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第二章―2

     2


 館長室は広くて、硬質で、無機質で、『聖アンナと聖母子』『東方三博士の礼拝』『聖ヒエロニムス』『最後の晩餐』などといったレオナルド・ダ・ヴィンチの有名な絵画が壁一面にかけられていた。さすがにこれらの作品は風子も眼にしていたらしく、パンドラのときには見せなかった表情を浮かべている。ボクはちょっと面白くなかった。

 部屋の中央には巨大なワークデスクがあり、三台のパソコンと四台の電話が置かれていて、すごく仕事が出来る人なんだなあと感心した。室内にある絵画と同じくらいか、それ以上にあるのが監視カメラの映像だった。展示されている絵のひとつひとつがアップで映し出されている。ひとつの作品に前後からの映像。『マトリックス レヴォリューションズ』のように多い。

 ボクたちは皮製のソファに腰を下ろした。ゴツゴツした中にもふんわり感がある何とも云えないすわり心地だった。ボクにはこれが気持ちいいのかわからなかった。隣を見ると美海も風子も『マチェーテ』のダニー・トレホのようにある意味複雑な顔をしている。

 すぐに秘書と思われる女性が飲み物とおかしを持ってきた。「いらっしゃい」と云い、その笑顔にボクたちはダニー・トレホのような笑顔を返した。

「ところで、君たちは昨日のニュースを見たかい?」

 ニュース自体は見たけどいろんな出来事があったのでどれを指しているのかわからない。返事を待たずに正減が切り出した。

「ここから近くにある新聞社の不審事件だよ。社員が全員、炎を吹き上げながら飛び降りたっていう」

「ああ、知っています」

 昨日というから気づかなかった。ボクは今日見たわけであって、実際は昨日起こった事件なのだ、とすぐに理解した。

「実は先ほど事件現場に行ってきたんだよ」と云って正減は風子の顔色をうかがった。

 妹はどうぞ続けてください、と頭をコクンとさせた。事件が事件なので気を使ったようだが風子はボクたちが思っている以上に大人のようだ。逆に美海のほうがおびえている。

「火事っていうのは燃え具合から出火場所、出火原因というものはすぐに判明するんだよ。ところが今回はまったくの不明。犯人、もしくは犯人たちは、複数の場所に同時に出火したとしか考えられないそうだ」

「犯人? ということはやっぱり事故ではないんですね」

「そうなんだが、まったく不可解だよ。あの時間、社員は二十人近くいた。何者かが一ヶ所に火を点けるなら不意をつくなどしてどうにかなりそうだが、そうではないらしい。出火場所は同時に二十数ヶ所。となるとかならず社員の誰かに阻止されるはずだ。それともうひとつ説明のつかないことがあるんだ」

「説明の~つかないこととは?」

 カタカタと震えながらも興味をおぼえたらしく、美海がそう尋ねた。

 正減はここで大きく息を吐いて自慢であろうあごひげをさすった。

「火元というのが、記者たちの、身体だったらしい」

 それがどういう意味を持つのか、認識するのに時間はかからなかった。

「集団自殺ですか?」

「全員が時間を合わせて自ら火を点けられた。それはどう考えても納得がいかない。だから自殺と考えるのが妥当だね。しかし……」

「そうですね。全員が洗脳、全員に自殺願望があった、全員が同じ宗教に入っていた、全員同時に放火された、全員が同じ時間にボヤを出してしまった、などと考えるのは無理がある。自殺も他殺も考えられない。じゃあ、真相は何なのでしょう」

「ふうむ。この事件は前例がなくて、すべてが謎に包まれている」

 そこで正減は胸ポケットからタバコを取り出した。いいかい? といった感じで少し持ち上げて見せる。

 ボクは風子に視線を向けた。彼女は口をツンとさせて、別にいいよ、とジェスチャーで示した。

 正減はタバコに火を点けて息を大きく吸った。そして、煙を上に吐きながら続ける。

「同じ日の午後、雑誌編集者が謎の死を遂げた。こちらは頭部だけを燃やしながら死に至った。この編集者は以前、事件のあった新聞社で働いていたという経歴がある。私の推理だが、新聞社の事件と何かしらの関連性があると思えてならない」

 ボクもそう思う。ふたつの事件は同じような奇妙さ、においを含んでいる。そして、どちらも燃えている。

「話がそれてしまった。こんな話しをするつもりはなかったんだがつい……ね。ごめんごめん。ところでみんな楽しんでいるかな?」

 こんな話をされて楽しんでるもなにも、と思ったが、ボクはうなずいて見せた。

 隣へ視線を移すと、美海はただただおびえており、風子はどうやら興味を持っているようだ。楽しそうに見える。感受性の強い美海は別として、遠い場所の不思議な現象、事件、事故などといったものは、しょせん誰にとっても対岸の火事としか認識されないのかもしれない。風子を見ているとそう思った。


