心の声に、応う声
目の前の獣に、マリアは手を伸ばした。
その手に擦り寄るように触れてくるそれの毛は短く密集するように生えていてその質は柔らかく、撫でれば変化する毛並みが青銀に煌めく。
面長の顔を隠すように垂れる鬣は、先程の男の前髪と同じで左右非対称。
背中に向かって一列にはえる鬣も、先程の男の後ろ髪と同じで空気を孕んで遊んでいる。
「…かみ、が……たて、がみ」
指通りの良い前髪の長い側をすいて、ピンと立ち上がる耳にかける。
露になる瞳も男と同じで、青銀色。
違うのは、その瞳孔。
瞳を切り込んだように縦に長い瞳孔は、やはり銀色なのだが、さらに深い青が混ざっている。
「ねこ、め……うま?」
『まぁ、否定しないしけどさ……正確には、風竜が馬に似てるんじゃなくて、馬が風竜に似ているんだし、竜の目が猫の目に似てるんじゃなくて、猫の目が竜の目に似てるんだ』
「え……?」
その声は、耳を通して聞こえたものではなかった。
目の前の竜は口を動かしていないし、喉も動いていない。
『心話って言うんだけど、驚いた?』
直接頭に響く声音は、先程話していた男の声で、至極楽しげな音を含んでいる。
「……おどろい、た…」
「ごめンネ……デも直接話すト、馬が喋ッテルようニ見えテ視覚的ニ気持悪いデしょ?
そレニ、こノ姿ダト、君達ト同じ言葉を喋ルノ、チョット難しいンダよネ……舌が使い辛くテ」
今度は耳を通して。
目の前の獣が口を動かして発する言葉が聞こえる。
しかし、それは。
「すごい……かたこと」
「何気無く酷いネ、君……」
悄気返る男の声はやはり酷い片言で、馬にしか見えない目の前の竜が喋る様子は、当人が言う通り非常に奇妙なものだった。
「……おもしろい…どうぶつ、はなしてる」
「俺、竜ダけド…」
「うん」
「本当ニわかッテル?」
「うんうん」
「……怪しいナぁ」
「しつこいおとこ、きらわれる」
「う……もう言わナいかラ、そレは言わナいデ……心が、抉レルかラ」
男の声はさらに悄気返り、項垂れると同時に耳がへにゃりと垂れてしまう。
その悄気返り方は半端なものではなく、羽ばたく力も減っているようで、高度も落ちていく。
「もういわない、から……にわに、おろしてくれない?
……たいりょく、おちたみたい」
話題を変えるべく、マリアが声をかければ、竜は再びマリアの目線まで浮上し、その首を傾げた。
「乗せルノは良いけド、君、鞍無しデ馬ニ乗レルノ?」
今度はマリアが首を傾げる番だった。
「……くら、って、なに?」
マリアがいた村にも馬はいたし、マリア自身乗馬経験もある。
しかし、マリアのいた村の馬は全頭農耕用だった。
短い脚にずんぐりむっくりした体の農耕馬は穏やかな性格で行動ものんびりとしている。
そんな馬に跨り疾駆する、と言う発想が起こるはずもなかった。
村には鞍と言うもの自体が無く、マリアの乗馬経験は、その全てが素乗りだった。
至極当然に言うマリアに、竜は瞠目した。
「君……最僻村ニ住ンデタ、トか言わナいよネ?」
「……?」
基本的に、全ての村は伝令用の早馬を一頭以上配置することになっている。
それは国の中央である銀竜都から出ている命令であり、銀竜都から出る触れ――例えば徴兵令や騎士募集など――を迅速に全ての村に伝える為なのだが、それには例外があった。
