Under The Yamamomo Tree 1
――継母が懐妊したと聞けば、前妻の息子は多少精神的に不安定になっても仕方がないだろう。ましてその彼が、10歳ぐらいだったならば。
1182年の初夏、当時11歳だった俺はまさにそんな状況下に置かれていた。
祖父から、仮に新しく生まれる子が男子でも、あくまで当主の継承権は俺にあるとお墨付きを貰ってはいたが、後から考えると、俺が欲しかったのはそんなものではなかったように思う。簡単に言えば、構ってほしかったのだ。俺にはふたりの同母妹がいるが、このふたりも含め、家族全員が妊娠した母上のことを気遣っていた。いや、それはおかしいことではないのだが、俺はといえば、ひたすら寂しかったのを覚えている。
王宮と俺の家、それとザルーン塔のちょうど中間に、ヤマモモの庭と呼ばれる王家直轄の庭がある。直轄とはいえ、少なくとも貴族であるなら自由に立ち入ることができるのだが、綺麗な花畑があるわけでもなんでもないので、立ち入る者は少なかった。ヤマモモの庭と呼ばれているのは、庭の中心に巨大なヤマモモの木が生えているからで、夏が近づくと、ヤマモモの甘酸っぱい実が生るのだった。
退屈を持て余し、しかも孤独感に苛まれていた俺は、家族の気をひくことを諦め、日中はこの庭に出入りするようになった。丁度ヤマモモの木の下に腰掛けるのにちょうどよい大きさの石があるので、そこに座って本を読むのだ。
姫様と出会ったのは、そんなある日のことだった。
*
どさっという音がして、いつものように本を読んでいた俺はふと顔を上げた。ヤマモモの実にしては大きすぎる。
見ると、目の前に女の子が倒れていた。身なりからして貴族らしいが、胸の辺りに刺し傷があり、顔もやつれている。右手には銀色のナイフを持っていた。明らかに異様な光景なのだが、印象に残っているのは――彼女の髪が亡くなった母上と同じ美しい銀色だったことだった。
致命傷みたいな怪我をしているにも関わらず、彼女は程なく目を覚ました。美しい蒼の目である。しばらく辺りを見回していたが、俺を見るなり固まって、体の左側をかばうようにしながら後退しはじめた。
「あ、あの……」
声を掛けると、彼女はまた固まった。少しい気が荒いのはやはり怪我をしているからだろうか。よく見ると、少し震えていた。
声をかけておきながら、俺もいったいどうしたらいいのか分からなかった。他人を呼んで治療をしてもらうとか、選択肢は色々あったはずだが、すっかり冷静さを欠いた俺は何を思ったか、あとで食べようと思っていたヤマモモの実を彼女に差し出した。
「良かったら、食べます?」
突然空から降ってきて、片手にナイフを握った怪我人に何の挨拶もなしにヤマモモの実を勧めるなんて、我ながら全く意味が分からないが、彼女は首を振った。
「私に……近寄らないでください。……よくないことが、起こります」
掠れた、弱弱しい声。そしてあろうことか彼女は、右手に持っていたナイフで自分の足を刺そうとした――
「――ま、待って!」
次の瞬間、俺はいったいどうやったのか、即座に彼女の背後に回り込み、その右手をつかんでいた。細い腕なのに凄まじい力だ。しかし俺は彼女の怪力ではなく、むしろ彼女を制止した瞬間に見てしまった左手に仰天していた。
肩から生えていたのは、人の腕ではなかった。鱗に覆われたそれは、明らかに龍のものだったのだ。
「……落ち着いてよ。とりあえず、ヤマモモ、食べよう?」
彼女の右手をつかんだまま、俺は何故か再度ヤマモモを勧めていた。後になってみれば全く理由が分からないのだが、あの時は、彼女がヤマモモを食べれば全てが解決するようなそんな気分になっていた。
「私に、触らないでください」
「だったらナイフから手を放して」
「それは出来ません」
「何故?」
俺が尋ねると、彼女はじっと俺の目を見つめた。怖いぐらいに蒼い。
「……こうしなきゃ、いけないんです」
全く事情が分からないが、胸の赤い血も自分で刺したものなのだろうか。虹彩の蒼、血の赤、そして母上と同じ銀色の髪に同じ色の左腕――全てがどこか現実離れした白昼夢のようだった。
「そ、そんな理由は……ないよ」
俺が声を振り絞りそう答えると、彼女は視線を落とす。それから隠していた左手で胸を押さえて、苦しそうに一息吐き出す。傷が苦しいのだろうか。
「誰か呼んだ方が――」
「いえ、もう大丈夫です。もう、治りました」
にわかに信じられないが、確かに血は止まっている。
驚く俺をよそに、彼女はすっと立ち上がった。そして呟く。
「……帰らないと」
「帰るって、どこへ?」
俺の問いに、彼女は答えない。ただ黙って、無表情で、俺の目を見ている。何か言いたいことがあるのに、それをこらえているような、そんな顔に見えた。
「ねえ、やっぱり……ヤマモモ食べようよ」
どう見ても危険な人だということは分かった。しかし、どうしてなのか俺は彼女から逃げるという選択肢を選べなかった。今になって思えば彼女が神龍の血を継ぐ者であり、俺がオズワルド家の人間だからだったというのが大きな理由なのだろうが、それ以上に、彼女の銀色の髪が懐かしくて、見過ごせなかったのではないかと思っている。
