表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/31

第四章―2

     2


 鳥正の家に来るのはこれで四回目だった。一回目に来たときは絵に夢中になり、二回目は正減と軽く会話をしてすぐに鳥正と出て行った。三回目は玄関で鳥正が出て来るのを待っただけ。考えてみるとボクは鳥正の母親とはまだ一度も会っていない。だから鳥正の部屋へ入り、本棚に立てられている家族写真を見たときボクは驚愕した。咲さんの家に乗り込んできた狂人と化したおばさんがそこに映っていたのだから。もちろん化け物のような顔ではない。屈託(くったく)のない笑顔を浮かべている。まるで別人だ。それでも雰囲気というかなんというか、狂人と写真の女性は同一人物だとわかる。鳥正と正減と母親三人の笑顔。その笑顔は未来に待ち受ける不幸を微塵も信じていないように見えた。

 鳥正はというと勉強机で本を食い入るように読んでいる。ボクたちが入って来たことに気づいていないらしく、「おい、鳥正」という犬彦の問いかけにやっと顔を上げた。

 そのとき鳥正の顔が『羊たちの沈黙』でアンソニー・ホプキンス扮するハンニバル・レクターや『幻魔大戦』で身体をのっとられた江田四郎のように見えてゾッとした。

「やあ君たち、何しに来たんだ?」

 心配して見に来たんじゃないか! やっぱり変だ。そう思ったのは犬彦も同じだったらしく、ボクよりも先に口を開いた。

「やあ君たち、何しに来たんだ、じゃねえよ。心配だから様子を見に来たんだぞ」

「なるほどね。でも心配はいらない。僕は大丈夫だよ。ん、その子は?」

 鳥正の視線が風子を捉えたのでボクは説明してやった。すると、ふうんこんにちは、と云ってボクたちが来る前に読んでいた本を棚に戻した。

 そのときボクは見た。鳥正はニーチェの『人間的、あまりに人間的』を読んでいた。『ツァラトゥストラかく語りき』ではない。ボクからすると『マニアック、あまりにマニアック』なのだが、まあ『ツァラトゥストラかく語りき』もマニアックなのだけど。『人間的……』は、ワーグナーと決裂する原因となった本なのだが、そもそも中学生が読むモノではない。おそらく半分も理解できないだろう。しかし鳥正はイロイロな本を読んでいて博識なのだ。彼なら理解できるのかもしれない。鳥正の本好きはときどきやりすぎだろ、と思うことがある。読みたいと思った本が身近にない場合、学校を休んででも探しに出かけるのだ。ネットで購入すればいいのに、と云ったことがあるが、「本の状態をこの眼で見てから買いたいんだ。だから全国何処にでも行くよ」と答えた。完全に病気だ。本に対する愛が鳥正の知識になっているのでそれはそれで良いことだ、とは思うが。

 犬彦はというと『本』を前にすると(ちぢ)こまってしまう。身体と心が拒絶反応を示すらしい。そんなボクたち三人なのだが、中学一年のときに出会って以来親友同士なのだ。鳥正は理屈っぽく犬彦は野暮ったい。そしてボクは中間の位置にいるように思う。

 ボクと犬彦は小さな丸テーブルの前で腰を下ろし、風子はスタスタと歩き出し本棚に近づいた。それを眼で追っているとふいに『家畜論』が視界に飛び込んできた。そのとき、本の一説を思い出した。


『親友とは『好き』『嫌い』でなるのではなくて心が『必要としている』か『別にいらない』かで決まる。それは頭で考えるのではなくて心が感じるモノ。心が必要だと感ずれば自ずと親友となる。脳髄では考えている。『こいつって本当バカだよな』『こういうところを治せばいいのに』などと。だけど親友でいる。それは何故か……簡単だ、心に巣食っている寄生虫様がその相手を必要としているから疎遠(そえん)にならないのだ。否、その相手の寄生虫様を欲しているのだ。つまりはただ単に『親友にさせられている』のだ』


 ボクと鳥正と犬彦が親友でいる理由を、『家畜論』を読んで少しだけわかったような気がする。ボクは鳥正の知識を欲しているし犬彦の純粋な強さに憧れている。他のふたりがボクをどう思っているのかはわからないけれど、いっしょにいるということは何かしら気に入っている部分があるのだろう。そして、ニーチェの本を見て『三位(さんみ)一体(いったい)』という言葉を思い出した。もしボクたちが三人揃って写真を撮ったとしたらニーチェとレーとルーのように『三位(さんみ)一体(いったい)』と名付けるのだろうか。気持ち悪いから撮ることはないのだけれど。

