第八章ー2
前回のサブタイトルが間違っていました。申し訳ございません。
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ケッチャムの『隣の家の少女』のように風子はつるされていなくて椅子に縛り付けられているだけだったのでボクは安心した。ただ、眠らされているのか気絶しているのかわからないけれど風子は首をぐったりとさせている。不安になったけど肩が上下しているので死んではいない。安心した。二度も安心したけどボクも椅子に縛り付けられて腕も後ろ手にガムテープか何かで固定されているのでやっぱり安心は出来ない。
薄暗いダイニング・ルームの中、ボクの斜向かいで鳥正は腕を組み、眼をつぶってじっと立っている。犬彦はボクの背後でウロウロしている。美海は絵画の下でニコニコしながらボクを見つめている。
『牙』の絵から『砂漠』の絵に変えられていてこの『砂漠』の絵も知らないな~などと考えているとゴヅンと背後の犬彦に殴られる。ボクは首だけをグイッとまげて犬彦を睨みつけようとしたけど姿が見えないので首を戻して鳥正に云う。
「お前らこんなところで何してんだよ!」
ありきたりな言葉だけどこれが最適だと思ったから云った。だけど二人は無視。美海だけは声を出して笑った。
あ~は~は~は~
「咲さんは何処だ? 風子に何をした? ボクをどうするつもりだ?」
一気に三つの質問。はい、ボクはかなり混乱しています。半分くらい自分が何を云っているのかわかりません。鳥正と犬彦と美海がひとつずつ答えればすぐに解決するのに三人とも何も答えない。かわりに返ってきたのは犬彦のゲンコツ。まだヅキヅキ痛むアゴと新たに加わる後頭部の痛み。ボクは声を荒げる。
「おい犬彦、何やってんだ! 殺すぞ」
はい、とても品のない言葉です。だけどこのときのボクはとにかく日常を日常的に戻してしまいたい一心でした。
「お前たち三人が人体自然発火事件の真犯人なのか? 共犯だったのか? 答えろ、鳥正、犬彦、美海!」
犬彦が左フックをボクの左わき腹におみまいする。初めて味わう激痛。呼吸が止まり、短い息がボクの口からもれる。
ボクは痛みになれていない。これまでも幾度かケンカをしたことはあるが、そのいずれも正々堂々というものではなかった。一発殴ってすぐに逃げたり数回殴って勝てないと見るや逃げたり最初から無理だと思ったらその相手より強いヤツに助けを求めたりとにかく先手必勝やら卑怯やらでまともにヤリ合ったことがない。だから本当の痛みというのを知らない。ある程度痛みを知っていれば犬彦の暴力に耐えられたかもしれないのだが。
犬彦はボクの後ろにいてどんな表情を浮かべているのかまったくわからない。それに見えないため何処に痛みが走るのか、犬彦に殴られてからじゃないとわからない。突然、駆け巡る激痛。突然、発生する痛み。それは心構えが出来ないためものすごい恐怖だった。
「風子! 起きろ風子!」
「うるせえ!」
今度は右耳の下に走る激痛。つぶれたようなニチョッという感覚が耳から全身に走る。それでもボクは食い下がる。
「咲さんは何処だ? 答えろ鳥正!」
今度は右わき腹に激痛。鳥正はゆっくり眼を開けるが口は開けない。黙ったまま冷ややかにボクを見つめている。美海はというと映画『変態村』で観た上下に飛び跳ねるだけのダンスを披露していて、背後にある『砂漠』の絵を隠したり出したりしている。
夜の砂漠、小さなラクダが一頭、銀色の月明かりがラクダを白く浮かび上がらせている。薄ら寒い『砂漠』の絵の下で、ビョンビョン、ビョンビョンと身体を真っ直ぐにして美海はジャンプするだけ。ラヴクラフトの怪奇世界、幻想世界を思い起こさせる異様な光景、異常な空気が部屋を満たしていた。
右肩に打ち下ろされる肘。肩の筋肉がつぶれるようなニジッという痛みは、ボクの口から悲鳴を上げさせた。
「お前たちの目的は何だ? 出来るだけのことはするからボクたちを解放しろ!」
空気の唸りが耳に届いた。次の瞬間、ボクのこめかみに犬彦の拳が放たれる。首がちぎれそうなほど腱が伸びる。犬彦の暴力は止まらない。返す左フックが反対のこめかみに放たれる。
はっはっははは
背後の笑い声。犬彦は笑いながらボクを殴っている。それが意味するもの。それは、絶望だった。
絶望……①望みの絶えること ②希望を失うこと ③エンターテインメント作品ではか
ならず主人公が味わうできごと。最後には乗り越えること
殴られて、殴られて、殴られて……ボクが口を開くたびに殴られて……知らず知らずにボクの口からは情けない言葉が飛び出していた。
