終章
終章 エントシュルディゲン ズィー ビッテ
ははあ、ははあ、と息をはずませながら美海がボクに追いついた。これがあ~は~は~じゃないのでホッとする。汗だくになっている美海はいつもの美海だった。
「待夢くん、またこの家見てる~。幽霊でも見たの~?」
「いや、人が住んでいるように見えた気がしないでもなくもない」
「どっちかよくわからないんだけど~ま、いいや~」
ははは、と苦笑い。やっぱりこの『~』は好きになれない。ある分野に精通した人には人気が出るだろうが――。
精通……①くわしくよく知っていること ②行き過ぎるとマニアックと云われること
美海は事件の記憶を失っている。事件の、というより咲さんと樹里男くんの存在自体を覚えていないようだ。美海だけではない。鳥正も、犬彦も、咲さんと接した人々はボクと風子を除いてみんな《なかったこと》になっているのだ。
世界中で起こった発火事件……燃えていた当の本人たちはキョトンとしていて、騒いでいるのは周りだけ。けっきょく一連の事件は、集団ヒステリーやら集団幻覚やら集団妄想という形で終わりを告げた。
風子は月曜日の朝に父親が母親の元まで送った。いろいろと話したいこともあったけど学校があるからそうもいかなかった。仕方がない。でも、もう会えないわけではないからそう悲観することもない。
けっきょく、ボクは事件の真相を暴くことは出来なかった。負け惜しみは云いません。ボクの敗北です。
謎のすべては、咲さんが告白したようなモノだ。そう、あの絵本によって。
スルトル――イギリスやドイツ、北欧ではスルトとも云われる。絵本を渡されたときはわからなかったけど、調べてみるとなんてことはない。偉大なる大名探偵、空条は真相を謎めいた言葉ではなくそのままボクにうったえていたのだ。北欧神話の最終戦争=ラグナロクに終止符をうったのがスルトル。そしてもうひとり、フレイ(フレイルとも呼ばれる)とは、スルトルに敗れ去ったがために世界を紅蓮の炎に染めてしまった張本人なのだ。北欧神話では、このスルトルによって世界は一度、滅ぼされるのだ。
フレイは恋に溺れて最強といわれた武器を手放してしまう。それが世界崩壊の最大の原因だと云われている。
スルトル……その名前の意味は《黒》
しかし、この神話には続きがある。崩壊からの再生。腐った世の中の浄化。それを云いたいのだろう。否、警告かな。どっちでもいいや。
固定観念に囚われたボクの思考の敗北だった。久高島=アマミキヨ。それが間違いだった。べつに久高島だからといってアマミキヨが降臨するとは決まっていないのだ。咲さんに降りたのは北欧神話に出てくる炎の巨人スルトル。スルトルもまた炎を操るので、それがカモフラージュとなっていたのだ。それに紛らわしいのが、絵本にも出てきた『エーファイ、エーファイ』という言葉。ネットでこの掛け声はすぐに引っかかった。これは久高島のイザイホーで使われる掛け声なのだ。だから、イザイホー=久高島=アマミキヨ、と捉えてしまったのだ。咲さんは三重のウソをついていた、ということになる。
咲さんの魂に降りたのは祖母の霊ではなく神そのものだった。しかも二体。ここでボクは不信感を抱く。はたして、咲さんの精神は、本当に咲さんなのだろうか……と。
その真意を確かめる術はもうない。彼女の正体が何なのか、それは置いといて、絵本を読む前から、ボクは薄々咲さんが怪しいと感じていた。何故ならば、『これだけは云っておくね。ワタシたちは巣立さんの死とは関係ないわ』と、以前彼女が云った。普通なら『ワタシ』となるはずだが、『ワタシたち』とそう述べた。赤ん坊を頭数に入れるその言葉に、ボクはずっと、違和感を持っていたからだ。
この絵本が売れるかどうかはわからない。出版されるのかもわからない。もし出版されたとしても売れるとは思わない。そんな絵本を、咲さんはボクに渡したのだ。その行動がすべての答えなのだ。絵本の題名をフレイではなく、スルトルとした理由が真相なのだ。
絵本に記されていた隠れた要素にボクは気づいた。それは咲さんの家にかけられていた絵画と連動する。
咲さんの家に侵入したときに見た『受胎告知』の絵、二回目の『牙』の絵、そして最後は『砂漠』の絵。それらはニーチェの哲学を逆になぞっていたのだ。ニーチェによると『砂漠=ラクダ』は古い価値への服従。『牙=獅子』は精神の独立。『受胎告知=小児』は新世界の肯定。『ツァラトゥストラかく語りき』で描かれる精神変化はラクダ、獅子、小児を経て世界の肯定に至るのだ。絵本ではこれらを段階的に描いていたのに家の中でボクに見せたのは逆だった。それは何故なのか、ボクは探偵気取りで謎を解こうと思ったけど、見当違いの真相にたどり着いた、ただの高校生なのだ。咲さんに完全にだまされたバカな学生なのだ。またはずれているかもしれないけど、ボクなりにその理由をこう思う。
