牢屋の中でもできること
翌朝、鉄格子の方から聞こえてきたカチャカチャという物音で目を覚ました。床の上に寝ていたので全身が痛い。鉄格子の向こうにいた女性は、俺が目を覚ましたのを認めると、短く言った。
「朝食。」
ちょっと不愛想だな、と思ったが、文句を言ってもしょうがない。
「ありがとう!昨日から何も食べていなかったから、お腹がすいていたんだ。あなたのようにやさしい人がいてくれてとても嬉しい。」
相手に笑顔を向けながら、できうる限り愛想よく伝える。とにかく今は、潜在的な味方を増やすことだ。この女性が何者かは知らないが、心証を良くしておいて困ることはあるまい。ただ残念ながら、あいさつの効果は薄かったようだ。何も言わず、鉄格子から少し離れた位置に腰を下ろした。
「なあ、あんたはもう食事を済ませたのか?」
彼女が鉄格子から差し入れてくれたパンとスープを受け取ると、俺は例の騎士に尋ねた。彼は既に起きていて、昨日と同じように壁を背に静かに座っていた。俺の質問に騎士は黙って頷いた。
どうもこの男は、俺と会話をしようという気が無いようだ。よろしい、ならば勝負だ!この牢を出るときまでに、この男が俺を親友と呼ぶようにしてやろうではないか!まず手始めに、友好的に相手の名前を知るところから始めよう。こうして目標を立てると、急にやる気が湧いてきた。俺は受け取った硬いパンを、薄いスープに浸して食べながら男に向かって話しかけた。
「いやー、昨日は夕食を食べ損ねたから腹が減って仕方なかったんだ。このパンとスープでも、今は輝いて見えるね。俺、朝は大体パンとスープだけでなんだ。たまに米も食べるけど、やっぱり朝はパンがいいな。あんたは朝はパン派?ごはん派?」
騎士は答えない。
「ああ、パンといっしょに飲むとしたら何のスープが好き?俺は断然コーンポタージュだね。冬の寒い朝はそれに限るよ。俺はインスタントのコーンポタージュが大好きで、冬は毎日それだ。カリカリに焼いたトーストに半熟の目玉焼きをのっけて、インスタントのコーンポタージュと一緒に食べる。これが最強。インスタントがどんどん旨くなってるから、本当にありがたいよ。」
騎士はまたも答えなかった。
「でも実家に帰った時は別だなぁ。実家の朝飯はごはんとみそ汁が出てくるんだ。たまに実家に帰って食べると、やっぱり味噌汁はうまいんだよな~。実家にいた時はたいして好きでもなかったけれど、一人暮らしするようになってから、無性にあの味噌汁が飲みたくなる時が来るんだよな~。あんたにもそういうものはある?」
「俺は、妻のポトフがまた食べたい。」
騎士はとうとう答えた。思うに、この男は元来親切なのだと思う。昨日もそうであるが、家族の話をしたときには会話に応じてくれた。
「ポトフか、うまそうだな。冬の時期にはもってこいだな。じゃがいも、玉ねぎ、にんじん、あとは…。」
「妻はニンジンを入れなかった。」
男は言った。
「俺が嫌がったからな。代わりにキャベツと、鶏肉をどっさり。」
「そのポトフは最高だな!俺もニンジンが子供の時から嫌いでな、母がニンジンを残すと怒るものだから、ポケットの中に隠して後でこっそり捨てたもんだよ。」
「別の世界でも、子供のやることは同じらしいな。」
騎士が愉快そうに言った。
「俺の母は、俺を今でも野菜嫌いの子供のように扱うよ。たまに会うと、『アク、野菜を取らなきゃだめよ』と必ず言うのだから参ってしまう。子供の時のあだ名で呼ぶのもやめて欲しい。ああ、アクっていうのは俺の古いあだ名だ。俺は斑鳩 文章というのだが、子供のころの俺はアキと発音できずにアクと言っていたんだと。あんたの母は、あんたを何て呼ぶんだ?」
「ああ、母は俺のことをカヴァロ、馬、と呼んでいたよ。子供の頃、馬のように足が速くなりたいと俺はよく母に言っていたらしい。」