『我々人類は、危険の外にいる時と危険に(さら)されている時とでは性質が変わる。安心感という高台は、人間の本性を覆い隠す効果を与えるのだ。そして、本性をさらけ出した人間の何と醜いことか。完全なる自己防衛本能とでも云うのか、他人を蹴散らし、踏みつけ、乗り越えてでも生きようとする。仮面を脱ぎ捨てた人間の何と恐ろしいことか。これは、脳神経を超越する本能伝達による(だい)当然的行動なのだ』


     ☆


 ボクたちは館長室を出た。正減がドアまで送り、笑顔で手を振り、扉を閉めようとしたそのとき、風子が振り返り、歩を止めた。どうしたんだろう、とボクも足を止める。

「正減さん、どうしてそんなところへ行ったの?」

 そんなところ、とは事件現場のことだろう。それを正減も()み取ったらしく、ニコニコ顔をくずさないまま答えた。

「私は別件の調査をしていてね、それを、あの新聞社に依頼していたんだよ。何度も通っているうちに編集長と顔見知りになったもんだから、それで心配してね」

 まだ納得いかないようで風子は質問を続ける。

「依頼って?」

「今回の事件……実は……」

 そこで言葉を切って正減は手を振った。

「いや、今はちょっと調べ物とかあるもんだから、また今度ね」

 風子は(ほお)を膨らませて(きびす)を返して大きく肩を揺らせながら去って行った。少し先に美海が心配そうな表情でこちらを見ている。

 正減さんに頭を下げた。風子を追いかけるつもりだったが、「待夢くん」と彼に呼び止められたので顔を上げる。

「訊きたいことがあるんだが、いいかな?」

「何でしょう?」

「君の家の隣に黒花咲という女性がいるだろ? どんな性格をしていて、どんな生活をしているのかを知りたいんだ」

 ここで咲さんの名前が出るとは想定していなかったのでかなり驚いた。驚いて眉間にシワを寄せて睨むような形になってしまって、ついつい語気が荒くなってしまった。

「え? 今回の件と何か関係があるのですか?」

「あ、いや、ああ、別に関係ないよ。本当に関係ない。ただ、彼女を見たときあまりの美貌に驚いてね。だから……ね……いや、忘れてくれ」

 常に『小説家を見つけたら』のショーン・コネリーのように落ち着いていて貫禄をかもし出していた正減とは思えない狼狽ぶりだった。

「もう少し楽しんでいってくれ。どうぞどうぞごゆっくり」

 意味がわからないまま木造扉は閉じられた。

 何なんだいったい、という感情を顔に浮かべながらしばらく考えていたけど想像もつかなくて、解決策のない謎にボクは不満で、そんな考えのまま振り向いたからだろうか、美海と風子が眼を丸くしながらボクを指差している。このふたりに対しても、何なんだいったい、と憤慨したが、どうやら勘違いだった。

「ドアから離れて待夢くん!」

 蒼白になった美海が叫ぶ。

「早く!」

 風子も同じように叫んだ。

 振り返ると扉が燃えていた。ちょうど真ん中の辺りが黒と赤と黄色と白にまみれて燃えていた。パチパチゴウゴウと音を立てている。

 ボクは咄嗟に動くことが出来なかった。何故扉が燃えているのか理解できないのを理解しようとして、脳髄が逃げろと指令を出すのを忘れている。


 混乱……①乱れて秩序のないこと ②ホラー映画などではまず生き残れないこと


 扉がバダン! と勢いよく開けられた。

 中から炎に包まれた正減らしき人物が走ってきた。『らしき』とはそれが正減本人であるのか体型からしか連想できないからだ。着ていたスーツは炎に包まれどんな色なのかわからない。顔もしかり。だけど彼が正減だということはそれとなくわかる。

 炎の塊となった正減は『バタリアン』や『キョンシー』のように両手を前に上げて、ボクのところに走ってきた。それは助けを求めているようにもボクをみちずれにしようと接近しているようにも見える。どちらにしても逃げなければボクも炎に包まれることになる。でも足が云うことをきかない。ホラー映画を見ていると、こういう危機的状況が出てきてキャラクターは叫ぶだけで殺されることが多い。何で逃げないんだよ、とテレビに向かって突っ込むのだが、本当に足が動かなくなるなんて想像もしていなかった。

