三:八神矢吹殺人事件
彼女がエリートだと言う噂は本当だったらしい。
彼女の実家は都内で大きな病院を経営していて、父親はその医院長。母親もそこの医者。
そんな医者家庭に生まれた彼女だが、彼女自身も遺伝なのかはわからないが、極限なる秀才。塾や家庭教師等にお世話になることなく、東大の理科三類に現役で合格した。
そのまま医学部に進級していくわけだが、本人は特に医者になりたいわけではなかったという。
大学の実習で人をみるのが嫌になり、彼女は一応医師試験をパスしたものの、そのまま医師への道から外れた。
それから数年、その彼女は今この学校の保健室の先生だ。
ただ、保健室の匂いが嫌だということで、普段から職員室にいたり、放課後なら教室で何人かの生徒に勉強を教えたり、そもそも学校に来なかったり(僕らミス研によれば、彼女が来る日は5日のうち2日程)なので、保健室で会えることは稀だ。保健室外でもけしてよく見かける存在ではない。
彼女の名は三木多爾海寝子。その彼女が今保健室にいるというのだ。
しかしそんな情報までいち早く掴むとは。流石なな美(本名七奈美。そろそろみんな忘れてるだろうからここで敢えて言っておく)だ。
と、言うわけで、僕らは保健室のまえにたどり着いた。
ノックは敢えてせず、なな美はドアを開けた。
中には白衣を着た女…つまり三木多爾先生がいる。
白衣はまあ普通なのだが、その中にきている上下真っ赤な服が気にならない人はそんなに多くないだろう。
同時に、その端正な顔立ちとご立派な女性らしい体つきが全く気にならない男もそう多くないだろう。天は彼女にあまりにも多くのものを与えたようだ。まずいのはそのマイペースな性格くらいか。
「こんにちは。海ね先生。珍しいですね保健室にいるだなんて」
「あ、まだクビになってなかったんだ。良かった良かった」
なな美と僕は丁重に挨拶を投げつけた。
「んー、あーなんか今日は来たほうがいいと思ってさー。そしたら暗の上だよ。何なんだよこの冷凍室」
冷凍室?
ちなみに保健室には冷蔵庫がおいてある。氷とか常温保存できない医薬品なんかを保管するためだ。
「冷凍室がどうかしたんですか」
「どうもこうもどうもかふも、あたしが保管しておいた冷却剤とか氷枕とか氷とか、アイスクリームとか冷凍みかん用みかんとかがごっそり寝子削ぎ亡くなっているんだ!」
主に彼女を慌てさせている原因がみかんとアイスであることは云うまでもなく。
「せっかくハーゲン買ったのになー…ラムレーズン味。もう冷凍室空っぽだよ。二段にするための板まで無くなっちゃって」
「え?」
僕らは冷凍室をみせてもらった。
中は空っぽな伽藍堂であった。仕切りやら氷を作る皿やらも含め全てなくなり、そこには一辺50cmくらいの立方空間がいた。
「全く…なんだってこんなことを…」
「先生って一番最近来たのいつ?」
「えーと、事件の2日前かな」
…どんだけサボってんだよ海ねさん。
つーかなんでクビにならないんだよ。
「ところで、八神さんはここによくいらっしゃいますか」
「んあ?あぁ事件前に一回見たけどあたしはそんときしか会ってないよ。ったく、八神ったら…ねえ。あんな顔して…」
海ね先生は変ににやけだした。気持ちよいか悪いかといえば明らかに悪い。
「どうかしたんですか。八神が」
「どうもこうもですよ。本当。このベッドはその為のベッドじゃないっての。ね?」
「ねぇって云われても…」
まあ話は大体分かったが。
やっぱりそう言うことなのか。でも、あの八神がね…。
「お相手は誰でしたか」
なな美が躊躇することなく聞いた。
「いやあそれが流石に凝視するわけにもいかなくてさ、すぐ保健室出たからわかんなかったよ。八神は上だったからすぐ分かったけどね」
意外に多い八神ファンが聞いたら卒倒しそうな話が続出だ。
てゆうか海ね先生は止める立場じゃないのかそれ。
「いやあ、授業抜け出して抜かせるなんて熱いねえ…本当高校生は困った困った。あはは」
あはは、じゃないって。
上手いこと云ったつもりか。
その他もいろいろ話たかったんだけど、海ね先生はその話しかしたがらないので、僕らは呆れてあきらめて保健室を出てきた。
しかし、彼女を訪ねた収穫は決して小さくなかった。
「八神はそう言うことの為に保健室へ行っていたのか…」
「表沙汰になったら男性陣のショックは相当ですね」
