黄の章 第24話 冷たい瞳
黄の章 第24話 冷たい瞳
例えるなら数台のバイクが一斉にエンジンを吹かした様な、おおよそ獣の鳴き声とは思えない奇声。
思わず身体が竦み上がり、思考が空白になる。
月明り星明りの下、しっかり俺と目を合わせた獣は―――熊の様な外見をしていた。暗い茶色の体毛に真っ黒な鼻先と丸っこい耳。真っ黒な瞳はつぶらで、顔だけ見れば実に可愛らしい。流石は様々な作品に登場しマスコットキャラクターにも起用される様な人気生物だ。
口元から見える牙や黒く光る爪などが無ければ更に可愛らしく見えただろう。ガラス越しでも檻越しでもないこんな状況じゃなければ、こんなに恐怖を覚えなかっただろう。
しかも、熊はただの熊じゃない。左右の肩から二本ずつ生える前足は、つまり合計で四本。更には胴体が冗談みたいに……いっそ不気味と言う言葉を使った方が似合う程に太いと言う所に目が行く。腕が四本もある理由は、まあ分からなくはない。便利でいいと思う。
何であんなに……俺の記憶にある熊の倍ほどまで太い胴体を持っているのか気になったが、これでいっぱい飯が食えるからとか言う理由だったら笑えるよな。だって多分その飯には俺達も含まれているのだろうから。だからそんなに熱烈な視線を俺に向けているのだろう?
だが、竦み上がっている俺とは対照的な事に兄弟は既に牙を剥き出し、更にはいつもの子犬の様に可愛らしい鳴き声からは想像も出来ない程低い唸り声を上げている。臨戦態勢って奴だ。
俺より半歩前に出て必死に威嚇している兄弟達だが、目の前の熊はそんな事お構いなしとばかりに俺達を見下す。
ああ、この熊にとって俺達程度、脅威どころか障害ですらないのだろう。寧ろ口元から垂れる涎が、奴にとって俺達がただの餌にしか見えていないと言う事を物語っている。
……きっと俺達がいくら抵抗した所で、何ら問題なく全員を平らげる事が出来る自信があるのだろう。だからこんな至近距離になるまで無音で近づいて来たにも関わらず、咆哮を上げる様な真似をした。そしてその自信は過信では無い。
唸る兄弟達。お前達も俺と同じなんだろう? 昼間の、半ば理性を失っていた大鬼とは比べものにならない圧力に、背中を向けて逃げても逃げ切れないと悟ってしまったんだろう?
俺が見た感じ、グリフォンよりは絶望的な強さは無い様に感じるが……そんな感覚はあてにならない。
仮にこの熊がグリフォンより一回り二回り劣った存在だったところで、勝てる存在ではないのだ。新幹線に轢かれて死ぬか電車に轢かれて死ぬかと言った違いだ。比較すること自体、無意味なんだ。
どっかの超人よろしく、生身で新幹線止められるなら別だろうけどな。ははは……。ああ~、泣きそう。
「おい、俺が―――」
俺が時間を稼ぐ。泣き喚きたい恐怖をぐっと堪え、何とか兄弟だけでも守ろうし、しかし絞り出そうとしたその覚悟が兄弟に届く事は無かった。
シュン―――と、紙を裂いた様な音と共に、血飛沫と黒い毛が舞った。
シュン―――と、再び同じ音と共に、血飛沫と灰色の毛が舞った。
泥に石を投げ入れた様な音が二つ、俺の背後から響いて来る。
「『土塊』!!」
本能―――と言うよりは、純粋な恐怖に突き動かされた行動。
このままでは死ぬと言う事実から少しでも目を背けようと、目の前に映っていた熊を視覚から追い出す為に、目の前に魔法を使って土で出来た壁を作った。
それで何が変わるのかなんて分からなかった。見た目こそ立派な土の壁だが所詮は砂の塊。コンクリートやレンガとは異なり防御力は無いよりましと言った程度。俺の体当たりでも壊れるかも知れない。
ボフン―――と、先程より低く重い音が聞こえた。音の違いを認識する前に、音が俺の耳に届いた時には既に俺は空中を舞っていた。悲鳴を上げる事も無い。いや、悲鳴を上げる余裕は無い。
妙にゆっくりと認識できる滞空の後、俺は地面に叩き付けられその後を追う様に土がパラパラと辺りに散らばった。
呆然と、今の自分は生きているのか死んでいるのか、なんて呑気に考える。
ボフン―――と再びの音。対する俺は完全に崩れた体勢。魔法を使う事も、立ち上がる事すら出来ず漠然と今から死ぬと言う事を認識した。
しかし俺の身体は突如として何かに引っ張られ、地面を引きずられるように移動した。
俺が謎の現象に襲われ、それからほんの僅かに遅れる様に何かが壊れる音がして、しかし夜の暗闇のせいで何が壊れたとかは分からない。
だがそれを確かめる手間は省けた。なぜなら丁度謎の力によって引きずられ漸く停止した俺の身体をかすめる様に、耳に残る音を立てながら倒れた巨木があったからだ。
途端、今までの暗闇が嘘だったように視界が明るくなった。
朝になった訳では無い。視界の端に映る空には月も星も確かに映っている。まるでそれは俺の眼球が突如として夜行性の動物のものに入れ替わった様で、暗闇から解放された事で少しだけ恐怖が和らいだ気がした。
何故、なんて考える事は出来ない。だって先程から疑問の連続で、脳の処理が追い付いていないのだ。
今の俺は無心で辺りの情報を目に移すしか出来なくなっている。
血塗れで地面に横たわる灰色毛の狼。それにやはり足音無く近づく熊と、灰色の狼と同じく血濡れになりながらも四肢を震わせながら熊の前に立ちふさがる黒毛の狼。
そして、―――根元付近から見事に折れて倒れた巨木。その跡からゆっくりと立ち上がる人影。
青空の様に美しい鱗は月の光を反射させ、まるで鋭利な刃物の如く怪しい光を放っていた。
しっかりと二本足で立ちあがった後にうっすらと開けられた瞼。そこから覗く夜空の星にも負けない息を飲むほど美しい黄金色の瞳は、俺が今までに見て来たどんな瞳より、……見る物の背筋を凍らせる、とても冷たい瞳だった。
俺は未だに混乱する頭で、何の情報も整理できていない頭で、目の前の景色を認識する事しか出来ない頭で、それでも「助かった」と確信した。




