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生成AIは電気羊の夢を見ない 〜生成AIの隆盛について現在の私が思う雑感〜

作者: 不某逸馬

 2025年10月末現在。

 web小説を中心にしたいわゆる創作界隈と呼ばれるSNSコミュニティの間で生成AIによる小説の是非が大変話題になっています。きっかけとなったのは某・大手投稿サイトにて生成AIによる短時間での大量投稿が物議を醸した事でした。

 これにより新規ユーザーなどの参入機会や露出が大幅になくなる可能性が示唆され、それはいかがなものかというのが問題の端緒であるが、そこから波及して生成AIの是非についてまで論議が及んでいるというのが現状でしょう。

 さて、これについて流行りの話題に乗っかろうとかいうつもりでこの駄文を書き連ねているわけではなく、いくつかの事柄が話題から抜け落ちているように感じられたので、私個人の備忘録的な意味も込めて、こちらを記すものとします。



 まず最初にこちらで記す内容は、上記の〝事件〟そのものではなく、少しマクロな意味でのAIと創作物との関わり合いについての、個人的かつセンチメンタルチックな見解になります。


 AIについて語る時、いわゆる推進派と呼ばれる方々に多く見られる意見、大勢的主張の一つに、〝パンドラの箱は開けられた〟論があるように思われます。

 技術革新は成った。新しい可能性は開かれた。

 開かれた以上もう止まらないし止めるのは愚かという論調ですね。

 これはまあ言わんとしている事は分かるし、これについて反論するいわゆる反AIと呼ばれる方々の多くは、創作物は文化であり文化は守らなければならない、という論陣を張る場合が多い。更にこれへの反論には、淘汰されるような創作者はただの弱者だから消えてヨシ!というのが多く見られ、更にそこへ……とほぼ水掛け論のようになってまるで政治的右派左派のように対立状態になっているように見えます。実際、反AIの方に対し、〝反AIツイフェミ〟みたいなもう訳のわからないハッシュタグをつけている投稿もあったりして、収拾のつかない、終わりの見えない対立が続いている感じですね。


 ただ、私的にはこれどちらも首を傾げる話でして……。


 そもそも、AIが何故今の形のように作られたか。

 それは人が欲したからだというのが当然ながらあるわけです。

 さて、こういった技術の発展、技術の革新・進歩で古きものが駆逐されていったとなれば何を思い出しますか?

 中学生レベルの知見があれば言わずもがなですよね。


 そうです。

 産業革命です。


 かつての名作アニメ『母を訪ねて三千里』にて、瓶洗いなる仕事が出てきますが、瓶の洗浄ができる機械が工場に導入された事で、それまでそれで生計をたてていた主人公のマルコ少年を含めた人々が職を失うという描写があります。

 これはフィクション内の描写ですが、まさに工業化によって技術が革新され、古きが消えていったという事例ですね。


 先述の〝パンドラの箱は開けられた〟論はいわばこれに乗っかっているわけで、だからこそある程度の知見があれば「確かにそれまでの古いものがなくなるのはいたたまれないけど、まあ仕方ないよね」となるわけです。

 が、しかしここで多くの人は思考が止まっているように見えるんですよね。


 そもそも何故産業革命は起こったか。


 要因や現象の経緯を語るつもりはありません。それは歴史の授業を履修してください。

 私が言いたいのは、それを欲する人があり、それを施行しても受け容れる受け皿があったから、だという事です。


 農業の発達、医療の発達により世界的に人口が増えた。人が増えると食糧だけでなくありとあらゆる日常的なモノが大量に必要になってくる。人口の増加により、大量消費が求められ、それに応える形で機械化が進み産業はどんどん家内製手工業から工場製品へと移り変わっていった。

 市場と求める声があり、工場製品は増えた訳です。

 そこに職人による一点モノの大仰さはいらず、大量消費・大量需要があればこそ機械化は進むわけです。


 今で言えばコンビニのおにぎりやユニクロのシャツみたいなものですね。


 料理人が握った素晴らしいおにぎりなんかより、コンビニのツナマヨむすびの方が多くの人には必要なわけです。それが大量消費の今の社会です。

 翻って、大量消費の不要なもの、需要がないものは工場から消えていき、作られなくなるというのは言わずもがなで、つまり「そこまでのモノは求めてないけど、まあ必要だし、なるべく安価ですぐに手に入れられるモノとしてそういうのいるよね」的なものが工場製品なわけです。乱暴に言えば。


 ハナっから一点モノとしての価値が高いものやそこに価値や需要の比重が高いものは工場製品化されないわけです。


 例えば盆栽。


 老人臭いと言われそうですがそれが何故か浮かんじゃったからしょうがないでしょ……というのはさておき。


 手間暇かけて丹精に手入れして、己の美学の向くまま箱庭的世界を作り出すそれに、大量消費の需要がありますか?

