ひとつまみの誘惑
ーー春。
桜の木の枝にはふっくらとした蕾が実をつけ、気温の上昇とともに、花びらが一枚一枚花開く。近くの港から船で1時間。周囲10キロメートル、人口わずが60人ほどの島の船は一日に3便、3往復しかしない。ーー時刻は午前8時30分。
黒澤悠は仕事に行く一人息子を助手席に乗せ港に来ていた。
息子が乗る船が港に到着すると彼は車からは降り「行ってきます」と黒澤に向かって軽く手を降る。それは成人しても学生の頃と変わらない。
息子が船に乗るのをぼんやり眺めていると珍しく大きな鞄片手に降りてきた女性がいた。隣に駐車していた車からは男性が降りてきて、彼女の鞄を手に持つとトランクに詰め込む。
25歳くらいだろうか? 黒い髪の毛を一つに結び、紺色のスプリングコートに白と黒のボーダーのワンピース、ベージュのパンプスをはいている。笑うと目もとが優しい、素朴な顔の女性だった。
「立花さん、えらく若い嫁さんを貰ったんだってよ」
「へーえ?」
黒澤はすぐ側の自動販売機で休憩がてら缶コーヒーを一本買う。先にベンチに腰を掛けていた近所の噂付きのお婆さんに声をかけられる。
「立花さん」を示すのは、先程の船から降りてきた若い嫁の夫のことだ。立花さんは、彼女を車の助手席に乗せると右にウィンカーを出し、車を発進させる合図をする。
二人はふと視線を感じ黒澤と目が合うと軽く頭を下げた。
四人の間には妙な空気が流れ、先に若い嫁さんが車から降りてきてお婆さんと黒澤に挨拶をする。
「この島に引っ越してきた、立花華です。どうぞよろしくお願いします」
「ああ……わざわざご丁寧に、どうも」
華は手に持っていた大きな紙袋から、個包装された小さな箱を二つ取り出すと二人に渡す。
「……貴女、どこからいらしたのです?」
「結婚前は七里という街に住んでいて……」
「七里? えらい都会から来たのですね。ここはそっちとは大分違うでしょう」
半分冗談混じりに会話をする。華は立花さんと5年の遠距離恋愛の末、長年勤めた会社を辞め、立花さんの会社があるこの街に移住を決めたそうだ。
***
「……新しく配属された立花華です。これからよろしくお願いします」
後に立花華は黒澤悠が勤める会社の新入社員になり二人は仕事場で再開する。
黒澤悠は10年以上同じ会社で働いていたので、課長という役職につき、幾度となく新人は育ててきた。華にも同じ様に仕事の基本を教える。華は若いからなのか黒澤が手取り足取り教えなくても臨機応変に仕事をこなして覚えてくれた。
「華ちゃん、この資料事務所に持って行ってくれる?」
「え……? あ、はい」
初めは名字で呼んでいた黒澤だったが、彼女のことをいつしか「ちゃん」と呼ぶようになった。
華はよく気がきき、他の先輩の邪魔をしないように仕事をするのが上手かった。まだ入ったばかりだというのに先輩の行動の先を読んでいるのだろう。これは仕事の内容を理解していないと出来ることでない。
「この仕事、前にもやってたの?」
「いえ、未経験です。皆さんが丁寧に教えて下さるので助かっています」
次に先輩はこう動くから、自分はこう動くという姿勢で、彼女がいてくれると仕事が効率よくまわる。
黒澤は仕事が終わると近所のスーパーで値引きされた惣菜を買った。
海の潮風を受けさびれた玄関のドアをガラガラっと開ける。廊下の電気を付け、革の靴を脱ぎ、スーパーの袋をドサッと床に置く。
まぁ「ただいま」と言ったところで薄暗い部屋から返事が帰ってくることはないのだけれども。
「今日は疲れた。いや、今日も疲れた」
最後の力を振り絞り、重たいスーパーの袋を持ち、夕食の準備をする。予約していた炊飯器が鳴り、しゃもじでご飯を善そう。先程買ってきた唐揚げを皿にうつしかえ、レンジで軽く暖めて机に並べる。
