(2) 緑の指
老婆に会いに行くことも忘れ、ヨルバはそのまま家に帰った。家といっても、ポーカスの屋敷の敷地内にある小さな離れのことだ。ヨルバはそこで四つ上の兄であるシラクサと暮らしている。
シラクサはまだ帰ってきていなかった。彼は弟とは違い力がある。平均よりはずいぶん弱かったが、それでも勤勉な性格と手先の器用さで将来は良い薬草師になると期待されていた。
ヨルバはランプに灯りをともした。か細い光が壁で踊る。
「あれ、今日は早かったね」
兄のシラクサだった。彼は最近、午後になると近所の薬草師のところで色々と技術を教わっている。養い親であるポーカスは交渉人なので、薬草の扱いには疎いのだ。
シラクサは麻の前掛けをはずし、壁に掛けた。そのまま出口へ戻ると、すぐに水を汲んで戻ってきた。
「この前の傷はもうだいぶ良くなった?」
シラクサは水の入った器を差し出して、心配そうに尋ねた。ヨルバは先月、冬眠から覚めた熊に襲われて大けがをしたのだった。聖域指定されているご神木の近くの森に入った罰だと兄からは言われた。しかし、変わり者の老婆はその近くに住んでいるのだ。断じてやめるつもりはない。
「あ、それはもう大丈夫なんだけど……」
ヨルバは兄の指先をじっと見つめた。彼の指にはいつも薬草の汁がこびりついていて、緑色に染まっている。兄の手は、ヨルバにとって大きな誇りであり、同時にささやかな嫉妬の種でもあった。
そして、もう一つ。兄の小指に巻いてある赤い細紐をヨルバはいつも気にしていた。母が村を出て行くときに、再会のまじないとして付けたものらしい。むろん、ヨルバの両手のどこにもそんなものはない。
「そうか。ならいいんだ。あ、そういえばククラどこにしまってあるか覚えてるか? そろそろ出しておけって、薬草師のおばさんが……」
シラクサは弟の思いつめた表情にやっと気が付いた。
「何かあったのか?」
「……僕、さっき黒の絵本をひらいたんだ」
質素な作りの円卓の上で、ランプの光が揺れた。兄はまじまじと弟を見つめた。
「本当に?」
ヨルバは大きく頷いた。急速に光を失っていく室内は薄暗く、シラクサの表情は解釈に困るものだった。嬉しがっているようでも、疑っているようでもある。
「明日、ポーカスさんが聖堂に来なさいって」
「聖堂に……? ヨルバ、黒の絵本のどこまでひらけたんだ?」
「海の章だよ」
シラクサは目を見開いた。そして今度こそ内から溢れる感情を隠さなかった。これほどうれしそうな兄を見たのは久しぶりだった。
「なんてこった! ヨルバは精霊様に見放されたどころか、大きな祝福をいただいたんだ!」
シラクサが勢いよく席を立ったので、椅子が後ろに吹っ飛んだ。普段物静かな兄のすることではない。ヨルバも思わず噴き出した。
「海の章といえば、カジャ様も幼いころに見たっていうじゃないか。ということは、ヨルバももしかしてサバシス見習いになれるのか?」
「そう言ってた」
「すごい!」
兄の興奮は最高潮に達し、ヨルバの手を取って踊り出さんばかりだった。その後、ポーカスの娘であるコニが夕食を届けに来ると、シラクサは彼女にも自分のことのように自慢した。
「お父さんから聞いたわ。明日、正式にサバシス見習いとしての手続きをするだろうって」
コニも夢をみているような調子で報告した。彼女は父とは違って柔和で丸い顔をしている。ふっくらとした体つきはいかにも柔らかそうだった。薄茶色の髪は長く、いつも三つ編みにして垂らしている。ヨルバはひそかに彼女に好意を持っていたが、それを表にはみじんも出そうとしなかった。
「でも、なぜ突然力を授かったのかしら」
温かな夕食をほおばりながらコニはふとつぶやいた。
「きっと、今までの苦労が報われたんだよ」
シラクサはお祝いにとコニにも酒を注いだ。彼が通っている薬草師からもらったものだ。
「精霊様もきちんと見ていてくれたんだね」
「精霊様なんて、本当にいるのかな」
ヨルバがぼそりと口をはさんだ。
「いるさ。僕らはみんな精霊様から恩恵を受けているんだよ」
「じゃあ……いや、そうだね」