「お前はこれからどうするんだ?」

 犬彦の言葉でボクは我に返った。そして鳥正の返事に耳を傾けた。

「親父は死んで母親は入院だろ? お先真っ暗じゃないか」と犬彦が続けて質問する。

 風子は本を取り出して読み始めた。ここからじゃ何を読んでいるのか見えない。

「受け入れるさ。すべてを……ね。はははは」

 意味がわからない、が、ボクは先ほどのニーチェで鳥正が何を云わんとしているのかわかった。ニーチェの哲学の『永遠(えいえん)回帰(かいき)』だ。

『すべてを感謝し愛し受け入れろ』だったと思う。まあ簡単に云えばだが。

 つまり鳥正はニーチェの思想に感銘(かんめい)を受けて現実を受け入れると云っているのだ。

 バカだ。

 ニーチェの『永遠回帰』は、鳥正の人生で云うと、父親の死、母親の病気が繰り返し繰り返し未来永劫に繰り返されますよという意味をそのまま解釈しがちだがそうではなく、もしそうなっても人生に感謝できますか? それらの出来事を受け入れられますか? そしてこんなあなたの人生を愛せますか? というテストなのだ。次の人生では父親を殺させやしない。母親に発病をさせない。と繰り返す未来を変えようと模索するのが普通だ。だけど鳥正はこれらの悲劇をすばらしき人生のひとつとして受け入れたのだ。バカだ。


 バカ……①おろかなこと ②馬鹿貝の略 ③こいつバカだよな~と云う人がバカなことが多い


 鳥正の言葉に感動したのかあきれたのか犬彦は口をぽっかりと開けたまま動かない。

 ボクが犬彦の顔をじっと見つめていると、よだれが垂れる直前に口を動かした。

「お前……すごいな……」

 こいつもバカだ! バカ二人だ! 

「何でそんな考え方が出来るんだよ」「犬彦もニーチェを読め」「いやだよ。わかってるだろ? 俺が本を読めないって」「身体が震えだし瞳孔が開いて泡を吹いて身体が丸くなるんだろ?」「なんだそりゃ。俺って化け物?」「それは云いすぎだが似たようなもんだろ?」「まあ似たようなもんだが……」「わかりやすく説明すると、『運命愛』を極めたんだ」「なんか知らんけどその響き、かっこいいな」「すべての出来事を自分の運命として受け入れるんだ。そしてその運命を愛する。悲劇をも愛する。それが出来たら僕の気持ちがわかるよ」「まったく意味がわからんけどすごいよ鳥正」「だろ。でもぜんぜんむずかしいことは――」

 長くなりそうだったのでボクは話しを先に進めることにした。

「ところで鳥正。これからどうするんだ? 親がいないとこの家には住めないだろ」

「なんだよ。待夢は冷静だな」と犬彦が鼻息を荒げた。

「冷静じゃないよ。結構動揺してる。だけど、驚いてばかりじゃいられないだろ?」

「でも兄ちゃんが……」と、犬彦。

 おそらくニーチェと云いたかったんだろう。面倒くさいからつっこむのはやめる。

「ニーチェよりも鳥正だろ?」

 それはそうだ、という風に、犬彦は何も云わず鳥正へと視線を向けた。

それに答えるかのように鳥正は、

「まだ決めてないんだ。一応、エナ子おばさんが――君たちを案内してくれたおばさんね、子どもひとりだと何だからここに移り住むって云っているんだけど」

 ボクは鳥正の言葉を聞いて遺産狙いだと思った。でも、おばさんの見た目だけで断定は出来ないのだけど。

「ぜったい遺産狙いだよ」と犬彦がボクの心の中を代弁してくれた。

「やっぱりそうかな?」

「お前もそう思うだろ? 待夢」

 こんなややこしいことを何でボクに振る! とあきれたが一応答えることにした。

「その可能性は否定できない」

「ほら待夢も同じ意見じゃないか」

「でも、同じ血が流れているんだから信じてみてもいいかもしれない」

「信じるだけ無駄だよ。吸い取れるだけ吸い取られて最後にはポイだよ」

「僕は待夢と犬彦の案の間だと思う」と鳥正。

『間ってなんだよ!』ふたつの叫びが重なる。

 ボクたちはいつも意見がわかれる。三国志の()()(しょく)のように天下三分の計に処される。そしていつも意見は曖昧なまま終了するのだ。だけどこの日は違った。

「あれこれ云っても決めるのはけっきょく本人だからね。何が正しい、何が間違ってるっていうのはニーチェに云わせると存在しないしね」と、冷ややかに風子が云った。

 女帝強し! しかもニーチェをすでに読んでいる!


                                       つづく

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