9 水の精霊
アオイは砂漠を歩いていた。
わずかな魔力だけを使い、足跡を残さぬよう地面から浮いて進む。
この程度なら、魔女には気取られない。
森を抜け、山を越え、草原を過ぎ――ようやく辿り着いた誰もいない場所。
やっと、ひとりになれた。
……巻き込みたくない。誰も。
けれど、ひとりでは足りない。
風妖精が吹き抜けると、砂が走り出す。
波のようだ。
砂漠の植物は、見慣れぬおかしな形をしていた。
分厚い葉、とげだらけの茎。
見たら、彼女はきっと笑うだろう。
面白い、と言いながら。
ジュジュの顔が浮かぶ。
今、どこにいるのだろう。
考えるのは、彼女のことばかりだ。
どれくらい歩いたか、わからない。
水辺に着き、水を飲もうと屈んだとき、声がした。
『……青生』
その名は胸の奥にまっすぐ届いた。
ジュジュの声ではない。けれど、やわらかい響き。
『ここよ』
水面がゆらぐ。
アオイはじっと見つめ、何かを待っていた。
揺れが静まると、映るのは魔女に似た顔立ちの女性だった。
だが、目がまるで違う。深く、あたたかい。
『あの子が、名を呼んでくれたから、あなたに届く』
「ジュジュを知っているの?」
『今、あの子は悲しんでいるわ。扉を開けてあげて』
「魔女に近づけたくない」
『守りたいものが、できたのね』
「あなたは?」
『水の精霊、美雨――ミウ。あなたの母よ』
水から、透明な手が伸びる。
『水の精霊王のもとへいらっしゃい』
アオイの体は、その手に導かれるように水中へ沈んだ。
淡い光の粒が先導する。
水の中でも体は軽い。
懐かしい感覚だった。
――生まれる前。
揺りかごの中で、やさしく包まれていた記憶。
「お母さん……」
光が、嬉しそうに瞬いた。
見えない境界を抜けた先に、水の国があった。
湖の中央に、白く輝く城。
塔の窓から、絶え間なく水が流れ落ちる。
水のカーテンをくぐると、長衣を着た男性が立っていた。
「ミウ、もう休みなさい」
光は、小さな石へと吸い込まれた。
「あ……」
「また会える。今は魔力を使いすぎたのだ」
男性は微笑む。
「私は水の精霊王、ミナト。ミウの父。君の祖父にあたる」
椅子を示し、ゆっくりと語り始めた。
「ミウは好奇心の強い子でね。外の世界が見たいと、太古の森へ通っていた。木の精霊と仲が良くてな。特に樹妃ミノリとは」
雨を降らせ、森と語り、精霊と笑い合う日々。
やがてミウは火竜王と出会い、妻となる。
友である樹王夫婦から、子を生ませる琥珀を授かった。
慎重に、時間をかけて、魔力を注ぎ続けた。
「どんな子が生まれるのだろう、とふたりは毎日そればかり話していた」
幸せな時間。
だが――
ある日、空から大蛇が落ちてきた。
ミナトは、遠い記憶を見るように、静かに目を細めた。