「これが人生だったのか、さればもう一度!」というのが正当なニーチェ哲学なのだがそれを逆にしたということは、
「人生なんて決まっていない、選択した結果がこれなのだ!」だと思う。
つまり、人生は一度きり。
【今】というのは後にも先にもこの一瞬しかない。だから、後悔しないように、【今】を大切にしよう。
そういうことなのかもしれない。やり直しのきかない選択。ボクたちはもっと慎重に行動するべきなのかもしれない。
咲さんはボクにそれを警告していたのだろうか。教えようとしていたのだろうか。
どうでもいいや。
謎を解くという探偵や刑事みたいにかっこいいことは出来なかったけど死ななくてよかったとボクは思う。岡本太郎のように自分を失い、ニーチェのように御者に鞭打たれる馬に同情してぶっ倒れて自分を見失いそのまま死んでしまわなくてよかった、と思う。
選択によってどんな人生になるかわからないけど、今回の人体連続放火事件では死ななくてよかった、ということだ。
人は心に大打撃を受けたり命にかかわる事件に遭遇すると成長すると云われるがボクは何も変わっていない。そんな云い伝えは迷信や都市伝説だ。何故ならば、咲さんが去ったにもかかわらず『哀しい』という感情がわいて来ないから。一応、ショックは受けている。けどそれは『哀しい』ではない。
ここでボクは『家畜論』のことを思い出した。
『喜怒哀楽などの人間の感情は、脳の中の、A-10神経への電気信号の供給が原因だと解明された。そして、それが途絶えると、瞬く間に感情は消滅する。面倒なことに、電気信号はある種の麻薬と同じということだった。感情が放出されている間は快感に満たされる、ところが供給が止まると人間の心に影響を与える。それは、中毒患者が薬をやめるのと同じ苦しみ、痛みを伴う。
ストレスとなった一部の痛覚は、いろいろな形で解消でき、その内、消えてなくなる。怒りなどは、破壊という原始的な解決策がある……が、愛に関する苦しみだけは完全に癒す方法がない。
これが実にやっかいな代物だ。愛への麻薬の供給が途絶えると、形を変え、『哀』となる。哀は人の心に根強く居座ってしまう。居座ったまま、病んだ精神を餌にして、苦しむ宿主を見物しているのだ。失恋は哀という感情を生み、寄生虫を大いに満足させる。
《中略》
ところで、知人が亡くなったり、失恋を経験したときは、何処が苦しくなるだろうか。人間は頭で考え判断し、行動を取る。ということは、頭が痛くなるのか。いいや、もう気づいているだろう。
そう、ココ……苦しみという餌を寄生虫様に与えているのは……ココ、心臓だよ。
我々宿主は心臓に操られ、心臓に生かされている。脳もまた……しかり。
心の臓器、神の臓器、支配者は脳髄ではない。ならば、心臓の玉座に君臨している寄生虫は何者なのか。宿主に酸素を送り、脳に麻薬を注入し、主を行動に移らせる。我々の身体の中にフンゾリ返っている奇妙な正体は何なのか。
はたして、神臓の真の姿は何なのか。
《中略》
ここまで話しても納得が行かない者もいるだろう。疑い深い君達に、有名な物証を上げるとしよう。
《中略》
ある患者が心臓移植を受けた。拒絶反応もなく無事退院。ほっと胸を撫で下ろした肉親知人たち。ところが珍妙キテレツ摩訶不思議、退院後の患者の性格が激変。今まで嫌いだった食べ物を食し、飲めなかったアルコールまで摂取する始末。しまいには、利き腕まで変化した。
アア、大変だとばかりに、肉親がどうしてしまったのかと訊くと、当の本人は何が何やらわからない。これが当たり前だと呆ける始末。
アア、狂ってしまったと医者へ行くと、平常、順調、大成功と云うばかり。
これが、過去に実際に起こった現象だから恐ろしい。他にも例はあるが、ここでは省略する』
六十を目前に失踪して以来行方不明の『家畜論』の著者、現山八戒は間違っていると思う。でも失踪したのが数十年前でもう生きてはいないと思うから説教や苦情の手紙やクレームの電話を出すことは出来ない。
寄生虫の大好物の『哀しい』という感情を食らい人間にもう一度『哀しい』という感情を作らせる。というのが八戒の哲学だが、ボクは違うと思う。
寄生虫は心に残る『哀しい』を食べて、人間を楽にしてあげる。
再び、前を見れるようにしてくれる。
未来へと歩けるようにしてくれる。
笑顔を取り戻してくれる。
寄生虫という言葉は八戒の比喩表現でしかない。ボクが人間の心の内に巣食っているモノの名前をつけるとすれば――――
無神論者なのだが、ひとつしかない。
☆
絵本を読み終えたボクは真犯人を知り、鳥正事件の謎も発見したのだが、ひとつだけ気になることがあった。
名探偵空条は『ニ』のあとに何かの言葉を云おうとした。それをボクは二面性と解釈したわけだが、もうひとつの言葉も閃いた。
それは『ニーチェ』
ニーチェは昏倒したあと別人のようになったという。発狂したニーチェが様々な友人に出した手紙はすでに、人間を超越していたと云われている。
