第一章―2
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家の中は映画『弟切草』や『ホーンティング』の屋敷のように静まり返っていた。(あそこまで広くはないけど)二階の窓が開けられていたので、二人はそこから入ったのだろう。もちろん、ボクも無用心だな咲さんったら、とため息をもらしながら、大きな木から窓に飛び移って鳥正たちと同じところから侵入した。
この部屋はどうやら客室のようで、装飾の少ない質素な部屋だった。懐中電灯の光をあちこちに照らしてみるが白い壁しか見えない。シングルベッドにサイドテーブルとクローゼットがあるだけ。二人が潜んでいる気配がないので部屋を出る。
廊下は左右に広がっていた。
鳥正と犬彦が侵入して十分くらい経過している。いったい何処に行ったのだろうか。まずは二人を探さなくてはならない。咲さんの部屋へ行ってボクの姿を見られるとボクが不法侵入者になってしまう。「いや、二人が家に侵入したのを目撃したので追い出そうと思って」と弁解しても信じてもらえないだろう。そのまえに、キャ~と叫ばれて言い訳もできないうちに退散を余儀なくされる。下手したら逮捕。それだけは避けなくてはならない。
暗い廊下で耳をすます。何処かでカッチカッチと時計の音。本当にアイツらいるのか? と心配になるくらい静かだ。
しばらくそのままで様子を伺っても何も聞こえてこない。右手に下への階段が黒い口を開けている。なんだか奈落の底につづいているような恐ろしい雰囲気があるのだが、行くしかないだろう。鳥正と犬彦はたぶん下だ。うん、間違いない。
床を踏む足音スリッシスリッシから階段を降りる足音ギュギッギュギッに変わり、階段の中腹でボクはふいに振り返ってしまった。何か物音が聞こえたわけではない。誰かの存在を感じたわけでもない。
ただなんとなく、振り仰いでしまったのだ。
もちろん誰もいない。それなのになんで? という疑問があったが、まあ、何もないのでボクはそのまま階段を降りることにした。
降りると右手に玄関があり左手に広い廊下が伸びている。左に曲がり家の奥へと進む。するとすぐに右手にトイレらしき小さな扉が。ここで咲さんはあんなことやこんなことを……という変態的要素はボクにはないのでスルー。左右にひとつずつ扉があるが、廊下の奥の正面にある扉の隙間から光がもれているのに気づいた。
ここにいるのか、と安堵した。ふたりを見つけたことへの安堵か、ひとりぼっちから開放されることへの安堵か、何に対しての安堵かはわからないけれど、とにかくホッとした。
幾分元気が出てきた脚を再びスリッシスリッシと運び、ボクは扉を開ける。中に入ったとたん、ボクの口から意味不明の言葉が無意識に飛び出した。
「それはフラ・アンジェリコの『受胎告知』ですね。マリアの懐妊を告げる大天使ガブリエル、驚きながらマリアは顔を上げている。『天使僧』と呼ばれたフラ・アンジェリコらしいきらびやかな作品に仕上がっていますね。うやうやしく頭を下げるガブリエルに対し、真摯に受けとめるマリアの表情がまた格別です。左上に小さく描かれた人たちが何者か、まだ勉強不足なので知りませんが、全体的に清涼でいてとても美しい絵画だとボクは思います」
ボクは右手をアゴにあて、左手で右腕を支え、推理小説の探偵よろしくそう解説した。
解説が終わって、あたりはシンとした。
シンとしたまま時は止まった。
ボクの額にひと粒の汗。
汗がある程度たまり、ツゥ~っと流れる。
「くわしいのね、待夢くん」「映画と読書と絵画が趣味なのです」「そういう賛美を言葉にしてくれると、この絵も喜ぶわ。言葉ってとても大事よ。心で思っているだけではなくて『声に出す』という行為はとても大切。それに待夢くんはとても良い声をしているわ」
ガブリエルが左側、マリアが右側に描かれている絵画で、金箔がふんだんに使われている。レオナルド・ダ・ヴィンチの『受胎告知』より透明感があり、神秘性はこちらのほうが高い、とボクは思う。咲さんはそんな絵画をうっとりと眺めながら云った。
広い部屋で、中央に白くて丸いテーブルがデンと置かれており、その椅子に咲さんが優雅に座していた。片手には赤ワイン。ボクの視線は彼女の背後にかけられている絵画を見たままだった。が、無理に引き剥がし、咲さんに説明(言い訳?)する。
「えっと、これには訳がありまして、鳥彦と犬正がここに侵入してそれでボクは『これはいけないこと』だと思って追いかけて来たわけであって……」
鳥彦? 犬正? 誰だそれ? と思いつつもボクは言葉が止まらなかった。
「だからボクは不法侵入した二人を見つけて不法侵入したわけであって……」
なんだか鳥正のような口調だし、何を云ってるんだ、バカバカだ、と自分で自分をそう思う。
そんなボクに、咲さんはバカにしたようなのではなく、心からおかしそうに笑った。
「大丈夫よ、さっき鳥正くんたちには帰ってもらったから。招待したのは確かだけど、だってこんな時間でしょ。さすがにねぇ」と咲さんは小さく笑って、グラスを口に運んだ。
好きな人の、椅子になりたい、洋服になりたい、下着になりたい、枕になりたい、布団になりたいと考えるのは思春期の男子陣の正常な考えだとボクは思っている。そして、このとき、ワインになりたいと願ったのは変じゃない、トイレには興味がなかったのだから変じゃない、とボクは自分の考えを正当化した。
正当化……①正しく道理にかなっていること ②ときにはただのいい訳でしかないこと
咲さんはワインを飲み干し、艶の増した唇をペロリとしてボクに向き直った。
「待夢くんはワタシを助けようとしたのね?」
来た~この展開、と考える余裕はなかった。咲さんの魔力をともなったとしか云いようのない美貌がボクを見据えているのだ。余裕がなくなるのは当たり前だ。だから動揺して何も答えられなかった。
「ありがとう。ねえ、待夢くん。少しおしゃべりでもしようか?」
このときボクは、バッと背後を振り返っていた。何故そうしたのか自分でもわからない。自分の意思ではそう簡単に咲さんから眼をそらすことの出来ない状況なのに、である。
開け放たれたドアの向こうには誰もいない。鳥正たちが引き返してきたわけでもない。どうして振り返ってしまったのか……。ただなんとなく。そう、ただなんとなくとしか云いようがない。
そのとき咲さんが口を開いた。
「やっぱり今日は遅いものね。明日、うん、明日ゆっくり会いましょう?」
ボクには断る理由がなかった。いやむしろ、このまま徹夜してもいいよと云いたかった。
咲さんは玄関までついて来てくれて、最後にはハグを! してはくれなくて小さく手を振りまた明日とにこやかに云った。ボクもこんな夜中にお邪魔してすみませんでしたと謝って帰路につく。さて、お父さんにバレないように部屋へ戻らなくては、と考えたとき、ふいに咲さんの家が幽霊屋敷だと呼ばれていたことを思い出した。
何故思い出したのか、ベッドに横になってすぐ眠りに入ったのでわからないままだった。
金曜日の夜はこうして終わりを告げた。
そして、土曜日の朝は恐ろしいニュースから始まった。
つづく




