(1) 分岐点
ヨルバがその日、聖堂の前を通りかかったことが運命を変えた。少年は森に行くところだった。
春の柔らかい日差しの中を、半ば逃げるように村を駆け抜けていく。途中で、両手に薬草を抱えた知り合いを追い越すときも、さっと目であいさつを交わしただけだった。
森には老婆が住んでいる。幼いころに森で迷子になっていたところを助けられてから、午前の学舎の後は彼女を訪ねるのが日課となっていた。
村の中央には、聖堂が建っている。ヨルバはあまりこの場所にいい思い出がないので、さらに足を速めた。いつもは静かな場所だが、今日は石畳の広場で三人の子どもが何やら騒いでいた。
「ほら、持ってきてやったぞ。ひらいてみろよ」
一番背の高い少年が、黒い表紙の本を他の一人に押し付けた。ヨルバには、その本が何かすぐにわかった。思わず足を止めた。
「お前、海の章まで見たって言ってたよな」
「それは……」
「もしほんとに見れたなら、お前もカジャ様みたいになれるんだろ」
本を渡された小柄な少年は、青ざめた顔をして口ごもった。きっと、見栄かとっさの嘘だったのだろう。
黒い絵本と呼ばれるその本は、ヨルバにとって運命を決定的にしてしまった象徴だった。八年前の春、五歳のヨルバもこの聖堂に集められた。そして、黒い絵本をひらくことを命じられた。字が読めなくても問題ではない。ただ、その本をひらくことができれば良いのだった。
しかし、少年の小さな手に持たれた革張りの黒い表紙は頑なに沈黙を続けた。いくら本を開こうとしても、糊で貼り合わされているようにしか思えない。これでは石でできたただの長方形だ。
「ほら、目をつむって本の姿を視てごらん」
隣に立っていた優しそうな青年を見上げると、そう指南されたが、言われるまま目をつむってもそこには闇しかなかった。
「どうかな?」
青年に尋ねられたが、ヨルバは首を振ることしかできなかった。力ずくでこの本を開けることは不可能だ。かといって、彼には何も「見え」なかった。
薄暗い聖堂の中では時が止まっていた。木々のざわめきも、虫の鳴き声も聞こえない。ヨルバはもう何時間もこの黒い本と格闘していたような気がした。
青年は辛抱強く待ってくれたが、やがて一言もう家に帰っていいよ、と告げた。その声には哀れみが含まれていたが、その時のヨルバは気が付かなかった。
* * *
聖堂から一人、すらりとした人物が出てきた。交渉人と呼ばれるその人は、胸の周りに赤い刺繍がある白い貫頭衣に身を包んでいた。階段をゆっくりと降りてくる。
ヨルバは彼があの時の試験官だということにすぐに気が付いた。忘れるはずない。名は確か、ヘミンキといったはずだ。また、彼の家は村では重要な役職を代々務めており少々有名な人物だった。
「君たちだね、絵本を持ち出したのは」
ヘミンキはすでに立派な成人になっていたが、穏やかな表情は変わっていなかった。しかし、その柔和な声が子どもたちには逆に恐ろしく感じたようだ。彼の姿を見ると、さっと散り散りに駆けだした。
「やれやれ」
彼はすでに三つの小さな影となった少年たちをまぶしそうに眺めた。
ヨルバは石畳に放り出された黒い絵本を拾おうと駆け寄った。本の角に手先が触れた瞬間、突然視界がぐらりと揺れた。ヨルバは自分が、とてつもなく大きな水槽の底に沈んでいるように感じた。恐ろしく澄んだ水の中。世界を包む、大きな川の底だ。林の木々が鳴らすざわめきはぴたりと止み、静寂に包まれていた。頭上の太陽の光は屈折して、いく筋もの帯となり踊っている。上のほうは流れがあるのだ。
広場の周りに植えられた草木から、淡い光が湧き上がっていた。水に流した鮮やかなインクのような線は、上へ上へと昇っていく。
ヨルバは、その中で混乱しながらも本をそっと持ち上げた。不思議と確信があった。何かに操られるように、表紙の角をゆっくりと持ち上げた。
今ならひらける。
本は普通のものと何ら変わりなく、ヨルバの手の中であっさり二手に折れた。最初には「サバスの民へ」と書かれている。さらにひらくと、深い森が描かれていた。村を取り囲むサバスの森だろうか。
ヨルバは夢中でページをめくり続けた。絵の内容よりも、次々にめくれることが嬉しくて止められなかった。
「ちょっと、きみ!」
海に浮かぶ大きな船と、そこに佇む女性が描かれたところまで来たとき、ヨルバは不意に目が覚めたような気がした。耳に詰まった水が抜けていくように、急に音が戻ってきた。
「なんてことだ……。いや、そんなことはあるわけがない。そんな……」
彼は青ざめた顔で、呟きを繰り返している。いつのまにか水の中の光景はさっぱり消失していた。ここは、いつもの村だった。聖堂前の通りを、さきほどすれ違った村人が歩いていた。何があったのかと不安そうにこちらをちらちら見ている。
「きみの名前は?」
「ヨルバです」
「そうだ、ヨルバだ。きみは、ええと……ポーカスさんのところで暮らしている子だね?」
ヨルバは彼の思惑がわからなかったが、とりあえずうなずいた。確かに、養い親であるポーカス家の敷地内で暮らしているのは事実だ。
「い、今、街にいる他の交渉人たちとポーカスさんを呼んでくるから、聖堂に入って待っていてくれ」
ヘミンキは白い衣を翻すと、慌てて走り去って行った。
* * *
祝福されなかった子。
ヨルバは生まれたときからそう呼ばれ続け育った。その悪意ある呼び名は、彼のことであり、また彼の母親のことも指していた。
