(4) 老婆ミシェバト
彼女と初めて出会ったのは、ヨルバが六歳のときだった。その頃から、老婆は老婆であり続けた。彼女は村の人たちと比べると、色々な意味で異質な存在であった。
いつも粗末なぼろをまとい、色素の抜けた髪を短く切りそろえていた。どこか飄々とした不思議な人で、顔は煤で汚れているのに時たま賢者のような鋭さを少年に見せつけた。
時々、ヨルバは誰かに呼ばれたように森に足を踏み入れることがあった。村からしばらく進むと、とんでもなく大きな樹が生えている。サバスのご神木だ。このあたりは聖域指定されており、普段は立ち入りが禁止されている。しかし、めったに村人は訪れないので咎められたことはなかった。
子ども十人でも囲えないほど太い幹の根本に、大きな洞がぽっかりと開いていた。大人一人がちょうどおさまるくらいの大きさだ。
ヨルバはよく薄暗く湿った洞の中で何時間も過ごした。
ミシェバトと名乗る老婆と出会ったのも、ヨルバが洞の中に座っているときだった。
彼女は自分の家にヨルバを案内した。
ご神木から西に進むと、ふいに木々の連なりが終わり、開けた場所に飛び出す。小さな家がぽつんと置かれていた。あまりきれいとは言えない。それに、少し右に傾いている。
軒先につるされた白い貝殻の束がからからと硬い音で鳴いている。なんだか、誰かに置き忘れられたような寂しい家だった。
ぶっきらぼうで粗野な性格だが、老婆はヨルバの質問攻めにはごまかさずに答えてくれた。それだけでも、好意を抱くには充分だったが、彼女にはもうひとつ重大なことがあった。
「ねえ、ミシェバトさん。まじない師のふしぎな力って何?」
「みなもを見る力のことさ」
「みなも?」
少年はオリーブ色の眼を輝かせて尋ねた。周りの人はヨルバが尋ねてもはぐらかしたり、邪険に扱ったりする。親代わりのポーカスですら、そういったことは教えてくれない。
「みなもはね、水面のことなのさ」
老婆は、手元のお茶の水面をヨルバに見せた。小首をかしげた少年の顔が映っている。
「あんたや私のいる世界は、みなもと呼ばれているんだよ。このお茶の中の世界さ」
「この家の中も? 水の中なの?」
「まあね。みなもっていうのは、境目っていうことなのさ。あんたが今いるこの世と、死んだ後に行くあの世のね。魂が寿命を終えると、体を抜け出て上へ上へ飛んでいく。そうして、やがて水面を飛び出してどっかへ行っちまうのさ」
「どっかてどこ?」
「さあね、知らんよ。私もまだ死んだことがないからねえ」
老婆はひひっと笑うと、手元のお茶に口をつけた。タチルスというきつい香りのハーブは、彼女のお気に入りだ。
「じゃあ、みなもを見る力って? 僕も目は良いと思うんだけど……」
「普通に見たたけじゃだめさ。サバスの血で世界を視るんだ。あんたも私も、植物も動物もみんな生きている。そして、サバスのまじない師は、その生きている証拠である魂を見ることができるのさ」
「兄さんも同じようなこと言ってた。その、光をうまく薬草に練りこむのが難しいんだって……」
ヨルバは途中でなぜか悲しくなった。サバスの薬草師は、植物から湧き立つ魂を利用して薬をつくる。兄には見えて、自分には見えない何か。
「あーあ、みんながカジャ様みたいだったら良かったのになあ」
薄汚れた敷物の上に、力尽きたようにごろんと横になる。
「カジャ様?」
「僕より一つ上の子だよ。今、七歳だけどもうサバシス見習いなんだ」
「へえ、それは大したもんだ」
老婆はあまり興味がないようで、それよりも裏庭から摘んできたタチルスを乾燥させる準備に余念がないようだった。
「カジャ様は黒の絵本をウミノショウまで見れたんだって」
ヨルバは寝ころんだまま、独り言のようにいった。天井を通り抜けて、その上に広がる空を想像する。
老婆の鋏が枝を切り落とす音が静かに響く。
「ねえ、ミシェバトさんは悲しくならない?」
「……なんでさね」
「だって、」
ヨルバは言いよどんだ。老婆は興味深げに少年を見つめる。弛緩した皮膚にほとんど埋没した目が、しかし意外にも優しく光った。
「だって、僕らはみんなと違って、祝福されなかったから」
軒先の貝殻が風に吹かれ、乾いた音をたてた。
ミシェバトも祝福されなかった。
最初にそのことを知ったとき、ヨルバは信じなかった。彼女はヨルバの質問にいつも正確に答えてくれるし、薬草にも詳しい。いたずら好きの老婆のたちの悪い冗談だと思ったのだ。しかし、彼女の髪がいつも短くそろえられていたので、信じるしかなかった。まじないに使う力は髪にためておくからだ。
