第1話 騒がしい者共
第1話 騒がしい者共
前後不覚の感覚、まるで自分が温かい沼の底へゆっくりとゆっくりと沈んでいくような、どこか安心感を覚える優しい微睡の中で、自分が眠っていることに気が付く。
その気づきと同時に、ゆっくりと、それこそ沼の底から少しずつ浮上していくような感覚とともに、意識がはっきりとして来た。
「む、ぅ……」
そして彼はパチリ、と目を開ける。
「っ!」
視界に広がるのは眩しく、反射的にもう一度目を瞑ってしまうほど、強く白い光。
自身の眉間に皺が寄るのを感じながら、今度はゆっくりと強く閉じた瞼を開いていく。
倉井天月――天月は寝起きが悪い。しかしそれは二度寝をしたり、起きた直後に機嫌が著しく悪くなるといったものではなく、単純に、起きた直後の行動力と思考能力が極端に悪いというだけのことだ。
具体的に言うと、天月は自身の経営する飲食店「イーター」の開店時間が極端に遅いのは、実は彼のそんな寝起きの悪さに起因するところが大きい。もちろん個人経営の店なので、仕込みや雑務などの作業に時間がかかってしまうという理由もある。だが何より最大の要因は、天月が「イーター」を経営し始めた頃、起床してすぐに食材の仕込みを行っていて、その際に包丁で結構深く手を切ってしまった事が多発し、太陽や七星が心配して経営時間をずらすように、と天月に懇願してきたからである。
二人が説得した際に言った、「どうせ朝早く開店したところで、客なんか来ない」という一言が余程彼の心を抉ったのか、説得が終わるころには天月の目尻は若干湿っていたとかいなかったとか。
話題閑休
再び瞼を開いた天月の視界には、やはり白い光が広がっていた。それは太陽の光にしては青空も見えなく、室内の人工照明にしては、天井らしきものも見えない、有体に言うと何とも不思議な光景であった。
「……?」
しかし、寝起きの天月には、それを意識するような思考能力は存在しない。
かろうじて彼が気づいたのは、どうやら自分が横になっているということである。それも、布団やベッドの上ではないらしく、背中には固い床が感じられる。
それに、体がやけに重く、その重みも二日酔いや体調不良による重さと違うものが自身の体に存在することにも、遅れて気が付く。
体を起こそうにも、両手すら動かすことが出来ず、まるで誰かが自分の四肢を押さえつけているかのような感覚に、ようやく通常の半分程度まで思考能力の戻った彼は、首から上は自由に動かせることに気が付き、首だけを動かして自身の体を確認する。
視線の先にある自身の体を確認して――
「んぎゃう!?」
天月は思わず奇声を上げる。
そして、先ほどまで体に纏わりついていた寝起き特有の倦怠感などは吹き飛び、思考が一気にクリアになっていくのを感じる。
天月の体には何の異変もなかった。いつも通り、そう、いつも通りの体。四肢が縛り付けられているようなことも無ければ、服装すらもいつも店で来ている燕尾服のまま――なぜ天月が飲食店を経営しているにもかかわらず、燕尾服を着用しているのかについては後に説明しよう――靴も履いている。まったく異常なしである。
ではなぜ、狂歌に不意打ちで接吻された時のような奇声を、天月が上げてしまったのかというと――
「何してんの……?」
まず胴体、そこには愛妹である七星が、お気に入りの人形を抱き締める少女の如く小さな四肢で天月の胴体にしがみつき、すぅ…、すぅ…、と可愛らしい寝息をたてている姿があった。
七星から感じられる重さがあまりにも軽く、それはあと四年もすれば成人する少女とは思えないほどで、視界で捉えるまで、天月は彼女の存在に気が付かなかった。
しかし、天月が奇声を上げた理由はソコではない。
七星が寝ている天月の寝床に侵入して、気が付くとこの様な形で抱き付いている。と言った事は、ほぼ習慣と言っても過言でも無いほどの頻度で行われており、天月にしてみれば可愛い妹が甘えて来てくれているのだから嫌なわけがなく、寧ろこれ以上無いぐらい嬉しい出来事である。
何故か七星は同じ兄であるはずの太陽に対しては、抱き付く事はあっても寝床に入ってくる事はない。天月はそれを不思議に思い、何度か七星に直接訪ねてみたが、返ってきた答えは「何となく」だった。
それはともかく、天月は自身の胸部に頭を預け寝息をたてている妹から、その両隣に意識を向ける。
天月の右腕には霧崎桐香が、左腕には清井心がそれぞれしがみついて、七星と同様に寝息をたてていた。
大事なことなのでもう一度言おう。……天月の両腕に、二人の女性が、しがみついているのだ。
何故しがみついてと強調したのかと言えば、それは二人が示し合わせたかの様に、天月の腕に自身の腕を絡ませ、更に自身の胸部やら下半身やらを腕に密着させているのだ。流石にこの状況で混乱するなと言うのは無理な話である。少なくとも天月自身、表面上は取り繕っているが心のなかでは大いに取り乱している。
(む、むう? 何だ? うえ、あ、? 何でココロとキリカさんが? 昨日は皆で飲んで? えっと、俺は酒を飲んだ? 覚えてない……? 俺がそこまで飲む筈は……ああ、狂歌に無理矢理飲まされたか?)