伝令が最後にまわる村は早馬を置かずとも良い、と言うものである。
伝令用の早馬は種類が決まっていて、高価な上に、飼育にも多額の金がかかるのだ。
まず、早く走るための調教に調教師を雇わなければいけない。
調教すれば当然馬は体力を消耗するため、その餌代も農耕馬とは桁が違う。
さらに悪いことに、早く走ることに特化しているせいか、総じて病気に弱く繁殖しにくい。
病気予防でも金が飛ぶし、繁殖用に雌雄を揃えるにも金が飛ぶ。
その上、子馬が生まれる確率は低いし、子馬はさらに病気にかかり易い。
馬の種類を変えれば良いと思われるかもしれないが、この種類以外に、早駆けに特化した種類がいない、と言うのが現状だ。
そんな様々な要因から、早馬を維持すべき村々は、最僻村を羨ましがっていたりしなくもないのだ。
実際、マリアが住んでいた村は最僻村だった。
銀竜都から真っ直ぐ北西の方向にあり、最僻村の中では一番銀竜都に近いが外洋と内洋を隔てる連山に一番近くもあり、実は銀の国の中で竜と魔物の争いの被害が一番多い。
しかし、村人のほとんどはその事実を知らない。
ただ皇龍が住まう島に近い位置にあると言う事実を知っている。
その全てを知っているのは、歴代の村長一族のみで、当然、マリアも知らなかった。
「まぁ、いいか……はい、ドうぞ?」
何も知らないマリアに、竜は首を傾げながらも、空中旋回し、マリアのいる窓に尻を向ける。
そこで、ようやくマリアは気がついた。
竜となった男の体の大きさは馬とほぼ変わらないが、その背中にある翼は大きく横幅をとっていて、どう見ても窓枠を潜って室内に入ることは不可能だ。
窓から身を乗り出して見下ろせば、地面は遠い。
村の家々や森の高い木などよりも余程高さがある。
そんな場所で、宙に浮く竜の背に飛び乗らなければならない。
「……うごかない、でね」
経験の無い高所に恐怖を覚えつつ、マリアは窓枠に脚をかけて。
目の前の竜の背に、跳び移る。
「翼ノ前ニおいデ」
「かんたんに、いわないでっ」
飛び移った竜の背中は、翼が羽ばたくたびに背筋が動いて、非常に移動し辛い。
跨ったまま、前に動けば翼の付け根に阻まれる。
翼の前に行くには、一度足を上げるしかない。
片足ずつあげることさえ、非常に難しそうだった。
「ここじゃ、ダメ?」
「そこダト後ロニ、落チルよ?」
「……ゆらさないで、ね」
前に向かって飛ぶ竜の背中に掴むものは無い、と言うことは後ろに振り落とされる。
この高さでは、無事では済まないだろう。
覚悟を決めて、マリアはスカートをたくし上げた。
羽ばたく翼の間に身を乗り出し鬣の終わり辺りに左手をつくと、右足から前に移動する。
「……なんか、くすぐったい」
翼は相変わらず高度を保つために羽ばたき続け、尻の下に敷くような状態の背筋は変わらず動き、スカートの生地を挟んでいるのにも関わらず、その動きを直に伝える。 馬に素乗りした時とは全く違う筋肉の動きに違和感を禁じ得ない。
「ほラ、もう片足も早く早く」
「せかさないで、ったら……」
マリアを急かしながら、馬は窓から少しずつ離れていく。
掴まる手を交代して今度は左の足を前に出すべくスカートをたくし上げる。
「純銀チャン見テ見テ!