別人……ボクはここに引っかかった。絵本でも、無意味に思える鏡のシーンが出てくる。フレイは鏡に映った自分を別人だと思った。ニーチェとフレイがリンクしたときにボクはこの考えに思い至ったのだ。
自分が神の生まれ変わり、神になった、などと信じ込んだらその存在は以前の存在なのだろうか。
自己暗示――自分を別の生物に作りかえることもあるという。
自己暗示……①他者によってではなく、自分で自分に与える言葉などによって、自己の持つ記憶や行動に変化をもたらすこと ②言葉にすると相手にあまり良い印象を与えない言葉
洗脳――信じ込ませることによって別人を作り出す。
洗脳……①新しい思想を繰り返し教え込んで、それまでの思想を改めさせること ②主義を改造すること ③危ない人と思われるので口にしないほうがいい言葉
自己暗示と洗脳、本質的には『言霊』と同義ではないのだろうか。
はたして今回の事件は、咲さんと樹里男くんに神が本当に降臨したのか? もしも本当なら、『言霊』=『自己洗脳』ということなのだろうか。
まあ、とにかく、事件は解決したのだ。生活は元に戻った。それでいいじゃないか。ああでもないこうでもないと考えても答えは出ない。もう咲さんは遠くへ行ってしまったのだから。
大事件が終わって、小事件が発生した。
なんと鳥正が失踪したのだ。
エナ子さんの旦那さんに訊いても、同級生に訊いても、先生に訊いても、警察に問い合わせても、行方は知れなかった。それでもボクにはわかるような気がする。鳥正の行方、というわけではなくて、失踪の『動機』だ。彼はもう、彼女の存在なくしては生きていけないのかもしれない。エナ子を燃やしたのは鳥正本人。絵本に隠されていた謎を解いたからボクはその真相を知った。簡単だった。ということは捕まったら極刑確実、ピーポーピーポーパシャパシャガシャンだ。飛べ、鳥正。羽根を使え羽根を。
犬彦は、実は美海のことを気に入っているらしい。正直驚いた。女なら誰でもいいと思っていたので信じられなかった。何故犬彦がそんなことをボクに告白したのか? 問いただすと、どうしても伝えておかないといけないから、と訳のわからない理由だった。変だなこいつ、と脳裏をよぎったけど、少しだけ成長したな、とも思った。
父親は風子を危険に晒したことを母親に怒られたみたいだけど説得して仲直りして独りで戻ってきたけど縁りは戻らなかった。来年の夏、風子がまた遊びに来るという約束をおみやげは持ってきた。ボクを元気付けようとして風子の再来を強く望んだらしい。何故、父親がそこまでしてくれたのか、その理由も、なんとなくわかった。
そしてボクは――――
連続人体放火事件を経験しても何も変わらなかったボクの心だけど少しだけ変化はあった。必死にボクの側にいようとしている美海と、付き合ってもいいかな、と犬彦には悪いけどそう思うようになっていたのだ。
度を越した美海の愛も、言い換えれば、深いだけなのだ。こんなにもボクだけを愛する人がいるということであってこれってすばらしいことじゃないのか? ボクって幸せ? 贅沢を云ってるだけ? そうかもしれない、と、考えを改めた。ストーカーや異常愛などは相手が受け入れれば消滅してしまう不思議なモノだ。だから検挙がむずかしいのかな? いつまでも相手の気持ちを考えないで行動するのはどうかと思うけどその相手の心境が変化すれば消えてしまうモノなのだ。現に、今のボクは美海のことを異常だとは思わないのだから。
ボクは『哀しい』という感情を備えていないけど、人体連続放火事件のようなすごいものじゃなくて、ちょっとしたことやたいしたことじゃない出来事で、これから先『哀しい』という感情をふいに取り戻すかもしれない。
いつになるかわからないけどそう感じる。人生は長い、何も焦ることはないのだ。
だって咲さんの住んでいた家を見ていると、自然と涙が頬をぬらしているのだから。
涙を見られまいとボクは手の甲でぬぐった。
そのときに発狂後のニーチェの言葉がボクの脳裏をよぎった。
「何を泣いているのだい。私たちはこんなに幸福ではないか」
美海のことを、今すぐとは云えないけれど、徐々にではあるけれど、心から好きになれるときが来るかもしれない。
咲さんを想った以上の感情が、美海に対して芽生えるかもしれない。
いつかは、ボクにも、心境の変化が来るだろうから。
人生の選択は慎重に……たった一度の人生なのだから……。
その真理に接したボクは、美海に告白した。
美海の返事は――――
『舌をちょうだい』 了
ご愛読、ありがとうございました。今までのように長編を書いて、たまに短編、という流れでこれからもがんばります。最後の最後にまたまた謎をつくりました。美海が待夢に答えたセリフ、実はドイツ語ですでに出ています。
まあ、人生そんなに甘くはない、ということで。
では、次回作で会いましょう。ありがとうございました。