ヨルバが生まれたサバスの村は、まじない師と呼ばれる人々が暮らす場所だ。村人の多くは不思議な力を持っており、薬草づくりの技術と合わせて生計を立てている。
サバスにおいて、力を持っていることはごくごく当たり前のことであり、力を持たない者は精霊から祝福されなかった人として、忌むべき存在となっていた。
五歳の春、サバスの子どもたちは聖堂に集められ、力の選定を行われる。だいたい五歳前後で力の有無は安定するものと考えられていたからだ。力はある程度までなら筋肉のように鍛えることができるが、大きくは生まれつきのものだ。元がゼロならいくらそれに大きな数字をかけてもゼロにしかならない。
黒の絵本は、その人の力の大小に合わせてひらけるページが決まっている。物語仕立てになっているそれは、村人のこれからの人生を一瞬で決めてしまう残酷性を秘めていた。
普通の子どもの場合、数ページなら余裕で進められるのだが、ヨルバは表紙にすら拒絶された。
つまり、未来はそこで閉ざされてしまった。
しかも、彼の母親は街人と恋におち、生まれたばかりのヨルバと兄を村に捨ててそのまま行方知れず。村人たちは厄介の種の扱いに困り、幼い兄弟は親戚の家をたらい回しにされた。結局、交渉人の長であるポーカス家にひとまず引き取られたのだった。
あれからすでに八年。意味のわからない苛立ちの炎もとうに消えかかっていた。残ったのは、諦めの灰のみだ。学舎に通う同年代の子どもたちからも距離を置き、なるべく隅のほうでじっと座っている癖が染み込んでいた。
自分に力がないのは明確すぎる事実だと、重々承知している。今更になって、黒の絵本がひらけるはずはないのだ。髪も短くしているのに。
ヨルバは握りしめていた本を、聖堂前の階段にそっと置いた。辺りに誰もいないことを確認すると、逃げようとした。が、不意に誰かに呼び止められた気がした。それは、ヨルバの腹の底に住む黒い何かだった。それは、時折体の中で身をよじり、少年を長い間じっとりと苦しめてきた。
「待たせたね」
振り向くと、息を切らせたヘミンキが立っていた。後ろには、白髪のポーカスも控えている。彼も交渉人なので、ヘミンキと同じ白い衣装を身に着けていた。ただ、胸元の刺繍は彼のほうがより複雑で美しかった。衣に包まれた細身の体は、頑固な老木のようだ。彼は厳しい表情を浮かべていた。といっても、彼にとってはこれが通常なのだが。
「ヨルバよ、絵本をひらいたというのは本当か」
「……はい」
「しかし、お前は以前絵本をひらけなかった子だ。今になって力が開花したとは思えん。知ってのとおり、これには物理的な力は通用しない特殊なまじないがかかっている。無理やりひらけるわけがない」
ポーカスは頭ごなしに疑っていた。確かに、そのような話はヨルバ自身も聞いたことがなかった。もっとも、彼のような祝福されない子自体が珍しいこともあったのだが。
「しかし、ポーカスさん。私も彼が本をひらいているところを見ました」
「ならば、もう一度私の目の前で見せてみなさい。話はそれからだ」
ポーカスはヨルバに本を差し出した。骨ばった顔はいつにもまして厳しく、目は戸惑う少年を容赦なくつき刺した。
ヨルバはなかなか本に手が出せずに固まっていた。
もし、これで失敗したらまた失望することになる。それよりは、もしかしたら自分にも隠された力が眠っているのかもしれない、という曖昧な状態のままにしておいたほうがまだ幸せなのかもしれない。
「どうした、やはりできんのか」
「いえ、あの……」
すると、ヨルバの腹の中にいた黒いものがまた身をよじり、じりじりと胸のほうへと這い上がってきた。それから逃げるように、ヨルバは半ばやけっぱちで、ポーカスから本を受け取った。
不安に反して、今度は自分がするべきことが一瞬でわかった。ずっと前から知っているような気がする。辺りはまた透明な水の中に飲み込まれ、すべてが鮮やかな青の中に沈んでいる。美しく、恐ろしい世界だった。深呼吸をして、気を静めた。
本が呼んでいる。ヨルバは先ほどと同じように、どんどんページをめくっていった。蒸気となった光が本から次々にほとばしる。疲労も忘れて、どんどん手を動かした。
体の中にあるエネルギーが強く反応している。なぜかわからないが、心地よい。麻の布を川に浸したときのように、全身がどんどん世界に染み込んでいく。
「も、もう良い。やめなさい」
大きな手がヨルバの肩に触れた。
いきなりこちらに連れ戻されたので、焦点をポーカスに合わせるまでに時間がかかった。
「ヨルバ、お前はいつもとんでもないことをしてくれる。祝福されなかった子というだけでも、村にとっては大きな事件だったのに、今度は一転してサバシスになれるほどの力を身につけてくるとは」
ポーカスは額に汗をかいていた。皺の刻まれた皮膚は乾いているのに、どこからこんな水分が出て来たのか。
サバシス。まじない師の中でも特に力が強く、人々から尊敬されている人々。ヨルバは不思議な気持ちになった。それは、自分から最も遠い存在だった。同じ文章の中に自分とその称号が並べられることはありえない、はずだった。
「とにかく、お前が力を所持していることは分かった。明日また、学舎が終わったら聖堂に来なさい」
「僕はサバシスになれるのですか」
「……お前がひらいた最後のページには何が描かれていたかね?」
「海と大きな船、それから長い髪の女性が」
ポーカスとヘミンキは顔を見合わせた。
「それは、海の章と呼ばれている絵だ。サバシスになるには、最低でもそこまで本をひらくことが必要だ。……つまり、お前にはサバシスになる資格が与えられたのだ」