助けてください助けてください助けてください
同時に涙が溢れ出しボロボロと流れる。それを見られたくない、恥ずかしいなどと云った感情はこれっぽっちもなかった。ただただ――
許してください許してくださいごめんなさいごめんなさい
ボクの前に回りこんで来た犬彦。彼の両こぶしは血にぬれている。幼稚園児が描いたようなゆがんだ笑顔。それを見て、ああボクは血を流しているんだな出血多量にならない程度ならいいのになあと、ぼやける景色の中考えていた。犬彦の腕の筋肉がギリギリと唸っている。ああこれで殴られてるんだから痛いのは当たり前だなあと考えていたら殴られた。口の中が血で充満する。鉄の味が充満する。それを吐き出したところで、殴られる。何度も、殴られる。そのとき突然、お兄ちゃん、という声が聞こえた。
「お兄ちゃんに何をしているの? どういうことよ、これ!」
風子もまた椅子に縛られているため、『キックアス』のクロエ・グレース・モレッツのようにはボクを助けられない。ボクと同じく許しを請うことしか出来ない。
しかし、風子の必死の制止もむなしく、犬彦の暴力は止まらない。
犬彦は犬ではなくてまるでキツネのように眼と口をゆがめている。普通の獣ではなく魔界との境目にいるような獣。それは神話や伝承で伝えられることによって刷り込まれているはずなのに、犬彦を見ていると、何故キツネがそういう立場で扱われるのかわかったような気がした。
犬彦が前に来たことで痛みがやわらぐかというとそうでもなかった。むしろ倍増した。犬彦の盛り上がった筋肉から繰り出される拳が来ると思うと、痛みを耐えるように意識するが、その意識をも凌駕する激痛が襲ってくる。予想をはるかに上回る痛み。想像を絶する破壊力。ボクは悲鳴を上げずにはいられなかった。恥も外聞もなかった。意識を取り戻した風子の前でボクは赤子のように泣き叫んだ。とにかく殺されたくなかった。やめてほしかった。現実から開放されたかった。それでも止まらない。犬彦が腰をひねりながら繰り出す左フック。右脇腹にめり込む。返す右フック。ボクの頬がつぶれる。続いて左。右。左。右。人間はそう簡単には死なないと聞いたことがある、簡単に死ぬようにしてくれ、と思った。
もうやめて~! という悲鳴が遠くに聞こえる。
あ~は~は~は~という笑い声も遠くに聞こえる。
空気を切る拳の音も遠くに聞こえる。
そして、ボクの哀願の泣き声がボクのすべてを支配する。
ふいに、犬彦の攻撃が止まった。
どうしたのかとボクはほとんど開かなくなった眼を必死に開ける。真っ赤な視界、狭い世界の中、咲さんが立っているのが見えた。
☆
ボクたちは皆、家畜のような人生を送っている。苦しみにあふれているけどそれなりに幸せだ。だけど、虐待やいじめを受ける家畜は、世界の循環を担い、世界にとって必要とされているのだろうか、と疑問が浮かぶ。虐待を与える側にだけ必要とされているのではないのか? 何のためにいじめを受け、どういった理由で虐待を受けるのか……。そんなことを考えながら『家畜論』の矛盾点に気づく。もしかしたら世界は、家畜と主とで成り立っているのではないのか? ここでも世界の二面性を感じた。支配するものされるもの。家畜が自分を擁護している? それが『家畜論』の真理? それに、《ひと》という漢字は支えあってはいないんじゃないか? どう見ても小さい方が支えているじゃないか! もう、何もかもどうでもいいや。
擁護……①かかえてまもること ②かばいまもること ③自己防衛の究極
☆
「待夢くんを助けるので精一杯だった。でも、風子ちゃんはまだ大丈夫よ。だから今はゆっくり休んで」
いつから気を失っていたのだろうか。咲さんの透き通った声でボクは意識を取り戻した。どうやらここは車の中のようで、隣に咲さんがいてボクの肩を抱いている。糸のような視界をなんとかめぐらせると自分がいる場所は後部座席で、運転席には知らないおじさんがいる。制服? それでタクシーだと連想できた。生きてる――咲さんが助けてくれたようだ。ありがとう。
いつまでも咲さんのやわらかい腕の中で甘えていたかったけど、風子のことが気になってどうなっているのか訊かなきゃと思って身体を起こそうとする、が、案の定痛みが全身に走る。再びやわらかくてあたたかい咲さんの腕の中に戻ったとき、咲さんは云った。
「すべてを告白するわ。迷惑をかけてごめんなさい」
その言葉は、咲さんが自ら罪を認めたような感じで、とても『いや』だった…………。