なな美は少し間をおいてさらに言葉を続ける。
「但し、もっと大事な情報がありましたね」
「そうだな。しかし、まさかそんな古典的なトリックをね…」
「そう。まさかですよね」
しかし、冷凍室がそんなに開いていたならば、やはり、そう言うことなんだろう。
「今日海ね先生が帰って来たのは犯人的には不運ってやつだったな」
「…というか、冷蔵庫くらいちゃんと元に戻しておきましょうよ」
「まあでも、アイスとか氷嚢類まで復元するのは無理だろうからな、どうせ戻せないなら放っとけってことだろ」
そう。僕らは当然冷凍室を伽藍堂にしたのは犯人、特に虹宮を殺した犯人だと思っているわけだ。
犯人はどうしても冷凍室のサイズギリギリの容積の液体を凍らせる必要があったんだ。
それを使って、例のトリックを使ったわけだ。
…些か古典的なのは否めないけどね。
「…やっぱり八神の話は聞きたいんだけどな…」
「今日お休みなさるとは思いませんでしたね…」
まあ、体があまり強くないってのはあながち嘘でもないらしい。
その程度にしか考えないことにしておいた。
「じゃあ、八神ともう一人の重要参考人のところへ行きましょうか」
「…ああ。十之上のところに、な」
この時間帯、職員室は意外とまばらなものだ。
部活の顧問は部活に行っているし、それ以外にも個々の仕事があるのだろうか。
しかし幸いなことに、十之上は職員室の自分の席に座っていた。特にやることはないのだろうか。
「こんにちは。十之上先生」
「おお、四恩寺じゃないか、それに隣は…?」
「はじめまして。私はミス研チーフの七奈美といいます」
はじめましてって何だ。確かになな美は彼の授業を受けたことはないし、担任が彼だったこともないが、学校に一年半もいて、はじめましてって。
その点で言えば、十之上も十之上だ。この学校にいて、なな美を知らないはずないだろ。 「今日はちょっとお聞きしたいことが御座いまして」
なな美は落ち着いた調子で言った。
「はは…いつもの捜査ってやつか、今回はミス研にとってもでかいヤマだろうがね。あれだろ? 例の連続殺人を調べているんだろ? 僕からは何もいい情報はでてこないと思うけどな」
明らかに慌てた調子の十之上。しっかりしろよ。
とは言ったものの、一体どこから切り込めばいいものか…怪しいトピックが多すぎてむしろわからん…。
ただ、なな美は大体攻め方を決めているようだった。
「今日、八神さんがお休みなんですが、何ででしょうね」
「そうだな。僕は主に一年生を受け持つことが多いから、八神のことはよく知らないが、体が弱いって話じゃないか。普段からよく保健室に行くみたいだしな。まあ、あの保健室が機能しているかは微妙だが…八神と事件とは何か関係あるのか?」
「はい。彼女は市ヶ谷と付き合っていたみたいなんでね。やっぱり気になるんですよ」
「へえ、そうなのか。それは知らなかったな」
相変わらず十之上は落ち着きがない。次は僕が聞いてみる。
「そう言えば十之上先生、最近市ヶ谷にずいぶん厳しく当たっていたみたいですけど、あいつ、何かやったんですか」
「厳しく? 僕が?」
「はい。教員の間でも評判になっていますよ。何でもあいつが最近喧嘩したとき、しきりに停学を主張したとか…」
これはうそ、『教員の間』でも『生徒の間』でも、この噂は聞かれない。
「あ、ああ、あれ。なんだもう知っているのか。ならば仕方がない。あれは僕の認識不足でね、相手から手を出して来たこととかよく知らなかったんだよ。本当。彼は喧嘩っ早かったみたいだったからね。ついつい固定観念的に普通の喧嘩だと思ってしまった。教員の悪い癖だ。
しかし、双方の話を聞いてみるとどうも市ヶ谷は限りなく正当防衛に近かったみたいだね。相手はナイフ持ってたみたいだし、喧嘩って言うより、相手の強盗を振り切るために応戦したって感じのようだ。これは相手の親族も認めていることでね」
なるほど、事態はただの喧嘩にはおさまらない話のようだ。
「へえ、誰と喧嘩したんですか。その話、生徒はあまり知らないみたいですけど」
「いや、このことは市ヶ谷の個人的なことだからね。あまり詳しく話すわけにはいかないんだよ」
「相手は納得したんですか。その緩い処分で」
「ああ。まあ納得したようだった。親族もあまり事を大きくしたくないみたいだったし、ナイフ持ってたとなると流石にどうしようもない話だろう」
