18 異界の番人
〈記憶の間〉から戻ると、父は酒瓶を抱え、いびきをかいていた。母はその傍らで縫いもの。
「話は終わったのかい?」
見慣れた光景。母の笑顔。
アオイの胸の奥が、静かに揺れた。
名を取り戻す。
それだけで、本当に終わるのか。
アオイがふと立ち上がった。
「星空を見に行かないか」
「うん。少し、夜風にあたりたい」
洞窟の外は、星明かりに照らされていた。
夜気がひんやりと頬に触れる。
ノリカはふたりを、一気に岩壁の上へと運んだ。
「すごい……いままで見た中で、いちばん綺麗な星空かも」
「星が近いね。石の国は風精霊の国よりも高い場所にあるのかな」
腕を伸ばしても、星には届かない。
「ここからでも、異界は見えないね……」
「もっと上……。大樹様が、落ちないように支えているんだよな……。すごい」
ジュジュの瞳が揺れる。
その先に何があるのかを思うと、少しだけ怖くなる。
それでも。
アオイの声が、夜空に響く。
「父さんたちの名を取り戻す」
その先も、僕は見たい。
ジュジュが、まっすぐ頷く。
「わたしも!」
ノリカが拳を握った。
「三人なら行けるよ!」
ソウセキに礼を言い、三人は再び階段へ向かった。
ジュジュはそっと壁に耳を当てた。
ポコ、ポコ、と低い音が響いている。魔力を吸い上げる音だろうか。葉のかすれる音が、子守歌のように心を鎮めた。
「異界を支えているなんて知らなかった。辛くない? 私にも手伝えることがあったら教えてね」
もし異界が消えたら、父と母に会えるのかな。
そっと、もう一度、耳を当てる。
ポコ……ポコ……
会いたい。
――異界
魔物たちが互いを喰らい合っていた。
強者が生き残り、弱者は餌となる。
ただそれだけの世界。
もう感情はない。かつて人であったことも、覚えていない。
逃げようとすれば、枯れた木の枝に絡め、取られる。
大樹は、支えると同時に逃亡を許さぬ番人でもあった。外からの侵入も決して許さない。
長い時を孤独に過ごす。
空腹と絶望の果て、死骸から黒い魔力が溢れ……異界に穴を開ける。
そこへ偶然通りかかった魔物が、地に落ちる。
わずかに感情を残したものがいた。
大蛇も、そうだった。
卵を腹に抱え、地を這っていたところ、穴に落ちた。
初めて見る青空。眼下に広がる緑の森。
懐かしい、と感じた。
魔物ではないものに生まれ変わりたい、と願った。
願った瞬間、鋭い爪に捕らえられ、焼かれた。
地上で孵った大蛇――魔女は、
感情と知性を持ち、嫉妬深く、強欲で、火竜王への強い恨みを抱いていた。
でもそれだけではなかった。
ミウは、魔女の腹の中で膨大な記憶を覗いてしまった。
黒い魔力に混ざる、人だった頃の思い。
もしかしたら、大蛇は人に戻りたかったのではないか。
異界の地にも、救いは必要なのではないか。
あの地を、元の森に戻すことができたなら――。
大樹と樹妃は、琥珀から生まれた我が子が人として扉をくぐった時、ひどく驚いた。
なぜ魔力がないのか。
――琥珀に、すべてを置いてきてしまったのだ。
精霊にとって魔力は肉体そのもの。あれでは、魂だけが歩いているのと同じだった。
だが、ジュジュの集めてくる朝露は、驚くほど清らかで濃い魔力を含んでいた。
毎日楽しみにしていたのに、火竜王の分身であるトカゲが、ジュジュを大階段へと導いた。
それは、ミウの願いだった。
火竜王の子と共に、異界へ向かってほしいと。
太古の精霊王が切り離した地を、いまさらなぜ。
それでも、ミウには考えがあるのだろう。
娘は笑い、泣き、迷いながらも、階段を上っていく。
手を貸したいが、声は届かない。
『忍び込んだモノがいるようですね』
『すぐ消せるが、しばらく知らぬふりをしよう』
『では、特別な蜜を吸わせましょう』
ジュジュの通り過ぎた階段に、毒々しい色の花が咲いた。
蛇は気づかず、甘い蜜を吸う。
幻覚を見せる蜜だった。
階段を上ったと思い込んでいる。
ジュジュのもとへは、決して辿り着けない。
「ブラック、火竜王様の場所わかる?」
「きゅいん!」
不安はある。
けれど、それ以上に希望があった。
ジュジュは上り続ける。




