終わりの始まり
あらすじどおり、自殺を取り扱います。苦手な方はブラウザバックを推奨します。
この国では当たり前の不快指数が高い夏、毎日毎日飽きても飽きても予定調和で過ごす日々を送っていた。仕事は山積み、まだ手をつけていないものや、やり直しをしなければならないものが馬鹿みたいにたまっていくだけ。学生時代の予習と復習は社会人になっても代わり映えはしないのだ。もっとも親や先生に怒られるなんてことはなく、自分の食い扶持に直結するため必死さや義務感は高いのだろうけれども。
オフィスのドアを腕ではなく体を使って押し開く。時計の針は23時少し過ぎ。こんな時間まで仕事をしても「宿題」は終わらなかったのだから、だらしのない開け方をしたって仕方がない。ドアが開くと気持ちの悪い温度と湿度が皮膚から染みて、一気に体の芯まで攻撃してくる。嗚呼!なんて不愉快なんだろう!ただ気温が湿度が肌に合わないだけなのに、仕事のイライラが蒸し返すし、そんな暇はないというのに結婚は孫はという田舎の両親の暢気な罵倒を思い出すし、もう3年も前に別れた元彼女の一方的な別れ話すら思い出してきた。温度と湿度が最悪のタッグを組んだだけで、一人街中にいるだけの男に絶望や怒りやら不愉快な感情をこれでもかと与えてしまう。
俺は完璧に機嫌が悪くなった。きっと風呂上りに冷房が効いた部屋に入る頃には、何がそんなにイラついたのだと馬鹿にするだろうに。けれども今の俺には、世界の全てが敵に映っていたのだった。
「お兄さん。」
イラついた俺は周りを全く見ていなかったが、周りは俺以外も存在していたようだった。ふいに若い女の声がして、どこのお兄さんが俺の敵なんだろうという悪意で声のする方に振り返った。この時間に似つかわしくない制服姿の女子高生が困ったように眉を寄せて俺を見上げている。どうやらお兄さんは俺のことだったらしい。
「何か?」
この時間に似つかわしくない女子高生だ。めでたく三十路になった俺は、誰かに見られたら厄介だという怒気が無意識に含まれた返答をした。
「落としましたよ。定期券。」
なるほど。彼女の手には俺のパスケースがあった。彼女は厄介ごとではなく親切心として声をかけたらしい。怒りを向ける相手ではなく、親切な人と認識した俺は、脳みそが熱暴走をしているのか彼女の顔を観察した。
「ありがとう。助かりました。」
さっきも言ったが今は23時過ぎだ。この時間に一人でふらついている女子高生なのにすれた印象はない。もっというと、あか抜けていない。地味だ。もうオジサンの領域に入ったのかギャルとかいう派手な女がだめな俺には好印象である。親切で、派手じゃなく、そしてなんとなく好みの範囲である。そこまで考えたらなんだか若干溜飲が下がった。自分の感情がコントロールできていない。そして自分がよくわからない。まぁ、無駄なイライラが緩和されたのだ。ありがたく再び悪化する前に空調の効いた列車に飛び込もう。
最初は困ったような顔でいた女子高生は礼を聞いて安心したのか、少しだけ口角を上げた後、軽い会釈をして駅へと小走りした。こちらも妙なことにならずちょっとだけ良い事があったという気持ちで、先ほどより軽い足取りで同じ改札口に向けて歩き出したのだった。
丁度電車は発車してしまったところだったらしい。深夜の本数は少ない、結局終電に乗らねばならないのか。先ほどマシになったイライラが戻ってきてしまった。30分近く電車を待たねばならないので、ホームにあるベンチを探す。一番近場のベンチでは先ほどの女子高生が座っている。俺より先に来たのだから乗れたのじゃないのだろうか。何故か虚無に地面を眺めており、陰気な雰囲気を醸し出していた。知り合いでもないし、気にする必要はない。ただなんとなく先ほど親切にされたので邪魔はしたくない。だけども、わざわざ車両を変えて乗る必要性もないだろうから近すぎず遠すぎず。彼女の座る席とは反対の端に腰をかけた。
生ぬるい風、ベンチの端と端に座る俺と女子高生、あとは暗い空に人工的な明かりと静寂。何もせずにただホームにいるには空気が重い。不審者に見られないように、音を立てないようにポケットを探り小銭を出す。家で冷えたビールでものみたいところだったが30分もこのままでは気分は悪い方向へ向かう気がしたのでここで飲み物を購入することにした。生憎、この時間は自動販売機がノンアルコールオンリーの販売しか行っていない。ビールを欲している喉に糖分は辛い。なんとなく汗をかいたし水かスポーツドリンクか。水が20円だけ安い。水にするかな。ガコン、と自動販売機は俺にペットボトルを投げ出した。
