幸せの刺繍
陽の光が窓を超えて差し込む。
小さく遠く聞こえる人々のざわめきと、鳥の声。木の葉が風で擦れる音までは届かない。
人々の息遣い。針が布を刺す音。糸が布を通る音が幾重にも重なっている。
時折小さな歌声が聞こえるのはどこかの席で誰かが口ずさんでいるものだ。
冬の名残を残す陽射しは暖かい。
外に出ればまだ冷たい風が吹いてはいる。
春が近いと感じる空気だ。
私たちは部屋の中、布地に針をさしている。
広げられた布時はすでにドレスの姿をしているものから、型紙どおりに切られたもの、まだ布地のままのもの。
ハンカチ、日傘、ブローチなど。大きいものから小さいものまで色とりどりに部屋の中にひしめいていた。
一つ一つ手に取ってそこに刺繍を足していくのがこの工房の仕事だ。
貴族の方々を彩る刺繍は誉れな仕事であり、そこに支払われる給金は平民の平均より上である。
女の仕事といえばお針子が高給取りの1つとされている。
ただその実態は社交シーズン前ともなれば戦争のようではある。
この日は社交シーズン目前ではあるが、目前すぎて手直しや社交シーズンの中頃に必要な布地に針を刺す仕事が多く、その中で急ぎの仕事がすくない日だ。
時折聞こえる歌も針をさしながら零れる囀りで、ゆったりとした空気が流れていた。
私の手元にあるのはドレスの袖部分となる場所で、淡い水色の布地に白と銀で縁どりをしていた。
夏に向けたドレスなのだろう。涼しげで、軽い生地だった。
時折青いビーズを縫いつければきらきらと波打ち際のように陽の光を反射している。
一対、縫い上げるのが今日の私の仕事だった。
スカート部分の縁取りや大柄な刺繍は先週やっと終えたところだ。
明日からはドレスの前身頃と後ろの刺繍が待っている。
「ふぅ…。」
ずっと息を飲み一指一指重ねていた箇所から視線を外し息を吐き出したところで、声がかかる。
「アビー、そろそろお昼ご飯にしない?」
隣の机で作業をしていたユリアの声だ。
弾むような声に私は頷いた。
「そうね、そろそろお腹がすいたわ。」
針山に刺繍糸が繋がっている針を刺し、一度両腕を上にあげた。んー!と声が漏れてくる。
立ち上がり、衣服に着いていた糸くずを簡単にパッパっと払ってから、ユリアへと体を向ける。
「どこで食べる?」
彼女の手にはすでにお弁当の入った鞄が握られていた。私も机の下に置いていた鞄を手に取り立ち上がる。
「うーん、天気もいいし外に行きたいけどまだ寒いかしら。」
陽射しは暖かそうではあるがまだ風が冷たい。ならば屋内がいいだろう。そうなると、ここか食堂かの二択である。気分を変えるならばやはり食堂か。
「風も強くはなさそうだけど気温は低そうだし。もう少し暖かくなったら、中庭で食べたいところだわ。」
食堂に向けて歩き始めた彼女の後ろをゆっくりと歩き出す。
この工房の食堂はそれなりに広い。王都で1番大きな刺繍専門の工房だから、お針子もそれなりにいるのだ。
女性が多いためか、椅子ひとつ取っても目を肥やすという意味も含めて可愛らしい意匠が彫られている椅子が並んでいた。
大きなテーブルが6つ並んでいて、そのテーブルには花がそれぞれ掘られていた。
百合、バラ、牡丹、菊、鈴蘭、アマリリス。
テーブルの意匠と合わせた椅子は曲線を描き、座りやすい。
人気なのはやはり薔薇だが、私は鈴蘭の可愛らしさが好きで、好んで鈴蘭の椅子へと座ることが多い。
食べ物を食べる場所に毒を含む花など、とは思うけれど可愛らしさとは関係ない。
今日の食堂は少し時間が遅いため人の数は少ない。
ユリアは鈴蘭のテーブルへと向かう。
何も言わずとも私の趣味に付き合ってくれるのだ。
彼女が本当は百合のテーブルが一番好きなのは知っているので、明日は百合のテーブルに座ろうと思いながら向かいの席へと腰を落とす。