そういえば、冷凍庫に今朝寝坊して食べれなかった冷凍の鮭があった。でも、空腹過ぎて解凍も待ってられない。
お風呂にお湯を入れている間、パックのままのお惣菜をテーブルに並べあまり興味がないテレビを見ながら1人ご飯を食べる。
黒澤は元妻とは10年前に離婚していて、息子を一人で育て上げた。一緒に住んでいた息子は海より向こうに就職してしまった為、一軒家には一人で住んでいる。
この暮らしが寂しいか寂しくないかと聞かれたら、少しは寂しいと答える。
それでも、再婚しない理由はこの年になると恋愛をするのが億劫だからだ。
恋人を探そうにも自分が子供の頃からお世話になった島の人とは、もはや家族のような存在だし、黒澤に妻と息子がいて、離婚したことも島の人はほとんどの人が把握している。
島の外で新たな嫁さん探し? インターネットを使って? そんなことが出来るのは20代、30代くらいの若い魅力ある男性くらいだろう。
白髪混じりの45歳バツイチ子持ち男性が、離島にお出でと呼び掛けた所で誰が好き好んで自分を選ぼうものか。
***
「お昼、ご一緒してもいいですか?」
昼12時。休憩室にいつも一人で座っていた黒澤に声をかけたのは華だ。
「ええ……」
華は隣の椅子に座ると、小さな弁当箱の可愛らしいお弁当を広げる。
「朝から、作ってくるの?」
「はい、簡単なものですが」
「旦那さんのも作るの?」
華は料理が得意ではなかった。お弁当に入っているのは白米に梅干し、冷凍のおかずが少々。
朝急いで二人分の朝食とお弁当、それに夕食の準備をしてから会社に来る。旦那はワイシャツこそ自分で着るが学生の頃からネクタイだけは親に結んでもらっていた為、華がネクタイを結んであげる。決して出来ない訳ではない。今日も事故などなく無事に帰ってきますようにと縁担ぎのようなものだ。
その話を聞いて、さすが新婚だなぁと思った反面、素直に旦那が羨ましいと嫉妬した。
最初に食事を共にした頃の華のお弁当は月日が立つにつれて成長していく。お弁当にはサラダとミニトマト、目玉焼きにウインナー、ミートボールが並ぶ。
わざわざ小分けのふりかけを持参してきて、レンジでお弁当を温めた後、白米にふりかけをかける。
「鮭とたまごと梅でどれかお好きなのはありますか?」
黒澤が用意してきた弁当箱の中身は白飯と漬物だった。
見かねた華は小分けのふりかけを一つ渡す。正直海苔が湿っていようが、お弁当の蓋にくっついていようが、胃に流し込むように食べる自分には関係ないと思っていた。
お昼ご飯だってだれに見られるでもなく、朝に昨日のお箸が洗ってなければ割り箸を持っていき、夕飯に食べたものは洗わず次の日まで放置していることもある。
「え、だって朝は気持ちよく過ごしたいでしょう」
彼女の意見はごもっともだ。
明くる日の華のお弁当はカボチャの煮付け、大根の煮物、焼いた鮭が入っていた。自分のはというと朝急いで買ってきたコンビニ弁当にコーラ。ぎりぎりまで寝て、ドライヤーで適当に髪を乾かして、寝癖がついた髪で出勤をする。
そんな自分とは裏腹に女性だからなのか彼女は毎日きちんと制服にアイロンをかけ、ハンカチを常備していた。
……ハンカチ? ハンカチなんて持ったことがない。良くてそこらへんに置いてある、ハンドペーパーやボックスティッシュで手をふくぐらいだろう。
「あの、ずっと気になっていたのですが、なぜ、黒澤さんは私のことを下の名前で呼ぶのでしょうか?」
お弁当を食べ終わった後、湯飲みにお茶を入れていたら、急に華に質問された。
「え? ああ、社内にたちばなという苗字がいると若干ややこしくてね。背の高い橘さんは皆から橘さんって呼ばれているし……」
「ああ、なるほど」
席に戻ると二人が座っていたテーブルにお菓子が置いてある。女性と言うものは常に鞄の中にお菓子を持っているのだろうか。