ベンチに戻ろうと思い自販機からベンチに視線を移すと、例の女子高生が丁度俺のことを見ていた。タイミング的にちょっと気まずかったのか、彼女は困ったように会釈して視線を線路へと移した。きっと誰もいないと思っていたのに、自販機から音がして気づいてしまったのだろう。なんとなく悪いことをした気もしたが彼女が軽く会釈したことや、視線を外してくれたことで、気まずさは気づかれる前よりマシになっていた。
「今日は暑いですね。」
先ほどとは違い、明るい雰囲気で話しかけられた。電車が来るまでまだ20分。30男と女子高生なんていう犯罪的な組み合わせで気まずく黙っているよりは、世間話をしていたほうが普通かもしれない。
「本当に。34度らしいですよ。でもまぁ問題は温度より湿度ですね。」
「パラパラと何度か雨が降ったんですよ。地面を見る限りほとんどが水蒸気になってこの湿度になったみたい。」
「ゲリラ豪雨も厄介ですけど、暑い日のにわか雨も厄介ですよね。こんなに気持ち悪いのに待合室の空調オフだとか、節電してたら死人が出ますよ。」
無難な今日の暑さの話題。世間的に挨拶と同意義になりつつある節電の話題。空調オフの待合室になんかサウナに等しいのでこうやってホームのベンチの端と端に座っている。無難な話題だけをしていたのに、ピクリと彼女が反応し止まった。
「死人でますかね。死因は熱中症になるんでしょうか。」
少しの間を空けたが会話を続けてくれるようだ。全く、女子高生のどこに地雷があるんだかさっぱりわからん。
「熱中症ってふらふらするって印象が強いですけど、眩暈がするだとかの初期状態の後、体が思うように動かなくなったり痙攣起こしたり。自分で110番できなくなったりするまで悪化することもあるんですよ。」
「思ってたより怖いことなんですね。気をつけよう気をつけようとはいいますけど知りませんでした。なかなか苦しい死ですね。」
俺自身は知らないけどきっとそんな理由で死んでる奴は毎年いるんだろうな。しかし、話題の方向が暗くなったな。そろそろ軌道修正せねば。
「毎年いるんでしょうけど、今年は節電のせいって騒ぐんでしょうね。」
「どうして他殺にしたがるんでしょうかね。自殺か病気かもわからないのに。不自然さがない自殺を偽装するには完璧じゃないですか。」
少し驚いた。無難な見た目に無難な会話。なのに何故か自殺についての話題になった。少し危ない子なんだろうか。引いてしまったけれどうまいこと無難に戻そう。ちょっと世間話をしただけの見知らぬ女子高生と自殺について語り合うなんて恐ろしい。
「まぁあれですよ。話題があればなんだっていいんですよ、結局。」
会話はこれで止まった。お互い線路を見つめながら話していたが、これで終わりなのか確認のためにちらりと女子高生を盗み見る。ここにきた時と同じように足元の地面を見つめながら下唇を噛んでいた。
「すみません。何か気に障りましたか?」
このまま黙って電車を待っていればいいのに余計なことを聞いてしまった。泣きそうな顔でこちらを見た女子高生を見て、選択肢を間違ったことを悟る。ああ、厄介だ。温度と湿度と空気の悪さ。俺の気分を悪くさせるものばかりだ。
「いいえ。あの、少しでいいのですが。小娘が思春期特有の悩みを抱えてるというスタンスでいいので話を聞いてもらえませんか?」
「ええ、僕でよければ。」
聞きたくない。イライラする。けれどこんな聞かれ方をして断れるだろうか。この子はわざと断りにくく言ったのだ。間違いない。逃げられないのだ。聞いて適当に正論を言おう。
俺のそんなイライラは伝わらず、彼女はぽつりぽつりと話し始める。
「本当に、よくあることだと思うんですけども…。何もかもに追い詰められているような気がして、息苦しくて…。し…死んでしまいたいと、思うほどで。一度そんな結論が出てしまうと、何をどうあがいても、それが一番魅力的な結論で。実際はもう少し幼い時、小学校とか中学校とかで思うんでしょうけど。高校生にもなって初めてその魅力にとりつかれてしまっていて。倫理だとか道徳だとか、建前だとか一般論だとか。そういうブレーキ機能がちゃんとあるのに、一方で、自殺の方法だとか調べられたり、そして狭いコミュニティの監視から逃げ出す方法もわかっていたり、行動制限がそんなにないんですよ。このままだと本当にいつかやってしまいそうだと諌めたい自分と、もうできるんだからそのまま実行してしまえばいいんだと思う自分がいて。実際、今日もこんな時間まで人気のない場所に向かっていたわけでして。誰もいないと思っていたのにお兄さんが出てきて。去ってしまうかと思ったけど定期を落とされたのを見て、声をかけてしまって。誰にも知られずって思っていたのにそれが叶わなくなったなと今に至って。」
確かによくある話だなと思った。誰だって死について考えることがある。そのうち答えが出る人もいるのかもしれないが、日々に忙殺されてそんなこと深く考えなくなっていく。俺はその答えを出せないまま大人になってしまって、気づけば社会性というバランス崩壊をおこすものを抱えて今日まできたわけだ。