お弁当の入っていた鞄を広げれば中からは四切れのサンドウィッチが顔を覗かせる。中身は卵を焼いたものにレタスが挟まれたものと赤いトマトとレタスにドレッシングが薄く混ぜられたものが二切れずつ。
どれも私が朝に作ったものだ。
ユリアに中身を見せれば、彼女は「今日は卵の気分だわ」と卵とレタスのサンドウィッチを一切れ手に取る。自分のお弁当の上へと置けば代わりにとお弁当の蓋に焼いたお肉とスクランブルエッグを半分載せて渡してきた。
お昼ご飯の時に二人で行う交換っこだ。
彼女の家は食堂を営んでいるので、調味料が絶妙に味わえる絶品なおかずなのだ。
お互いに満足の行く取引が出来たところで短く祈りの言葉を呟き食べ始める。
今日のパンはふわふわだ。卵も新鮮なものを使っているし、美味しくできたと自画自賛しながら食べる。
「進捗はどう?」
ユリアが口の中を空にしてから問いかける。私もまた返事まで数秒を要してから「順調よ」と、返す。
一言、二言。食べてる間は短い会話が続いた。
あっという間に食べてしまえば、備え付けのお茶を持ってきて休み時間いっぱいまで話す。
「今日やってたあの青いドレス、侯爵様のおうちのご令嬢のよね?」
フゥフゥと、熱いお茶に息を吹きかけたあとユリアが尋ねてくる。
「えぇ、そうよ。これで今年は4着目。お安くはないはずなんだけど侯爵様はすごいわね。」
程よく冷めたお茶に一口つける。ふぅ、と息がこぼれた。精神的ではなく体力的に同じ姿勢で疲れていたのだろう。
「毎回別のドレスを誂えるなんて、お金持ちの考えることはわかんないわ。」
あはは、と明るく彼女が笑う。私も頷いて笑う。
「まぁ、そのおかげで私たちも不自由ない暮らしさせていただいてるしありがたいものね」
「そうね」と彼女は明るく答えた。何度同じ会話を繰り返しただろう。でもそれは憧れとかではなくありがたい話だわーくらいの世間話だ。
「まぁ、侯爵様位になれば同じ衣装なんて着れないんでしょうね。この間の男爵家のドレスはお直しの刺繍だったものね。」
「同じドレスでも刺繍を刺しただけで見違えるものね。」
あの時のドレスも美しかった。赤色を基調としていて覗く袖口は白いレースがちらりと見えて美しかった。
広がるスカートの裾から印象を変えるほどの大きな柄を刺繍して女神のごとく美しい仕上がりになった。
ただ大柄なので、数人で作業をしたけれど。
それでも、一からドレスを買うよりは安く済んでいると言うからあの1着がどれ程の値段か気になるところだ。
受け取りに来た使用人には「見事です」と感嘆とした声をかけられ鼻高々となったものだ。
「幸せの刺繍、なんて。噂のおかげねー。」
有難いわー。と、ユリアが呟く。
私の働く工房にはひとつの噂があった。『幸せの刺繍』と呼ばれているそれは一つだけ小さな四つ葉のクローバーが刺繍される。屋号の代わりとして始まったそれは、いつしか幸せが訪れると噂が始まり、徐々に広まった。
その真偽は分からない。刺繍を実際に刺しているお針子にも分からないしこの工房を経営しているマリー夫人も分からないと言っていた。
マリー夫人が屋号の代わりに四つ葉のクローバーを入れようと言い出したのだけれど、それが幸せを呼ぶなんて本当だろうか?と、首を傾げたくなる。
意匠に沿うならば小さく端っこに。意匠に沿わないならば裏地や見えない場所に四つ葉のクローバーを刺していた。
噂の出処としては、平民向けに販売していたハンカチが始まりだっただろうか。
そのハンカチは少し背伸びをすれば平民でも買える値段だった。
美しく光沢のある余り布に白い四つ葉のクローバーがワンポイントで刺されていた。そんな何の変哲もないハンカチだった。
