1 高松昭吾①
言わなきゃよかったのに。
知らなきゃよかったのに。
何であの時の僕は思い留まらなかったんだろう。
どうしてその事実を知ろうと思ってしまったんだろう。
踏みとどまろうと思えば何度だって出来たはずなのに、それでも尚僕がその道を歩んでしまったのは、何故なのだろう。
僕はなんて、最低な人間なのだろう。
桜の花弁が風に乗って飛ばされて行き、坂道を桃色に染めていく。美しい絨毯によって飾られたその道を、高松昭吾は歩いていた。
背もそこまで高いわけではなく、体格も決していいわけではない。いい意味でも悪い意味でも、その少年は普通であった。
学校指定のブレザーを着用している昭吾は、今日から高校生として生活を送って行くことになっていた。
「……はぁ」
小さく溜め息をつく昭吾。
昭吾は内心、高校生になることに対して不安を抱いていた。中学時代まで一緒だった友人達は皆別の高校に進学してしまい、この高校に入ったのは昭吾ただ一人だった。それ故に、はたしてここで新たに友人を作ることが出来るのか分からなかったのだ。
それだけではない。
友人のことに限ったことではなく、高校での勉強に追いつくことが出来るのだろうか、とか、何をすることが出来るのだろうか、とか。彼の中で生まれている悩みはいくつかあった。
昭吾は、なかなかその門をくぐる勇気が出ないでいた。出来ることなら、このまま引き返してしまいたい。彼の頭の中でそんな考えが巡っていた。
だから、その出会いは昭吾にとって衝撃的なものでもあった。
「どうしたの? 中に入らないの?」
「……え?」
突然誰かに話しかけられる。その声はまさしく少女のものであり、昭吾の胸は一瞬跳ね上がる。
こんなにも早くに誰かに話しかけられた。しかもその相手が少女であることが、思春期真っただ中の少年にとってはちょっと刺激が強かったようだ。
その声は昭吾の真横から発せられていた。あまりにも昭吾が自分の考え事に夢中になっていたせいで、少女の存在に気付いていなかったようだ。
昭吾は高鳴る胸をどうにか抑えつつ、少女いる方向を振り向き、結局心臓がさらに音を立てて震えることとなってしまった。
そこに、セーラー服姿の少女がいた。背丈は昭吾と同じか少し高い位、黒くて艶やかな髪は、肩の辺りまでサラッと伸びていた。黒くて柔らかい瞳、鮮やかな赤色の唇。彼女を一言で形容するとしたら、それはまさしく『大和撫子』だった。
昭吾はこの少女は恐らく先輩だろうと予想していた。だから少女の次の言葉には驚かされたのだ。
「新入生だよね? 確か荷物を置いて体育館に集合って言ってたよね……? 早く行こうよ! 遅れちゃうよ?」
「あ、うん!」
口ぶりからして、少女は昭吾と同じく新入生だった。内心そのことに昭吾は驚いていた。この少女から、昭吾は大人びた雰囲気を感じ取っていたからだ。
走り出す少女の後ろを、慌てて着いて行く。
「ね、ねぇ! 君の名前は?!」
走りながら、昭吾は尋ねる。
すると少女は足を止め、昭吾の方を振り向いた。それに合わせて、勢いに若干負けて前のめりになりながらも、昭吾は立ち止まる。
少女は答えた。
「上原香澄。それが私の名前だよ! 貴方の名前は?」
今度は昭吾が答える番だ。
ここでもし自分が答えられなかったら、この先昭吾は友人が出来ないかもしれない。これは試されているのだ。
だとしたら、その試練は乗り越えるべきものであり。
そして昭吾は、香澄の質問に答えた。
「僕の名前は、高松昭吾!」
それは、桜が舞う季節に訪れた、とある一つの奇跡だった。
*
彼はその後、入学式を無事終わらせることが出来、入学式後のHRでの自己紹介もなんとかこなすことが出来た。あの時出会った香澄は、どうやら昭吾とは違うクラスであったらしく、教室を見回してみても、彼女を発見することはできなかった。
だが、昭吾は新たな友人を何人か作ることが出来た。
たまに一緒に帰って駄弁ったりする友人が出来たのだ。
そんな最中で、こんな話が舞い込んできた。
「え? 部活?」
「そうそう。映画研究会に一緒に入ってみないか? 俺ちょっと興味あったんだよね~」
友人―――里崎直也から持ちかけられたのは、映画研究会の話だった。どうやら彼は映研のことが気になっていたらしいのだが、一人で行くにはどうも勇気がなくて、そこで昭吾に話を持ちかけたと言うことらしい。
「映画研究会ねぇ……うーん、ちょっと興味がないわけじゃないんだけどなぁ」
正直な話、昭吾はどの部活に入ろうか迷っていた節があった。特にやりたいことがあるわけでもなく、このまま部活には入らなくても大丈夫だろうと考えていた所があった。
しかし、こうして改めて話に出されると、やっぱり部活に入った方がいいのだろうかという気になってしまうものである。
昭吾は少し悩む素振りを見せるが、そんな昭吾の手を直也は握り。
「な? 頼むよ昭吾! 一緒に入ってくれって言ってるわけじゃないんだ! 見学だけでも一緒に来てくれよ! 一人だとどうしても心細くて!」
「しょうがないなぁ……今回だけだよ?」
「っしゃあ! 流石は昭吾! 持つべきものはやっぱり友達だよな!」
直也はその場で喜びを表現していた。どうやら昭吾と一緒に部活見学出来ることがよっぽど嬉しかったらしい。