 確か雑貨屋や東急ハンズなんかでミニ盆栽みたいなのがあったりしますが、それらはなんちゃっての工業製品で、盆栽需要とはまあマッチングしませんよね。だからせいぜいそこ止まりでそれらのイミテーション的製品によって本来の盆栽の需要は損なわれないわけです。


 さて、何を言いたいかと言えば、大量消費されるべきもの、逆に言えば大量消費で構わないという価値しか見出せられてなく、かつ需要があるとされるものこそ、機械化の洗礼を受けていくわけです。これらの歴史を見ていけばそれは自明でしょう。


 そして多くの企業が「これからはAIの時代!」とか言ってAI、AIとやたら言いたがるのはそりゃ企業からすればマンパワーを減らして機械化し大量供給させる方が望ましいからに決まっているからです。


 ここで考えていただきたいのは、そもそも小説って大量消費されるものなの? という事です。


 ここには二つのステージがあると思います。それは――


 ①小説にそこまでの需要があるのか?


 ②小説という括りで全部をまとめていいのか


 という二点です。


 ①については甚だ疑問で、そもそも現在出版不況なんて言われてますし、いやいやなろう系なんかのweb小説はめっちゃ売れてるっしょ! という意見もあるかと思いますがとすると②の全部を小説で括っていいのかという話につながっていきます。

 なるほど、web小説にはそこまでの需要が仮にあったとして、例えば文芸作品にそれほどのパイはあるのか。

 私はとてもじゃないけどあるように思いません。


 そしてそもそも論なのですが――。


 小説というものは、それがライトノベルやweb小説であったとしても「大量消費されるそこそこのモノ」として認知されていいのか? という疑問があります。


 というか、今の今まで、或いはこれからもそうかもしれませんが、web小説の多くは「その程度でいいんじゃね?」と位置付けされてきたのではないでしょうか?

 となると、そりゃあAIに食われて機械化されていくわな、と思う訳です。

 だって大量消費されるレベルものしか消費されてないわけですから、行き着く先はより効率的に断続なく供給される方になるのは当たり前。


 つまりAI的なものこそ、読み手も、いや何より書き手側、作家側が求め続けてきたわけです。

 深甚な話や滋味ある物語より、お手軽で簡単で頭カラっぽにして読んではすぐに捨てられるような〝大量消費〟こそ、他ならぬ作家側が求め続けてきたわけですからAIになるのは当然の帰結でしょう。


 そして今現在AIできゃっほきゃっほと喜んでいるおサルさん達も、というよりそれらのおサルさん達こそ、他ならぬAIによって駆逐されるのも簡単に予測される未来なわけです。


 AI推進と自己を謳って、これからは俺らの時代! と悦に入って「はい〜反AI乙〜。お前らのもみ〜んな学習させてもらいま〜すww」と言ってる人々。

 これらはかなりすぐの未来、おそらく数年以内に全員、他ならぬAIによって不要とされ消えていくでしょう。


 何故なら産業革命によって機械化された結果、最終的に勝ち組になったのはなんですか?

 それは機械を導入した個人、つまりこの場合のおサルさん達ですか?

 いいえ、違います。

 言わずもがな、大資本の企業です。


 AIという機械を導入するなら、大資本こそ絶対的に勝利を約束された者達です。


 工業化という世界では資本こそ正義で最強。

 誰も資本には勝てません。


 「学習♪ 学習〜♪」と言って我が世の春と思う間もなく、大資本が投入された大量生産のラインによってそれらは無価値無意味なモノとして塵芥すら残さず消えていくと思います……。



 で、話を戻します。


 そもそもなんですが――。


 そういった粗製濫造されたものが、小説には必要なんだろうか?


 ですね。


 例えば上述したおにぎりならば大量消費になるのはわかります。

 衣料品、日常品などもそう。ようは常日頃必要になってくるものは「その程度」でいい、というより「その程度」こそいい、となるのは分かりきった話。

 ポリ袋や歯磨き粉に職人の技はいりませんよ。


 では、小説はそんな「その程度」の日常品なんでしょうか?


 日常品的性質を求める人もいるでしょう。いるというかめっちゃ多いとすら思います。

 ただしそれらの人々も、例えばPCが出力した粗製濫造のそこそこのシナリオで書かれたコンビニで売られる漫画より、鬼滅の刃や国宝のような物語こそ望むのではないでしょうか?