けれど彼女は実際死のうとしたわけだ。それも俺が定期券を落とすという間抜けが水を注したらしい。俺のせいか。俺のせいで死ねなかったと言っているのか。イライラした脳みそが無難な答えをはじき出す前に暴言を導き出す。
「俺のせいか。俺のせいで死ねなかったのか。」
言った後に後悔した。今日は後悔してばかりだ。いたいけな思春期女子高生に何を言ってるんだ。ここで追い詰めるのは大人じゃない。大人はちゃんと模範解答を渡してやるべきなのだ。いずれわかる、だとか。今は勉強を優先しなさい、だとか。けれども俺の口は反射的に返すのだ。思ったことが口からすぐに出る。後悔したばかりなのにすぐ苛立ちが言葉に変わるのだ。
「違うんです。責めているんじゃないんです。」
「いいや、俺に会わなかったら、俺が定期落とすとか馬鹿やんなきゃ死ねたんだろう?」
「違うんです!」
「違わないね。君の自殺願望と同じさ。やりたいけどやりたくない。責めてないけど責めている。あーだこーだ言ってるが結局責めているんだよ。何故死なせてくれなかった。責任取れ。そんでもって死なせてくれってね。」
「そんなこと…。」
「言い返せないだろう?素直に言えばいいじゃないか。死なせてくれと。でも死にたくないと。けどお前にも責任あるんだから、一層のこと殺してくれってくらい言えばいいじゃないか。お兄さんは気にしませんよ。殺してくれと泣けばいい。気が向いたらやってやるさ。うだうだ言わずにさっさと言えよ。殺してくれって泣き叫べ。」
女子高生が泣いている。あきらかにやらかした。何を言ってるんだ俺は。最悪すぎる。一層、俺を殺してくれなんていったらもう何がなんだかわからなくなりそうだ。とりあえず謝ろう。謝って、気まずいから別の車両に乗って帰ればいいのだ。それで二度と会いませんようにと思いながら寝ればいい。
謝ろうと決めたとき、同時に泣き伏せていた彼女が顔を上げた。ぎょっとする。目が真剣だ。意思の篭った決意の目をしている。いやな予感がするのに、彼女が一言発するのを待ってしまった。
「私を殺してください。」
なんて言葉をいってくれるんだ。イライラも理論武装も土下座謝罪も全部脳みそから吹っ飛んだ。促して、とんでもないことを言わせてしまった。
「もしくは、死ぬのを見届けてください。」
何も発せない間抜けな俺はただ彼女の言葉を聴くのみだ。
「今からでもかまいませんか?できれば確実に死にたいので早々に救助されない場所が望ましいです。ここはあなたの会社がある場所ですし避けます。いい場所知りませんか?帰りませんよ。ちゃんと死にます。気が向いたら殺してくださるんですよね?逃がしません。ちゃんと着いてきてください。場所の提案をしてくださいませんか?ないなら終点まで電車に乗りましょう。あなたのおかげで今まで以上にかたまりました。」
彼女の白い細指が俺の右手首を掴んだ。本気で逃がさないつもりらしい。
「今日はもう遅い。足が、ない。」
「そうですね、終電でいける範囲ということになりますね。」
苦し紛れのごまかしは通じないみたいだ。何で付き合わねばならないんだこんなことに。
「付き合いたくない。」
「気が向いたら殺してくれるのでしょう?それに私の背中を押してくれたのはあなたです。嫌でも付き合ってもらいます。」
ぎゅっと手首に回された彼女の手に力が篭る。
「嫌だ。」
「離しません。」
「勘弁してくれ。」
「お願いします。」
泣きそうな顔をしてはいるが、離さないと力いっぱい握られている。
「今日は無理だ。」
「逃げるのでしょう?」
「いや、明日にする。」
「離したら逃げるのでしょう?」
「いいや、逃げない。」
「信じられません。」
俺たち二人だけしかいないホームに聴きなれた音楽が流れた。電車がもうすぐ来るらしい。
「電車が来る。」
「ええ、来ますが乗せません。」
「帰らせてくれ。」
「逃がしません。」
「じゃあ、家までついてくればいい。連れて行くから手は離してくれ。」
動揺している俺は最優先事項を電車に乗ることにした。今日は失言だらけだ。女子高生を家に連れ込む発言をしてしまった。さっきとは違う間抜けな気まずさが漂う。無言になった彼女は電車がホームに入るとまた決意の篭った目で見つめてきた。
「ではお邪魔します。」
「オーケー。じゃあ離してくれ。」
冷房の効いた電車に乗り込む。手は離されたがぴったりとくっついてきて隣に座られてしまう。そして何度みてもじっと俺の事を見ている。体が冷えて、頭も冷えて、とんでもない事態を冷静に見つめて、視線を感じて。どうしようもない厄介ごとに巻き込まれてしまったことを俺は本日何度目かの確認をしてしまったのだった。