「かっこいいじゃないか。よろしくな、カヴァロ。」
「カヴァロはやめてくれ。」
騎士は照れ臭そうに言った。
「では何と呼べばいい?」
「ニコラだ。」
「そうか、では改めてよろしくな、ニコラ。」
「ああ、お前のことはアクと呼ぶぞ。」
「やめてくれ!」
こうして、俺は何とか騎士の名前を聞き出すことに成功した。この会話以降、この騎士、ニコラは少し心を開いてくれたようで、それ以降ぽつぽつとこちらの質問に答えてくれるようになったのだから、二日目にしては出来過ぎではないか。もっとも、これ以降、ニコラは俺のことを面白がってアクと呼ぶようになってしまったが。
ニコラも退屈していたのだろう、俺の問いに答えて、このロムリア王国について説明してくれた。ニコラによれば、このロムリア王国は200年ほど前にロムリア王家によって建国されたらしい。ただ現在のロムリア王家は、わずかな直轄領と宗教的な権威を持つのみで、政治は元老院によって取り仕切られているとのことだ。元老院は4年に一度の選挙で議員が選ばれ、彼らの合議によって政治を動かしているらしい。なんとなく、古代ローマに似ていると思った。
「この地中海世界の覇者、それがこのロムリア王国だ。」
ニコラが誇らしげに言うには、建国以来ロムリアは戦争に負けたことがなく、今や世界一の大国であるらしい。しかし、膨張を続けた結果、ロムリアはとうとう最悪の敵と出会ってしまった。それがパルキア王国だった。東方にあるパルキア王国に住む人々は、別の言葉を話し、肌が小麦色で、異形の神々を信奉している。ロムリアとパルキアはかつては穏やかに交易をする程度の仲だったが、ロムリアが東方に住むライベック族を敗走させたとき、その対立は決定的となった。ライベック族がパルキア王に保護を求めたため、それを口実にパルキアがロムリアへの攻撃を開始したからである。
「そして今に至るというわけだ。」
「そうだ。確かにパルキアは強い。だが我らは必ず勝利する。それがこの国の伝統だからな。」
ニコラのおかげでこの国の様子がかなり分かってきた。
「とても分かりやすい説明だったよ、ありがとうニコラ。」
ニコラに礼を言うと、彼は返事をする代わりに軽く頷いた。さて、どうしたものか。ニコラの話によると、ここロムリア王国にって召喚術というのは全くの未知の魔術らしい。元の国に帰るのであれば、召喚術に長けたパルキア王国に行く必要があるだろう。だが言葉が違うというのはかなりの痛手だ。30年近く日本語一本で生きてきた自分が、今更新しい言語をマスター出来るとは到底思えなかった。そういえば、俺はなぜニコラと会話ができるのだろうか?まあいい、都合がいいのだからそこは後だ。
「ロムリアでパルキア語を勉強することはできないか?」
「異世界に来て最初にやるのが他国の言葉の勉強?他にやることはいくらでもありそうだが。」
ニコラは理解できないといった様子で続ける。
「どうしてもというなら、そいつから学べばいいだろう。」
そういってニコラは牢の外を指差した。その先には、朝食を運んできてくれた女性が静かに座っていた。
「そうか、彼女はあのローブの男の奴隷だったな。」
「そうだ。こっちの言葉を少しは分かる様だし、何とかなるのではないか。最も、そいつがお前の病毒にやられなかったら、だが。」
改めて女性を見る。少し疲れて見えるが、健康的な浅黒い肌や豊かな黒髪が彼女の若さを存分にし主張しており、整った眉ときりりとした瞳からは彼女の意志の強さと知性を見て取れた。右足の足枷がそれだけに痛々しく思えた。
「こんにちは!」
努めて明るい声で、彼女にあいさつしてみた。彼女は話しかけられたと気づくと、何事かと俺のほうを見た。
「パルキアの言葉を教えて欲しいんだ。」
俺は、彼女に微笑みかけながらそう伝えた。