(5) 侵入者
結局、ヨルバの筋肉痛らしき痛みは十日間も続いた。それを見越していたのか、カジャはあれから会いに来なかった。
見舞いに来たコニは、村でも指折りの薬草師に練ってもらったという薬を届けてくれた。
「サバシスってやっぱりすごいのね。魂を飛ばすことができるなんて。あたしは、みなもをちょっと見れるだけだから。草木にぼんやりと光が灯っているくらいしかわからないの」
「でも、少し飛んだだけでこれだ」
ヨルバは照れくささを隠すために、必死で薬を足に塗りこめた。
「それはきっと、ヨルバの髪が短いからよ。カジャ様くらい伸ばせばきっと、さらに長く飛べるようになるわ」
ヨルバは自分の髪をさわった。首が完全に見えるくらい髪を短くしていた。
まじない師の力は髪にためる。そのため、村人のほとんどは力の大小に関わらず髪を伸ばしていた。むしろ、力が弱い人のほうが必死になって伸ばしていることも多い。
髪を短くしているのは、よっぽどの変わり者か交渉人くらいだ。交渉人は街に出ることが多い。女性はともかく、男性が髪を伸ばすことを街人はひどく気味悪がるのだという。交渉人の長であるポーカスやヘミンキなどが、髪を短くしているのはそういう理由からだった。
「お父さんは不器用だから、薬草師よりは交渉人のほうが向いてるけど、ヘミンキさんは残念よね」
コニは円卓の上で何やら繕いものをしながら言った。
「ヘミンキさんは、薬草師に充分なれるくらいの力を授かっていたんだって。でも、ヘミンキさんの家はずっと交渉人を務めてるでしょ。だから、多分仕方なく髪を切ったんじゃないかな」
ヨルバはヘミンキの優しそうな顔を思った。ヨルバが黒の絵本に拒絶されたときに、試験官を務めた彼はおそらく今のヨルバと同じくらいの年齢だったはずだ。記憶の中のヘミンキはずっと大人びていた。現在の彼のたたずまいもどことなく洗練されている。ヨルバは街に行ったことはないが、もしかしたら街の雰囲気が染み込んでいるのかもしれない。
「それ、何してるの」
コニは今度は真剣に絵筆をとっている。ベッドから身を起こし、覗き込むとそれはククラと呼ばれる手作りの仮面だった。木を彫り出して作られた面に、彼女は模様を描いたり布を貼り付けたりしているのだった。覗きこむ用の穴が二つ空いている。
「今年学舎に入った子のために作ってるんだ。あたし、結構器用なのよ」
サバスの村人はみな一人一人手作りの仮面を持っている。祭りや儀式の日につけるのだ。数日前に兄のシラクサもククラを探していた。
「カジャ様のお祭り楽しみだね。あたしたち、今まで見たことないもんね」
コニは出来上がった面をかぶっておどけて見せた。仮面は鳥や動物をかたどったものが多い。コニが作ったのはどうやら鳥を模したもののようで、全体は白かったがくちばしの部分だけは鮮やかな黄色だった。目の穴の周りにはきらきら光る石が埋め込まれている。
来月、カジャは正式なサバシスとなる。そのための儀式が開かれることになっていた。ここ数年、新しいサバシスになる者はいないという。さぞかし盛大になることだろう。
聖堂の広場に上がり、あの自信にあふれる調子で声明を述べるカジャの姿は、容易に思い浮かべることができた。
* * *
「さて、今日は結界の張りかたを教えてやる」
ヨルバとカジャは再び、森の中にいた。ご神木のある場所からやや東に行ったところだろう。
カジャは、先日の置き去りについて何も言及しなかった。むしろ、ヨルバの体が元通りになって、仕方なくまた教える気になったようだ。
「結界はサバシス見習いの大事な仕事だからな。今はおれがいつもやっているけど、おれが正式なサバシスになったら、見習いのお前がこの仕事を継ぐことになるんだ」
サバスの村では、街との行き来を制限している。完全に禁止しているわけではなく、普通の村人でも十八になったら許可を得て街に行くことは可能だった。
「ご神木が、この結界の中心になってるんだ。そこを起点として、村を取り囲むように結界は結ばれている。全部で七つの点があって、右回りに一週間かけて回っていくんだ。ここは七番目の場所だから、明日は最初のご神木に行く。面倒な日課さ」
カジャは肩から垂れる薄布をまくり、小さな白い石をポケットから取り出した。動物の牙のように尖っている。それは滑石で、硬度がとても柔らかく、地面や樹の肌に印を描くことができる。
「これには、魂の上澄みが凝縮されているんだ。だから、みなもをひらけば見ることができる」
ヨルバは彼の意図することに気がつき、聖堂から持ってきた瓶をあけた。以前、カジャが使った葉と同じものが入っている。葉を燃すと、甘い匂いが辺りに漂った。
カジャは、栗色の髪を後頭部で無造作に結った。切れ長の目に力を入れる。ヨルバも慌てて匂いに集中し、みなもを見ようとする。
草木が自由奔放に伸びまくるこのあたりは、むせ返るような光にあふれている。植物や動物の魂の上澄みが湧き立っているのだ。
「みなもはひらいたか? じゃあよく見てろよ」