「…それじゃ、市ヶ谷に厳しかったのは先生の誤解のせいだと?」 「ああ、彼にはすまなかったと誤りたかったんだが、その矢先だったよ。市ヶ谷があんな形で見つかったのは。一体誰があんなこと非道いを…」
彼は微妙に遠いところを見ながらそう語った。
「…本当に許せない話だよ。市ヶ谷は確かに乱暴なところもあったが、決して悪いヤツではないと思っていた…まして、まあ殺されるほど恨まれるヤツなんてまずいないけど、まさか市ヶ谷に限って…」
何だか大げさに十之上は怒っているように見えた。感情表現が豊か、といえばそう言うことなのだろうが。
「でも…」
なな美はもったいぶりながら、或いはそういう印象をあたえようとしながら、切り出す。
「先生にとって辛いのは、むしろ、虹宮さんが殺されたこと、ですよね」
途端に十之上の動揺の色が濃くなる。
「な、どういう意味だ?」
ふふっ、となな美は続ける。
「一年生から聞きましたよ。随分星洋さんを気に入ってらっしゃったとか。何でも、何度も職員室に呼び出しては、話をしていらしたとか」
「………」
十之上は返す言葉が見つからないようだった。
「こう言っては何ですが、星洋さんに対しては単なる生徒以上の感情を抱いておりましたね?」
とどめに僕が尋ねた。
しばしの沈黙。
「……ああ、そうだ」
思ったよりもあっさりと認める十之上であった。
「…多少よろしくないレベルに仲が良かったと、一年生のクラスメートはみているようですよ…」 「ああ、確かに。そう言う風に見えないこともなかったかもな」
十之上はあくまでも無感情に言っていた。
「まあ、このことはここだけの話にしておきましょう。ところで、そんな十之上先生は、虹宮さんに恨みを抱く人間に心当たり、ないですか」
「…それが、全く心当たりがないんだ。彼女はあの通り明るいいい子だからな。そう言った人とのトラブルが起きるような子には、全く見えなかったよ… 本当に」
心底辛そうな素振りを見せる十之上。しかし、その言葉たちはどうも僕に響いてこない。
どうも真実たちはまた別の所にいる気がする。僕らはそれとは違う何かを今みているようだった。
「随分と御贔屓になっていらっしゃったようですね」
「それはもう。こうなった今となっては仕方ないが…僕は本当にあの生徒のことが好きだったからな。本当に犯人を許せないよ。虹宮殺しの犯人だけはね」
僕らは表情を変えずに聞き流したが、十之上はもっと奥の、より真実に近いことを知っているのは間違いないと感じた。
しかし、今日の所は、普通に質問した所で、その胸の内を教えてはくれないだろう。
僕らは職員室を出、再びミス研室へ戻った。
空。
空。
青空。
ここは校舎で一番高い場所。
仰向けの躰から見えるのは。
空。
空。
青空。
青…。
「まず、気になったことがありました」
ミス研室に着くやいなやなな美は話し出す。
「紛れもなく、市ヶ谷くんの喧嘩の件ですね。十之上先生の話を信じるならば、やはり、喧嘩は実際に起こったことのようですね」
「ああ。十之上の話を信じるなら、な」
「三条鴉丸君も知っていたようですし、一応ここは本当にあったと仮定したいと思います。
そうなると気になるのは、この事実を知らない、或いは知らないと言う人の多さです。この原因は市ヶ谷君が周りに云わなかったことにあると思います。なぜなら、どうせ先生方は積極的にある生徒がなぜ説教されているかを周りに話したりしませんから、市ヶ谷君が自ら話さないと、噂の拡散は格段に遅くなりますね」
「なるほどな…。しかし、市ヶ谷は普段そう言うの隠すヤツじゃ無かったな…なのに今回は隠した…つまり…」
「つまり、隠す理由があったわけですね。それは何か。ここまで考えた所で先ほどの十之上先生の話で気になった言い方が一つ」
「『相手の親族も納得した』だな」
「そう。普通こういう事件ならば、まず納得するべきは当事者であるはずです。つまり、市ヶ谷君の喧嘩相手ですね。親族を引き合いに出すにしても、それなら『市ヶ谷君の親族と相手の親族双方が納得した』みたいな言い方になるべきですよね。
なのに十之上先生は『市ヶ谷君本人と相手の親族が納得した』という言い回しを使っていました。そこが非常に気になった訳です」
…では、当事者は…?