天月自身はそれほど酒が飲める訳ではない。天月の場合酔いが一気に来るので、数秒前迄は平気な顔をして酒を飲んでいたのに、急に酔い潰れると言う些か宜しくない性質を持っているため、過去に二度酒での失敗で懲りて以降、一日に飲んでも度数の弱い物をコップ数杯と言う制限を自身に課している。
しかし、天月の天敵とも言える存在、紅流狂歌は、酔うと人に酒を飲ませたがると言う、テレビドラマ等でよく見かける、迷惑な会社の上司の様な行動をとるため、以前にもそれで度々酔い潰されると言う経験を天月は受けてきた。
それ故に天月は、自身の昨晩の記憶が無いのは、狂歌に飲まされた挙げ句、酔い潰れたのではないか、その様な予想をたてた。
しかし、それでは昨晩の記憶が無いのは説明出来ても、今の両手に花どころか花畑に寝転がっているような、男としてはかなり幸せな状況に説明がつかない。
(……まさかとは思うが、酔って間違いを起こしたとかじゃ……ない……よな?)
ふと浮かんだその考えが、しかしこの状況を説明するには十分……と言うか、天月の普段余り使わない脳みそでは、それ以外の考えは浮かばなかった。
七星は問題ない。
これは七星には間違いを起こしても問題ないと言う意味ではなく、天月自信が例えどんなに酔って前後不覚になっていようとも、妹に手を出す等と言う行為は、絶対にする筈の無いと言い切れる、そう言う意味である。
しかし、天月は知り合いの殆どから女の様な容姿をしていると言われるものの、それでも男である。
流石に素面では彼女達と関係を持つなど、考えはしなくはないが、しかし実行はしない。するはずがない。
だが、酔って思考能力が低下した状態ならどうだろうか?
絶対に無いとは……言い切る事は出来ない。
二人は、控えめに評価しても、世間一般で言う美女又は美少女だ。
もし、もし仮に彼女達に自分が手を出してしまっていたら……。
「……むぅ?」
最早予想の中で責任の取り方すら考えていた天月は、微かな違和感を感じた。
その正体に気付くと、途端に安心感を感じることが出来た。
「はぁ……おい、なーはともかく、二人は起きているだろう?」
天月気付いたこと、それは心と桐香の二人が起きていると言うことだ。
では何故、二人が狸寝入りをしているのか?
天月は恐らく、心の悪戯だろうと予想をつけた。彼女は普段は家事雑務を完璧にこなす、完璧にメイドである。しかし、普段真面目な反動なのか、勤務時間以外はやたらと天月をからかってくるのだ。寝ている天月の顔にシールを貼る事に始まり、天月の自室に女物のアクセサリーを置いたり化粧品を置いたり、終いには天月が返答に困るような下ネタを言って慌てる天月を見て楽しむ始末。
これに天月は、普段の実生活に支障が出るものでも無ければ、食べ物を無駄にするような悪戯でも無く、自身の気分が多少害される程度で心のストレス等が無くなるのであれば、まあ好きにさせてもいいかな? と特に止めるようには言っていなかった。一番反応に困る下ネタ云々も、天月が反応する前に心の方が恥ずかしくなってしまうようで、実害はほぼ皆無と言う事も大きい。
恐らく、今回も七星が天月と眠っている様子を見た心が、起きてパニックになっている様を見ようと言う魂胆だろう。桐香が一緒なのは恐らく、彼女の余り断らない性格を利用して、自身だけでは瞬時に悪戯とバレてしまわないように、カモフラージュとして誘ったのだろうと言う考えに至った。
「キリカさん、キリカさんは普段寝てるとき口じゃなくて鼻で息してますよ?」
天月がそう言うと、桐香は先ほどまで口からスー、スーと発てていた寝息をピタリと止め、鼻で息をし始める。何となくその可愛い姿に口元が緩んでしまう。
「ココロは眠っているとき、結構大きなイビキをかくよな?」
天月の言葉にピクリと眉間を痙攣させた心は、「……が、がー、がーー」と、女性がたてるのはどうかと思うイビキをかきはじめる。恐らく彼女の思うイビキと言うのはこれなのだろう。
そのまま、何度かイビキの真似事をしていた心は、慣れない事をしているせいか、段々自分の行っている行為の恥ずかしさを自覚してきたのか、少しずつ顔を赤面させていき、終いには汗まで出始めている。
そして、流石に誤魔化しきれないと感じたらしい心は、パチリと目を開けて、責めるような視線を送ってくる。
