25 ミウの願い
大蛇は業火の中で全てを呪った。
火は嫌いだ。
幾度この身を焼かれれば、終わるのだろう。
また蘇る。また始まる……。
消えかけた意識の奥に、遠い日の記憶が浮かび上がった。
かつて、ひとりの女がいた。
幼い頃の火事で体に傷を負い、それ以来、人目を避けて生きていた。
それでも、隣に立ってくれる男がいた。
幼なじみの夫だった。
静かで、穏やかな暮らしだった。
――隣に若い夫婦が越してくるまでは。
明るく、愛想のよい妻。働き者の夫。
夫が隣家の妻と笑って話しているのを見て、胸の奥がざわついた。
小さな疑いは、やがて黒い塊へと育つ。
問い詰め、責め、それでも不安は消えない。
隣家の妻に子が宿る。
嫉妬は、やがて狂気へと変わった。
ある夜、女は火を放った。
炎は怖かった。だが心は踊った。
――全部、燃えてしまえばいい。
石が投げつけられ、「魔物だ」と叫ばれた。
割れた硝子に映ったのは、醜く歪んだ自分の姿だった。
家を出た夫が刃を向ける。
「お前がベラを喰ったのか」
違う、と叫びたかった。
声は、もう言葉ではなかった。
気づけば、夫は血の中に倒れていた。
私はどうなってもいい。彼を助けて。
願いは届かなかった。
それが、人としての最後の記憶。
床にたまる赤い血を見た。
黒ではない。
――人の血だ。
やっと……。
白い炎に身を任せた。
黒い影が瓦礫をひとつ拾い、抱きしめた。
「ここにいたのね……帰ってきてくれて嬉しい……」
黒い影が、静かに消えた。
瓦礫がゴロンと床に転がり落ちた。
ジュジュの掌の琥珀は、赤黒く濁り、小さくなっていた。
ハクトがそれを受け取る。
「返せ!」
ミナトの声が鋭く落ちる。
ハクトは動かない。
静かに、琥珀を見つめている。
長い沈黙。
やがて、顔を上げた。
「……アオイを呼ぼう」
ソウセキは何も言わず、鍵を取り出した。
現れたアオイは、立ち尽くした。
焦げた匂い。崩れた床。
そして、静まり返った空気。
――終わっている。
「……え?」
目が、父を、精霊王たちを、順に追う。
自分だけが、そこにいなかった。
胸の奥が、ぎゅっと縮む。
間に合わなかったのだと、遅れて理解する。
唇を噛んだ。
「……お母さんは?」
父から差し出されたのは、光を失った琥珀だった。
それは、母だった。
こんなにも小さくなってしまった……。
指が震えた。
「……ごめんなさい」
誰に向けた言葉か、自分でもわからなかった。
涙が、琥珀に落ちた。
琥珀に触れた瞬間、かすかな光が揺れた。
ほんの針の先ほど。
「貸しなさい!」
ミナトが残る魔力を注ぎ入れた。
火、風、石の手にも渡った。
だが、琥珀は応えない。
最後に、細い枝が伸び、琥珀に触れる。
太古の魔力が、ゆっくりと流れ込む。
琥珀が、わずかに震えた。
やがて、澄んだ青を取り戻す。
淡い光が、ゆっくりと広がった。
輪のように揺らぎ――
そこに、ミウが立っていた。
「お母さん!」
「アオイ……」
ハクトが大きな腕で、ふたりを抱き寄せた。
ミウは、アオイの頬に触れた。
「……ずっと、あなたに触れたかった」
ほんの一滴だけ魔力を息子に残していた。
それは、母のわがままだった。
その一滴が、途切れかけた灯をつなぎとめ、ひとつの願いを叶えた。
やがて、ミウは静かに言った。
「異界では、終わりがありません」
喰らい合い、死んでもなお消えない。
「どれほどの罪でも、終わりだけは与えられるべきです」
精霊王たちは黙った。
重い沈黙が落ちる。
「終わらぬ苦しみを、続けさせるのですか」
大蛇の記憶を見た者の声だった。
ソウセキが、小さく息を吐く。
「終わりは必要じゃな」
石は、永い時を見てきた。
異界への扉が、静かに開こうとしていた。




