がり落ちる小石のように、加速していく。
自分は、何者なのだろうか。
「マリアちゃんの、母親……名前は?」
「……しらない」
「?」
首を振るしかなかった。
既に記憶の底深く沈み込んで浮かびもしない母の記憶を探ってみる。
しかし、拾いあげることが出来るものは酷く少ない。
「きいたこと、ない……むらの、だれも、かあさまのなまえを、よばなかった」
マリアは、母の名を、知らなかった。
覚えているのは、夜の空を渡り闇を放つ黒星のような色彩と、あの歌だけ。
母の声さえ覚えていないのだ。
「名前を呼ばないって……村に住んでるんだろう?」
「むらのひとは、あのひと、ってよんでた」
「あの人呼ばわりって……」
愕然とするウルスラに、返す言葉も無い。
「かあさま……くろかった、から」
ウルスラは口を噤み、自らの髪を掻き回しそのまま頭を抱えて唸り出した。
かと思えば、何か思いついたらしく、輝かしい笑顔でマリアを見つめた。
「気になるから今から行こう、すぐ行こう!」
マリアの肩を掴んで力説するウルスラに、マリアは眉間に皺を寄せた。
「ウルスラ……なに、いってるの?」
「だから、今から君の母親本人に会いに行くんだよ。
黒い竜は御一方しかいない上に、皇歌の消えた歌詞を知ってるなんて……竜として、非常に気になる!」
嬉々として言うウルスラに、マリアはさらに表情を歪め、肩を掴む腕を振り払うと立ち上がった。
「もどったって、あえないわよ」
背中を向けて、呟く。
意図せず荒くなる口調に、釣られたように風が庭を荒ぶ。
「はい?」
背後から、返ってくるのは素っ頓狂なウルスラの声。
無意識のうちに、手が拳を作る。
「にじゅうねんまえに、しんでるひとに、あえるはず、ないじゃない」
振り返って言い放てば、ウルスラの目は驚愕に見開き、同時にその表情は凍りついた。
荒々しい風が、闇に染まる庭の草花を巻き込み巻き上げる。
理由のわからない怒りを堪えることもせずに、マリアは顔を逸らし、拳を握る力を強めた。
「……死んだ、って本当に?」
力のあまり震えるマリアの手を、ウルスラが掴まえる。
先程までの弾んだ音はなくただ静かな問いかけに、視線を合わせることもなく、マリアは俯いた。
「まものが、きて……いえが、もえて……ほねも、のこらなかったって、むらのひとに、おしえられたけど……でも、おぼえてない。
かあさまの……かおも、こえも、おぼえてない。
おもいだせるのは、くろかった、ってことと、さっきの、うただけ」
白星は既に沈み切り、庭には黒星の闇が下りている。
巫女寮の窓から漏れる明かりと常輝星ベルシャリオに照らされる庭。
植物の銀が微かな光を反射するその中で、一番光を反射するマリアの髪は、まるでそれ自体が輝いているように見える。
「……形見とかは?
母親が、身に着けてたものとか……何か残ってたりしないの?」
変わらず静かなウルスラの声と、触れる手を通して伝わる体温に、マリアの感情の波が収まっていく。
同時に、ふと、マリアは思い出した。
もう一つ、母のことで覚えているものがある。
「…………くび、かざり……」
「首飾り?」
ウルスラに掴まれていない、自由な腕で、巫女服の首元を寛げる。
そのまま、その手を隙間に入れ込んで、胸元を探れば、すぐにそれは指に引っかかった。
服に引っかからないように、そっと引き出す。
雫の形をした青い玉の首飾り。
青い石はベルシャリオの光を飲み込んで、柔らかく優しく揺れる光を放つ。
「本当に、亡くなってしまわれたの?」
マリアの手を掴まえていた手が離れた。
かと思えば、どさりと何かが落ちる音が後ろから聞こえて。
「……?」
マリアが振り返ると、そこには地に両膝をついて背を丸め、両手で顔を覆い隠し震えるウルスラがいた。
「本当に、巡廻されて……?」
震える声音。
目の前に座り、顔を覆う手をそっと退けて見る。
現れたのは、悲哀と絶望に染まる顔だった。
しかし、母を悼んでいるわけではないだろう。
それまでのウルスラの言葉は、母に会ったことがあるような音を含んではいなかった。
では、何故急に悲痛に歪んだのか。
理由もわからぬまま、マリアは、今日何度目かわからないウルスラの頭を撫でた。
「きゅうに、なかれても、こまるんだけど」
しかし、決壊した堰止湖のように、後から後から涙が溢れて止まる気配は無い。
青銀色の双眸が涙に揺れる。
泣き止んで欲しいのに。
マリアは自らの頭を掻きむしりたい衝動とウルスラの頭を掻き回したい衝動が込み上げる。
衝動を相殺させながら、深く溜め息を吐き出す。
ふと、ウルスラに執心、と言うかウルスラの立場や地位に酷く執心していた銀髪の女性が頭を過る。
「だから、なかないでったら。
わたしが、なかせたとか、いわれたら、たまらないわ」
「ごめん……ちょっと、許して」
震える声は、先ほどまでと打って変わって、酷く弱々しい。
マリアの言葉に笑って見せようとしているらしいウルスラの表情は、無理矢理作られた笑みのせいで歪み、酷く不恰好で。
感情が強く波打った余韻のせいか、マリア自身は何もしていないはずなのに罪悪感が沸々と込み上げてくる。
「……ちょっとだけだから、ちゃんと、なきやんでよね?」
「うん」
しおらしく俯いたかと思えば、マリアのスカートを握りしめる。
ウルスラの手は声と同じく震えていて力が入らないらしく、布地を握っては滑り握り直しては滑りを繰り返す。
鼻までぐずつかせ始めたウルスラは、まるで泣きじゃくる子供のように目を擦り鼻をすする。
祭りで時折出る迷子の子も、こんなに泣かない。
それには、村の子が迷子になっても周りの大人全てが見知った顔であるために、危機感が生まれないと言う理由があるせいなのだが。
それでも、迷子で泣く子供とは、何処か違う。
強いて例えるなら、出店で欲しいものを買って貰えないまま家路に就く子供の方が、近いかもしれない。
期待していたものが手に入らず泣き出し、最後には親に手を引かれて無理矢理その場を後にする子供は、迷子よりもよく見たものだ。
「……ははおやじゃあ、ないんだけどね」
鼻をすするウルスラは、マリアの呟きに気付かぬまましゃくり上げ続けている。
真面目かと思えば悪戯っぽかったり、大人かと思えば子供っぽかったり、怒りに震えたかと思えば頭を抱えて落ち込んで、終いにはぐずぐずと泣き出す。
竜と言うのはこんなにも感情豊か、と言うより情緒不安定な生き物なのだろうか。
「りゅうって、むずかしい……」
「?」
ウルスラは涙を拭いながら首を傾げて不思議がったが、マリアは考えを勝手に自己完結させて。
まだ涙の止まらないウルスラの頭を、くしゃくしゃと撫で続けた。