「当事者は何らかの理由で十之上先生を始め、この高校の先生とコンタクトを取っていないんでしょう。そして最後のポイントは、相手はナイフを持っていたこと。つまり…」
相手は、その時死んだという可能性。
「有り得ないことはないでしょう。片方が凶器を持っていたんですから」
「で、でも、それならどうしてみんな知らない? むしろ普通の喧嘩より騒ぎは大きいだろ? 新聞とかにだって載るんじゃないか?」
「これも、十之上先生の言い方を踏まえての推理ですが…亡くなられた方の親族がもみ消したのではないでしょうか」
「バカな…そんなことが」
「この事件の当事者、市ヶ谷君は正当防衛が成立するでしょうし、そうでないにしても、殺人ではなく過剰防衛か過失致死。しかも、双方未成年ですから元々そこまでビッグニュースとしてはとりあげられないでしょうし、死んだ生徒の親族に力があれば不可能ではない気がします」
力のある人間。資産家とか政治家か。
「…そして学校側も名前がそんな記事のせいで知れ渡るのを嫌って、揉み消しに協力したってわけか。
…これ、今回の事件に関係ありそうだな」
つまり、市ヶ谷のせいで人が死んだわけだ。
そしてそれをみんなで揉み消したわけだ。
死んだナイフ男の関係者がいたならば、動機は充分だろう。所詮逆恨みだが、逆恨むだけの要素はありそうだ。
「では、調べるトピックは、市ヶ谷君の喧嘩相手と、その関係者の有無ですね」
「もう一度三条鴉丸に聞いてみるか。あいつ何故か喧嘩のこと知ってたもんな」
教室に彼は居なかった。まあ、時間が時間だから生徒会室か。
そう思って僕らは生徒会室へ足を運んだ。
しかし、生徒会室にも彼はいなかった。珍しいな、生徒会室にもいないなんて、もう帰ってしまったのか。
部屋の中には麓郷屋のみが座っていた。
「やあ探偵さん。捜査の方は進んでる?」
右手を広げてこちらに見せて、麓郷屋が僕に挨拶して。
「…まあ、そこそこだな。ところで今日は一人なのか?普段なら何人かがここで無駄話してるじゃないか」
「無駄って何だよ。失礼な!」
「有益なのか?」
「…無益だけどさ…」
そんなやりとりをする僕と麓郷屋を無感情に見るなな美。
「…と、そうそう。三條烏丸に用あって来たんだけど、あいつ今どこ?」
気を取り直して僕が尋ねた。
麓郷屋は首を傾げながら答える。
「あれ、そう言えば、なんかここの水の出がおかしいから屋上の給水塔見てくるって言って出て行ったきりだな…」
「給水塔? そんなのあるのか?」
僕は麓郷屋に聞いたのだが、なな美がいち早く反応する。
「ええ? 知らなかったんですか? この学校の重要な水資源なのに…」
そんなにおかしいか。
「ここは水がすくない土地ですから、貯水塔の一つもあるのが当然じゃないですか」
確かに言われりゃそうだが、屋上なんて行かないしな…てゆうか、生徒会とか後は何かしら理由ないと行けないし。
「まあ、いいや。とりあえず屋上いってみるか」
屋上に登ると、確かに給水塔があった。
ちなみに鍵は開いていた。三條烏丸が閉めずにおいたのだろう。
屋上に更に階段がついた一メートルほどの段差があり、その上に、高さ十メートルほどの塔が建っている。その為、僕らが屋上についたときは、三條烏丸が立っているのが見えるのみだった。
彼はなぜか体を硬直させ、その場から全く動かなかった。
…しかし、階段を昇り段差の上に立つと、彼が動かない理由がわかる。
段差の床の下には水量や水質を調節する制御系統が埋まっているようで、場所によっては、柵で立ち入れないようになっていた。
その柵の囲いの内側に、誰かが横たわっていた。
いや、そこには。かつて八神だった死体が横たわっていた。
三條烏丸はその前に立ち尽くしていた。僕らに気づいているのかいないのか。全くこちらに話しかける気配はない。
場面はしばらく凍りつく。
全てが停止する。