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沢田の孤独とコンカフェの笑顔 その1

「今日は、もう終わった…はずだよな」


 辺りはすでに薄暗く、街のネオンがぽつぽつと点灯し始めていた。時計を見ると午後8時を少し回っている。仕事帰りの道すがら、42歳の沢田はふらふらと疲れた体を引きずって歩いていた。激務に追われ、ここ数週間、ほとんど寝られない日々が続き、いつものように終電近くまで残業を繰り返していた。そんなある日、ふと仕事の隙間ができたことで、早めに会社を出ることができたのだ。しかし、帰宅しても待っているのは一人きりの静寂。誰も迎えてはくれない。会社でも家でも、居場所を失ったような気分だった。


 ふと、足を止めたのは見慣れない路地の角。暗がりの中に、柔らかな光を放つ看板が目に入った。


「…メイドカフェ?」


 最近は「コンセプトカフェ」と呼ばれることが増えているが、昔は「メイドカフェ」として広く知られていた場所だ。看板には「メイドの庭園 ヴェルヴェーヌ」という文字があり、ヴェルヴェーヌの花があしらわれた温かみのあるデザインが心を引き寄せる。年齢相応の疲れた顔とは裏腹に、優しい雰囲気が沢田を誘い込んでくるかのようだ。馬鹿げた場所だと笑う気力さえない。ただ、今の自分には、一杯のビールや安酒よりも、何か別の、温かいものが欲しかったのかもしれない。心の奥底で、ふとそんな思いがよぎった。


 戸惑いを感じつつも、沢田は知らぬ間にその店の扉に手を伸ばしていた。重たい扉が静かに開くと、中から溢れる柔らかい光と、可愛らしい音楽が迎えてくれた。


「おかえりなさいませ、ご主人様!」


 黒髪のツインテールを揺らし、シックな白黒(モノクロ)のメイド服を着た小柄なメイドが、明るい笑顔で迎えてくれる。耳元に響いたその言葉に、沢田は戸惑いと同時に、ほんの一瞬だけ肩の力が抜けたような気がした。店内には、笑顔のメイドたちが元気に接客している光景が広がっている。彼らの楽しそうな様子に、心が少し温かくなるのを感じる。


「…こんなところに、俺は何をしに来たんだ?」


 そう思いながらも、足は自然とカウンター席に向かっていた。近くにいたメイドが優しい笑顔で声をかける。


「ご主人様、お好きな席へどうぞ!ゆっくりくつろいでくださいね。」


 その言葉に少し驚きつつも、カウンター席に座ることにした。目の前にはボトルが並び、本日のフードメニューがホワイトボードに記載されている。カラフルな飲み物や食べ物の写真が眩しく映る。見慣れたビールやウイスキーなどの定番アルコールから、聞いたことのないカクテルがずらりと並んでいた。


 庭園という名の通り、店内はまるで異世界のようだ。壁紙には可憐な花々が描かれ、フォトスポットには美しい装飾が施されている。アンティーク調の家具や小物が並び、どこか懐かしい雰囲気を醸し出している。まるで夢の中の庭園にいるかのような心地よさが、徐々に心を温めていく。


「当店は、アルコールの飲み放題プランもございますよ、ご主人様。」


 彼女の柔らかな説明に、心の中で躊躇していたものが少し和らぐのを感じた。飲み放題という言葉が心に響くが、今はまず一杯、様子を見てからにしようと考える。

「じゃあ、アルコール飲み放題で、まずはビールをもらおうかな」


 その言葉は、普段とは違い、少し柔らかく響いた。メイドは「かしこまりました、ご主人様!」と明るく返事をし、メニューを持ち帰っていった。


 沢田はカウンターに座り、周りの様子を眺めた。メイドたちがテーブルに座るお客さんたちに笑顔で接し、時折楽しげな声が響いてくる。ふと心の中に静かな高揚感が芽生える。疲れた日常から少し離れた特別な空間が、ここにあるのだ。しかし同時に、見知らぬ場所に独りでいることを実感し、心の奥に孤独感が忍び寄る。周囲の賑やかな雰囲気とは裏腹に、自分だけが取り残されているような気がして、少し不安な気持ちが胸をよぎる。周りの楽しそうな笑顔を見つめるたびに、ますます自分の存在が希薄に感じら


「ご主人様、お待たせいたしました。」


 その声は、沢田の孤独感から引っ張り出すかのように響いた。優しい響きに反応するかのように、心の奥の淀んだ部分が少しだけ明るくなる。ビールが目の前に置かれる。透明なグラスに注がれた黄金色の液体が、きらきらと輝いている。