ヤマモモを差し出すと、彼女は左手でそれを受け取った。右手は相変わらずナイフを握ったままだ。
「ちょっと酸っぱいけど、食べられるよ」
俺がそういうと、彼女は皮も剥かずにひとくちかじった。途端に目を見開き、次の瞬間には全部食べてしまった。相当お腹が空いていたらしい。
「名前、教えてくれないかな?」
後からもいだ実を食べつつ尋ねると、彼女は首を振った。
「じゃあ……格好からして貴族の子でしょう? 『姫様』なんてどう?」
「ヒメサマ?」
きょとんとした顔で姫様が復唱する。俺が頷くと、首を傾げた。どうも感情はちゃんと備わっているらしい。
「姫様が名乗ってくれないなら俺も名乗らないよ。そうだな……ヤマモモとでも呼んでくれ」
そう言ってみてから、あまり格好良い名前でないことに気付いたが、彼女は納得したようにコクンと頷いた。
「あのさ、その左手は……生まれつき?」
「見ないで……ください。私は、バケモノ……なんです」
俺の質問に、彼女はまた震える声で返す。まあ確かに人間のそれではないが、バケモノは言い過ぎではないだろうか。神龍と馴染みのある家に生まれた者としては聞き捨てならないが、何せ名前を名乗るわけにはいかないので何とも言えない。
「そうかな? 綺麗だと思うけど……」
そう言って、左手に触れようとしてみる。しかし彼女は逃げるようにまた後退した。
「……触れると、ケガレが移ります。呪われて、死んでしまう……」
「別に、仮にそうだったとしてもそれは構わないよ。……俺が死んでも、誰も困らない」
家族の事を思い出していたわけだが、そう言ってしまってから、失言だったかと反省したが、彼女ははっとしたような顔をする。それから、はっきりした声で言いかえした。
「そんなことはないですよ。誰にも望まれない人はいない。必ずどこかに居場所があるはずです」
「そう思うんだったら自分をもっと大事にしてよ。姫様が死んだら、俺は悲しいよ」
「今会ったばかりなのに?」
「だって……大切な人に似てるんだ。その髪が」
まるで口説いているような言葉だが、少なくとも言った瞬間の俺はそんなことは考えていなかった。
「大切な人ですか?」
「もう死んじゃったけどね。姫様にもいるでしょう? 大切な人が」
「みんな大切です」
「だったら、姫様が傷ついたらそのみんなが悲しむよ」
「いえ、そういうことはないんです。私は――」
言葉を切って、彼女は口ごもる。それから苦渋の表情を浮かべて、両腕を組むなりその場に丸まってしまった。驚いた俺が声をかけると、彼女は苦しそうな声を上げた。
「見ない……で……」
次の瞬間、彼女の背から銀色の翼が生えた。しかし驚く間もなく、俺は強い波動を受けて、その場に倒れてしまった。
***
『父上!』
闇の中、光の方へ鱗の生えた手を伸ばす。その先にいたのは――
――国王陛下……?
***
どうも数秒程気を失っていたらしい。地面に転がった俺が見たのは、今まさに自分の腹に爪を突き立てようとする銀色の龍だった。体高は俺の1.5倍ぐらいあるだろうか。腹や飛膜の内側はクリーム色だ。
「やめろ!」
咄嗟に俺が叫ぶと、龍はゆっくりと俺の方を向く。蒼い目が悲しげに燃えていた。
もしさっき見たあの一瞬の幻覚が彼女の記憶だとすれば、彼女は国王陛下の一人娘、つまり王太子だ。そして伝承では、王家の先祖は神龍のはずである。さっき気絶した原因が噂に聞く神龍の波動だとすれば、全てのつじつまが合う。彼女の半身は神龍なのだ。
神龍の身体にそっと触れる。冷たく滑らかな銀の鱗を、そっと撫でる。
「呪われたり、死んだりすることはないはずです……こんなに美しいのに」
相手が王太子の可能性が高いと分かると、流石に口調が変わる。俺がそう言うと、姫様はじっと目を合わせてきた。本当に美しい目だ。
《あなたは、私が怖くないのですか?》
頭に響く、静かな声。――これも実家に伝わる文献で読んだ、神龍のテレパシー能力だろう。ただの龍には出来ない芸当だ。
《怖くないですよ》
神龍からテレパシーを受け取ることが出来れば、自分もテレパシーを発信することが出来るというが、ちゃんと届いただろうか。しばらく緊張していたが、やがて彼女が驚いたようにテレパシーを返してきた。
《あなたは、何者ですか》
「『ヤマモモ』ですってば、先ほどから申し上げている通り」
今度は言葉でそう返すと、彼女は目を閉じた。見れば、涙を流している。
《私は、帰らなければなりません》
彼女は本当に王太子であり神龍なのか、いったいどうしてここまで自尊心が損なわれているのか、謎は尽きないが、詮索してはいけないような気がした。正直、厄介事に巻き込まれた自覚はあったが、もはや彼女を見捨てたりすることは出来ないと分かっていた。
《じゃあ、明日また来てください》
俺はそういって、そっと彼女の涙を拭ってあげた。すると彼女はそっと目を閉じて、東の方へ飛んで行った。――東というと、ザルーン塔があるはずだ。
――これが、俺と姫様の出会いだった。