「祝福されない人ねえ。ふん、そんなの勝手に言わせておけばいい。精霊様なんてクソくらえだ」
強気な老婆を見ていると、ヨルバは少し胸が軽くなるのだった。
* * *
囲炉裏の中で薪がはぜる音で、ヨルバは目を覚ました。部屋の中あちこちに吊り下げられた薬草の匂いがする。ミシェバトの家だ。起き上がろうとしたが、全身にまた痛みが走り呼吸困難に陥った。
「どういうことか、説明しな」
背中をまるめ悶える少年を、薬草につくやっかいな虫を見るような目で老婆は見つめた。ミシェバトは森の中で倒れている知り合いを見つけ、苦労して家まで運び込んだのだった。半分眠りかけている彼を連れてくるのは一仕事だった。
ヨルバはなんとか上半身を起こすと、興奮気味に昨日のことを話した。老婆も口を挟まずにじっと聞き入った。
カジャに魂飛ばしを教わったくだりを伝えるころには、しかし、ミシェバトの顔はすっかり険しくなっていた。
「それで、あんた、本気でサバシスになるつもりかい?」
「もちろんです」
「くだらない。サバシスなんてクソくらえだよ」
老婆は新しい薪を囲炉裏へ放り込んだ。小さな鍋が吊るされており、山菜を煮込んだ匂いがした。
明らかに不機嫌になった老婆は、ヨルバの予想に反していた。彼女ならわかってくれると思っていたのに。
「……そんな言い方しなくてもいいじゃないですか。サバシスになったら街に行けるんですよ」
「別にサバシスじゃなくたって、十八になったら街に行けるじゃないか。ヨルバ、あんたこれから一生そんなおかしな服を着て、だらしなく髪を伸ばすつもりかい。サバシスなんかになって何をしたいんだい?」
「別に……たいした理由なんかないです。ただ、僕は前の生活には戻りたくないだけです」
「あんたには家もあるし兄さんもいるじゃないか。何が不満なんだい」
「不満? この村には不満以外何もないです。昔は全然わかららなかったけど、今は痛いくらいだ。僕には自由も希望もない。僕が何をしたっていうんですか。なんで、兄さんは祝福されて、僕はされなかったんですか」
ヨルバは思わず、言葉を選ばずに吐き出した。それは、常にヨルバに憑りついている亡霊だった。もしくは、洗っても決して落ちない汚れだ。
周りの子どもが薬草の緑で手を染める間、ヨルバは暗くて湿った洞の中でうずくまっていた。そこに突然、サバシスになれる万能薬が降ってきたのだ。何を迷うことがあろうか。
火が老婆と少年を照らしている。ミシェバトは山菜の煮物をよそりながら、熱弁をじっと聞いていた。深く刻まれたしわだらけの顔は、枯れた幹のように動かなかった。遠くで獣が鳴いた。
「僕は、」
ヨルバはためらいがちに言った。
「僕は、もう誰かに置き去りにされたくないんです。多分」
老婆は顔をそらした。
「……それでも、私は反対だよ」
「なぜですか」
「なんでもさ」
「ミシェバトさんは、サバシスに嫉妬しているだけじゃないですか」
言ってからヨルバは口をつぐんだ。老婆は何も言わなかったが、こぢんまりと正座した姿が急に哀れになった。彼女はサバシスになれないどころか、ヨルバの兄のような薬草師に必要な力さえない。
彼女の短い髪は、力がないことをとうに諦めている証拠だった。ヨルバが外に行っても、彼女はここにとどまるしかない。
「……ごめんなさい」
ヨルバは居心地が悪くなって、前に置かれた器とその湯気をじっと見つめた。何か気の利いたことを言おうとしたが、何も口から出てこなかった。
「まあ、いいさ。冷めないうちに早く食べちまいな。どうせ、夕飯はまだなんだろ」
老婆は何事もなかったように言ったが、そのことが逆にヨルバの罪悪感を貫いた。
こんなはずではなかった。自分と同じ境遇で暮らしている彼女なら、間違いなく喜んでくれると思い込んでいた。
ミシェバトの家は小さく、部屋も一つしかない。中央に囲炉裏があり、その周りを囲むようにして寝るのだ。
灯り代わりの囲炉裏を消すと、辺りは真っ暗になった。
「ヨルバ。あんた、今まで死んだほうがましだとか思ったことがあるかい。あのままシュクフクされなかったら、死んだほうが良いって思ったことがあるかい」
「……わからない」
老婆は、そうかい、と小さく呟いたきり、あとは何も言わなかった。
遠くで獣がまた鳴いた。