昭吾も、これを機会に何かしら部活をやってみようという気になった。中学時代は部活に入らずいつもまっすぐ帰宅していたので、高校からやるのも悪くないだろうと思っていたのだ。
「というわけで早速行こうぜ! 急がないと部活始まっちまうよ!」
テンションが高い状態を維持し、壁に掛けられている時計を指差しながら直也は言う。その時計は、午後3時54分を示していた。大体の部活の開始時刻が4時からであるらしい為、そろそろ活動教室に向かった方がよい時間帯ではあった。
「う、うん」
教室を出て行く直也の後を追う昭吾。
直也の足取りはとても軽かった。昭吾の足も、何処か軽かった。
何かいいことが起きそうなする。根拠のない想像が、彼の頭の隅っこの方に芽生えていた。
「着いた着いた!」
走ることおよそ2分。階段を降りたりして、昭吾達は映画研究会の活動教室と思われる場所までたどり着いた。部室棟2階の一番手前の、そこそこ広い視聴覚室みたいな場所。どうやらそこで日々の活動が行われているらしい。
ちなみに、昭吾達が先ほどまでいた建物を教室棟と言い、部室棟はそのすぐ隣に建てられている。二階から渡り廊下がかけられているのが特徴だ。
「失礼します!」
勢いよく扉を開く直也。
昭吾はそのことを内心で咎めつつも、この時は口を開くことはしなかった。というより、それが出来なかった。それ以上に驚くべき光景が、目の前に繰り広げられていたからだ。
「ですから先輩! ここのカットはヒロインにこの台詞を言わせた方がいいと思うんです!」
「そうかなぁ……? この方が悲しい別れを強調出来るような気がするんだけどなぁ」
誰かが脚本に関して言い争っている。はじめて見た人からすればたったそれだけの事実だろう。
もちろん、昭吾もこの光景を見るのは今日がはじめてである。『先輩』という存在を確かに認知するのすら今日が最初だった。だが、言い争っている人の内のもう片方の人物に関しては、違った。
「あ、あれ? 上原、さん?」
「え? もしかして……高松君?」
そこに居たのは、間違いなく香澄だった。入学式の日以来、クラスが違っていた為ほとんど会っていなかったが、その姿は確かに覚えていた。
彼女の手には脚本らしきものが握られていて、ある一ページを開き、それを男子の先輩に突きつけていた。どうやら台詞に関して何かしら言い争っていたらしい。
「ん? 上原さん。そこの子とは知り合いなのかい?」
奥の方でパソコンを操作していた、眼鏡をかけた男子生徒が尋ねる。
「はい。入学式の日に会ったんです。高松昭吾君って言うんだよね?」
「は、はい!」
思わず声が上擦ってしまう。昭吾は香澄に名前を呼ばれて、ドキッとしてしまったのだ。まさかほとんど会っていない自分のことを覚えてもらえているなんて、夢にも思っていなかったからだ。
「……昭吾、ちょっといいか?」
「な、なに?」
直也は昭吾を教室の隅っこの方まで連れて行くと、部員達には見えないようにこっそりと話し始める。
「おい、誰だあの可愛い子?」
「前に話したじゃないか。入学式の時に門の前で会った女の子だよ」
「あの子がそうだったのか! すげぇ可愛いじゃん!」
「そ、そうだね」
「なるほどな。お前が惚れちまうのも納得行くぜ。俺も一目惚れしちまったよ」
「何言ってるのさ!」
直也の言葉に、昭吾は動揺を隠せないでいた。実際にそう思っているわけではなかったのに、そう言われてしまうと逆に意識してしまう。恐らく現在、昭吾は香澄の目をまともに見ることが出来ないであろう。
「ところで君達、入部希望者かい? それとも見学希望?」
先ほどの眼鏡をかけた男子生徒が、昭吾達に尋ねる。
直也と昭吾は慌ててその人物のいる方を振り向き。
「見学希望っす! 出来れば入部もしたいかなぁ~なんて考えてます! もちろん、俺達二人ともっす!」
「ちょ、ちょっと直也!」
思わず昭吾は制してしまった。確かに見学には一緒に来るとは言ったが、入部するかまではまだ決めていなかった。だと言うのに、直也が勝手に話を進めてしまおうとしていたからだ。
そんな昭吾の耳元で、直也が言う。
「お前、いいのか? せっかくあの子と再会出来たのに。お近づきになるチャンスをみすみす逃すつもりか?」
「そ、それは……」
直也の言うことも一理あった。
ここで香澄に再会出来たのも何かの縁の力が働いたおかげと言えよう。ここで入部しないということは、それはつまりチャンスを失うことと同じ。
「決まりだな」
清々しい程の笑みを浮かべながら、直也が言う。
この時昭吾は心の中でこう呟いていた。
「(ああ……負けた)」
押し通されてしまったのは確かに悔しかった。だがそれと同時に、香澄と一緒の部活に居ることが出来るという喜びも感じていた。
そして、昭吾は気付くのだ。
「(もしかして、これが、恋?)」
「ん? どうしたの? 高松君」
「うわぁ!」
顔をのぞきこまれて、昭吾は思わず驚いてしまった。香澄の顔がすぐ近くまで来ていたおかげで、心臓も今までで一番の跳ね上がり様を見せていた。
「な、なんでもないよ!」
「もしかして、緊張しちゃってる?」
「ははは……そうかもしれないね」
苦い笑みを浮かべながら、昭吾は言う。
すると香澄は、笑顔でこう言った。
「大丈夫だよ。ここの人達はみんないい人達だから。きっと高松君達も気に入ると思うよ!」
「……うん!」
こうして、昭吾は直也と共に映画研究会に入部することになったのだった。