彼女が名前のことを気にしていたとは思いもしなかったので、それは申し訳なかったと思い「これからは立花さんと呼ぶようにする」と言ったのだが、それでは自分も混乱してしまうので、今のままで構わないと言う。……女の人は難しい。
***
「華さん、ちょっとこっちに来て」
黒澤が華を「さん」付けで呼ぶときは注意しなくてはいけないときだ。上司として部下を指導しなくてはいけないときは「さん」付けで呼ぶ。
「……こんな感じね」
「……はい、すみませんでした」
しかし、華には自分の一時的な感情をぶつけることはしない。感情を込めて怒るのではなく指導なのだ。
いつだったか他の社員同士でトラブルがあったとき、仲介に入らなかった黒澤を華は心配そうに見ていた。華はいじめにあっていた同期の見方をし、上司である黒澤にどことなく視線を送っていた。それに気づいた黒澤が二人の話を聞き仲介に入る。
華とは働いて2年になるが自ら誰かの悪口を言うことはない。社内でトラブルがあったとき、誰かがミスした時「助けてあげてください」と視線を送ってくる。黒澤は後から他の社員に影で耳打ちされる。
「黒澤さんって、社内のことよく把握されてますよね」
「……」
周囲の空気を読み、気づき視線を送ってくれる彼女に、他の社員は気づいていないがどれだけ救われている人がいることか。今日も無事に業務が終わるのも。男の黒澤には気づかないことが多々あるから……彼女にはいつも頭が上がらない。
***
外はどしゃ降りの雨が降り、傘を車に忘れた黒澤はコートの襟をたて走って車に乗り込む。 運転席に座ると車のエンジンをかける。ワイパーを高速にしても雨は強くフロントガラスを打ち付け視界が悪い。次に社員入り口から出てきたのは、華だった。
華は入り口の前で花柄の傘を広げる。薄手の白いブラウスにベージュのスカート。ストッキングにヒールの低いパンプス。傘からはみ出した鞄が雨で濡れる。中には大事な物が入っているのか鞄をかばうように傘を差している為、肩の部分が雨で濡れて肌が透けてしまう。
それを見かねた黒澤は思わず声をかけた。
「華ちゃん、家の近くまで乗せていこうか?」
黒澤は窓ガラスから少し顔を除かせ、華に声をかける。彼女に声をかけてから気づいた。社内では上司と部下ということもあり、まわりは多少行き過ぎたことがあっても多目に見ている。
だが、今はどうだろう。45歳のバツイチおじさんと20歳も年が離れた既婚女性だ。
「……ありがとうございます」
華は傘を指したままま助手席のドアを開け黒澤に頭を下げた。乗る? 乗るのか……? ドアがバタンと閉まる。
彼女は鞄からハンカチを取り出すと濡れた肩を押さえるように拭く。よく見ると足元が雨で濡れてびしょびしょだった。
黒澤は後部座席に置いておいたタオルを渡す。黒澤は酒を飲まないので飲み会の後、自分の車で後輩を送ることがあった。
後部座席には小さなゴミ箱にビニールを被せて、ティッシュボックスも置いてある。少し男の匂いがするが「足を拭いてくれ」という意味で渡したつもりだった。
それがなぜか隣の彼女はタオルで口元を隠している。申し訳なさそうにうつむいて、一言も話をしてくれなかった。俺の心臓はドクドクと脈を打つ。二人は会社の駐車場から路上に出た。
雨は次第に弱まり、静まった社内に自分の心臓の音が聞こえる。黒澤はたまらずラジオのボリュームを上げた。
先に口を開いたのは黒澤だった。沈黙に耐えられなかったからだ。
「……旦那は迎えに来てくれないの?」
華は頭を左右に振る。
「……私、避けられているんです」
「ええ? 新婚なのに?」
黒澤の問いかけに華はまた沈黙する。またやってしまったと思い、どう見繕うかと頭の中で考えていると、重たく閉じた彼女の唇が開いた。
「最近顔を合わせても喧嘩ばかりで。お恥ずかしい話、なかなか子供に恵まれなくて、お互いピリピリしていて……」