「乾杯…!」


 誰に向けたわけでもなく、思わず声に出した言葉が周囲の喧騒にかき消される。沢田はグラスを持ち上げ、一口飲んだ。冷たくて心地よい苦味が広がり、心の奥にじんわりと温かさが宿る。


「いかがですか、ご主人様?」


 久しぶりのアルコールに心を躍らせていた沢田は、メイドの存在を一瞬忘れていた。


「いいね、すごく美味しいよ。」


 その瞬間、少しでも人と接することができた喜びが心を満たしていく。普段から会社の中でも誰とも関わりがない自分だが、ここでは全く違う、人との繋がりを感じることができるのだ。


「ありがとうございます!他にもたくさん美味しいものがありますから、ぜひお試しくださいね。」


 沢田はその言葉に促され、次は何を頼もうかと考え始めた。ホワイトボードを指さしながら、「じゃあ、何かおすすめのフードメニューはある?」と尋ねる。


「本日のフードメニューは特製のカレーライスです!スパイスが効いていて、ご主人様の心を温めてくれると思います!」


 心を温めるという言葉に引かれ、沢田は思わず笑顔になった。「じゃあ、カレーライスを一皿頼むよ。」


「お任せください!すぐにご用意いたしますね。」


 しばらくの間、飲み物を楽しみながら周りの景色に目を向けた。メイドたちの会話や笑い声、店内の雰囲気が何とも言えない温かさを感じさせてくれる。


 少しすると、カレーライスが運ばれてきた。


「お待たせいたしました!こちらが特製のカレーライスです。どうぞ、いただいてください。」


「ありがとう。」と言い、スプーンを手に取った。


「いただきます。」


 一口食べてみると、スパイシーでありながらもまろやかさが口の中で広がった。思わず目を閉じて、その味わいを楽しむ。こんなに美味しいものを食べるのは久しぶりだった。仕事に追われ、手軽なもので済ませていた食事とは全く違う、心が満たされる瞬間だった。


「どうですか、ご主人様?」


「最高だよ、これ。」


 その言葉に、メイドは嬉しそうに微笑み、少し照れたような表情を見せた。沢田はその笑顔に心がほっと温かくなるのを感じた。この場所がもたらす安心感や居心地の良さに気づいたのだ。


「嬉しいです!たくさん楽しんでくださいね。ご主人様の笑顔が見られるのが一番の喜びですから!」


 その言葉に心が温かくなり、何だか少し元気が出てきた。ここでの時間が、どれほど特別なものであるかを感じ始めていた。


「来てよかった。」と、声が漏れる。


「そう言っていただけると、本当に嬉しいです!この場所がご主人様の心の癒しになれたら、私たちも幸せです。」


 その瞬間、周りの賑やかさが一層心に響く。自分の居場所を見つけたような感覚が広がり、何か新しい始まりが感じられた。心が軽くなるのを感じながら、楽しい時間を過ごしていく。

 しばらくして、メイドが席に戻ってきて、柔らかい笑顔で言った。「ご主人様、そろそろ閉店の時間です。お楽しみいただけましたでしょうか?」


「え、もうそんな時間?」と驚く沢田。時計を見ると、確かに午後10時になろうとしていた。


「本当に楽しい時間が過ごせたよ。ありがとう!」と心から感謝の気持ちを伝えた。


 メイドは微笑んで「こちらこそ、ありがとうございました。お会計は3000円になります」と告げる。沢田は一瞬驚いたが、思ったよりも高くないなと感じた。美味しい料理と楽しい時間を考えれば、むしろお得だと思えた。


「わかりました。これでお願いします。」と支払いを済ませると、メイドはにっこり笑って「ご主人様、またのご来店をお待ちしております!」と送り出してくれた。


 店を出ると、清々しい夜風が心地よく感じられた。周囲は静まり返っていたが、心の中はまだ賑やかさが残っている。


「今日は本当にいい時間を過ごせたな。」と思いながら、沢田は家路につく。足取りは軽やかで、まるで心の中がすっきりと晴れ渡ったかのように感じる。楽しいひとときを過ごした余韻が、彼の心を満たしていた。ふと、あのメイドの名前を聞きそびれたことを思い出し、次回こそは名前を聞いてみようと決意する。そんなことを考えながら、自然と笑顔がこぼれ、ゆったりとした足取りで帰路についた。

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