黄金ノ島ノ霧が晴レタよ、皇龍殿がよく見えル」
「え?」
竜の声が興奮して話しかけてくる。
竜の背中から顔を上げて見れば、霞んでいた水辺の対岸がはっきりとよく見える。
霧で隠れていたらしい対岸は、植物の緑に覆われた深い森になっていて、その奥に建造物が見える。
天を指し示すように聳え立つ金色の主塔を中心に、八の国色になっているらしい低めの塔が回りを囲んでいる。
あまりの彩りに、スカートをたくしあげていた手を離して、マリアは目頭を押さえた。
「……めに、いたい…わね」
「そンナこト言うト、動いチャうよ?」
竜の翼が強く羽ばたく。
左足は上げたまま、翼に挟まれる形で止まっていたマリアを、翼の羽根が打つ。
下ろしていた右足にかけていた体重に引き摺られるように、マリアの体がバランスを崩す。
「……え?」
翼にぶつかる違和感に気付いたらしい竜の首が振り返ってくるが、少し遅かった。
掴まろうにも掴まるものが無い竜の背中。
鬣を掴んだところで抜けてしまうだろうし、その鬣も人の姿では髪であることが頭を過ってすがることも躊躇われてしまう。
躊躇している間に、竜の滑らかな毛並みも手伝って、マリアの体は竜の背から、滑り落ちた。
落馬ならぬ落竜したマリアの体は真っ逆さまに地面を目指す。
「純銀チャン!!」
慌てたように竜も空を駆けて来るが、駆けてきたところで馬の蹄ではマリアを捕えることも出来ない。
絶望的だ。
「いやあぁぁあああ!!」
喉を痛めていることなど忘れ果てて大声を張り上げる。
誰でも良い、誰か助けて。
声は叫び、心が訴える。
地面にぶつかる衝撃を考えてしまうと、その恐怖に目など開けていられず、自らの体を抱き締めるように踞る。
風を切って落ちるマリアの耳に、銀の髪が絡むように音をたてる。
うるさいほどの音が、言葉の通り、マリアの耳を叩いた。
『大丈夫』
『助ける』
『信じて』
その音の中に混ざる、小さな声が三人分。
マリアを安心させるように穏やかな声音。
こんな側で人の声が聞こえるはずもないのに。
目を開いて辺りを見回すが何もない。
視界に映るのは空と、追い掛けてくる竜だけ。
『必要なのは』
『強い意思』
『強い願い』
だと言うのに声はマリアに訴える。
死にたく、ない……。
死にたくない!!
「たすけてっ!」
マリアは叫んだ。
死にたくなどない、本心のままに。
『御心のままに』
『御言葉のままに』
『御身をお救いします』
途端に、風が吹き上がる。
強い風、などではなく、荒ぶ風、と言うべき渦巻き吹き上がる上昇気流。
それは、庭園の植物達を巻き込みながらマリアの体を飲み込んだ。
銀色の葉や、銀色の花弁が巻き上がる気流の中で、マリアの落下する速度は一気に緩む。
ほどなくして、マリアは生垣の上に降ろされた。
窓から見えた迷路を作る青々とした生け垣の上だ。
巻き上がった風は霧散し、巻き上げられた植物が空から降ってくる。
遅れて、足音が一人分。
「純銀ちゃん!」
迷路を抜けて来たのは、竜に変幻したはずの騎士の男だった。
「ふふっ、だいじょぶ……けど、おろして、くれる?」
その酷く取り乱した表情に、本来取り乱すべきマリアの方が笑ってしまう。
恐怖のあまり笑ってしまうのは、一種の自己防衛なのだが、マリアがそれを正しく理解するはずもなく。
男は落としてしまった責任感からか、マリアの体を生垣から下ろすと、幼子でも抱くように抱えて迷路を歩き出した。
腰は抜けていて、脚もガクガク、男の服握り締める手も力が入らず小刻みの震えている。
マリアを抱える男の腕は力強く、歩調も変わらない。
ただ、見上げる横顔は複雑に歪んでいる。
眉間に刻まれる深い皺は、ふと、晩春の日に会った金髪の男を彷彿とさせる。
視界を遮ってしまうから皺を強制排除することはできない。
けれど、話しはできる。
「わたし、マリア……あなたは?」
「ウルスラ=ウィディ・ニアドラゴ。
君達の言葉に直せば……眷族竜、風のウルスラ」
「ウルスラ……風…眷族竜?」
「そう」
男――ウルスラ――が頷く。
普通の人に、名字は無い。
名字がある時点で、普通の人ではない。
「ウルスラ」
「……何?」
「また、のせてね?」
まだ震えの取れない手を伸ばして、ウルスラの頭を何の気なしに撫でる。
弾かれたように見つめてくる顔は、最初はポカンと呆気に取られていて、見る間も無く泣き出しそうに歪んでいく。
「……君が、望むなら」
「うん」
ウルスラの小さな返答に、マリアは頷いた。
あの不思議な声は何だったのか。
考えても答えは出ない。
マリアは、ただウルスラの頭を撫で続けた。