カジャは一本の樹の前に立った。今までは気が付かなかったが、ごつごつした幹を囲むように呪印が描かれていた。複雑な模様は光を発している。
「これが、結界の正体さ。上澄みはすぐに蒸発しちまうから、それで描かれた呪印もすぐに薄くなって消えちまう。だから、七日に一度修正しないとなんだ」
カジャの手には、鋭い光を放つ石が握られていた。呪印をよく見ると、確かに、こすれたように薄くなっている部分がある。カジャはその消えかかっているところを丁寧になぞって、修正した。
ご神木の根本から西に行くとミシェバトの小屋、南東に進むと街に出る。しかし、実際にその方向に歩いても街には辿りつけない。いつの間にか同じ場所に戻ってきてしまうのだ。
街に行くには、結界を破れるサバシスの許可が必要だった。
「カジャは街に行きたいと思ってる?」
「……見習いは結界を修正できるけど、破る術は教えてもらえないんだ。それは、正式なサバシスになったら教えてもらうものだから。……お前、この前から気になってたけど、おれにもっと敬意を払えよ」
「何が」
「そういう態度が、だ。村の人は、お前みたいな口をきかない」
カジャはヨルバをじろりと睨みつけた。
「……だって、同じ見習い」
「同じ見習いだけど、おれのほうがもう何年も先輩なんだ。できることも多い」
「僕も、練習して、」
「お前、おれがここまで何年かかったと思ってんだよ。ちょっとみなもを見れたくらいで、良い気になるな」
苦労した年数なら自分だって負けてはいない。ヨルバは彼に今までのことを否定された気がした。
「別に調子に乗ってなんかないよ。ただ、今はもう僕だって見習いなんだ」
「お前はおれが教えなければ何もできないだろ。今教えた結界の術、これからお前ひとりでやってみろよ」
「……わかった」
「言ったな。今日で一回りしたから、明日はご神木のところだ。石は保管されてるから、言えばもらえるだろ」
カジャはヨルバが勢いに乗って請け負ったとたん、にやりとした。ヨルバは、面倒な日課をまんまと押し付けられたのだと知った。
「できなかったら呼べよ。今後、カジャ様と呼ぶんなら、特別に助けてやってもいい」
* * *
翌日、聖堂に居たヘミンキから石をもらったヨルバは、ご神木の元へと急いだ。気は進まないが、自分から言い出したことである。それに、ああまで言われて彼に頼るのもしゃくだった。
葉を焚き、みなもをひらく。しかし、ご神木にはどこにも呪印が描かれていなかった。ヨルバは水の中を泳ぐように、ご神木を一周した。みなもにいるときは、普段よりも体が重い。魂飛ばしをすれば体が軽くなるのだろうが、その後を恐れた。
「あ、もしかして……」
ヨルバは、ご神木に空いている巨大な洞の中に入った。洞の内側には、光る模様が絵のように描かれていた。よく見ると、ところどころ薄くなっている箇所がある。これを修正すればいいのだ。
模様は何かの文字のようにも、意味のない幾何学模様のようにも見える。何とか修正は終わったが、ヨルバは完全な姿に戻すことができたのか自信が持てなかった。
カジャに言ってみようか。一瞬、考えたがすぐに不採用にした。
さらにその翌日は、二番目の結界を修正する番だ。ご神木から西、ミシェバトの家を少し通り過ぎた場所に足を踏み入れた。結界の媒介となる樹は、他のものと見た目には変わりない。しかし、みなもから見ると呪印が強烈に輝いているのですぐにわかった。
ここでも模様はところどころ消えかかっている。ヨルバは修正しながら、昨日のご神木が気になった。
今日は早めに帰って、兄のシラクサとククラの面を修理する約束をしている。カジャの儀式があと一週間後に迫った村では、粛々と、しかしみなどことなく浮かれた様子で準備を始めていた。気の早い村人は、もうククラの面を付けて歩き回ったりしている。
ヨルバは、樹の修正が終わったあと、そのまま帰ろうかどうか迷った。しかし、やはりその前に様子だけでも見ておこうとご神木のほうへ駈け出した。
* * *
サバシスの衣装をポーカスにもらった日から、ずっと身に着けているがやはりまだ動きづらい。それに、肩から足元までを覆い隠す衣は夏にはどう見ても適していなかった。ご神木に着くまでに、ヨルバはうっすらと汗をかいていた。
ご神木の周りは静かだった。遙か上空で、葉はささやきあっている。異常なし。ヨルバは息を整えながら、ほっと一安心した。
これで、カジャは見習いサバシスの一員として認めてくれるだろうか。ヨルバはこみ上げる期待に酔いながら、最後に洞の中を覗きこんだ。
洞の中には誰かがうずくまっていた。
ここは聖域指定されており、村人はめったに訪れない。また、サバシスはみなカジャよりも年上である。しかし、それはどうやら、子どものようだった。
ヨルバは驚いた拍子に足を滑らせた。その気配に気づいたのか、その人物はうずめていた顔を持ち上げてこちらを向いた。
差し込む光に照らし出されたのは、一人の少女だった。
さらさらとした黒檀の髪を肩まで垂らし、こげ茶の丸い目をしている。くすんだ緑色のスカートに、前掛けをつけていた。
ヨルバは少女を知らなかった。