それを手にした平民の娘は翌日に密かに憧れていた商店の長男にデートに誘われたとかなんとか。その長男はハンカチの美しさを見て彼女に目を向け気になったからとは後の話で聞かされる。
ハンカチのおかげだわ!と彼女は嬉しそうに周りにハンカチを勧め始めた。
そして二人目だ。彼女の場合は、ハンカチを落としてそれを拾ってくれた殿方と…なんて。平凡だけど綺麗な話のできあがり。そんな話がいくつも出てきて、その内幸せの刺繍として噂は広がった。それを聞いた貴族のお嬢様が話題の種にとドレスを1着刺繍の依頼をしてきた。
そうすると、ひとつ上の爵位の嫡男に見初められた。
その後からの予約は殺到したものだ。その頃はまだここまで大きな工房ではなかったから、あの頃がいちばん修羅場であった。
マリー夫人は慌てて衣料ギルドに助けを求めてお針子を斡旋していただいた。
工房自体も大きい場所に移動して、やっと落ち着いて仕事が出来るようになればマリー夫人は感謝とともに給料を大幅に上げてくれた。
私たちはマリー夫人が大好きなのでさらに頑張るという好循環が生まれた。
もちろん今も全ての作品に四つ葉のクローバーは刺している。先週終わったスカートの裾の刺繍には隠すように小さく模様に紛れて四つ葉のクローバーを刺していた。
ドレスを収めればまず四つ葉のクローバー探しを始めるのが最近の貴族令嬢の楽しみと聞いた時は笑ってしまったと同時に嬉しくなった。
彼女達の幸せを祈りながら…なんて、仕事中は必死でそこまで頭は回らないけれど刺し終えればそっと四葉を撫でていってらっしゃいと心の中で唱えていた。
一度ユリアに聞いてみれば彼女は「幸せになれよー」と心の中で唱えていたらしい。
ユリア以外のお針子も似たようなもので、誰もがみな手に取る人の幸せや刺繍を施したものたちの幸せを願っていた。
だから幸せになるのかと言えばそれはまた話が違うだろう。他の工房だってそれくらいの事はしているはずだ。
なぜこの工房の物だけ噂されるのかは分からない。けれど『幸せの刺繍』の効果はそこそこあるので噂は尽きぬようだ。
「午後も頑張りますかー。」
ユリアがひとつ伸びをしたあと立ち上がる。私もそれに続いて立ち上がりお弁当の入っていた鞄を持ち上げる。軽くなったそれは午後の為の力に変わったのだ。
ますかー。と続いてのびをしてからお針子部屋へと戻る。
廊下は静かだ。時折誰かが漏らす歌声が聞こえる。もうすぐ春。社交シーズンが始まる。
至急のお直しや、社交シーズン後半に向けての依頼が入ってきて忙しくなる日々だろう。
社交シーズンが終われば少し落ち着くけれど、王都に残る貴族たちの普段着や軽いドレスなど。仕事は入ってくる。
そうして一年を過ごす。数年経てば私も幸せの刺繍を手に取り嫁入り先を探すのもいいかもしれない。でもその時は出来ればお針子を続けれる相手がいいな。なんて、廊下を歩きながら考えていた。
後に、王都に流れ着いた精霊師が王都の外れにある大きな工房の前で目を細めて呟いた。
「精霊が楽しそうです。」
嬉しそうに加護を振りまいて飛んでいる。
悪しきものは弾いてる。楽しげに歌っている。
精霊師も釣られて笑った。歌を口ずさんだ。
道ですれ違った女性が振り返る。精霊師もその気配に振り返る。女性は不思議そうに精霊師を見つめる。
「どこでその歌を聴いたのですか?」
工房で時折聞こえるのです。女性が嬉しそうに笑った。
精霊師も笑った。
「楽しくなってしまったのですね。」
あなたに聞こえてしまうほどに。
精霊師は口の中で小さく呟いた。そして手を挙げ別れの挨拶をした。
彼女の手には刺繍の入ったハンカチが握られそこに溢れんばかりの加護を感じていた精霊師は女性が何故そこまで愛されているのか気になり始めていた。