「へぇ……」
なかなか交差点の信号が青にならない。
サイドミラーに雨の雫が溜まっている。
彼女の桜色の口紅が取れた素のままの唇が露になった。
「黒澤さんと結婚すればよかった……」
そうか、遠くから肩だけ濡れていたと思っていたが、側でよくよく見てみると胸の部分も濡れている。それを隠すためにタオルを握りしめていたのか。
「……え? 冗談でしょ? こんなおじさん」
黒澤は華の妙な雰囲気を感じ自分を「男性」ではなくわざと「おじさん」といい、自分にはその気が無いことを遠目に伝える。
「……冗談です」
華が住んでいるアパートの近くで車から彼女を降ろす。「すぐそこなので」と指を差した部屋に灯りがついている。黒澤は頭の中で先程の言葉を繰り返した。
『黒澤さんと結婚すればよかった』
もし、部屋から旦那が出てきたらとか、男に送られてきたことに気づいた旦那が彼女を怒鳴りつけたらとか若干不安だった。自分のせいで夫婦中がもっと悪くなってしまったら……。
「気をつけて」と送り出した時の寂しそうな彼女の表情が頭から離れない。……やはり、気になるので、車をUターンさせた。すると携帯のランプが光る。
「親父。今週の日曜日うちに帰るからね」
俺は息子からのメールに冷静を取り戻し、自宅へと急いで車を走らせる。何も考えないようにラジオの音楽に集中して。息子の言葉に一気に現実に引き戻された。
***
華は給湯室で一人泣いていた。お湯を貰いにとたまたま通りすがった黒澤は声をかける。
「具合悪いの?」
「少し……吐き気がして」
「早退する?」
「いえ、少し休めば大丈夫です」
「そう……無理しないでね?」
「はい…」
会話が終わると黒澤は席に戻ろうとした。
「……黒澤さん」
「はい?」
「黒澤さんはこんなに皆に優しいのですか?」
「え…?」
「なんでもないです」
顔に血の気が無く、真っ白だった。立っていられなくなったのか、床にしゃがみこむ。彼女は貧血持ちだったのだろうか。
ハンカチを取り出して口元を押さえたので、その理由が分かった。
「……吐きそうなのか?」
黒澤は彼女の背中をさする。
「そうなのか?」
「……」
「……旦那に連絡するか?」
華は頭を横に振った。瞳からは大粒の涙が溢れ、頬に流れ落ちる。
「……なんで私ばっかり……。私だけ親と離れて、仕事も辞めて、引っ越して全部失わないといけないの。……私は立花じゃない!」
「え……?」
癇癪を起こした彼女の姿を見るのは始めてだった。華は震える右手を自分の左手で押さえる。それはまるで込み上げる感情を堪えているようだった。
「黒澤さん、私今の職場を辞めたくないんです。せっかく今まで仕事を覚え、皆さんにもお世話になったのに……この場所に私のマイナスイメージをつけたくない」
黒澤はそっと彼女に触れようとしたが、その手を止める。
「私、黒澤さんを始め、皆さんに下の名前で呼ばれて嬉しかった。結婚して苗字が変わってこれまで生きていた自分を失ってしまったようで寂しかった。
今まで仲良くしてくれた友達も、育ててくれた両親も、築き上げた経歴も全部無くしてしまった。
そして、また良くして貰ったのに、彼のせいで全部失おうとしている……」
黒澤は給湯室の隣の部屋からパイプ椅子を持ってきて、彼女を座らせる。給湯室から彼女のマグカップを見つけ出すと、ぬるま湯を注ぎ、ぐったりとする手に握らせた。
「働くことはいつでも出来る。でも、お腹にいる子供を産むのは今しか出来ない。産休を取って、落ち着いたらまた戻っておいで。
席は開けておくし、赤ちゃんを産んで華ちゃんが戻って来てくるのを皆で待っているからさ」
それでも華は頭を上げない。
「……戻ることは出来ないんです。先日旦那に子供を生んだらしばらく専業主婦になるように言われたんです。