 ああ……ボクはグジュグジュに焼け崩れて死んでしまうんだな……どうせなら他の死に方がよかったな……などと考えている間に正減はあと数歩でボクのところに到達する位置まで来た。熱がボクの皮膚を刺激する。パチパチゴウゴウという音が大きくなっていく。肉が焼ける匂いも鼻の奥に充満する。このまま火に包まれるとまず息が出来なくなるんだろうな。それでも苦しいというより熱い痛いといった感覚が強いのだろうか。燃えたことがないのでわからない。ジリジリと肌を焼き、香ばしい香りをあたりに漂わせ、間違いなく死にいたるだろう。そんなことを考えている間に正減はついにボクの眼と鼻の先まで近づいた。いよいよサヨウナラ、と眼をつぶったとき、ボクは誰かに突き飛ばされた。

「何やってんのよ。バカ!」

 救世主は風子だった。眼に涙をいっぱい浮かべている。

「ありがとう」

 そう云うだけで精一杯だった。

 すぐさま美海が駆けつけてきて「大丈夫? ケガはない?」と云いながら、優しくボクの身体を立たせてくれた。

 正減は方向を変えずに真っ直ぐ突き進んで行く。ああ、父親が見た、車に突っ込んだ人もきっとこんな感じだったんだなあ、と悠長に構えていると突然火災警報が鳴り響いた。それと同時に正減はバゴンと倒れ伏した。

 スプリンクラー様のおかげでさいわいにも絵に炎は燃え移らなかった。ホッと胸を撫で下ろしたが、すぐさまハッとさせられた。なぜならば、パンドラというパンドラがみな、消炭(けしずみ)のゴミ袋のようになっている正減を、無垢とも冷たいとも云える何とも云えない表情で見つめているように感じたからだ。そのときボクは思った。これは『壺』から放たれた災厄のうちのひとつなのではないか……と。こういうことはまだまだ起こるのだろうし止まらないのだろうとも思った。ということは、最後に『希望』はやってくるのだろう。そこで惨劇は終わる。でもこれがパンドラの壺の成すことならば、なのだけど。

 悲鳴と怒号が響き渡る中、ボクは足を館長室に向けた。

 部屋の中はものすごい勢いで炎が暴れている。

「どうしたの?」と訊く美海に対してではなく、誰にともなくボクはつぶやいた。

「誰もいない。窓もカギがかかっている。このドア以外出入り口はなし。これって密室だよね……」

 この言葉に反応して美海と風子が同じく館長室を注視したのを、ボクは横眼にちらりと感じただけだった。


     ☆


 ボクは名探偵でも警察でも好奇心旺盛なでしゃばりでも自称探偵の素人でもない。だから密室の謎を解こうとして現場に残ったり口をはさんだりはしない。そんなものは警察の仕事なのだ。まかせておけばいい。

 簡単な事情聴取を受けてボクたちは家路についた。

 最後に正減と接触したのがボクたちだったので、警察のボクたちを見る眼がギロリと云っていたが、部屋から出たあとに出火したことを、ダニー・トレホの笑顔を見た秘書が館長室の外から一部始終を見ていたと証言したので、簡単な事情聴取で済んだのだ。秘書に対して、あんな顔を見せてしまって申し訳ない、と少しだけ反省した。

 スプリンクラーのおかげで全焼は免れたものの、館長が死んでしまったのだ、もしかしたらこのまま閉館するかもしれない。それとも鳥正が跡を継ぐのかな。密室の謎よりもそっちが気になった。跡を継ぐ=どれだけ儲けるんだろう、と父親のような発想をしてしまった自分自身に嫌気がさした。出火の謎よりもそっちが気になった。

 事情聴取のときにチラリと聞いたのだが、館長室には誰もいなかったそうだ。そして、ボクが指摘したとおり窓にはしっかりと内側からカギがかかっており、出入り口は正減が飛び出してきた扉しかないという。ダクトは三十センチほどの小さなモノ。ということは事故か自殺以外に考えられない。でも、正減の様子から自殺は考えられない。じゃあ事故? 正減はタバコを吸っていた。ボヤをだしたのかしら? などとあり得ないことは置いといて、消去法で行くと自殺しかあり得ない訳で、推理しても頭が混乱するだけなので、何故、正減が咲さんの名を出したのか、ということに思考をシフトすることにした。むしろ事故の謎よりもこっちの方が気になるからそのほうがいい。

 正減は咲さんのことを訊いた。だけどすぐにそれを訂正した。それは何故なのか。

 ………………ふう。

 ボクは名探偵でも警察でも好奇心旺盛なでしゃばりでもない。いくら考えてもわからないので考えるのをやめた。

 帰宅途中、美海はずっと泣きっぱなしだった。風子は何を思っているのか『キック・アス』のクロエ・グレース・モレッツのようにむかつくけどかわいい表情を浮かべている。

 ボクが風子の顔をじっと見ていると、

「ぜったい、おじさんは殺されたのよ」

 などと、かわいい口からは想像できない過激な言葉がつぶやかれた。

 イロイロな顔を持った風子。妹の顔を見ていると、何故かパンドラの顔がボクの脳裏に浮かんできた。


                                     つづく

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