村への逃亡者 8
古びた小屋を手慣れたように叩く。コンコンコン。薄い木の音。冬はさぞ冷えたことだろう。
「・・・だれ。」
彼女は今日も用心深く聞いてくる。
「やぁ、また来たよ。」
彼女の問いかけに返して数瞬の間が空いた後、扉がぎぃ・・・と音をたてて開きだす。この扉も大分日にちが経っているのか蝶番が錆びついてしまっている。
「何の用ですか。」
「用がなくちゃダメかな?」
意地悪な言い方だ。彼女はそれだけで、返す言葉もなくなる。
「あ、これ食べ物ね。―――おや?少し血色が良くなったかい?うんうん、まだふっくらとはしてないけれど、とてもいいね。」
彼女の頬は前と比べて少しだけ肉がついてきたようだ。手を当てれば、柔らかな感触が返ってくる。それとは引き換えに彼女の顔は嫌そうに固くなっているが。
「そんな嫌そうな顔しなくていいじゃないか。せっかくの綺麗な顔が台無しだよ。」
「いえ、嫌なわけではないです。ちょっと近くに虫がいたもので。」
「なるほどなるほど、そしたら虫退治も兼ねて昼食を頂けるかな。」
「昼食と言われましても、先日のスープくらいしかお出しできませんが・・・。」
「いいともいいとも、美人にだしてもらうご飯はそれだけでスパイスになるからね。楽しみにしているよ。」
「・・・少々お待ちください。」
彼女は表情一つ動かさず炊事場へ向かった。中へ入ると、いつも通りの見流れた部屋に少しだけ変化があった。
「おや、椅子が並んでいるけど今日は誰か来ていたのかい?」
「・・・いえ、今日は朝から掃除しておりましたので、戻し忘れておりました。」
「なるほどなるほど、常に清潔に保つことはいいことだからね。」
戻し忘れた椅子を元に戻すと、どかりと座った。
静かな部屋で物思いに耽っていると、隣の部屋から赤子の泣き声が聞こえてくる。暫くしても母親が戻ってこないところを見ると、どうやら聞こえていないのだろう。
緩慢に腰を上げると隣の部屋の戸を開けた。
「やぁ、お腹空いたのかい?違うのかい?―――ふむ、おや催してしまったようだね。替えはどこだったかな。」
泣いているお姫様を背中に近くの棚を漁ると、お目当ての布おむつが数枚畳んでいた。
「ほらほら、どうだい。綺麗なおむつさ。なに、俺もおむつのプロなんて呼ばれてはいなかったけどね、お姫様のおむつの交換なんて簡単なものさ。」
手慣れたようにおむつを取り替えれば、お姫様も静かに動き出す。
「お、元気いっぱいだね。よかったよかった。おや、君もだいぶふっくらしてきたんじゃないかい?最初にあった時はびっくりしたもんさ。赤子はしっかり乳を飲んで大きくならなくてはね。」
コトンという音と共に後ろから足早に彼女が近づいてきた。
「あの、何かご迷惑を・・・。」
「いやいや、姫様が衣服を変えてほしいとね。そんな光栄、騎士としてやらないわけにはいかないじゃないか。あ、そこに置いてあるから、後で洗っておいておくれ。」
彼女は口を半開きに呆然とした表情で俺を見ていた。そんな顔で見なくていいじゃないか、なんていってもどうやら聞いていない様子。
「セリカは大分大きくなってきたね。」
スープを口に含みながら、赤子をあやしている彼女へ問いかける。
「え、えぇ、おかげ様でお乳の出る量が増えまして。」
「そうかそうか、しっかり育ってもらわなくてはね。」
「しっかり・・・ですか。」
どこか疑うような視線を俺にぶつけてくる。
「そりゃそうさ。貴女みたいな美しい人から生まれたんだ、セリカもさぞ美人になることだろう。」
俺はスープに向けていた視線を上げると心臓が跳ねた。
「おいおい、どうしたんだい?びっくりしたじゃないか。君みたいな美しい人が、涙を流すと心臓に悪いんだよ。」
静かに雫を落とす彼女の切れ長の目は潤み、その紅い瞳は幾度も姿を変える宝石のようだった。
「いえ・・・、少し驚いてしまいまして。大丈夫です。すぐに止まりますので。」
「そうかい?ならいいんだがね。そうだ、これで涙を拭うと良い。最近手に入れたものでね、綺麗な白だろう?最近はこういうハンカチも流行っているんだそうだ。」
彼女はじっとそれを見つめるとただ一言、綺麗・・・と呟いた。
「ふふん、だろう?いつかもっと綺麗な物を見に行こう。最近他国と流通が良くなったみたいだからね。君が気に入る物がもっとあるだろう。」
「・・・本当に?」
「あぁ!本当だとも。いやー楽しみだ。君は魚は好きかい?海辺は色々な魚が採れてね、生で食べることが出来るそうだ。」
「あの・・・魚はちょっと。」
「そうかい?なら貝はどうだろう。貝からは美味しい出汁が取れるというからね。君みたいな料理上手なら、もっと美味しい料理を作れることだろう。ん?なんだいなんだい、そんな泣いて喜ばなくてもいいじゃないか。そうか、そんなに楽しみなら色々な食べ物を食べて、観光しなくてはね。知っているかい?最近は大型客船なるものがね―――。」
彼女は目をキラキラさせて、子どものように俺の話を聞いた。アレを食べてみたい。乗ってみたい。触ってみたい、彼女は少女のように声を弾ませて語った。
俺はその度に食べさせてあげるとも、乗せてあげるとも、触らせてあげるとも、言ってあげた。当然だ。それが出来なければ人生という短すぎる自由の中で楽しむことができないのだから。