だから……黒澤さんとも、もうあえなくなる」
急な展開に驚く。それは彼女の意思とは関係が無く、旦那が決めたことなのか。それでも、黒澤は表情を変えなかった。
「そうか……それは残念だな。貴重な戦力がいなくなると。でも、家庭の事情なんだからそんなこと気にしなくてもいいんだよ?」
華は顔を上げて、黒澤の瞳をじっと見つめる。
「黒澤さん……それだけですか?」
「それだけ?」
「いえ……ありがたいお言葉です……」
***
華のお腹は月日を追うごとにみるみる大きくなっていった。華が妊娠したおかげで夫婦中も回復したのだろう。夕方には仕事を終えた旦那が車で迎えに来る。
「いつもお世話になっております」
旦那は車から降りると菓子折りを持って、黒澤の元へやって来た。黒澤は言葉少なく淡々と社交辞令程度の挨拶を交わしその場を後にする。
「……親父最近暗いけど、どうかした? 仕事辞めんの?」
「はは……辞めるもんか」
食卓には二人分のご飯と麻婆豆腐、たまごスープが並ぶ。息子は数ヵ月自分がいない間に父親の料理が変化したことに驚いていた。
「……好きな人とか出来た?」
「まさか。この年だぞ?」
「……いや、ほら、俺も島から出て行って寂しいのかなと思ってさ」
「……お前がいなくなって自由を満喫しているよ」
「へーえ」
「俺は一人じゃない。ここには顔見知りの島の人もいるし、会社にいけば仲間もいる。……それに、孫はお前が見せてくれるんだろう?」
久しぶりに食卓には明るい笑い声が木霊した。
***
華の退職する日が来た。終礼の後、華は皆の前で挨拶をした。
「短い間でしたけれど、大変お世話になりました」
「赤ちゃん生まれたら、見せに来てね」
社内の皆が暖かい目で華を見送る。最後に上司から社員を代表して花束が彼女に贈られる。彼女は両手一杯の花束を抱き抱え涙を流した。沢山の社員に見送られる中、黒澤は然り気無く華に声をかけた。
「華ちゃん、ありがとうな」
「課長、立花さんにまたちゃん付けですか? それ、言わないでずっと思ってたんですけど、セクハラですよ?」
社内に一斉に笑い声があがる。華はお世話になったお礼にとデパートで買ったチョコレート菓子を渡した。
黒澤は休憩室で缶コーヒーを飲んでいた。そこに、男性の社員が入ってくる。華から貰ったチョコレート菓子を一粒持ってわざわざ黒澤に渡しに来たのだろう。
「……課長のお気に入りがいなくなって残念でしたね」
「お気に入り?」
「だって、あんなに熱心に指導していたじゃない」
「あんなの、普通だよ」
「俺はてっきり課長と立花さん付き合っているんだと思ってましたもん」
「冗談。20も歳の差があって、人妻だぞ?」
「……立花さん仕事が出来る人だったのに、専業主婦だなんて勿体ない。正社員でバリバリ稼げる人でしょうに」
「人それぞれ家庭の事情が違うんだからしょうがないよ。それに、これから子供が産まれるんだ。子供の世話を見てくれる人がいるならまだしも、託児所が無い会社、病児保育施設が無いこの街じゃ家庭と仕事との両立も難しくなる」
「……もし課長が立花さんの旦那だったら、専業主婦にさせました?」
黒澤は缶コーヒーを飲み終えると、空になった缶をゴミ箱に捨て、彼に背中を向けて返事を返した。
「旦那の判断は間違っていないと思うよ。僕だって家庭を守ってくれてた方が助かる」
彼女から貰ったチョコレートを口にいれる。
それはとても甘く、乾ききった口の中で悪戯に大人の心を揺さぶろうとする。
舌の上で極上の甘さを楽しんでいると、あと少し味わいたいという
ぎりぎりのところで不埒なにチョコレートは跡形もなく消えてていったーー……。
ーー閉じ込めて置いたさ。職場に妻をそそのかす悪い男がいて、自分が見ていないところで、そのチャンスを今か今かと狙っているんだものーー……。