ヨルバは続きを言わなかった。せっかく良い気持ちで酔っている兄に水を差すのは気が引けた。
じゃあ、なぜ兄さんは祝福され、僕はされなかったの。
ヨルバは常に浮かんでいる疑問を、酒と一緒に飲み込んだ。
ささやかな宴会は夜中まで続いた。小さな窓から見える月もあめ色に輝いていた。
* * *
カジャは村でも有名な少年だ。
五歳のとき、黒の絵本をひらいたことをきっかけに、見習いサバシスになった。来月には、正式なサバシスとなる。彼のために祭りが開かれ、そこでサバスの民と精霊に誓いをたてるのだ。
つまり、ヨルバには全く縁のない人だった。
聖堂に足を踏み入れるのは八年ぶりだった。ここには呪術に関する書物やまじないに使う道具が納められていた。サバシスと交渉人の本部にもなっている。ただ、彼らは街にも大きな集会場を持っているらしい。毎春、五歳になった子どもたちが集められる日以外は静かなものだ。
学舎を終えて聖堂に着くと、一人の少年が円卓にぽつんと座っていた。
赤みがかった栗色の髪を無造作にまとめ、後ろに流している。すっきりとした顔立ちで、目には強い光が走っていた。白を基調とした幾重もの薄布を全身に垂らし、その一つ一つには金色の美しい刺繍が施されていた。ゆるい袖口から突き出た腕は意外にも健康的な小麦色で、銅像のように均整がとれている。
「ポーカスさんならもうすぐ来るそうだ」
カジャは静かに告げた。灯りがない堂内は薄暗かったが、窓にはめ込まれた色硝子が幻想的な空間をつくっていた。
ヨルバは返事の代わりに、空いている席に腰かけた。
「名前は?」
「……ヨルバ」
「サバシスになるんだって?」
「できたら」
「じゃあ、いずれ同業者になるんだな。おれはカジャ。仲良くしようぜ、数少ないサバシスだ」
カジャは立ち上り、ヨルバに近づいた。彼の頭に飾られた金属がシャランと硬い音を立てた。ヨルバを見下ろした顔には、好意よりもっと激しいものがあった。
「遅くなってすまない」
二人の静かなにらみ合いは、しかし、一瞬で破られた。
「街のほうで少しいざこざがあってな」
ポーカスは額にしわを寄せて二人を見つめた。が、すぐに目をそらし、丁寧に畳まれた布をヨルバに渡した。広げてみると、それはカジャが身に着けている白い衣装と同じものだった。ヨルバが普段着ている麻や綿の服とは違い、さらさらした手触りが心地よい。
「お前は今日から、サバシス見習いとなる。私とヘミンキの二人ともが本をひらいたことを確認し、昨夜の協議会で決定した」
ヨルバは昨日に垣間見た水の底にいるような気がした。
協議会といってもせいぜい十人足らずの小規模なものだ。それでも、村に置いて一目も二目も置かれている大人たちから認められたというのは初めての経験だ。
「カジャ、お前はなぜ呼ばれたのかわかるか」
カジャはいきなり話を振られて戸惑いを見せた。
「お前は来月、正式なサバシスになる儀式を控えているな。知っていると思うが、ここ数年お前たち二人以外にサバシスが出ていない。強力な力を持った子どもが生まれてこないのだ。お前たち二人は、他の世代のまじない師よりも重い責任を背負わなくてはならん」
ポーカスは重苦しい口調で言った。カジャは真面目にうなずき、ヨルバは上の空で聞いていた。
「カジャよ、この新しい見習いサバシスにお前が習ったことを教えてやってくれ」
それまで真剣に聞いていたカジャの表情が変わった。なぜ自分が、と顔に出ている。
「でも、おれ…いや、私はあと一カ月で正式なサバシスになります。そうしたら街で暮らすようになるんですよね?」
「ヨルバに教えるのはさわりだけで良い。魂を飛ばすことと、あと結界の張りかたくらいは時間もあるだろう」
有無を言わさない調子でポーカスは、カジャのいらつきを無視した。
「さっきも言った通り、協議会で少しもめていることがあってな。他のサバシスと交渉人は手が離せないのだ。私もまた、すぐに街に戻らなくてはならない」
ポーカスは唖然とする二人の少年を残し、あっという間に去って行った。
この話の前に起こったことを、掌編として書きました。よろしければ。