「……天月様、流石に放置は恥ずかしいです」
「ああ、ツッコミ待ちだったのか」
どうやら心は天月に気付かれてから、からかう事から俺の笑いをとる方向に目的をシフトしたらしい。
先ほどまでのイビキはどうやら心なりのボケだったのだ。
「……それと天月様、私は本当に普段イビキをかいているのでしょうか?」
どうやら、天月の先ほどの言葉に不安を抱いたらしい心は、「そんなことありませんよね?」と言う表情で天月に訴える。
勿論心は普段イビキ等かかない事を天月は知っている。彼女が自分の部屋以外で居眠りをしている場面を天月は二度目撃しており、そのどちらもイビキとは無縁の、寧ろ天月が息をしているのか疑ってしまう様な小さな寝息しかたてない。親しい者からすれば、かなり心臓に悪い寝相である。
素直にその事を教えてあげても良かったのだが、天月は先ほどまで、自分がからかわれていた事を思いだし、「さあな?」とだけ返した。
天月の返しに「いじわるですね?」とジト目を向けてきた心に「お互い様だ」と返す天月。
しかし、ジト目を止めた心は普段仕事をしている時からは想像できないような、いやらしい笑みを浮かべる。具体的に表現するなら目と口が三日月の形になっていると言えば伝わるだろうか?
「で、どうでした? 美女に囲まれ眠る気持ちは?」
「……黙秘する」
「おや、素直に嬉しいと言えば良いものを、素直になればもう少し良い思いが出来るかも知れませんよ?」
「勘弁してくれ……」
心底疲れた様子で言う天月に、からかい概が無いとばかりに残念そうな表情に変わる心。
天月とて男である。多少その先にあるものに興味があったが、流石にこの状況で心と一線を越える気はない。
天月は取り合えず、心が狸寝入りを止めてからも律儀に寝たフリを続ける桐香に意識を向ける。
両手が塞がっており、無理に動かすと余り精神衛生上宜しくない事態になりかねないので、口を開く。
「キリカさーん、朝ですよー。起きてくださーい」
「…………ふ、ふぁー、もう朝かい? お、おはよう天月くん」
正直、白々しいにも程があったが、それを指摘して素直に謝られては、天月としても面白くない。何より、恐らく強要された訳でもないのに、無駄な寝起きどっきりに参加した桐香に、天月は少しだけ仕返しをしたかったりする。
「そうですよ、朝ですよ。それで、何でキリカさんが俺の横で眠っていたか、教えてもらっても?」
「う、うむ、それはだね……」
チラリと助けを求める様に心に目を向ける桐香。しかし当の心は明後日の方向を向いている。因みに、心は、完全に起きているにも関わらず、未だに天月が起きた時と全く同じポジションで横になっている。
「……な、何となく?」
「おや? キリカさんは何となくで年頃の男の寝床に侵入するので?」
「そうですよ桐香様、男など皆獣の皮を被った狼なのですから、襲われても文句は言えませんよ?」
「襲わない。あとココロ、人間の皮を被ったの間違いだろ? 獣の皮を被った狼は、ただの狼だ」
「男はただの狼です、たまに豚も居りますが」
「何の話だよ!」
「夜の話ですが?」
「お、襲う? ……ベッド……子供……責任……」
不干渉と思いきや、普通に会話に参加する心。そして天月に便乗したかと思えば天月すらも矛先を向ける、有る意味、天才的な器用さを見せる心。
天月は心外だとばかりに言い返そうとも、内容が直ぐに二転三転するため毎回天月が折れることになる。一人ブツブツと呟く桐香に関しては、天才発明家らしく想像力を無駄に働かせている様だったので、無闇に触れるのは危険と判断し、意図的に無視をする。
「……ところで、今更だがここ何処だ? 俺の記憶では昨晩? はいつもの飲み会やって、多分俺は自分の部屋で眠ったと思うのだが?」
その後、数分間程心との漫才とも取れるコミュニケーションが一段落し、やっと周囲の異様な状況に目を向ける事が出来るようになった天月は、自分が置かれている状況を心達に尋ねる。
「申し訳ありません天月様、私めも天月様同様、昨晩天月様のお部屋へ夜這いを掛けた以降の記憶がありません」
「そうか、取り合えず自分の部屋で寝ような?」
「今は話せる状態ではありませんが、天月様が起きる前に桐香様に伺った限りですと、桐香様も昨晩から目覚めるまでの記憶が無いようです」
「え、無視?」