 そこそこの物語にだけ需要がある。

 だからそこそこの物語を効率よく作れる人間こそ勝者! AI使えない人間は敗者!


 小説がおにぎりなら、小説がTシャツならば――その通りでしょう。


 けど小説にそんなインスタント性のみが求められているとは思えない。むしろ真逆ではないでしょうか。映画も、音楽も、漫画もそうです。



 ここでもう一つ言いたいのは、クリエイティビティの余地、という観点です。


 そも、クリエイティブ、創作とはいかなるものでしょうか? いや、創作に求められる要素と言ってもいいでしょう。その要素の一つです。


 まずクリエイティブを語る際に切り離せないのは、ある種の自己表現――言い換えればアート性という点です。


 どれだけ大量消費の世界になってもこれだけ技術が発展しても、アートというのがなくなりはしません。アートの需要が減ったという話はついぞ聞いた事がないです。

 何故なら、人はアートと触れる時、「心」に触れ、「心」を求めるからです。

 小説はアートだ! なんて言ってるわけではありません。

 創作物とは例えどれだけのものであっても、少なからずそこにアート性が内包されてしまうものだと言いたい訳です。それが子供の落書きでも世界的画家の渾身の大作でもプリントアウトしたコラ画像でもそうです。

 それを〝出力〟した瞬間、出力するべき心があったからこそそれは生み出されたわけです。

 そしていわゆる創作物と一般に言われるものの多くは、その「心」の比重、つまりアート性が多く含まれるものがよりクリエイティビティの高いものとして認知されているのではないでしょうか?


 AIの出すものに、この「心」があるのでしょうか?

 そんなものは概念だし、AIだろうが何だろうが読み手が感動すりゃそれでいいんだよというのが真実でしょうし、「心」がないとは言いません。ただし、この「心」を生み出す時、人は何らかのクリエイティビティを発揮してると思うのです。


 このAI話を書いているまさにリアルタイムで、丁度こんな話がありました。


 とあるwebクリエイターがAIのせいで自分の仕事が奪われた! と嘆きのブログを面白おかしく書いた。しかしそれに対し、こんな面白い文章はAIに書けない、こんな文章書ける時点であんたは大丈夫、AIに負けないよとコメントが入る。しかしその元の投稿主が、実はこれAIに書いてもらった捏造記事でした〜とタネ明かし……。



 ここで終われば、まさにAIの文章にも心がある! 人の心の琴線に触れられる! となるでしょう。

 しかしこれには続きがあって、このAIに出力してもらった文章を、投稿主は推敲し、特定の用語を書き換え、手入れをしたというわけです。


 つまりそこには人の手が介入しているわけで、これこそがクリエイティビティの余地ではないでしょうか?


 AI出力そのままの文章だと「何か違うな」と思ったから、手直しをしたわけで、その違和感やこうしたいという欲求、想い、自然と出てしまう、出てしまわざるを得ない「己」こそクリエイティビティなんだと思う訳です。

 そうでないなら、そんな何かを感じなければAI出力のままでいいわけで、工業製品とはまさにそれになるわけです。

 スーパーに並んでいる菓子パンに、製作者の最後の手入れが入っているでしょうか?


 この滲み出る「自身」こそがクリエイティビティの余地で、注入されたその思いの大きさや、書き手、或いは詠み手の環境などに左右されはすれ、それによって人の心は動き、それを求めているのがアートなわけです。


 おかしい事に、人という生き物は、何故か能動的に感動したがるんですよね……。だからこそアートはなくならないわけなんです。


 で、小説をはじめとした創作物にはそのアート性こそ強く求められる場合が多くあり、それはおそらく人が人をやめない限りなくならないと思うのです。

 例えばショート動画や短文の記事のようなインスタント性の強いものには、そこまでのアート性は表出し難いケースが考えられるでしょう。

 けれども小説、少なくとも出版物となれば、その大半は消費時間を要するものが多く、そこにかけた時間や摂取にかけた日数に応じ、期待も上がりまたはそれを凌駕する体験を人は求めるわけです。

 そこに、粗製濫造された工業製品的「心」の需要が見込めないのは分かる話ではないでしょうか?