何を想像しているのか、顔を赤面させたり蒼白にさせたりと、一人百面相をしている桐香を視界に捉えながら、天月は周囲の光景を見る。
天月は起きた時から仰向けの状態だった。それはつまり、部屋で言うと天井部、野外で言うと空しか目に映らない状態である。故に現在まで気付かなかったが、改めて辺りを見渡すと、それは異様としか言い様の無い場所だった。
壁は無い、しかし恐らく屋外ではないだろう。その証拠に、恐らく人工物?(少なくとも自然ではない)である真っ白な床が、先が霞んで見えない程続いている。
天井は、起きた時と変わらず光源が見当たらないのに強い光が天月達を照らしている。
そして周囲には天月と飲み会をしていた友人達全員の姿があった。
それぞれが起きていたり、天月の様に床に寝転がっていたりとしているが、取り合えずいつも通りの雰囲気なので、多少なりとも気を落ち着ける事が出来たが、それでも周囲の光景は変わらない。
「皆……居るな、……ここ何処だ?」
そんなありきたりな言葉を口にする事が、天月に出来る唯一の反応だった。
「……アマツ、そろそろ起きたらどうだ?」
そんな声の聞こえた方を向く、この場合天月の体にはまだ三人がまとわり付いており、首だけを向ける、と言うのが正しい表現だろう。
そこにはマントやら眼帯やらを身に纏った、ハロウィーン以外では間違いなく通報されるであろう出で立ちの男、鎧塚風太郎が立って居た。
「流石に友人のお前でも、嫉妬で首閉めそうになるから、そのハーレム止めて、もしくは爆発して」
「ずいぶん物騒だな、それに、ハーレムって……、妹と友人と寝ているだけだろう? まあ、少しばかり健全とは言い難い絵面で有ることは認めるが……」
「はぁ!? どっからどう見てもハーレムだろ!? エロゲの主人公だろ!? 18禁だろ!? 羨ましいぜちくしょう!?」
「むぅ」
「何だその納得いかないって言う表情は!? そもそも妹が居るってだけでも羨ましいのに! 妹と添い寝、そこにメイド服と白衣って! エロゲが一本作れるわ! こちとら年齢=彼女居ない歴だってのに! ふざけんなよ! もしこれがAAAじゃ無くて巨乳の美少女だったら、いくらアマツでも天誅—がふぅ!」
熱弁している風太郎の腹部に、鮮やかなボディーブローが刺さる。
その拳の持ち主、心は、余りの衝撃に膝から崩れ落ちる風太郎を見て、口を開く。
「ほう……私を前に天月様に危害を加えようとは、良い度胸ですね? 余り大きな口を叩いていると、私が貴方を始末しますよ?」
表情の無い、しかし怒気は感じられる顔のまま彼女は続ける。
「それと誰がAAAですか? 殺しますよ?」
「いや、そっちが本音だろ?」
そう言って風太郎の頭部を、本人がお気に入りと言っていた茶色のブーツで踏みつける心。
先程まで自分や桐香をからかって遊んでいた心に、天月を庇う気持ちは……無いとは言え無いが、
それでも恐らくは後者の理由で殴ったであろう心に、冷静にツッコミをする。
因みに、風太郎の口にしたAAAとは、桐香、心、七星の三人の身体の一部を指して風太郎が考えた愛称である。けして某有名音楽グループとは関係ない。
この愛称が付けられた直後、普段は温厚だった三人の激怒する姿を、ぼろ雑巾のようになった風太郎と巻き添えを食らった刃の姿と一緒に目撃した天月は、普段怒らない人ほど怒ると恐いと言う言葉を、絶対に忘れないようにしようと誓ったのは、良い思い出だ。
その時、文字通り身をもってそれを知った筈の風太郎は、頭を心に踏まれながら、それでも視線だけで心のスカートの奥を除こうとしている姿を見て、天月は自分の辞書に新たな一文を加える。
馬鹿は死んでも治らない、と。
「あー、と、ココロ? ちょっと状況確認したいから、フウタの頭から脚どけようか?」
「いえいえ、このゴミは踏まれてもめげない雑草の様なゴミですので、寧ろ此方が自然体かと?」
「かまうなアマツ! メイドに踏まれるのは我々の業界ではごほうぶふぉ!?」
風太郎の言葉が終わる前に、心のブーツの踵部分が風太郎の眼球を踏みつける。
(大丈夫だよな? ちゃんと加減してるんだよな? まさかホントに目潰して無いよな?)
容赦ない心の対応に、頬をひきつらせながらも、心の怒りが収まるまで話をするのは無理だと思い、天月は深いため息を吐いた。
どうしよう。キャラクターの性癖が強すぎる……。