 翻って、だからこそなろう小説やweb小説の多くは一話の文字数が短く、頭空っぽにして読める形式へと深化していったのでしょう。

 よりインスタント性高く、粗製濫造のそこそこ体験こそ、作家は求めたのですから。


 もっと言えばこの話は、だからこそweb小説は文学と大上段に構える連中から見下されるという話にも繋がるのかもしれません。


 しかしそうした「その程度」の製品化していったweb小説と違い、そこ以外の多くの小説、小説だけでなく漫画やアニメ、映画、いや、そのメインストリームから外れたweb小説も含めて、それらのほとんどはかけがえのない体験を提供する事こそ目標にしているのだと思います。

 漫画であれば、鬼滅の刃みたいになりたいな、とか。

 その憧れを求めて創られる。

 それがあり、その声が減らない限り、AIには駆逐されないしそもそもほとんどの個人AIは死滅していくようにすら思います。



 私は上の方で、クリエイティビティの余地、と書きました。


 この余地とは正に己であり、表現したいという原初の欲求でありその強さや輝きこそ、人は求めているしそれは永遠になくならないしAIには無理なものだと思うのです。

 何故ならAIに、表現したいという欲求――「欲望」はないからです。

 だからもし本当の意味でクリイティブがAIなどに負ける日がくるのであれば、それはマシンが欲望を持った時だと思います。

 つまりアンドロイドが電気羊の夢を見た時こそが、真のシンギュラリティ・ポイントというわけですね。



 ところで――。

 クリエイティビティ高いものの例として鬼滅の刃を挙げましたが、こんなに沢山物語があって大量消費されつつあるのに、それでもみんな鬼滅の刃を観るのは何故でしょう?

 流行ってるから? それもあるでしょう。

 でも多くの人が、そして海外の人ですらこれを見て感動する訳です。

 それはキャラに対してかもしれない。台詞かもしれない。アニメならばその動きかもしれない。

 でもその何かに対し、観る者の心は震え、感動し、或る人は思う訳です。


 ああ、自分もこんなお話が書けたらな――と。


 その衝動、思いこそがクリエイティビティでありそれを含ませるにはAIだけでは未来永劫不可能なんですよね。だって、その「憧れ」は人の想いそのものだから。

 それがどれだけ乗っけられるかは分からないし、何も誰にも伝わらないかもしれない。

 けれどもあの時見た、あの時感じた感動はきっと誰もが本物で、そうなりたいと願った時、そこには人間にしかないクリエイティビティがあると思うのです。



 日本の伝説的パンクロックバンド、THE BLUE HEARTSの甲本ヒロト(現在はザ・クロマニヨンズ)は言いました。


 ――僕がやったの(演奏したロック)は、コピーなんです。

 そのコピーは、歌をコピーしたとか音をコピーしたとか歌詞をコピーしたとか技術とかそういうんじゃなくて、僕は心をコピーしたんです。

 (世界的パンクロックバンドThe Clashの)ジョン・ストラマーが叫んだあの時、あの演奏、あの歌、その歌った心を僕はコピーしたんです。だって僕はジョンになりたかったから。ジョンみたいに歌いたい、ジョンみたいに叫びたい、だからあの時聞いたジョンの(僕が感じた)心そのものを僕はコピーしたんです――。


 創作者の多くは、感動する何かに触れ、そこに心を感じ、あんな風になりたいなと願い、誰もが憧れの誰かのその「心」をコピーするものではないでしょうか?

 東野圭吾さんみたいなミステリーを書きたい。

 ハリーポッターみたいな壮大なファンタジーを書きたい。

 スタインベックのような唯一無二の話を描いてみたい。

 その衝動。

 誰かの心に触れて感化されてコピーした心、そしてそれを表現しはじめた事こそが、私はクリエイティビティの余地だと思ってます。



 さて、話を最初に戻します。


 AIはこうなったらいいなという人の願いの過程、現代時点での帰結として生み出されました。

 そこにあるのは大量消費の需要であり、それを求めた声です。

 その行き着く先は身も蓋も無い資本主義的搾取だけです。


 だからweb小説が自ら大量消費性を自身のアイデンティティとして定義し、そうあるべきものとして変わらない限り、AIに駆逐されるのは当然でしょう。




 でも思うんですよね。




 私の書棚にある古い本。

 その本の文章は何となく拙いし、そもそも書名も全然有名じゃないし、誰に言っても「何その作品?」て言われるような小説。

 でもその本は、私にとってはかけがえのない一冊なんです。

 それはどうしてかけがえがないかと言えば、そこに私が「心」を感じたからです。


 その「心」は、私には――または私にだけ――ずっとずっと残り続けて、今も燠火のように消えずに灯っているんです。


 それは今や絶版となったマイナーなファンタジー小説です。


 もし今なら、それはweb小説として投稿されてしまっただろうと思うような本です。

 でもそこにあった感動は今だに残り続けています。


 同じように、どこかで誰かがweb小説のどれかにそれを感じ、それがある限り、いずれAIとは別のステージにいくんじゃないかと思うんです。


 いえ、そうなってほしいと願っています。


<了>

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